自民党

2018/01/30

茨城の著名人、篠崎洋一郎の次は額賀福志郎が失脚・没落か?

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180130-00000501-san-pol

額賀派クーデター全内幕「けんかは勝たねば」参院側が突きつけた最後通牒

1/30(火) 10:15配信    

    

産経新聞

 自民党額賀派(平成研究会、55人)のうち、吉田博美参院幹事長(68)率いる参院議員21人が集団離脱も辞さない構えを見せ、額賀福志郎会長(74)に退任を迫っている。衆院側(34人)でも「派閥がまとまるため退任やむなし」の声が強まり、退任を否定している額賀氏の外堀は埋まりつつあるように見える。吉田氏が仕掛けた権力闘争の内幕とは-。

 ■けんか勃発

 「けんかだ。けんかは勝たなければ意味がない」

 1月25日、吉田氏は周囲にこう語った。この日、額賀派所属の参院議員21人全員が定例の派閥会合を欠席し、独自に会合を開いた。退任を求める「本気度」と「参院の結束」を示すのが狙いだ。

 決起の背景には、額賀体制8年4カ月で有力な総裁候補が育たず、額賀氏の求心力が弱まっていることがある。額賀派の前身は永田町で最強軍団と恐れられ、党人事や国会運営を支配した経世会だ。それが今や第3派閥に落ち込み、かつての存在感はない。今秋に総裁選を控え、来年には参院選もあるのに、勢力回復の展望が開けないままで良いのか。

 そんな危機感に起因する参院メンバーの「額賀降ろし」は、実は2年前にすでに始まっていた。時系列で紹介しよう。

 ■平成28年10月26日

 この日の夜、派閥創設者である竹下登元首相の弟、竹下亘・党総務会長(71)が額賀氏から会長を引き継ぎ、「竹下派」が復活する-。そんな噂が永田町を駆けめぐった。

 背景には吉田氏や引退後も参院に一定の影響力を持つ青木幹雄元参院議員会長(83)が、額賀氏に水面下で退任を忠告していたという事実がある。額賀氏が安倍晋三政権下で存在感を示せないことにしびれを切らしたのだ。この日は、自民党総裁任期を連続3期9年へと延長することが決まり、安倍政権が長期化する公算が高まった、まさにその夜だった。

 だが、額賀氏は翌日の派閥会合で続投を宣言した。額賀氏の後任会長に意欲を持つ同派副会長の茂木敏充経済再生担当相(62)が「これからも額賀会長を中心にやっていこう」と同調した。

 ■29年1月23日

 産経新聞が額賀派の参院側幹部の石井準一・参院筆頭副幹事長(60)のインタビューを掲載した。額賀派から竹下派への交代を促すような内容だ。会長交代論が正式に表で語られたことで動きに火が付いた。この後の今日までの1年間、吉田氏は何度か退任を求めたが、額賀氏はなお会長職にとどまった。

 ■29年7月4日

 夜、額賀派は前身の「経世会」発足から30周年を記念するパーティーを、東京都内のホテルで非公開で開いた。

 「竹下登会長2年、金丸信会長5年、小渕恵三会長5年-」。参院側を代表してあいさつに立った吉田氏は、歴代会長の在任期間を列挙してみた。暗に「在任8年(当時)を迎える額賀会長は長すぎる」とのメッセージだった。

 ■29年8月3日

 吉田氏の意思が固まったのはこの日の内閣改造といえる。

 参院の人事や国会運営などで影響力を増していた吉田氏は、参院国対委員長として自身に仕えた松山政司1億総活躍担当相(59、岸田派)ら参院議員2人を安倍首相に強く推薦し、入閣させた。

 一方、額賀派から入閣したのは、首相が一本釣りした茂木氏と加藤勝信厚生労働相(62)という首相側近2人。派閥が推す「待望組」は入閣ゼロに終わった。派閥内で、領袖としての額賀氏の力量に不満が残った。

 同月末、長野県軽井沢町で行われた額賀派の夏季研修会に、額賀氏は妻同伴で参加した。ある参院メンバーはこう吐き捨てた。

 「成果を出せていないのに何を浮かれているんだ。やっていられないよ」

 ■30年1月11日

 1月11日昼、自民党本部にほど近い派閥事務所で、吉田氏は額賀氏と2人きりで向かい合った。

 「1月中に退任を決断し、返事をいただきたい」

 額賀氏は「私には失うものがない」と反論したが、吉田氏は「返事がない場合は事を起こします。私は本気ですから」と通告し、席を立った。これまでも退任を促してきた吉田氏だが、これが最後通牒のつもりだった。額賀氏はこの時点ではまだ相手の本気度を見誤っていたのかもしれない。

 吉田氏は、参院メンバー21人に加え、額賀派には所属しない「参院平成研究会」の独自メンバー10人も獲得し、参院での独自活動を活発化させている。首相にも一目置かれている。額賀派を離脱しても構わない、との自信があったに違いない。

 翌12日、吉田氏は参院メンバーを参院議員会館の一室に集め、額賀氏に退任を求めたことを説明し、結束を呼びかけた。しかし、額賀氏は態度を明らかにしないまま2週間が過ぎ、返事をする素振りもなかった。

 ■30年1月25日-参院

 吉田氏は額賀氏に決断を迫るため、強硬手段に打って出た。24日、側近数人と相談し、翌25日の派閥会合を欠席する方針を決めた。額賀氏側に事前に漏れないよう、この時点では大半の参院メンバーには伝えられなかった。

 25日午前10時に始まった参院本会議場で各党代表質問が始まると、側近が他のメンバーにこう耳打ちして回った。

 「本会議後、例会(派閥会合)に行かずに国会内に集まってください」

 本会議後の午前11時半過ぎ、派閥会合と同時刻に独自会合が始まった。机の上には昼食の豪華なうな重が並んだ。吉田氏は「額賀会長が辞めないのなら重大な決意をする」と派閥を割る覚悟を示し、今後の対応について一任を取り付けた。

 ■30年1月25日-衆院

 一方、額賀氏はこの日朝、自身の退任論に関する報道を受け、複数の衆院議員に「現体制で結束しようと今日の派閥会合で発言してほしい」と頼んだという。参院メンバー21人を牽(けん)制(せい)しようとしたわけだが、ふたを開けてみれば参院議員の姿はなかったというわけだ。

 会合で額賀氏は「衆参はお互いに同志として協力していきたい」と述べ、続投する考えを示した。出席した衆院議員からは退任を求める声は出ず、「額賀会長の下でやっていこう」といった意見が複数出た。

 「会長人事は参院が決めるものではない」

 「額賀会長をこんな形で辞めさせるわけにはいかない」

 派閥会合後、衆院側からは不満が聞かれた。衆院サイドは「続投支持」でまとまった。

 -かのように見えたが、実はこの時点で、事態の深刻さがあまり伝わっていなかったようだ。

 ほどなくして衆院側にも「吉田さんは額賀会長が辞めなければ、本気で派閥を分裂させる覚悟だ」との危機感が急速に広まった。

 分裂回避を目指す動きが始まった。中堅・若手のとりまとめ役で、同派事務局長を務める大塚高司衆院議員(53)は、当選4回の同期と電話連絡を取り、「派閥は衆参がまとまっていくことが何よりも大事だ」とする意思を確認し合った。

 つまり、場合によっては額賀氏の勇退もやむを得ないということだ。大塚氏は参院側とのパイプもあり、集団離脱の本気度をよく分かっていた。

 当選3回生同士も意見集約が進んでおり、29日に会合を開く計画がある。まとまれば中堅・若手の意向として「今後もまとまっていくための対応」を額賀派執行部に申し入れる考えだ。事実上、竹下氏の新会長就任を促すものとみられる。

 ■30年1月26日

 「衆参はまとまらなきゃいけない。もう結果は見えてきたなあ」

 当初は額賀氏続投を主張していたベテラン衆院議員はこの日、周囲にこう語った。茂木氏らが参院側への切り崩し工作を試みたが、大勢は変わっていない。

 後任会長に名指しされている竹下氏は26日の記者会見で「私は半分当事者のような立場に立たされているので、動かないことを決めている」と述べ、他の幹部らに対応を任せる構えを見せている。

 「参院側に期限を区切られてクビにされたのではしこりが残る」

 衆院側にはこんな認識がある。参院メンバーの中にも「本当はこんな形で決着させたくない」という声もある。衆院側で、額賀氏がなるべく傷つかずに退任できるような「花道」を模索する動きが始まった。

 吉田氏が設定した「返答期限」まで残り3日だ。吉田氏側近はこう語る。

 「うちがやることは、もうない。ボールは向こう側にある」

 焦点は額賀氏の対応だが、周辺にはあくまでも退任を拒否する意向を示し続けている。 (政治部 田中一世)

昨年10月下旬某日、衆議院総選挙直前の事だったけど、茨城県道108号の旧道を大洗町市街地の方から走ってきました。その時、この額賀氏のポスターも目にしたのだけど・・・・・・・・

額賀氏はまた、日韓議員連盟の会長を務めていて、当然中韓を知りすぎた男の辻本貴一氏(確かにビジネス経験を基にした視点とか単なる嫌韓・嫌中ブログとは一線を画している面もありますが)とかネトウヨを含む右翼・保守の連中からはボロクソに叩かれている。中には額賀氏を在日だと根拠の乏しいデマを流している某文化人もいて、まあ自分の気に入らない人間は真偽に関わらずそういうレッテル張りするのは彼らの必殺技なのですが、確かに主な活動内容を見ても・・・・・・・・・

http://scopedog.hatenablog.com/entry/20170512/1494641797

http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/comfort-women-issue_b_5074477.html
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/kono-kato-danwa_b_5102825.html
http://www.huffingtonpost.jp/kan-kimura/cart-off_b_5203365.html


外国人参政権(特に韓国国籍の特別永住者)の推進は、そういうの認めたらどうなるか想像つくだろと言うか、反対だし、慰安婦問題日韓合意についてもこのブログ、誰かの妄想でも日本だって果たしてない約束あるだろとか指摘されていて、そうなってしまった経緯(上記huffingtonpostのHPを参照の事)はともあれ、加藤談話の時は日韓二国間の問題だったのが、戦後処理の問題にまで大きくなってしまったのだから「二度と不幸な歴史を繰り返さない。」な真摯な未来への決意を持って謝罪した方が良いとは思うけど、韓国側の不履行は記載しないのはやや一方的過ぎるでしょう。産経新聞韓国大統領名誉毀損問題も、たとえ誤報だったとしても加藤達也氏だけが悪いわけではあるまい、引用記事書いた人とかだって責任あるだろうし、その仕打ちは行き過ぎだろう、なのにここでも韓国に押し切られてしまった。尤もまた、産経新聞もネトウヨ達が大嫌いで、百田尚樹氏も短絡的なヘイト発言した朝日新聞も笑えないぐらい誤報とかやらかして、慰安婦強制連行を早く報じたのも産経だと聞いたのだけど。明治日本の産業革命遺産は出稼ぎに過ぎず、強制連行ではなかったな否定派の意見もそれなりには説得力ある面もありますが、これは日韓議員連盟というよりも日本政府がぶっちゃけ「バカ」なんですよね。

https://www.minjok.or.kr/wp-content/uploads/2017/11/2017_Guide_Jap.pdf

強制連行があろうが無かろうが、今年は所謂「明治150年」で、西郷どんも思ったよりも視聴率が伸びていない有様(下手すれば同じ脚本担当だったドクターXどころか、同じ放送枠のキムタクのBGにも負けそう)ですが、明治維新は確かにトルコとか他の国でも手本にされたほどだし、その時代の精神とか今だからこそ学ぶべきものもあるのも否定はしないけど、その一方で既に末期から第二次世界大戦という大失敗への道を歩み始めていたではないですか。

案の定韓国と揉める事になって、韓国や韓国人の粘着質で執念深い気質も常軌を逸しているけど、日本もこのガイドページでも指摘されていた通り負の面には直視しないで、政府の都合の良い様に美化して過剰な愛国心も煽る、押し付ける意識には大いに問題がありました。結果外交的に敗北したのに今度は明治150年の基またプロパガンダしようとしているのだから忘れてしまった様だけど、この産業革命遺産も慰安婦も領土主権展示館も事の本質は皆同じなんだよね。そう、「こうしたら、近隣諸国が文句言ってくるかもしれない。だから、そういうのも並行して想定し、ホントにそうなったらなるべく円滑に対応しよう」とか事前に良く考えないで身の丈不相応に「日本凄い!!俺たち政治家も偉い!!」と誇示しようとしたけど、結局反感買って、揉めなくても済んだかもしれない話で揉めてネトウヨ達はネトウヨ達で発狂して、彼らはホントは韓国も左翼や在日共々大好きなのだけど、嫌韓ヘイトに勤しむパターンになってしまっているのです。

だから、近年の日韓両国の確執は所属議員面々だけが非難されるべきではないのですが、日韓議員連盟には「相手の言う事を何でも聞いていれば友達でいられるとか勘違いしないでください。韓国が反日国であるか否かに関わらず、過去の不幸への真摯な反省の念を持ち続けるのも大事だけど、言うべき所では言ってください。実際、勿論立場はまた違うけど、韓国は中国にはあんな舐めた態度取らないじゃないですか。」であります。額賀氏はどうも頼りないけど、残念ながらそれはその日韓議員連盟の会長としてだけでなく、かって1970年代から21世紀を迎えるまでの大半の期間政界を支配してきたはずの木曜クラブ~経世会~平成研究会という派閥のボス(会長)としても変わらない様です。

確かにまた、会長になった時の状況も悪かった。本来ならば、橋龍・小渕両氏の後は羽田孜氏または小沢一郎氏、その後は入閣が早かった中村喜四郎氏、船田元氏、さらにその後は石破茂氏が総理総裁またはその候補であり続けるべきだったのです。しかし、経世会は、特に田中角栄氏(鈴木善幸氏や河野洋平氏、加藤紘一氏あたりもか)なんか今だったら自民より立憲民主に近い思想だろですが、利益誘導で富の再分配を図っていたが故にもどうも金に汚く、まあロッキードはアメリカによる角栄潰しだったのでしょうが、東京佐川急便事件での、脳梗塞に倒れたその角栄氏同様キングメーカーとなっていた金丸信氏の失脚で分裂した。

直後55年体制が終わって、非自民政権も細川内閣は連立政権の立役者だった小沢氏も彼に神輿として担がれた細川護熙氏と羽田氏も経世会系だったし、村山内閣も立役者の一人だった野中広務氏もそうだった。その後また自民政権に戻って橋龍・小渕両氏と経世会総理が続いたけど、小渕氏も角栄氏同様脳梗塞に倒れて、しかもこの年2000年は他にも二階堂進、竹下登、梶山静六各氏と経世会系(厳密には二階堂氏は田中派の亜流として分派したが、少人数派閥でついに総理になれないまま名誉議員表彰を目前に引退する。途中落選していなければなれたのだけど)政治家が相次いで鬼籍に入って、いよいよ暗雲が立ち込めたけど、短命に終わった森内閣の後、橋龍氏が再登板を目指したが、元々子分を作らず、面倒見がよくなかった事が災いして後の安倍総理の様な再当選はならず、ついに経世会支配が終了、小泉総理に徹底的に冷遇されたけど、野中氏も橋龍氏もその小泉劇場のさなかに引退に追い込まれた。

以前話した通り、もし選挙制度が小選挙区制比例並立制ではなく併用制になっていたのならば、彼はもっと政権与党になるチャンスを掴めた。しかし、結局一強多弱状態となる等政権交代を目指した筈が中選挙区制以上に自民に有利なルールになってしまったのだけど、壊し屋小沢氏は結果的に経世会系の人材を枯渇させ、現在も進行中である日本の右傾化を招く大きな罪を犯してしまった。

中村氏はゼネコン汚職事件で、刑務所に服役した後も選挙には勝ち続けるけど、山口武平氏との確執で自民には復党できないままで、息子への地盤継承も意識したのか実質第二民進党な無所属の会に最近入会したし、船田氏は途中で小沢氏と袂を分かって自民に復党したものの、政界失楽園騒動も起こして途中2回落選し、憲法改正推進本部長代行を務めているものの、入閣は中村氏共々もう四半世紀近くないまま。石破茂氏も小渕優子氏もまだ若かったし、2005年の郵政選挙で自民は大勝し、民主の政権奪取の野望をひとまずは阻んだけど、橋龍氏の後の会長が元々は宏池会出身の外様で、太宰治の娘婿でもある津島雄二氏だったのはそうした人材枯渇をますます象徴したものとなってしまった。

小泉劇場が漸く2006年に終わって、その後継を決める総裁選でも額賀氏は出馬自体出来なかった。入閣回数はそれなりながらも2回も途中辞任を余儀なくされた汚点を拭うことは出来なかった。他にもあの当時、大物議員は失脚していたり、郵政民営化の是非をめぐって離党していたりとどれも決め手をかけていて、結果当選回数5回にすぎなかった安倍氏が総理・総裁となって、その第一次安倍内閣がどうなったかももう周知の通りだけど、結局総裁選に出馬しない内に民主党に政権を取られてしまった。この時総理となった鳩山ルーピーもまた経世会系だったけど、もし途中辞任がなければ彼は総理になれたのだろうか?まあ難しかったかもしれないですね。

それでも額賀氏はその逆風の中当選して、津島氏から会長も譲られて、この自民2度目の野党時代(2009~12年)はそれなりに頑張ったのかもはしれないけど、途中石破氏は派閥を抜けてしまったし、総裁選でも2012・2015年共に自身が出馬する事もなければ自分の派閥から有力な候補を出す事も出来なかった。2012年末に自民は政権奪還を果たして、衆議院総選挙で選挙前の61人に対し、9人しか当選できない記録的な惨敗(2017年の希望なんかもこれに比べれば全然マシ)を喫した小沢氏もこの年以降弱小政党のヌシに過ぎなくなり、もはや過去の人になりかけているけど、派閥の期待の星だった筈の小渕氏も2014年頃にはあの疑惑でミソをつけ、額賀氏自身もほぼ同時期にオールゼロ議員となってしまった。

「いい加減仕事しろよ・・・・・・・・」だったけど、翌年2015年にはまた、よりにもよって終戦記念日に40代前半と推定される中年女性と食事やホテルでのデート等不倫していたスキャンダルを報じられてしまった。同じ経世会系でも、惜しくも2012年総裁選では安倍氏に敗れるも、幹事長等を歴任し、ついに自前の派閥も立ち上げた石破氏や河野洋平氏等同様小沢氏と袂を分かった後所属していた政党が吸収合併された形で自民に復党し、その後少数グループのボスにおさまるも自分以外落選して万事休すだった筈がかっての角栄氏や竹下氏みたいに派閥を乗っ取ってそのボスになって、幹事長のポストもいただいた二階氏との差はますます広がるばかりですよね。

長々と話したけど、要するに「リーダーシップ、決断力に欠けて、ボスには不適格」だと評さざるを得ないです。野党がダメならばせめて自民党内で疑似政権交代を果たして、いい加減清和会支配を終了させなければいけないのですが、この有様ではまだまだ当分続くでしょう。しかし、前述通り安倍政権って、愛国カルト故の妄想に過ぎない「美しい国」(某ブログで、「『中国や韓国は国はダメでも国民は良い人もいる』と言っている人もいるけど、国が狂っているのに国民がマトモなわけない」とのコメントも目にした事もあるが、日本だってそうやって中国・韓国の悪口ばかり言って何が楽しいの?と言うか、そんな人達も目立つ国のどこが美しい国なのか!!最近は中国・韓国よりもそういうヘイトとかに血道をあげる同胞の方が全然印象悪いよ、個人的に)を目指して、自分の実績も残す為に身の丈不相応に手を広げて却って周辺諸国と揉める等墓穴を掘っているのだから、憲法改正をめぐる国民投票、おそらく2020年東京五輪直前に実施されるのだろうし、集団的自衛権の行使が限定的なのは全く当然ながらもそれじゃあ特に9条をいじる大義なんかないし、これでついに命取りになるかもしれないですね。まあ額賀氏もまもなく会長退任、その国民投票とほぼ同時期に次回の衆議院総選挙不出馬を表明して引退となるのでしょう。

人柄は悪くないのだろうし、嫌いではないけど、もはや「茨城の恥」な篠崎洋一郎氏も反面教師(この人も経営が苦しくなってきた時点でさっさと不採算店舗を閉鎖していればこんな最悪の事態にはならなかっただろう)として、派閥の為、自民党の為、そして何より日本の為にどうすれば良いのか?良く決断していただきたい所です。会長をやめても額賀氏に出来る事はまだいくつもあるはずです。

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2017/12/30

入閣待機組の顔ぶれの移り変わり(後編)

http://kokkai.sugawarataku.net/

後編で、1986年の衆参同日選挙大勝直後と2012年の民主党からの政権奪還直後の入閣待機組(衆議院当選5回、参議院当選3回以上)が何人いて、内何人入閣できたか調べてみると言ったけど、後者は2012年じゃなくて2005年の郵政解散衆議院選挙大勝直後についてこの国会議員白書というページを元に調べてみました。

 
衆議院38期(1986/7~90/2)・・・90人中71人が入閣果たす(内51人が38期中に入閣)※赤字表記が38期中に、緑字表記がその後に入閣入りした面々。

 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
相澤英之 元winkの相田翔子は三男の妻
愛知和男 小沢一郎と共に自民に離党するもまもなく復党
愛野興一郎
青木正久
阿部文男 共和汚職事件で有罪となる
有馬元治
池田行彦 岳父は内閣総理大臣池田勇人
石井一
石川要三
石橋一弥
稲垣実男 政界引退後出資法違反で逮捕、晩節を汚す
稲村利幸 巨額脱税で逮捕、議員辞職
大石千八
大塚雄司
越智伊平 橋本政権でも入閣するが・・・・・・・
越智通雄
梶山静六
粕谷茂 長妻昭に引導を渡され、未入閣のまま引退
片岡清一
鹿野道彦 清和会のプリンス、後に民主党に移籍
唐沢俊二郎
瓦力
菊池福次郎 5回目の挑戦で当選した時には既に50代
北川石松
小泉純一郎 後の総理大臣
近藤鉄雄
佐藤孝行
佐藤隆
塩谷一夫
志賀節
関谷勝嗣
染谷誠 千葉県議会からの国政デビュー時点で既に50代半ば
高鳥修
竹中修一
谷洋一
玉澤徳一郎
田村良平 吉田茂の地盤を継ぐ
塚原俊平
津島雄二 太宰治の娘婿
戸井田三郎
中尾栄一
中島源太郎 政界進出前は大映在籍の映画プロデューサーだった
中村喜四郎 戦後生まれでは初の入閣を果たすも・・・・・
中村靖
中山利生 長男の一生は現職龍ヶ崎市長
中山正暉
西岡武夫 当選直後漸く初入閣も再び政界渡り鳥に
野田毅
野中英二
葉梨信行 現在は娘婿の康弘が地盤を継ぐ。取手市在住
浜田幸一 「政界の暴れん坊」の異名通り元気すぎたのが祟ったか
林大幹 宮澤内閣下で入閣して燃え尽き症候群に?
原田昇左右
深谷隆司
福島譲二 入閣後熊本県知事としても手腕を発揮、急逝が惜しまれる
堀内光雄
堀之内久男
松本十郎
三ツ林弥太郎
宮崎茂一
村岡兼造 日歯連闇献金事件で失脚
保岡興治 森内閣下で漸く入閣、2017年に病気のため引退
山崎拓
湯川宏 当選直後急死
渡辺紘三
渡辺秀央
綿貫民輔
(参議院第13期(1983/7~86/7)
坂元親男
沢田一精 細川護熙の前の熊本県知事
堀内俊夫
森下泰 元森下仁丹社長
(参議院第14期(1986/7~89/7)
井上吉夫
岩上二郎 国政進出前に茨城県知事を4期務める
遠藤要 法務大臣として入閣、平沢貞通がこの時死去
大島友治
岡田広 元水戸市長・現衆議院議員の人とは同姓同名の別人
後藤正夫
斎藤栄三郎
斎藤十朗
坂野重信
佐々木満
山東昭子 女優でもあり、今井絵理子の後見人も務める
田代由紀男
中村太郎
長谷川信 海部内閣下で入閣するも間もなく死去
林田悠紀夫 京都府知事も2期務める
平井卓志
前田勲 前田佳都男は父
宮田輝 NHKのアナウンサーでもあった
山口淑子 別名義・李香蘭。山東共々角栄に見いだされて政界進出

待機組も69年衆議院総選挙並みに多ければ、入閣者もそれ以上に多い事が分かるでしょう。時はバブル景気、日本の経済はイケイケムードでしたが、政治も衆参同日選挙で自民が大勝して中曽根総理もこの年(1986年)限りで総理・総裁退任予定だったのが任期1年延長を勝ち取って、中には後藤田正晴みたいに5年間全て閣僚であり続けた人もいたけど、ドンドン入閣させたようです。

そんなイケイケムードから一変して、中曽根から禅譲された竹下登政権ではリクルート事件が起きてしまったけど、直後の女性スキャンダルで短命に終わった宇野政権共々こうした悪い事件もまた入閣待機組をトンドン入閣させていく流れとなったのでしょう。参議院も結構積極的に入閣されていたし、中には茨城県出身者やタレント・アナウンサーも見られる様になったけど・・・・・・・鹿野道彦は自民から他党へ移籍した面々では珍しい清和会の出身(と言うか、この人の政策・思想も出身派閥の割にはそんな右寄りでタカ派な感じはしない。民主の中ではそうだったのかもしれないけど)だったけど、運命の選択を間違わなければ中村喜四郎船田元共々大臣どころか総理の座も狙っていけたかもしれません。田村良平はあの吉田茂の地盤を受け継いだ割にはパッとしないまま終わってしまいました。西岡武夫も前編で話した通り、最晩年は参議院議長として色々頑張った様だけど、議員歴の割には遅い入閣でした。それでも彼も自民にいたままの方がまだ良かったかは判断しかねるかもです。葉梨信行は、娘婿の康弘氏は次の選挙で当選すればついに閣僚入りか?ハマコーも嫌いじゃないけど、まあ本人もヤクザだったとハッキリ言っていた様では入閣できなかったのも無理なかったかも。良くも悪くも元気だっただけに晩年はなおさら寂しく見えたのは私だけではあるまい。福島譲二は熊本県知事だけじゃなくて、総理大臣もこの人が細川護熙の後やっていれば日本の歴史は大きく変わっていたかもしれない。昨年の熊本地震もこの人が知事だったらどういう対応していたのかなあですが・・・・・・・・

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
衆議院44期(2005/9~09/8)・・・50人中24人が入閣果たす(内21人が44期中に入閣)
逢沢一郎 加計学園問題にも関与ではこの先も入閣は難しいか
赤城徳彦 松岡利勝後任の農林水産大臣として入閣も2か月でクビ
安倍晋三 現内閣総理大臣。官房長官として初入閣
伊藤公介
稲葉大和 稲葉修の息子。93年組も、入閣できないまま2009年に落選
遠藤武彦 赤城の後任の農林水産大臣としても入閣も8日で辞任
小此木八郎 2017年8月の内閣改造で漸く入閣
小野晋也 44期を持って引退、その後は著述業を中心に活動
鴨下一郎
岸田文雄 その後外務大臣等を経て現在は政調会長に。ポスト安倍の1番手?
木村義雄 衆議院で落選後、参議院に転ずるが未だ入閣せず
小坂憲次
坂本剛二 いわき市議、福島県議を経て国政進出も副大臣止まり
佐田玄一郎 政治資金問題で失脚。以後再入閣ないまま2017年9月に引退
塩谷立
七条明 国政から引退後上板町長を務めるも1期しか続かず
実川幸夫 彼も民主フィーバーの逆風を跳ね返すことは出来ず
杉浦正建 70余歳にして初入閣
鈴木恒夫
園田博之 最近また政治資金規正法違反疑惑が浮上する
田野瀬良太郎
中馬弘毅
渡海紀三郎
長勢甚遠 安倍晋三が引き立てた問題児閣僚その4。数々の不祥事が発覚
仲村正治 一時自民を離党したのも響いたか
根本匠 2012年の自民政権奪還後に初入閣
萩山教厳 国政デビューが遅すぎたか
浜田靖一 ハマコーの息子、防衛大臣としての評判はまずまず
林幹雄 自民の政権奪還後も1回閣僚入り
原田義昭 学歴詐称が拙かったね
二田孝治 中選挙区制のままなら閣僚入り出来た?
松岡利勝 安倍晋三が引き立てた問題児閣僚その5。自殺に追い込まれる
三原朝彦
宮路和明 彼も副大臣在任中に不祥事が発覚
森英介
柳本卓司 大臣どころか副大臣経験も無し。2014年にはオールゼロ議員の1人に
山本公一
山本有二 安倍晋三が引き立てた問題児閣僚その6。2016年にも入閣
(参議院第19期(2001/7~04/7)
太田豊明
狩野安 女性、息子の岳也は元茨城県会議員
沓掛哲男
佐藤泰三 68歳で国政デビュー
西田吉宏
溝手顕正 安倍晋三が引き立てた問題児閣僚その7。大臣規範に違反
(参議院第20期(2004/7~07/7)
泉信也
市川一朗
岩永浩美
矢野哲朗 舛添についていったのは間違いだったね
山崎正昭
吉村剛太郎

経世会が分裂して、自民から他党に移籍した議員が続出したのもあったのでしょう。入閣待機組は50人とこれまでと比べて激減し、2017年8月の内閣改造時よりも少なかった。一方で、その分裂等によりついに自民が結党以来初の野党に転落した1993年衆議院総選挙は今日の日本の政治の中心的な人物が多数国政デビューした選挙でもありました。取りあえず政策の良し悪しは置いといてその代表的な人物として第一に安倍晋三を挙げないわけにはいかないでしょう。「沈黙の仮面」感想でも述べた通り、彼は北朝鮮による日本人拉致問題以外は特段誇るべきな実績はなく(これにしても、一部被害者家族からは政治利用した等の非難の声が上がっている)、幹事長としてはイラク派兵に反対(勿論私も当時から反対の立場をとっていました)した亀井・加藤・古賀各氏に強い態度を示せなかったり、2003年衆議院・2004年参議院各選挙でも民主党の躍進を許したりでこの2005年衆議院郵政選挙でも大きな貢献したわけではなかったのですが、彼ら93年組が入閣条件を満たしてきたのです。

森内閣時から数年官房副長官を務めてきて、そう言えばシンゴジラでも官房副長官がゴジラの出現と言う未曽有の事態収拾に努めていましたが、勝手知っていたという事からか官房長官として初入閣した。そしてそれから1年余りで、他の有力候補もイマイチ決定打に欠けた運の良さ(最も大物だったのが現在も政府のナンバー2である麻生太郎)もあって、戦後では田中角栄も凌ぐ最年少の総理大臣となった。

衆議院44期開始直後のその入閣待機組50人中24人が2017年12月28日現在まで入閣して、安部が総理大臣になったのもその44期中の事でしたが、残念な事に安倍は人を見る目もあまり無い様です。閣僚の人事は何も総理大臣が全て選んだわけではないらしく、そうしたのは小泉純一郎氏ぐらいなそうですが、その24人中少なくとも7人が第一次安倍政権において不祥事を起こし、安部の足を却って引っ張ってしまったのです。

松岡利勝も末路は悲惨でしたが、我が地元茨城の出身でもある赤城徳彦もあの絆創膏姿もネットでネタにされる等ピエロの様にも見えました。当然この人のポスターも何度も目にした事もあったけど、結局政治家生命そのものが絶たれてしまい、地盤を田所嘉徳に譲らざるを得なくなってしまったけど、あの世の祖父もさぞかし泣いている事でしょう。倉成正和氏みたいにきっぱり政治とは縁を切って研究者(私の親戚にもOBいるけど、城西大学教授を務めている)として人生の新章をスタートさせた人もいるけど、赤城氏は今何やっているのですかね?息子がいるらしいけど、既に60半ばな田所氏(この人には娘しかいないらしい)から地盤を譲ってもらって国政デビューして地に落ちた赤城家の復活を果たす事は出来るのでしょうか?まあ田中雄一郎氏みたいに親を反面教師として政治の道には進まない可能性の方が高そうですが・・・・・・・・・・・

赤城氏に深入りしたけど、まあこのブログは茨城県という地域ブログな面もあるし、もう一人茨城県出身者で興味を持ったのは狩野安です。父の加藤高蔵は7回当選したけど、大臣にはなれず、夫の明男も水戸市長選挙に落選して、衆議院選挙でも2度目の挑戦で当選したと思いきや、83年に無所属出馬で直後追加公認された額賀福志郎等に票が流れてしまったのか落選、その後の参議院選挙でも2度目の挑戦で当選して、漸く海部内閣下で政務次官になるも10ヶ月で交代となり残念ながらそこで政治キャリアは終わりとなってしまった。安氏は亡夫の遺志を継いで国政デビューされた様ですが、もし郵政民営化法案に最初から賛成していたら父や夫が果たせなかった閣僚入りも実現したのか?まあ微妙かもしれませんが、息子の岳也氏もあのまま県会議員やっていた方が良かったかもしれない。だって厚生族議員で、派閥の共同ボスまでやった丹羽雄哉氏が相手では最初から勝機薄かったでしょう。結局丹羽氏の後継となったのは国光文乃氏で、まあ私は先の2017年衆議院選挙では小選挙区はこの人じゃなくて共産候補の人(比例では希望の青山大和氏はもっと当選させたくなかったから仕方なく自民に入れましたが)に入れましたが・・・・・・・・・落選直後の2013年1月時点では色々肩書持っているらしいけど、もう5年近い前の話だし、今何しているのですかね?この親子も。

佐田玄一郎も、これも「沈黙の仮面」感想でも述べましたが、2012年の自民政権奪還後も衆議院議員運営委員長には起用してもらいました。しかし、今度は女性問題が起きてやっぱダメでした。まあ尾身朝子も同じく清和会出身なのですが、しょうがなかったでしょう。長勢甚遠もまた清和会で、確かに左翼の人達もおかしい所はいくつかはあるけど、右寄り過ぎな人達もロクなのがいないもんだ。勿論そういう人達も全否定しているわけではない(櫻井よしこ氏とかは嫌いではない。彼女なりの愛国心とかは伝わる)し、稲田元防衛大臣もそうだけど、思想で必ずしも政治が出来るわけではないのですからね。それで国や国民を不幸にする様ではネトウヨの連中も死ぬほど嫌いであろう周辺諸国の事も全く笑えない。長勢氏は国民主権、平和主義、基本的人権も無くしたくてしょうがない様で、憲法改正と言えば今度は自衛隊を実力組織と位置付けような話が出ている様ですが、何度も言う通りもうGHQによる洗脳の有無(確かにあったとは思うけど、それで全く骨抜きになってしまうほど日本人がそこまで阿保でノータリンだとまでは私は思わない。そんな阿保でノータリンだったなら欧米諸国の植民地にされていたよだけど、いつまでもそんな事でギャーギャー騒いで過剰な被害者意識持っている連中こそが一番自虐史観に囚われていて、愛国心が無いんですよ)とか近隣諸国への好悪とか押し付け憲法(確かに宮澤喜一氏が生前主張した通り1951年の主権回復直後に国民投票でもすべきだったと思う。おそらく大半の国民が賛成しただろうし)であるか否かとか取りあえず置いといて、これまでの歴史的な役割及びその限界を客観的に評価する前提こそがまず第一になければ、絶対日本にも日本人にも憲法改正または自主憲法制定なんてプラスにならないです。

これも何度も言う通りまず日米地位協定を見なおして、可能な限り米軍基地を縮小させるのもセットで行うべきですが、「わが国の平和と安全を維持する為の国民の良き番人であり続ける、自衛の為であろうが無かろうが侵略戦争は絶対にしない、世界の平和にも主体的に貢献していく」とかともハッキリ明記した上でその政治家に暴走させない限界(集団的自衛権も例えば日本周辺でテロが絡むのはダメだとか限定して。まあこれは憲法よりも法律整備の話となるだろうが)も定めていけば良いんじゃないの?ですが、まあ右傾化している今の日本人のメンタリティのままならば下手に憲法改正なんてしない方が良い(個人的には必要だとは思いますが)、憲法に現実を合わせた方がまだ身の丈に合った、可能な努力だろうな個人的見解(そもそもまた、原発があるのだから侵略であろうが無かろうが安易に戦争なんかできない)に大きな変わりはないです。勿論議論を進めるのは大事ですが・・・・・・・・・・・・

憲法改正の話にまた深入りしてしまったけど、その他大物どころでは園田博之の名前も見られました。園田氏も政界渡り鳥になってしまいましたね。自民以外の所属政党は立ち上がれ日本とか次世代の党とか自主憲法制定を党是として掲げていた、自民以上に右な政党に所属していたから、復党後は宏池会系な谷垣グループに所属しているのにも何気に違和感あるのですが、他政党では党務では幹事長になれても自民ではどうやら幹事長代理や衆議院法務委員長が精いっぱいなのも無理ないのでしょう。最近もまた、政治資金規正法違反疑惑が浮上してしまった様だし。果たして下村氏や小渕氏とかみたいに有耶無耶のままで逃げ切れるのか?

明後日で2018年になって、憲法改正の発議も重要な政策課題の一つになるのでしょう。9月には総裁選が予定されていて、安倍総理の3選可能性は高いと思われます。現在は60人以上いる入閣待機組にもそれなりにチャンスはやってくるのでしょうが、一方でかって程の勢いはないとはいえ、第3派閥で無視できるほどの勢力でもない額賀派(平成研究会)が同じ角栄氏の流れである石破派(水月会)と連携を取るのではとも言われています。日韓議員連盟会長で、文在寅大統領とも今夏会った事があるらしい額賀氏も、「中韓を知りすぎた男」とかではその親韓ぶりを批判された事もありましたが、派内でも会長交代を求める声出ている様だし、来年で74歳だからあと1期か2期やった所で引退でしょうが、もっと存在感を示したい所なのは確かでしょう。しかし、この郵政衆議院選挙大勝の時点で彼も入閣待機組の1人だったけど、私は岸田政調会長が一番ポスト安倍となる可能性が高いと思います。この人ならば今以上に日本が右傾化する事はないでしょう。しかし、その一方で外務大臣やってた時も胆力不足を感じた(現在の河野太郎氏の方が毅然とした対応していると思う。慰安婦合意の件はもはや日韓二国間の問題ではなくなっているのに10億払ったのがそもそもの大間違いで、河野氏には責任は無いし、アメリカも何を言おうが、もう韓国とは必要最小限の関わりしか持たず、すり寄ってきても無視して突き放すのがお互いの為だよだけど)けど、周辺諸国との付き合い方等特に外交面で不安があります。まあ安倍政権も高い点数付けられるのかと言うと、正直「微妙」ですけどね。勿論民主党政権よりは全然マシだけど・・・・・・・・・

その一方でまた、憲法改正の是非を国民に問う為に総裁選を1年延期して、もしホントにそうなれば安倍政権は最長2022年まで続く事になるけど、実際イタリアとかでは国民投票が否決されて辞任に追い込まれた首相もいます。ネットでの声=国民の総意とは全く限らないし、前述した通り今の右傾化したままで、ニュースでもいつまでも貴ノ岩暴行事件(貴乃花親方も確かに組織の一員なのに意固地すぎる所はあるかもしれないが、それほどおたくら相撲協会が信用されてないという事ですよ。彼を理事降格処分にする前にまず自分達のダメぶりを改善しなければいけないのだけど、こうしたダメぶりもインパール作戦も大失敗した第二次世界大戦の頃から悲しいかな変わっていない)やシャンシャンフィーバーや藤井四段・ひふみんフィーバーとかで騒いでいて、総理大臣も沖縄米軍ヘリ事故への対応よりも芸人達との会食を優先している有様な日本人にはなおさら憲法改正なんか高難度ゲーである。戦前も1000歩譲って東南アジア諸国が結果的に植民地支配から解放された面も確かにあったかもしれないけど、結局は近代化の成功に奢って自分達を過大評価して失敗したじゃないですか、そういうの今後も絶対忘れちゃダメだよだけど、いずれにせよ、それ相応の回数の当選をして、当然入閣していようがいまいがそんなのは関係ない、少しでもこれからの日本を任せるのにマシな政治家を選んでいかなければいけないでしょう。これからももっと。

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入閣待機組の顔ぶれの移り変わり(前編)

http://kokkai.sugawarataku.net/index.html

今年も明日で終わりで、秋の衆議院総選挙直前に安倍政権は内閣改造を行ったけど、その際衆議院当選5回、参議院当選3回、または両院議員歴13年以上だが未入閣である人達の事を言うらしい入閣待機組の多さが改めて注目されました。60人以上いるらしいけど、昔はどれぐらいいたのかこの国会議員白書というサイトをもとに調べてみました。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     
衆議院27期(1955/2~58/5)・・・83人中のち入閣は39人(内27期中は21人)※赤表記が27期中に入閣した人、緑表記がその後に入閣した人です。
逢沢寛
池田正之輔 1960年に入閣
石井光次郎
石坂繁 政務次官止まり
石田博英
伊東岩男
伊藤郷一 政務次官止まり
今井耕 政務次官止まり
内海安吉 政務次官止まり
江崎真澄 1960年に入閣
太田正孝
小笠原八十美 27期中に死去
小川半次
川崎秀二
川島正二郎 のち自民党副総裁
川野芳満
川村善八郎
北れい吉 北一輝の弟
北村徳太郎
清瀬一郎
小泉純也 1964年に入閣
河野金昇 27期中に死去
小島徹三 1960年に入閣
小平久雄 1961年に入閣
小西寅松 日興連汚職事件で逮捕される。
小林かなえ 当選者死去による繰り上げ当選
佐伯宗義 政務次官すら経験なし
坂田道太 1959年に入閣
椎熊三郎 衆議院副議長を短期間務める
志賀健次郎 1962年に入閣
島村一郎
杉浦武雄 のち参議院議員に転ずる
鈴木善幸 1960年に入閣、のち総理大臣に
砂田重政 27期中に死去
関谷勝利
世耕耕一 1958年6月に入閣
園田直 1967年に入閣、衆議院副議長も務める
高岡大輔
高瀬伝 政務次官止まり
竹尾弌 政務次官止まり、27期中に死去
田中伊三次
田中角栄 30代で初入閣、のち総理大臣に
田中久雄 政務次官ほか自民党青年局局長等も務める
内藤友明 入閣は果たせなかったが、新湊市長を3期務める
長井源
中島茂喜
中曽根康弘 1959年に入閣、のち総理大臣に
中村梅吉
中村三之丞
中山マサ 1960年に入閣、初の女性大臣
永山忠則 1964年に入閣、亀井静香が地盤を継ぐ
夏堀源三郎
並木芳雄
南条徳雄
浜地文平
早川崇 1963年に入閣
原健三郎 入閣前に衆議院副議長を務める
馬場元春
古島義英 政務次官止まり
堀川恭平 政務次官止まり
前田正男 1976年に入閣、角栄らと同期
牧野良三
松浦周太郎
松浦東介
松田竹千代
松永東 衆議院議長経験者
松野頼三
松本滝蔵 官房副長官等を歴任
真鍋儀十 売春汚職事件で有罪となる
三木武吉 自由・日本民主の保守合同の立役者
水田三喜男
宮沢胤勇
村上勇
村松久義
粟山博
森下国雄
山口好一
山村新治郎 10代目。11代目は息子
山本粂吉 茨城(旧小幡村、現石岡市)出身
横川重次
早稲田柳右衛門 保全経済会事件が響いたか
渡邊良夫
亘四郎 入閣は果たせなかったが、新潟県知事を務める

参議院議員の方は調べてなくて、もう少しいるかもしれないけど、衆議院だけでも80人強と今よりも全然多いですね。しかし、戦後は今以上に解散が頻発していて、衆議院なら10年少しで入閣の条件を満たしてしまった事、この当時自由党と日本民主党の保守合同で自由民主党(自民党)が誕生したかしないかだった事等も考慮されるべきでしょう。その立役者だった三木武吉がついに入閣できなかった一方で、角栄・中曽根・鈴木善と後に総理大臣となった面々もこのリストに上がる様になりました。逢沢寛は息子や孫も閣僚入りを果たせてなくて、孫の一郎氏も既に当選回数2桁いっているけど、まあ加計学園問題にも関与しているから無理でしょうね。北一輝の弟が戦後国会議員になっていた事は調べて初めて知りました。山本粂吉は同じ当時の茨城3区を地盤とした自民議員に赤城宗徳や丹羽喬四郎(丹羽雄哉氏の父)、佐藤洋之助とかいてが競争が激しかった為かこの27期以降は当選できないまま引退しています。前田正男は角栄らと同期でしたが、入閣したのは三木武夫が総理大臣になってからの事で、直後の総選挙では落選。大平正芳が直前に急死した1980年の総選挙で返り咲くも目立った活躍はないまま、同じ同期の中曽根も角栄や鈴木善に続いて総理大臣になったのを見届けた直後引退しています。次の(衆議院)選挙まで入閣できたのは4人に1人と狭き門だったのも変わりなかった様ですね。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 
衆議院32期(1969/12~72/12)・・・89人中のち入閣36人(内32期中は16人)※赤表記が32期中に入閣した人、緑表記がその後に入閣した人です。
秋田大介
足立篤郎
天野公義 1976年に入閣ながらも直後の総選挙で落選
池田清志
稲葉修
井原岸高 田中派旗揚げに関わるも入閣できず
宇都宮徳馬 のち自民党を離党、参議院議員に転ずる
大石武一
大久保武雄
大坪保雄
大野市郎 角栄と同じ選挙区だったのが運の尽きだったか
岡崎英城 警察官僚出身、政務次官止まりだった
小川半次
鍛冶良作 入閣は果たせなかったが、引退後も弁護士として活動
加藤常太郎
金子岩三
金丸信 角栄脳梗塞後、政界のキングメーカーに
鹿野彦吉
亀山孝一
鴨田宗一 政務次官止まり
菅太郎
菊池義郎 あと2か月生きていれば享年100歳だった
北沢直吉 筑波研究学園都市産みの親
木村俊夫
草野一郎平
久野忠治 当選14回も・・・・・息子の統一郎も3期で引退
藏内修治
倉成正 息子の正和は1回しか当選できず
小峰柳多
斎藤邦吉
佐伯宗義
佐々木秀世
笹山茂太郎
始関伊平
島村一郎
白浜仁吉
砂原格 32期中に死去
高橋英吉
高橋清一郎
高見三郎
竹下登 のち総理大臣に
田中正巳
田村元
中馬辰猪
辻寛一 名古屋市長選にも出馬も落選
渡海元三郎
中川俊思 娘婿、孫も下半身が緩かったが、自身も入閣できず
中島茂喜
永田亮一
中野四郎
中村庸一郎
西岡武夫 政界渡り鳥の一人
丹羽喬四郎
丹羽兵助 奥田瑛二を秘書としていたが・・・・・・
野原正勝 農林族議員として活動
長谷川峻
八田貞義
浜野清吾 日中平和友好条約締結に尽力
広瀬正雄
福井勇 103歳まで生きた
福田繁芳 日興連汚職事件に関与では・・・・・・・・
福永一臣 ロッキードの為かついに入閣できず
藤田義光
古川丈吉
本名武
前田正男
松沢雄蔵
三池信
森下国雄
森田重次郎 50年代に3回連続落選したのが痛かったか
森山欽司 夫人の眞弓は女性初の官房長官に
八木徹雄
山口シヅエ 鈴木善幸と並ぶ社会党在籍経験者の自民議員
山中貞則
吉田重延
早稲田柳右衛門 保全経済会事件が響いたか
(参議院議員)(衆議院議員32期開始時点で当選3回以上)
大竹平八郎
大谷藤之助
木島義夫
小山邦太郎 戦前は衆議院議員6期務める
後藤義隆
柴田栄
白井勇
平島敏夫 大東文化大学学長も務める
堀本宣実
前田佳都男
森八三一 参議院副議長等を歴任
吉江勝保
米田正文

今度は、その保守合同で自民党が誕生してから5回衆議院総選挙をやった直後の入閣待機組がどれほどいたかを調べてみました。他にも衆参両院在籍経験者いるかもしれないですが、入閣できたのは5人に2人で、衆議院議員の場合次の選挙までに入閣できたのは約5人に1人と大きな傾向の変化はありません。

天野は前田共々閣僚入りしたのもつかの間、落選してしまって以降は再入閣ないまま引退後まもなく亡くなってしまったらしいですが、2人も現役閣僚が落選してしまっては当時の三木総理もなおさら辞職せざるを得なかったでしょう。まあ1976年衆議院総選挙で自民が過半数取れたとしても、三木派は少数派閥だったし、史実と大きな変化はなかったでしょうが・・・・・・・・宇都宮はその三木や石橋湛山共々「何でこの人自民にいるの?」なほどの党内最左派でしたが、今の北朝鮮情勢とか見ていたらどう思った事か・・・・・・・金日成にも「政治家の世襲はダメ」と諌言して、自身も政治の地盤を世襲させなかった一方、製薬会社を立ち上げた実業家でもあり、現在は孫の徳一郎氏が社長と製薬会社の方では世襲となっている様ですが・・・・・・・・・

角栄と同じ選挙区も、角栄の総理・総裁就任後は政敵、福田赳夫の清和会に移った大野も1976年衆議院総選挙落選組でしたが、もし当選していれば入閣できたのでしょうかね。まあその後大平、鈴木、中曽根とまたしばらく角栄がキングメーカーとして政界を支配したので遅かれ早かれ引退するしかなかったでしょうが。金丸信や竹下登等その角栄の子分達の名前も見えてきました。現在の総理大臣の父な安倍晋太郎も彼らと同期ですが、途中1回落選しています。北沢直吉も入閣こそできなかったけど、茨城県民、特に県南住民にとっては地域発展の礎を築いた恩人ですね。梶山大臣もこの人の事も見習って今後も大臣職務まっとうしてほしいものです。倉成正は、息子は政治家には向いてなかった様ですが、父の秘書になる前はアメリカの大学で修士号を取って富士通でも勤務経験があり、引退後は城西大学の客員教授等を経て、現在は教授として活動している様です。

西岡武夫はその倉成正とは従兄弟でもあったけど、このリストでは最年少だったと思われます。当時まだ30代半ばほどでしたが、一度離党して新自由クラブに参加したのが響いたのか、初入閣は当選回数は大差は無い竹下が総理になった後の事です。その後もいくつもの政党を渡り歩き、自民では最左派だった筈が民主党では右派の重鎮となり、最晩年は参議院議長を務めましたが、新自由クラブのメンバーでは河野洋平氏の次に出世した方だったでしょう。松本は大蔵官僚出身でしたが、所属したのは宏池会ではなく清和会で初入閣した時点で既に70を超えていました。伊藤博文とも縁戚になった(妻が伊藤の曽孫)割にはパッとしなかったかもしれない。小山邦太郎は西岡とは逆でこのリストでは最年長だったでしょう。西岡とは下手すれば祖父と孫ぐらいの年齢差だったけど、西岡が生まれる前の昭和1桁から国会議員歴がある長老でした。息子の邦武氏は国政には進出せず、娘婿の井出一太郎氏が衆議院議員となりましたが、自民では岳父同様非主流の三木派に所属し、孫の正一氏はついに自民から新党さきがけに出て行ってしまい、曽孫の庸生氏にいたっては自民在籍経験すらありません。次は1986年の衆参同日選挙で大勝した直後と、2012年の自民が政権奪還した直後の入閣待機組について調べてみたいと思うけど、長くなったのでまた気が向いた時に改めて・・・・・・・・・・

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2017/11/12

野上忠興氏著「安倍晋三 沈黙の仮面」感想その5(最終回)

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今度こそ最終回だけど、その5です。(感想文中は敬称略)

藤原仲麻呂も、壬申の乱の敗者サイドで恵まれた政治家スタートを切ったわけではなかった(天智天皇の落胤説もあるが定かでない)祖父の不比等から必要最小限以上の反感を買わない様立ち回る処世術ももっと学ぶべきだったと思いますが、安倍晋三も祖父の岸信介が著者にも語った「押すときは押して引くときは引く」、父の晋太郎の「言いたい事を主張するだけでなく、誠実さから信頼関係を築く」バランス感覚を学んだとは言い難かった。

これまで読んできたエピソードからそれはいくつも伺え、高校時代に偏った左翼思想を生徒達に押し付けていた教師に嚙み付いた程度ならまだしも、直属の上司と後先考えないで北朝鮮による拉致問題で揉めてしまったのは拙かった。さすがに実際晋三ご本人も何とも思っていなかったわけでも無かったらしく、福田康夫が総理になってしまった場合干されるな危機感は持っていた様で、それも小泉任期満了後に伴う総裁選出馬の背景として指摘されていました。

そして実際ポスト小泉として名前の挙がった面々は晋三のほかに麻生太郎、谷垣禎一、福田康夫の4人で、彼ら麻垣康三は「軽量級で重みが無い」との皮肉を込めて呼ばれた事も初めて知った。総理の条件は当選10回、党三役1回、閣僚入り3回(その内2回は出来れば外務及び財務)それぞれ経験する事だと言われているけど、確かにこの4人を見ると・・・・・・

【この当時の麻垣康三及びその他主な重鎮自民議員の当選、党三役、閣僚各経験回数】

安倍晋三 当選5、党三役1、閣僚1
麻生太郎 当選9、党三役1、閣僚4
谷垣禎一 当選8、党三役0、閣僚4
福田康夫 当選6、党三役0、閣僚2


加藤紘一 当選12、党三役2、閣僚2
深谷隆司 当選9、党三役1、閣僚4
堀内光雄 当選10、党三役1、閣僚2
与謝野馨 当選9、党三役1、閣僚3
額賀福志郎 当選8、党三役1、閣僚4
久間章夫 当選9、党三役1、閣僚2


麻生も「女性に参政権を与えたのが失敗」失言が響いたのか、1983年に落選していなければこの時点で当選10回となっていましたが、確かに彼以外は軽量級なのは否めなかった。この4人よりももっと経験豊富な面々もいなかったわけでもなかったのですが、

加藤・・・・加藤の乱及び秘書の不祥事でもはや過去の人に
深谷・・・・2回連続で落選歴
堀内・・・・郵政民営化に反対して自民を離党中(後に復党)
与謝野・・・・2000年に落選した事がある他、派閥での亀井静香との権力闘争に敗れる
額賀・・・・2回大臣を途中辞任
久間・・・・暴力団関係者と記念撮影した事あり(後にあの失言も・・・・・)

と彼ら以上に経験ある面々が皆決定打に欠けていたのもあったのでしょう。この6人の中では、正直私は彼の祖母はあまり好きではないけど、与謝野が一番総理の可能性あったかな?また額賀も派閥内でも反対意見もあって、出馬断念を余儀なくされた様だけど、かって田中派時代から長きにわたり指示した人物を総理にしてきた平成研究会の衰退を物語っていたかのようです。4人のうち、福田は勝ち目がないと見たのか、出馬辞退して、結果は晋三が圧勝、戦後最年少の総理となり、父・晋太郎が叶わなかった夢を果たす形となりました。

ところが、現在も変わっていない様だけど、圧倒的多数な支持を得れば何をやっても良いと余計勘違いしてしまった様です。防衛庁を防衛省に昇格させたのはまだ良いし、実際は既に小泉内閣下で決定されていた政策も少なくなかったのですが、タカ派的政策を次々と実行していったのには当時の私からは強い違和感がありました。確かに拉致問題ではまだともかく部会長や幹事長としては合格点と言える実績を残せていなかった焦りもあったのでしょう。残念ながら人を見る目もあったかと言うと微妙だった様で起用した閣僚達のスキャンダルが相次いだ。松岡利勝は自殺に追い込まれたし、額賀同様茨城出身でもあるけど、絆創膏姿もネットではネタにされた赤城徳彦も14年間茨城県会議員やっていた田所嘉徳に地盤を譲らざるを得なくなり(あの世の祖父もさぞかし泣いている事だろう)、額賀の総裁選出馬に反対した一人でもあった久間も原爆発言で辞任に追い込まれた。佐田玄一郎は後に第二次安倍内閣でも起用してもらったけど、今度は女性スキャンダルで運営委員長辞任に追い込まれたのは懲りねー奴だなあと言うか・・・・・・・・結局先月の衆議院選も出馬自体余儀なくされてしまったけど、早くもグダグダになってしまっていた。

だからと言って、今でも民主党に票入れてしまったのは反省しているけど、2007年7月の参議院選挙でとうとう自民は歴史的惨敗を喫してしまった。そんな厳しい現実に直面しても、すぐ責任とって退陣しなかったのも拙かったけど、ここでついに持病の潰瘍性大腸炎が悪化してしまった。議員2選を目指した選挙活動時もなかなかトイレにいけなくて辛い思いをして、体重も12キロも激減したらしいけど、昭恵夫人には「政治家なんかやめてください」とまで言われてしまったらしい。森友学園問題にも巻き込まれてしまった最近のアッキーの言動からは正直想像つかない(苦笑)けど、いつからこんなにおかしくなってしまったのだろうか。晋三のこの持病については、小学8年生で掲載された伝記漫画の他にも民衆の敵でもパロられていた様だけど、後者については折角良い役者何人も起用したのにこんな疾病者が10万人以上いる難病を揶揄するテレビ局製作スタッフの人間性にはつくづく残念な気分にさせられます。と言うか、晋三の甥もフジテレビ社員(弟で岸家に養子入りした信夫の息子で、従兄弟に当たる寛信の息子とも歳が近いという)なのにねえ・・・・・・・・・・・・・

しかし、これまでも話してきたけど、晋三はつくづく運に恵まれた政治家です。野党議員として国政デビューしても、なかなかこれといった実績を残せなかったのが、当時の小渕恵三総理の急死による森内閣成立で閣僚経験者の就任例もあった程の重要ポストだった内閣官房副長官に抜擢され、拉致問題等をめぐる、直属の上司だった福田との確執も被害者家族の支持や世論を味方につけて一部被害者達の帰国に成功、僅か当選3回で幹事長に抜擢、衆参両議員選挙では満足な結果を残せず、イラク派兵に反対した重鎮議員の説得にも失敗して代理に降格されたと思いきや、今度は大統領制下の国では首相がやる仕事である内閣官房長官に抜擢、そして小泉の任期満了に伴う総裁選では、この時点ではあの稲田朋美は彼を推薦していなかったのも意外だったけど、福田が戦いそのものを放棄して戦後最年少の総理に・・・・・・・・・・・・・

不幸にも持病の悪化もあって一時下野しても運に見放されたわけではなかった様です。5年後の2012年9月の総裁選では現職の谷垣が出馬断念、対立候補は町村が脳梗塞、石原が親父譲りの失言癖、石破は一時自民離党歴あり、所属政党が野党転落して注目されるようになったという点でチェルシー・クリントンと似ているけど、自民の戦う貴公子、小泉次男は石破支持に回りながらも総裁返り咲きを果たした。安倍晋三、この時まだ58歳になったばかり。

3か月後には衆議院選挙で大勝し、3年ぶりの政権与党返り咲きを果たして、まずは憲法改正しやすくする為に96条の改正を目指したけど、これは間もなく頓挫しました。他の国でも例えば良く大統領の再選制限を緩和または撤廃したり、権限を強化したり等権力者に都合の良い様に改正した話を聞きますが、小林節の批判は極めて正論だと思います。天皇陛下が生前退位を望んだのも憲法改正しようとしている晋三への掣肘とも指摘されていて、サンフランシスコ平和条約が結ばれた4月28日を主権回復の日と定めるのはまだともかくとして、天皇・皇后両陛下を政治利用したのもいただけませんでした。戦後70年の総理大臣談話もその2で触れたから深い言及はしませんが、繰り返し言う通り河野談話は見直しても村山談話は見直すべきではないです。

いじってもせいぜい「植民地支配」「侵略」「痛切な反省」「お詫び」の内、「お詫び」のキーワードを削除する微修正にとどめるべきであり、結局は4つともキーワードを盛り込んだようだ。全国戦没者追悼式の天皇陛下のお言葉の意図を、例えばBBの談話室とか一部皇室ブロガーも知ったらまた皇太子ご一家共々叩くのだろうけど、戦争を知っている世代の人達が高齢化して、晋三みたいに自分に都合の良い様にしか歴史を学ばない人達が増えている等右傾化しているのだから猶更の事です。勿論慰安婦の強制性や南京大虐殺の被害者数等実際やってもいない事をやった様に、またはやったけど、実際より酷い事したかの様に言われるのは理不尽で、いい加減これからの世代の人達もツケ払わされる不幸の連鎖は断ち切らなければいけないとも思うけど、過去を美化して正当化する免罪符にはならないし、してもいけないのです。自虐史観も良くないけど、自尊史観も無能な働き者ネトウヨも発生させる等日本人を劣化させるだけで得るモノなんて無い。何度も何度もこれからも機会ある度言いますが、私は強くそうも確信しています。

日本国憲法も確かに自主憲法とは言えないでしょうし、冷戦が終わっても、今度はイスラムとか宗教が絡むテロとの戦いや北朝鮮の核開発問題等変化している世界情勢にそぐわなくなっているのも事実です。大半の憲法学者が違憲認定している自衛隊を明記するのは良いし、集団的自衛権も既存法律との整合性等も厳密に守って、明確に日本の国益に関係する範囲でのみに適用できる様にするのなら消極的な賛成はしますが、何故解釈改憲などという小難しい解決に走るのか。日本の国益よりも周辺諸国に過剰に配慮もしてきてこうした議論自体しようとせず、護憲に凝り固まった、日本特有の欠点を抱えている左翼の人達にも責任はありますが、本来こうした安全保障問題は時間をかけてでも議論し、国民にも丁寧に真摯に説明し、しっかり是非を問うべきなのです。「要領だよ、要領」のノリでなされるべきではないのです。

話は先走りながらも、昨年地元の山口で開催した、プーチン大統領との日露首脳会談もそうなのだろうと言うか、歴史に名を残したくて焦ってもいる様ですが、北朝鮮の日本人拉致問題もまた然りでしょう。しかし、拉致担当大臣も代わりすぎと言うか、いっそ北朝鮮問題に詳しい民間から起用したらどうだ?えっ?ただでさえ入閣待機組が多いからダメ?しかし、これもまだ日本に帰国できない被害者の方々には気の毒ですが、もはやさらなる進展へのチャンスを逃してしまった様な気がしてならないです。



長くなりましたが、結局全5回となってしまった「安倍晋三 沈黙の仮面」もそろそろ締めたいと思います。拉致問題については蓮池透氏著作「拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々」も併せて読んでみたいとも思いますが、色々知らなかった事実も知って、本書とは逆に甘く評価したらしい著者の過去作は知りませんが、安倍総理の人間性も含めたこれまでの半生を知るには最適の書だと思います。本書が世に出たのは丁度2年前の2015年11月12日の事で、安倍総理の大学の先輩なギレン総帥の誕生日であり、終盤で日本の右傾化にせめてもの抵抗も示してきた姿も描かれていた天皇陛下の即位の礼が行われた日でもあり、その後も色々な事件が起きていますが、そういうのまで触れるとまた長くなってしまうので割愛します。何だかんだ言ってもこの人以上に世界の首脳とも渡り合える人はいなそうだし、おそらく安倍氏は高い確率で2021年まで総理であり続けるのだろうけど、野上氏にはその時にでもまた本書の続編を書いていただきたいものです。憲法改正とか政治家としての実績にも拘りたがる安倍総理と日本に見えてくる未来は何か?憲法改正も押し付け憲法論ではなく、もっと客観的に特に9条が果たしてきた役割を評価する事が絶対的前提の一つで、それを無視するのは梯子を使わないで屋根に登る様なもの、あまり明るい展望とかは見出せませんが・・・・・・・・・・

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2017/11/11

野上忠興氏著「安倍晋三 沈黙の仮面」感想その4

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今度こそ最終となるけど、その4ですね。(感想文中は敬称略)

北朝鮮による拉致問題で一躍脚光を浴びた晋三、実際は近年蓮池兄弟等から拉致問題を政治利用しているとの批判も出ていて、異常な安倍晋三嫌いはゲンダイ以上なリテラ(もうねぇ、確かに批判点もいくつかあるけど、その怨念には正直失笑混じりな恐怖も感じる)でも当然ネタにされているけど、私も彼を知ったのはこの時でした。

そして2003年9月21日、49歳の誕生日に森喜朗と小泉総理から幹事長内定の電話をもらったのですが、議員になってまだ10年、当選3回の時の事でした。

(これまでの自民党歴代幹事長就任時の当選回数、太字は総理経験者)

岸  2
三木  8(再任時11)
川島  8
福田  4(再任時6)
益谷  10
前尾  6
田中  8(再任時9)
保利  11
橋本登  9
二階堂  11(再任時14)
中曽根  11
内田  9
大平  10
斎藤  7
櫻内  12
田中六  8
金丸  10
竹下  11
安倍晋太  11
橋本龍  9
小沢  7
小渕  10
綿貫  8
梶山  7
森  9(再任時10)
三塚  8
野中  5
古賀  7
山崎  10



自民党結党直後は祖父の岸や福田赳夫みたいに当選回数が少なくても就任した例(但し、福田は退任後1966年に最大のライバル、田中角栄の後任として再任されている)もあって、その他では当選5回の野中広務の叩き上げぶりが際立っていますが、晋三以前の歴代幹事長は29人中19人が当選8回以上してやっとなれたのです。父の晋太郎も含んでです。二階堂や櫻内は当選回数が多く(特に前者は再任時の14回は就任時当選回数の最多記録であろう)てもさらに総理になれなかったのは、それぞれ同じ派閥に角栄、中曽根という強力なリーダーシップを持つボスがいたからでしょうが、彼ら29人の平均当選回数は8.5回です。ちなみに安倍以降の歴代幹事長は武部6、中川9、麻生9、伊吹8、細田6、大島9、石原7、石破8、谷垣10、二階11と当選3回だった晋三も含んで平均当選回数は7.8回です。篠原孝氏のブログでは、2000年代末以降当選回数、党三役、閣僚経験が比較的不足した手合いが選ばれる等自民総理が劣化したと指摘されていましたが、平均当選回数に大きな変動はありません。愛読していた噂の真相でもその俗物ぶりが生々しく描かれていたけど、前任の山崎拓の女性スキャンダルによるもので、彼では選挙を乗り切れないと判断した小泉らが拉致問題で脚光を浴びた晋三に白羽の矢を当てた・・・・・・と言うのが幹事長起用の背景にあった様ですが、「4階級」どころか「5階級特進」だったでしょう。

祖父の岸が辞職して以降、幹事長経験者の総理は角栄まで12年登場しませんでしたが、その後は10年以上途絶える事は無く(池田勇人や大叔父の佐藤栄作は自由党時代に幹事長経験がある)、これまでの29人中10人が総理となっています。確率は単純計算で約34%でしたが、これで衆議院選と来年2004年の参議院選挙を乗り切れればさらに晋三に大きく総理の椅子が近づく・・・・・かに見えました。森にも、選挙初出馬の際に祖父の岸が応援に来てくれた恩と、小泉の次は福田康夫、康夫の次は晋三と続けて自分の派閥から総理を出したい打算があった様です。

しかし、晋三本人も次は副幹事長だろう、幹事長なんて時期早々だと思っていた様ですが、やはり現実は甘くなかった。この時初めて投票権を行使出来る様になった私は、「これで日本にも本格的な二大政党の時代が来るかも。」な、今から見れば馬鹿げた幻想を抱いていたのだから無知とはつくづく怖いものだですが、就任後間もなく行われた2003年11月の衆議院総選挙は民主党が177議席と自民の237議席に迫り、公明の34議席と合わせて過半数は維持、保守新党は自民に合流となり、政界渡り鳥だった二階も結果的に自民に復党したのです。さらにイラク派遣に反対していた加藤、古賀、亀井の大物達の説得にも失敗した。勿論私も、このイラク派遣には反対でしたが、彼らから見れば「祖父と親の十四光りな若造が何を抜かす。」(まあ加藤も世襲でしたが)だったし、小泉は小泉で「幹事長に一任してある。」と丸投げしたのは彼らしいと言えたかもしれません。そして、そう言えば当時の阪神の監督も同じ「岡田さん」だったという事で、民主党の代表と重ね合わせてクローズアップされた事もあったけど、翌2004年7月の参議院選挙も自民はまたしても単独過半数の確保に失敗(公明の24議席と合わせて過半数を維持)し、衆議院に続いて民主の躍進を許してしまいました。

残念ながらやはり力量不足だった様で、幹事長代理に降格となったのもしょうがなかったでしょう。そして間もなく2005年の郵政解散による衆議院選挙も実施されて、私は当時から郵政民営化の意義には疑問を抱いていましたが、小泉に直接疑問を呈して一喝されたり、造反組の説得に失敗したりと自民は大勝しましたが、どうもパッとしなかった様だ。それでも、選挙後の内閣改造では内閣官房長官に起用されました。1963年に認証官となって、大臣と同格になって以降、これまでの歴代の平均当選回数は約7回(衆議院での。中には宮澤喜一や森山眞弓の様な参議院議員歴のある人もいるが、彼らの場合はその間に実施された衆議院選挙の数を加えて計算した)ですが、この時点で晋三はまだ当選5回だったからやっとそろそろ入閣かと言った所だけど、正直小泉内閣時の官房長官と言えば、福田康夫の方の印象がずっと強いです。

それでも、いよいよポスト小泉の一番手となったかと思いきや、まだそうは問屋が卸さなかった様です。同じ派閥で、国会議員としては1期先輩のその康夫がライバルとして立ちはだかったのです。良く父の赳夫と田中角栄のライバル関係も角福戦争だなんて言われていて、親同士は「喧嘩するほど仲が良」くても、康夫と真紀子(本書でも描かれていたけど、官僚を使いこなせなかったのは父とは対照的と言うか、やっぱ真紀子は無能だ)は全くそりが合わなかった様ですが、安福関係も、赳夫が総理退任後も派閥のボスはなかなか譲らず、晋太郎が60過ぎて漸く代わったけど、結局ポスト中曽根になり損ねて赳夫より先に亡くなった等親同士だけでなく、子同士も微妙だった模様。でも、康夫ってハト派か?まあ晋三と比べれば確かにそう見えるかもしれないけど、官房長官時にイラク派遣にも関わったし、ハト派とまで言えるかはちょっと微妙かも?

実は李登輝の病気治療を目的とした入国問題だけでなく、北朝鮮の拉致問題をめぐっても康夫と対立していたのも初めて知ったけど、スピードワゴン風に言えば「後先考えずに無茶する奴よ!!」でしたね。結果的に小泉が晋三の強硬案を呑んで、年金未納問題もあって康夫が取りあえず身を引いたから良かったものの、一歩間違えれば総理や幹事長どころか入閣の芽も絶たれていたかもでしょう。まだ終わらないね。次こそ最終回になると思うけど、続きはその5で。

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野上忠興氏著「安倍晋三 沈黙の仮面」感想その3

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長々とここまで書いてきているけど、その3です。(感想文中は敬称略)

村山富市も自分が総理の器じゃない事を自覚はしていた様で、前々から総理を辞めたがっていた様だけど、かっての鈴木善幸の様に総裁選出馬断念を余儀なくされた河野洋平の後任で自民総裁となっていた橋本龍太郎が総理にも選ばれ、自民総理も2年5か月ぶりに誕生しました。1996年1月の事で、同年の10月には第41回衆議院総選挙が開催されましたが、晋三は圧勝し、議員第2期を迎えました。

ここで興味を持ったのは当選回数ごとに積み重ねていくキャリアで、議員3期でやっと中堅議員となり、4期で副幹事長あたりになる様だ。そういう意味では小泉次男(筆頭副幹事長)も就任直後に4選したから超スピード出世というほどでも無かったのかなあで、茨城出身では葉梨康弘も副幹事長らしい(※11/14追記だけど、葉梨氏は現在副大臣に転じたらしい)ですが、5期、おそくとも6期でやっと大臣か国会の常任委員長になれるらしい。これは衆議院の話で、参議院なら大臣入閣は3期が目安らしいけど、入閣待機組が60人って多すぎだよね。議員定数削減やっぱ必要だろな気もしないでもないけど・・・・・・・・・

しかし、橋本政権下では青年局局長も務めていた晋三がこういう定型通りキャリアを積み重ねていったのかと言うとどうやらそうではなかった様だ。消費増税で98年の参議院選挙では自民は過半数割れ、橋本は責任を取って総理を辞職し、同じ経世会の小渕恵三にバトンタッチされたけど、当時は金融問題が最重要視されていた。そう言えばこの頃にはまた金正日が親父が死んで三年経つか経たないかで漸く総書記に就任したけど、拉致疑惑を取り上げていた晋三は大して見向きはされず、社会保障に目を向けて、同志たちの名前のアルファベットから命名したNAISの会も厚生利権の壁に阻まれて不完全燃焼だった様です。

ところが、平成以降の総理では一番有能だった小渕が不幸にも脳梗塞に倒れてしまったのが現代日本政治史の大きなターニングポイントとなった。55年体制以降ここまでの45年間、吉田茂をボスとする旧自由党の流れをくむ、軽武装と経済重視を掲げた保守本流が大半は政治の主導権を握ってきて、岸・福田・中曽根のタカ派総理は例外的な存在に過ぎなかった。

しかし、この3人にしたって岸は本書でも著者に語ったエピソードも触れられていた通り「青磁は押すだけではなく、時には引くバランス感覚が大事」と公言していて、娘婿の晋太郎も忘れていなかったし、福田・中曽根もアジア諸国(やアメリカ)との外交を重視していた。それが、あの当時は5人組による談合であると世間から非難されていたけど、晋太郎同様党三役全て経験した森喜朗が総理となり、清和政策研究会出身者としては22年ぶりに誕生した総理でもあった。

日本歯科医師連盟事件も結局有耶無耶になって、今の森友・加計学園問題もそうなるのだろう(と言うか、他にもっと大事な課題がいくつもあるし、決して納得しているわけじゃないけど、もう良いよである)けど、森にとって晋三は衆議院総選挙初出馬時に応援演説に来てくれた恩人(岸の事)の孫でもある。晋三の初出馬時に応援に来たのも、その恩返しの一環で、当時は失言癖やえひめ丸事件の対応の拙さ(しかし、言われているほどは酷くなかったと擁護する意見もある)も相まって、総理退任後も無能なくせにキングメーカーぶっていた印象が強かった森だったけど、総理の時も実は(?)政策自体は概ねマトモだったし、そうとは言えない面も多々あるという事だったのでしょう。恩返しはこれだけでは終わらず、7月の改造内閣成立時に内閣副官房長官に抜擢したのです。

韓国やアルゼンチン等大統領制下の首相も日本の内閣官房長官に相当する仕事をするらしく、その重要性が改めて伺えますが、官房副長官も晋三以前にも小沢や近藤元次等閣僚経験者の就任例もあった等他の政務次官(2001年以降は副大臣)より格上だった事が伺えます。結果的にはこの内閣官房副長官の就任が安倍晋三の総理への大きな一歩となったわけであり、支持率が低迷していた森は小泉純一郎に総理・総裁を譲る(厳密には森内閣下でも入閣していた橋本との総裁選となり、1995年の時は敗北したが、この時は雪辱を果たした)事となりましたが、小泉内閣下でも引き続き務めました。河野談話や反日傾向を強めていた江沢民政権下の中国、一時期よりはマシにはなっていったが、停滞気味で「失われた10年」となっていた経済、中選挙区制から小選挙区比例代表制への政治改革等色々要因はあって、私が自民にあまり票を入れない大きな原因ですが、この頃から自民もハト派が絶滅危惧種になっていった日本は右傾化していって、それは2017年現在もますます悪化してきている。

本書でも「超タカ派の鎧」と評されていたけど、晋三が早稲田大学の講演で悲惨な戦争の本質の理解に欠けた核保有合憲論(実際学生時代図書館で被爆者の人達の写真を見た人間の一人としては到底同意できるものではない)の逸脱発言したのも間違いなくそうした右旋回し始めた日本を象徴する舌禍事件で、大学時代の彼を知る友人達が抱いた「違和感」は私よりももっと大きかった事も想像に難くなかったです。

ここまで読んできた通り、保守主義だけじゃなくて、色々な他の違う考えも自分なりに吸収した上での主張だったとは思えないのですが、時流は晋三に味方し続けます。小泉総理が訪朝する事になって、晋三も同行したのです。2002年9月17日の事で、この時の小泉に対する世間の評価は必ずしも芳しいものではなかった様ですが、強硬的な態度を一貫した安倍は一躍脚光を浴び、被害者家族への率直な態度もこの時は好印象を持たれた様です。そして2004年5月22日の2度目の訪朝で5人の一時帰国を事実上永久帰国として、5人でも拉致被害者を日本に戻したのは小泉政権の確かな評価点の一つです。今までの歴代内閣が出来なかった事をやれたのです。しかし、独立した人格を持つ人間と大砲はまた違うし、現在もますます暴走している北朝鮮と欧州の雄の一角であるフランスもまた違う。小泉訪朝より少し前の、森内閣時の河野外務大臣主導のコメ支援を行った時点で、拉致被害者の方々を数名でも日本に帰国させる事は出来なかったのかでもありますが、親父の晋太郎の秘書官だった時にフランスとの長州砲返還交渉した経験を忘れてしまったのでしょうか。特に外交ではただ自分の主張を押し通すだけでなく、相手の立場もある程度吟味して、なるべく信頼関係を築いて見返りも得させる事も大事だと学んだ筈です。確かに拉致被害者に身代金をさらに払う様な行為は一見筋が通らないかもしれませんが、金正日が生きていた内に北朝鮮との拉致問題もこの経験を活かして、もっと多くの被害者の方々に祖国に帰っていただく事は出来なかったのかなあな疑問も本書を読んで改めて頭をよぎりました。また長くなったので、続きはその4でという事で。

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野上忠興氏著「安倍晋三 沈黙の仮面」感想その2

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感想その2です。安倍総理が親父の晋太郎氏の秘書になるまでのくだりはその1を参照されたい。(感想文中は敬称略)

1982年の自民総裁選では3位に終わりながらも、中曽根政権下の外務大臣となった父の秘書官として何をやれば良いか分からなかった晋三でしたが、フランスとの長州砲返還交渉で毛利家伝来の鎧との交換という形ながらも実現にこぎつけるGJぶりを見せた。そしてこの頃にはまた、後の妻となる松崎昭恵とも出会ったけど、初めての出会いの時に彼女が30分遅刻してしまったのもまあ「らしい」エピソードですね。

1987年には兄貴の寛信共々結婚にこぎつけたけど、直後には長生きだった祖父の岸信介が大往生を遂げた。亡くなる直前の祖父からは急死した江島淳の補選を機に参議院選の出馬を打診されるも息子の潔がいたためお流れに。しかし、潔もどうやらその後下関市長がやりたくなった様で、衆議院からの国政進出への転換の失敗(成功していれば後に今秋の衆議院選挙でも戦った小池百合子とも同僚になっていた)を経て、下関市長を14年やって、結局国政に進出したのは2012年の自民政権与党復帰直後とまだまだ先の事でした。筆者は晋太郎から「晋三には政治家に必要な情が無い」とこぼされた事もあったらしいですが、晋太郎は1986年の衆参同時選挙での圧勝後の第三次中曽根政権下では長く務めた外務大臣を倉成正に譲るも、党総務会長に転じ、中曽根の任期も延長となったとはいえ、あと1年、そして派閥(清和政策研究会)のボスも福田赳夫から譲られ、いよいよ次は総理になるかに見えた。

後任の総裁選には晋太郎の他にも田中角栄から派閥を乗っ取った竹下登、宮澤喜一が出馬を表明したけど、投票ではなく話し合いとなった。長期政権だったと言え、派閥の勢力は経世会(竹下派)、宏池会(宮沢派)に次ぐ3番手に甘んじていたから、禅譲した形にして自分の影響力も保持したかった中曽根の思惑があったかららしいけど、茨城出身でもある梶山静六が竹下の参謀役として助言していた等民意を反映していたか微妙な白熱したやり取りの断片も感じられたものがありました。実際総裁選挙やったとしても勝てたかどうかは微妙でしたが、晋太郎を党のナンバー2である幹事長(副総裁はこの当時空位で、実質的な党務の最高責任者)、宮澤を政府のナンバー2である副総理兼外務大臣に起用する等配慮も忘れてはいなかった。

しかし、後に2012年9月の総裁選挙で晋三とその座を争った石破茂も「あの時が彼が最も総理の椅子に近付いた時だった。」と言われるだろうけど、晋太郎にはもう次のチャンスは結果的にはこなかった。リクルート事件とガン発病があったからです。ガン告知したのも晋三で、晋太郎も渡辺美智雄もせめてあと5年は長生きしていれば総理になれたかもしれない、そうなれば河野談話や天皇陛下の訪中も無かったかもしれないし、55年体制ももっと長く続いていたのかなあでもありますが、36歳で晋三はいよいよ次の衆議院総選挙に向けての準備をする事となった。父の死に泣き続けた昭恵夫人が叱咤したのも何だか初対面時に遅刻したエピソード等とは違って彼女らしくないと言うか、殊勝な所もあったのだなあでもありましたが・・・・・・・・・・・

竹下の後の宇野宗祐は女性問題でダメ、海部俊樹もルパン三世でもパロられたほどだったけど、小沢一郎の操り人形で、その次にかって竹下や晋太郎と総裁の座を争った宮澤も政治改革を巡ってグダグダとなる等自民の55年体制もガタがきて来ていた。その上経世会が分裂して、小沢が先日亡くなった羽田孜や現在の自民幹事長である二階俊博らと共に出ていった。こうした状況の中で、1993年衆議院総選挙が開催される事になり、同じ派閥で、その後も深く関わる森喜朗や小泉純一郎、同じタカ派の石原慎太郎が応援に駆け付けたのは分かるけど、亡父のもう一人の総裁選でのライバルだった竹下もやってきたのも、晋太郎が息子に欠けていると指摘していた情の大切さを改めて痛感させられた様なでしたね。

当選はしながらも、自民は大きく過半数割れして結党以来初の野党転落、晋三も野党議員として国政デビューする事になってしまいましたが、その55年体制崩壊、政権交代の立役者だった小沢と安倍家の接点(晋太郎が小沢を幹事長にするよう働きかけた件)も「また然り」と言えたでしょう。消費税導入の根回しだけでなく、牛肉・オレンジ自由化問題や航空自衛隊の次世代戦闘支援機共同開発問題に尽力した功績も書かれていた小沢も確かに政治家として剛腕で、一時代を築いたのは否定はしないけど、自民を出て、55年体制を崩壊させたあたりがピークだったよね。その後はあくまで理想実現のための手段に過ぎない権力闘争ばかりに終始して、ついには本来思想が明らかに違う筈な山本太郎とか左翼の連中にも取り込まれて過去の人みたいになっちゃっている(辻本貴一氏のブログ「中韓を知りすぎた男」でもこの指摘がなされている)けど、あと2年で名誉議員にもなる様だね。小池はここらでも小沢と似たような失敗を犯したというか、排除した事自体は間違いではなかったけど、それを口にした様ではかっての派閥のボスや厚化粧と罵倒された私怨から散々標的にした元都知事等政敵達の失言も笑えないじゃない。分裂したダメダメ政党、民進の片割れに過ぎない希望の共同代表も、決して加計学園問題も晋三らを一方的に糾弾できる立場じゃない玉木雄一郎の様な小物(獣医師会から献金を受けている)が就任しちゃったけど、希望はあと3年持てばいい方じゃないの?と言うか、もう一度自分と思想を同じにする人達だけで出直した方が良い。まあその前に都政で豊洲とか自分で自分の「分不相応な野望」の為に勝手に大きくした問題を何とかしないといけないのだがね!!

まあこの2人についてはこれ以上深入りはしませんが、国会議員ってホントに多忙な様だ。ある議員の1日の例を見たら、私の職場への出勤時間よりも若干早い朝には勉強会やその他特定の分野の委員会に出席、昼は国会での本会議に出席して、夕方は地元や業界団体の連中と意見交換と帰宅したらもう寝るだけな日も珍しくなく、まあ国会は毎日開会されているわけでもないけど、晋三も当然例外ではなかった。父の秘書官になって外交に深く携わった経験から外交を専門分野にしようとした一方、保守主義も勉強した様だけど、議員になっても晋三には革新主義の思想・主張も好悪とは関係なしに聞いて、それも自分の見識を深める一助にしようとした視野の広さや柔軟性とかは感じられませんでした。

議員1年目は野党議員として終えた晋三、その年の暮れには田中角栄も亡くなったけど、自民の与党復帰は間もなく実現しました。宮澤の次の自民総裁だった河野洋平も同じく親中ハト派だったけど、自分が総理になるのを断念する代わりに、55年体制時最大のライバルだった筈の社会党のボス、村山富市を総理に祭り上げて、自社さ連立政権を誕生させたのです。晋三も当然首班指名選挙では本来思想が全く違う村山に投票した様ですが、当然村山談話にも不満だった模様。しかし、このブログでももう何度も言ってるけど、太平洋戦争はアメリカにそういう選択しなければいけない様追い込まれた面も間違いなくあった。朝鮮や台湾も含め日本の外地統治は搾取を基本とした欧米の植民地統治とは性質を異にして、例えばミャンマーのロヒンギャ問題とかのほどは禍根も残したわけではなかった。戦後の東京裁判もその正当性には問題あった。しかし、そもそも台湾や南洋諸島はまだしも、朝鮮統治は大赤字で結局身の丈に合ったわけではなかったし、やはり石橋湛山が主張した小日本主義こそが明治維新を成功させた後の日本が進むべきな道だった。これで中国も屈服させられないで(そもそも落としどころが何処だったのかも誰も理解していなかった様だし)どうしてアメリカと戦争して都合よく日露戦争の時の様な判定勝ちに持ち込めたと言うのだろうか?後からなら何とでも言えるけど、近衛文麿とか東条英機とか山本五十六とかの見通しは甘すぎたというか、やはり太平洋戦争は日本にも情状酌量の余地はありながらも侵略戦争だった事には違いない。(前述した、右寄りの人達が主張している外地統治も日本の国益第一でやった事であり、勿論「欧米=正義、日本=悪」なのも単純すぎるだろうが、その逆も然りである)

勿論、東南アジア諸国の独立に尽力したサムライも何人もいた事等も無視はしないけど、慰安婦に強制性があるかどうか不確かなのに・・・・・・な河野談話はともかくとして、村山談話は見直すべきではないです。そう思っているのは私だけでは決してない様で、晋三が村山談話に不満を感じていたのも、国会議員の絶対的多数の賛成を受けていたわけではなかった事を根拠にもしていたけど、本書でも指摘されていた通りそれから20年後の戦後70年談話でも結局明確な見直しが出来なかったのは皮肉だったでしょう。また長くなってしまったので次の橋本政権成立後はその3にて。

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野上忠興氏著「安倍晋三 沈黙の仮面」感想その1

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トランプ大統領の訪日で、松山英樹氏(まあご本人は楽しんでいた様だから、それならもう彼については私などがとやかく言う事ではないけど)やピコ太郎氏も政治利用して日米同盟をアピールしていたかと思いきや、過剰なゴマすり等正直「?」だった安倍総理ですが、取材に基づいて彼の半生を描いた「安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの秘密」を読んだので感想を残します。(感想文中は敬称略)

父の安倍晋太郎は出生時は毎日新聞記者だったのが、岳父・岸信介の秘書を経て、国政デビューしていた事情で、晋三は両親と親子らしい触れ合いを過ごした機会はあまりなく、お手伝いさんだった久保ウメが母親代わりでよく甘えていた様ですが、加えて、晋太郎の国政デビュー直前に石橋湛山との総裁選で僅差で敗れたばかりだったが、病気による退陣で、総理になった岸がアイゼンハワーとの間で調印した安保条約に対する世間の強い風当たりが決定的な人格・思想形成の基となってしまった様です。

アメリカに対する過剰な追従(昨年末の稲田前防衛大臣の靖国参拝も「ノーコメントは無いだろ」だったし)も改めて理解できると言うか、家庭の事情で、猶更自分の世界に占める割合が大きかった祖父の成し遂げた「偉業」を否定されて反発した気持ちも分からなくはないのですが、さらに最近まで外務副大臣を務めていた弟の信夫が伯父の信和の養子となっていたのもそうした人格の屈折に拍車を欠けてしまった様だ。

勿論晋三本人もそうした自身の中にあった歪みをどう乗り越えるか全く考えていなかったわけでもなく、早くから政治家への道を志していた様だ。後に共に北朝鮮問題で注目された平沢勝栄とも早くから接点(家庭教師を務めていた)あったのも初めて知った話でしたが、晋三は祖父母または両親からそうした政治的思想の影響もうけても、自分なりに色々知識も吸収して、視野を広げた上で、歴史認識も含む自分なりの国家観とか形成していった・・・・・・・わけでは残念ながらなかった様です。

いくら当時ベトナム戦争も泥沼化していて、反戦の気運が強かったとはいえ、教師が学校の教育で反安保とか自分の偏った思想を生徒達に押し付けていたのも異常に見えました。一次政権は2年で終わったのが、数年後に再登板して第四次黄金期を築いた巨人の原辰徳とも重なり合うものもあると言うか、実はヤクルトファンのアンチ巨人(参議院議員を務めていた堀内恒夫の前でも「堀内さんには悪いですが・・・・・」とネタにした事もある)でもある晋三が再登板後現在まで長期政権を築いている2017年現在は逆に右傾化していて、勿論良い傾向なんかじゃないけど、教師に嚙み付いた晋三も晋三でしたね。自分の意にそわない主張をされると時にはキレる悪癖もこの頃から変わっていないのだなあと改めて認識させられました。「祖父のDNAだけを要領よく引き継いだ。思想、思考が浅いまま政治家になり、若くして総理になったのが成長を止めてしまった。」とのある自民中堅議員の評も紹介されていましたが、稲田朋美とかも思想、思考が浅いのは同じだよね。まさに「類は友を呼ぶ」と言うか。

だから、政治家なんて大抵は功罪両面あるものですが、そうして祖父のやった事を全て無批判に受け止め、崇拝していた一方で勉学にはあまり力を入れていなかったのもさもありなんだったのかもしれない。結局大学まで成蹊で通した晋三、後の2012年自民政権与党復帰後に加筆した「美しい国へ」でも最終学歴を記したプロフィールを削除するほど学歴コンプレックスを持っていたのなら、もっと一生懸命勉強していれば良かったのに、と言うか、そう言えば最近ゴリ押しされている某イケメン俳優も出身大学を明かさなかったエピソードあったけど、成蹊はそんな事しなければいけないほど低偏差値な大学じゃないだろうに。そう言えば、先輩OBのギレン総帥も明日誕生日だな。

大学時代の晋三はサークルにあまりレベルが高くないであろうアーチェリー部を選択した等打算的な面もありましたが、コンパを楽しむ等そこら辺にいる学生らしい一面も強かった様だ。どうやらあまり将来へのビジョンとかはこの時の彼からは感じられませんでしたが、黙っていても時は過ぎていく。私が何回か話した事のある、ある保守系ブロガーの人も言ってましたが、やはり学歴はないよりはあった方が良い。祖父の岸から官僚になる事を進められても、一度も受験で進学した事すら無かった晋三には高すぎたハードルだったでしょう。大学卒業後、モラトリアムだったかどうか知らんけど、取りあえずアメリカの南カリフォルニア大学に留学した。しかし、間もなくホームシックにかかってしまった様で国際電話代が10万もかかったらしいけど、私だってスマホ代月7000か8000円だよ。しかも働いていないのにこれでは晋太郎が怒ったのも無理あるまい。

結局単位も満足に取得できず、父の所属する派閥のボスだった福田赳夫が今の所最初で最後な「総裁選での現役総裁の敗北」というまさかの「変な天の声」を聞いてしまった事情もあってか、現在不祥事で大変な事になっている神戸製鋼にコネ入社した。しかし、入社時期が中途半端だったこともあって、またアメリカ(ニューヨーク事務所)に戻る事になってしまったのは皮肉だったし、次に配属された加古川製鉄所では慣れない勤務体制や環境もあって病気でダウンとなってしまったけど、加古川もその次に配属された東京本社での勤務も彼にとっては楽しかった様だ。父の上司から大平正芳に政権交代となって、その大平も権力闘争で神経をすり減らしたのか80年の総選挙直前に急死したドラマもあって、晋三も加古川勤務時は週末には選挙応援させられた(と言うか、当時から神戸製鋼って週休二日だったの?だけど)事もあったけど、大きな商談も任されていた様だし、このまま神戸製鋼勤務のサラリーマンとして過ごしていた方が彼にとっては幸福だった気もしてならないです。

しかし、既にこの頃から腸に持病を抱えていた様だけど、そんな充実した日々も長くは続かなかった。大平急死後、同じ宏池会の鈴木善幸が総理となったけど、残念ながら鈴木も闇将軍、田中角栄に祭り上げられた神輿に過ぎず、特に外交面での失策が目立った(近隣諸国条項も配慮し過ぎだった感は否めない。今から見れば鈴木政権の誕生は自民ハト派衰退の前兆だった気がしてならないが、だからと言って新しい歴史教科書をつくる会の教科書にも私は否定的である)けど、総裁選出馬断念も余儀なくされ、次に登板したのは、晴れて陣笠議員になったばかりで、嵐の櫻井翔とも慶応の同窓だった孫もこの頃生まれたけど、後に加計学園問題で晋三に喧嘩を売る事になる前川喜平とも親戚(息子の弘文の妻が喜平の妹)になったばかりの中曽根康弘だった。

清和政策研究会のボスだった赳夫はまだまだ元気ながらも、晋太郎も「田中曽根」新内閣の外務大臣に就任したという事で、晋三に会社を辞めて秘書官になる様命じるも、すぐ受け入れられなかったのは当然だったでしょう。しかし、元総理の孫、外務大臣の次男坊というサラブレッドだから会社も穏便に辞めてもらおうと大騒ぎだった様で、ここらのくだりも生々しいものがありましたね。また、何をすべきか分からなかった事もあってか、前職場にロッカー整理に行く事も最初はあった等まだ未練も残していたのも伺えた様なでしたが・・・・・・・長くなりすぎたので何回かにに分けて、今回はここで区切ります。

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2014/08/30

自民幹事長交代は吉と出るか

http://news.nifty.com/cs/domestic/governmentdetail/kyodo-2014083001001240/1.htm

高市氏が石破幹事長をけん制

2014年8月30日(土)11時3分配信 共同通信

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 自民党の高市早苗政調会長は30日の読売テレビ番組で、安全保障政策をめぐる安倍晋三首相との隔たりを理由に、内閣改造での安保法制担当相就任を辞退した石破茂幹事長をけん制した。集団的自衛権行使を容認する7月の閣議決定などについて「党内で議論して決めた。公明党とも議論した。決めたことに従うのは鉄則だ」と述べた。

 自民党の平沢勝栄政調会長代理はTBS番組で、石破氏が安保相以外での入閣を受諾する意向であることに関し「人事権は首相の専権だから、石破氏が従うと言ったのはよかった」と評価した。

そう言えば、この高市政調会長も、原発事故に関しても舌禍事件起こしていましたけど、「噂の真相」では佐高信に「過去の歴史を直視しない高市早苗は中曽根康弘と同じだ。彼の養女にでもなって中曽根早苗と名乗れば良い。」というような批判もされてましたね。(苦笑)まあ佐高氏も左寄りだし、これら一連の批判などはいくつか差し引いて考える必要もありますが、氏から批判されていた当時から変わってないなあですね。

自民党の幹部って、副総裁がナンバー2と思いきや、空席期間も珍しくなく、経験者で総理大臣になったのは「平成おじさん」故・小渕恵三だけらしく、幹事長が実質的なナンバー2らしいですが、この幹事長も、三木武夫・福田赳夫・田中角栄、そしてやはり「噂の真相」でも売春疑惑の記事(今は亡き倅の悪行も書かれていた)も私はリアルタイムで目にしましたが、森喜朗一旦退任したあと再就任してさらに総理大臣になった例もいくつもあるのですね。

だから単純に見れば、石破茂もまだ総理就任へのチャンスはあるだろうし、取り敢えず一応妥協したのは賢明な判断だったでしょうが、周囲からは入閣するなとか言われていたらしく、その勢力は侮れない(総理にふさわしい器か否かは微妙かもしれないけど)だろうし、変に石破サイドを刺激するような事は言わない方がいいのではです。何だか、70人以上も死者が出てしまった広島土砂災害事件をめぐる安倍総理への対応(そんな拙くはなかったとも思うけど、もう夏休みももう少しで終わりだったし、自分だったらまた別荘に戻りたいとかは思わないけど)に対する批判も子供じみた揚げ足取りでしたが、野党がだらしない(共産党の支持率が伸びているとは言っても、自民の暴走を抑える圧力団体としてはともかく、政権を取って欲しいとは残念ながら思えない。それでも野党の中では一番マシなのだけど)だけについつい口が軽くなっちゃっているのですかな?「アイヌはいない」、ウケ狙い発言した某市議とかもそうだけど。(まあこの人も、右翼・保守的でも櫻井よし子や田母神俊雄のような信念とかはない人なんだと言うのは、最初顔一目見ただけで分かったから、発言撤回しようがしまいが自分にとっては半ばどーでもいい事だけど)

いずれにせよ、今回の内閣改造で私が自民及び安部総理への支持に転換する事はまずないですが、良くも悪くも注目されますね。本当の意味で、自民に政策論議等で勝てる政党が出てくれば日本はもっと良い国になっていくのですが・・・・・・・・

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2014/03/17

もはやアメリカに対して失望すらもできない立場?

そう言えば中道右派な「文藝春秋」でも、この官房長官の尤もらしい弁が掲載(確か2014年1月号でした。)されていましたが、安倍総理の靖国参拝同様「あれは一体何だったんだ。」でしたよね。靖国参拝なんて結局戦前の日本を何でも美化したい右翼(ネトウヨも含む)や保守の人達を一時的に喜ばせただけじゃん。だから私は、参拝自体は決して間違った事ではないと認識しながらも最初から賞賛ムードには「待てよ?」「それはちょっと違うのでは?」だったのです。まあ3年以上も下野していれば少しは反省したかなあと思ってましたが、これじゃアメリカに対して失望すら出来ないでしょう。首脳会談の椅子に着かせるために一時的にご機嫌を取っているというつもりならばまた話は別ですが。

まあ去年の参議院選挙でも自民には票を入れなかったし、来年行われるであろう衆議院総選挙でも、こういう弱腰外交があろうがなかろうが(たとえそれが前述した通りの意図故だとしても)元々票を入れるつもりはなかったけど、こりゃ「政権を取って欲しいという意味ではなく、永久野党として自民党を慢心させず、ある程度の存在感を発揮して欲しいという意味」で共産党にでも入れるしかないかもですね。まあこの先の人生でも自民及び自民の支援を受けた政治家に票を入れる事もないかもです。過去ログでも言ったように、もう少し静観してみる態度に変わりはありませんが・・・・・・・・

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140317-00000060-mai-pol

<河野談話>菅官房長官「韓国大統領の発言歓迎」

毎日新聞 3月17日(月)18時54分配信   

 菅義偉官房長官は17日の参院内閣委員会で、安倍晋三首相が従軍慰安婦への旧日本軍の関与を認めて謝罪した「河野談話」の継承を国会で表明したことに関連し「(韓国の朴槿恵<パク・クネ>大統領の)『幸いである』という発言をわが国政府としても歓迎したい」と述べた。24日からオランダ・ハーグで開かれる核安全保障サミットに合わせた日米韓3カ国首脳会談の見通しは明言しなかった。民主党の芝博一氏への答弁。

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