歴史

2017/11/11

野上忠興氏著「安倍晋三 沈黙の仮面」感想その1

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トランプ大統領の訪日で、松山英樹氏(まあご本人は楽しんでいた様だから、それならもう彼については私などがとやかく言う事ではないけど)やピコ太郎氏も政治利用して日米同盟をアピールしていたかと思いきや、過剰なゴマすり等正直「?」だった安倍総理ですが、取材に基づいて彼の半生を描いた「安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの秘密」を読んだので感想を残します。(感想文中は敬称略)

父の安倍晋太郎は出生時は毎日新聞記者だったのが、岳父・岸信介の秘書を経て、国政デビューしていた事情で、晋三は両親と親子らしい触れ合いを過ごした機会はあまりなく、お手伝いさんだった久保ウメが母親代わりでよく甘えていた様ですが、加えて、晋太郎の国政デビュー直前に石橋湛山との総裁選で僅差で敗れたばかりだったが、病気による退陣で、総理になった岸がアイゼンハワーとの間で調印した安保条約に対する世間の強い風当たりが決定的な人格・思想形成の基となってしまった様です。

アメリカに対する過剰な追従(昨年末の稲田前防衛大臣の靖国参拝も「ノーコメントは無いだろ」だったし)も改めて理解できると言うか、家庭の事情で、猶更自分の世界に占める割合が大きかった祖父の成し遂げた「偉業」を否定されて反発した気持ちも分からなくはないのですが、さらに最近まで外務副大臣を務めていた弟の信夫が伯父の信和の養子となっていたのもそうした人格の屈折に拍車を欠けてしまった様だ。

勿論晋三本人もそうした自身の中にあった歪みをどう乗り越えるか全く考えていなかったわけでもなく、早くから政治家への道を志していた様だ。後に共に北朝鮮問題で注目された平沢勝栄とも早くから接点(家庭教師を務めていた)あったのも初めて知った話でしたが、晋三は祖父母または両親からそうした政治的思想の影響もうけても、自分なりに色々知識も吸収して、視野を広げた上で、歴史認識も含む自分なりの国家観とか形成していった・・・・・・・わけでは残念ながらなかった様です。

いくら当時ベトナム戦争も泥沼化していて、反戦の気運が強かったとはいえ、教師が学校の教育で反安保とか自分の偏った思想を生徒達に押し付けていたのも異常に見えました。一次政権は2年で終わったのが、数年後に再登板して第四次黄金期を築いた巨人の原辰徳とも重なり合うものもあると言うか、実はヤクルトファンのアンチ巨人(参議院議員を務めていた堀内恒夫の前でも「堀内さんには悪いですが・・・・・」とネタにした事もある)でもある晋三が再登板後現在まで長期政権を築いている2017年現在は逆に右傾化していて、勿論良い傾向なんかじゃないけど、教師に嚙み付いた晋三も晋三でしたね。自分の意にそわない主張をされると時にはキレる悪癖もこの頃から変わっていないのだなあと改めて認識させられました。「祖父のDNAだけを要領よく引き継いだ。思想、思考が浅いまま政治家になり、若くして総理になったのが成長を止めてしまった。」とのある自民中堅議員の評も紹介されていましたが、稲田朋美とかも思想、思考が浅いのは同じだよね。まさに「類は友を呼ぶ」と言うか。

だから、政治家なんて大抵は功罪両面あるものですが、そうして祖父のやった事を全て無批判に受け止め、崇拝していた一方で勉学にはあまり力を入れていなかったのもさもありなんだったのかもしれない。結局大学まで成蹊で通した晋三、後の2012年自民政権与党復帰後に加筆した「美しい国へ」でも最終学歴を記したプロフィールを削除するほど学歴コンプレックスを持っていたのなら、もっと一生懸命勉強していれば良かったのに、と言うか、そう言えば最近ゴリ押しされている某イケメン俳優も出身大学を明かさなかったエピソードあったけど、成蹊はそんな事しなければいけないほど低偏差値な大学じゃないだろうに。そう言えば、先輩OBのギレン総帥も明日誕生日だな。

大学時代の晋三はサークルにあまりレベルが高くないであろうアーチェリー部を選択した等打算的な面もありましたが、コンパを楽しむ等そこら辺にいる学生らしい一面も強かった様だ。どうやらあまり将来へのビジョンとかはこの時の彼からは感じられませんでしたが、黙っていても時は過ぎていく。私が何回か話した事のある、ある保守系ブロガーの人も言ってましたが、やはり学歴はないよりはあった方が良い。祖父の岸から官僚になる事を進められても、一度も受験で進学した事すら無かった晋三には高すぎたハードルだったでしょう。大学卒業後、モラトリアムだったかどうか知らんけど、取りあえずアメリカの南カリフォルニア大学に留学した。しかし、間もなくホームシックにかかってしまった様で国際電話代が10万もかかったらしいけど、私だってスマホ代月7000か8000円だよ。しかも働いていないのにこれでは晋太郎が怒ったのも無理あるまい。

結局単位も満足に取得できず、父の所属する派閥のボスだった福田赳夫が今の所最初で最後な「総裁選での現役総裁の敗北」というまさかの「変な天の声」を聞いてしまった事情もあってか、現在不祥事で大変な事になっている神戸製鋼にコネ入社した。しかし、入社時期が中途半端だったこともあって、またアメリカ(ニューヨーク事務所)に戻る事になってしまったのは皮肉だったし、次に配属された加古川製鉄所では慣れない勤務体制や環境もあって病気でダウンとなってしまったけど、加古川もその次に配属された東京本社での勤務も彼にとっては楽しかった様だ。父の上司から大平正芳に政権交代となって、その大平も権力闘争で神経をすり減らしたのか80年の総選挙直前に急死したドラマもあって、晋三も加古川勤務時は週末には選挙応援させられた(と言うか、当時から神戸製鋼って週休二日だったの?だけど)事もあったけど、大きな商談も任されていた様だし、このまま神戸製鋼勤務のサラリーマンとして過ごしていた方が彼にとっては幸福だった気もしてならないです。

しかし、既にこの頃から腸に持病を抱えていた様だけど、そんな充実した日々も長くは続かなかった。大平急死後、同じ宏池会の鈴木善幸が総理となったけど、残念ながら鈴木も闇将軍、田中角栄に祭り上げられた神輿に過ぎず、特に外交面での失策が目立った(近隣諸国条項も配慮し過ぎだった感は否めない。今から見れば鈴木政権の誕生は自民ハト派衰退の前兆だった気がしてならないが、だからと言って新しい歴史教科書をつくる会の教科書にも私は否定的である)けど、総裁選出馬断念も余儀なくされ、次に登板したのは、晴れて陣笠議員になったばかりで、嵐の櫻井翔とも慶応の同窓だった孫もこの頃生まれたけど、後に加計学園問題で晋三に喧嘩を売る事になる前川喜平とも親戚(息子の弘文の妻が喜平の妹)になったばかりの中曽根康弘だった。

清和政策研究会のボスだった赳夫はまだまだ元気ながらも、晋太郎も「田中曽根」新内閣の外務大臣に就任したという事で、晋三に会社を辞めて秘書官になる様命じるも、すぐ受け入れられなかったのは当然だったでしょう。しかし、元総理の孫、外務大臣の次男坊というサラブレッドだから会社も穏便に辞めてもらおうと大騒ぎだった様で、ここらのくだりも生々しいものがありましたね。また、何をすべきか分からなかった事もあってか、前職場にロッカー整理に行く事も最初はあった等まだ未練も残していたのも伺えた様なでしたが・・・・・・・長くなりすぎたので何回かにに分けて、今回はここで区切ります。

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2017/08/15

72年目の終戦の日×産経新聞の中国ヘイト記事×マクロン大統領の支持率低下

https://twitter.com/furukawa1917

このツイッターの主である古川氏(furukawa1917)、某巨大掲示板にも個人スレが立っているほどの有名人(?)な様ですが、確かに西洋思想を過大評価しているきらいとか否めないながらも度々定期的にツイートチェックしています。だって、私と思想的に違う面も目立ちますが、主張には独特のユーモアみたいなのも感じられて普通に面白い事言ってるから。

その古川氏の最近のツイートで特に引いたのは「一応、日本も八紘一宇やアジア植民地の解放といった日本なりのプロパガンダをおこなっていたとは思うが、せいぜい国内向けの効果しかないもので、蒋介石や毛沢東や北ベトナムのプロパガンダに比べれば児戯に等しい。しかも自分のプロパガンダに自分が騙されている。こんなんじゃ次の戦争も絶対負けるな」ですね。今日で今年も終戦の日を迎えて、産経新聞では野口裕之氏が習近平国家主席の先月末の視察もバカにしたヘイト記事書いていて、この人もネットでも一部良識ある人達から批判されていますが・・・・・・・・・・・・確かに特亜三国ともどうしようもない国ですが、それらとの確執にも囚われ右傾化、偏狭な愛国心にも走っている昨今の日本人の歪で、過去の失敗からも学ぼうとしていない歴史認識を鋭く突いたツイートだったと思います。

http://www.sankei.com/premium/news/170814/prm1708140006-n1.html

これがそのヘイト記事で、長征を散々逃げ回ったとバカにしたり、日中戦争で日本は優勢だったとか言ってて、前にもこのブログでも言ったけど・・・・・・・・確かにまた、中共はかっての日本軍以上の侵略者になっていて、政治体制が変わっても、環境問題とか国内の問題をおざなりにしたまた同じ事(つまりは自分達が偉大な民族だと錯覚、妄想して外征等に血道をあげる事)しかしようとしないこの国や国民も不幸で、一体いつになったら変われるのかなあです。ホントに最近「いつから中国人ってこんなダメになったんだろ?」って自問自答せずにもいられないのだもの。

野田聖子氏も靖国参拝しないとかは勝手でも、南シナ海の問題は日本には関係ないってそんなわけないだろーー!!困った事に近年女性政治家達のダメっぷりが目立つ世界のいくつかの主要国の中でも日本は群を抜いていて、もっと酷いのが何人(今井氏や某エリカ様なんか政治家になったのがそもそもの間違いだと言えるし。今井氏については、お仲間の上原氏の方がもっと悪質だけど)もいるから野田氏も全然マシには見えます(でも、総理にはなってほしくない)が・・・・・・・・・日中戦争なんてホントに日本軍が勝ってたのなんて1938年秋に武漢三鎮を落とした時まででしょ。確かに日本軍と正面切って戦ったのは主に国民党軍で、それも日本軍が勝った戦いの方が多かった。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1334079388

しかし、日本軍は中国大陸ではその様に終戦間際まで精強だった一方、官僚主義の悪弊にどっぷりはまっていた。東条英機が開戦時の総理大臣になってしまったのもそれを象徴していた(彼も日米開戦を煽ったり、公私混同甚だしい等褒められないエピソードも見られて、東京裁判の問題性も無視しないけど、死刑になるほどまでの悪人ではなかったでしょう)けど、彼ら官僚って学校での狭い意味でのお勉強は凄い出来るけど、現状認識・把握やビジョンの策定は凄い下手。だから中国大陸でも勝った戦い自体は多かったながらも自分達の目的が何なのか、どういう見通しを立てれば無駄な労力を使わないで達成できるのか、分かっていたつもりで分かってなかったじゃないですか。野口氏はまた別の記事でも大陸打通作戦の成功と毛沢東の持久戦論の誤り(しかし、実際は少なくとも華北については正しかった。別に私は毛沢東主義者とかでは決してないけど、政治家としては残念ながら無能認定は免れないが、革命家・戦略家としてはやはり彼は卓越していた。レーニンみたいに建国後数年で死んでれば良かったよね)をどや顔で強調していて、前者については上記yahoo知恵袋のベストアンサーみたいに「太平洋で勝っても中国で負けたら戦争自体が負け」と明言した上で評価する意見もあって、私も意見は違いながらも一理あるとも思いますが、結局は結果論だけど、日本の降伏が僅かに先延ばしになっただけじゃないの?で、作戦そのものを中止しような意見も出たのですが、まあ右寄りの人達って自分に都合の悪い事実はスルー(その最たる例が1943年5月の御前会議で決められたあの「方針」)という悪癖があるから当然野口氏も触れるわけがない。

逃げ回っていたとバカにしていた中共や毛沢東も、確かに前者が戦争が起きる様煽って、後者が「7割は勢力拡大、2割は妥協、1割は日本軍と戦う事にエネルギーを使え」という様な事を言ったのも事実です。南京陥落も喜んで祝杯を挙げたほどだったのも、「さもありなん」でしょう。しかし、ドイツの伍長閣下もオーストリアとスデーテンで満足しておけば良かったのについにポーランドまでせめて、ナポレオンの失敗にも学ばなかったからああいう周知の通りの最期を迎える事となったけど、伊丹万作が「戦争責任者の問題」(「騙す者と騙される者双方がいなければ戦争は起こらない」とか)でも言った通り、満州(なお、リットン調査団は中華民国の満州領有も認めていなかった)を守る為だとか尤もらしい理由つけて、石原莞爾の制止も聞かないで熱河や内モンゴルまで侵略した挙句、中共に乗せられて、逃げ回っていた筈のその中共にいつの間に国そのものを乗っ取る力まで蓄えさせてしまった日本軍も何だったのだろうか?どれだけお前ら間抜けだったの?ですけどね。勿論あのまま国民党が大陸支配を維持していたとして中共みたいに反日に走る可能性がないとまでは言わないけど。

実際は日本は少なくとも中国にあの戦争で勝っていたわけでない。朝鮮統治も赤字で、明治維新に成功しても、本来海外領土はせいぜい台湾と南洋諸島程度しか領有できない程度の国力だったから当然と言えば当然だったのだけど、5ラウンドあたりで判定勝ちしたに過ぎない日露戦争の勝利の意味(東郷平八郎だって晩年は老害と化していたし)を30年以上も勘違いし続けた結果、中国すら屈服させられなかった有様なまま太平洋で利権争い(単純な侵略とは違う)をせざるを得なくなって、あの当時から見ても冷静に見れば勝てる筈がなかったアメリカに挑戦して敗戦に追い込まれた。故・江藤淳氏とか右寄りの人達がしきりに強調しているウォーギルトインフォメーションプログラムもその存在自体や今日まで及ぼしている悪弊も否定しないです。日教組もその一つで、例えば自衛隊の子いじめなどはどー見ても擁護できる事ではないです。しかし、限度はあれど、占領者が占領地や被占領者を自分達の都合の良い様に作り変えるのは彼らから見れば当然の権利でしょ?

ましてやあの当時前大統領のルーズベルトが容共過ぎて、ソ連が東欧にも勢力圏を伸ばしていたし、これが分割(厳密には実際の占領時代も全くの単独統治ではなかったらしいが、実際日本分割案もあった)またはソ連の単独統治だったらもっと日本は悲惨な目に遭ってたんじゃないの?だからと言って全てアメリカ・GHQや特亜、GHQが生み出した同胞左翼が全て悪い!!美しい国に住む俺達美しい日本人は悪くないなんて単純すぎるでしょ?

そもそもまた、石橋湛山がアメリカやGHQにもハッキリ物申して、当時の国民からも支持されてた(さらにそれ故の公職追放からの復帰後も、政府でも支持基盤があったから首相にまでなったが、短命政権に終わったのは惜しまれる)なんてのもスルーなんだろうねだけど、日本人って、別に中国の文革の様な事までされたわけじゃなかったのに日中戦争で逃げ回ってたばかりだった筈の中共天下取りもアシストしただけじゃなくて、そんな10年にも満たない占領政策で骨の髄まで改造される様な阿保でノータリンなのかよと。そんなわけないでしょ。確かに失敗点もあったけど、そんな長いものには何でも巻かれる様な単純阿保とかだったら、トルコとか外国にもお手本にされる様な明治維新だって成功しなかったんじゃないの?他の多くのアジア・アフリカ諸国みたいに欧米列強の植民地にされてたんじゃないの?

勿論いつまでも謝り続けるのも卑屈だし、靖国・慰安婦問題とか日本人でありながら自国を貶める様な事をするマスコミや文化人達もいるのも事実だけど、GHQの洗脳「だけで」そういう事するに至った思想持つのかよと。ネトウヨも当然含むウヨが一番過去に囚われていて、一番自虐史観に毒されてるじゃん。5000歩譲ってそういう「GHQ極悪論」とかウヨ達の言い分通りだとして、私から見れば彼らウヨ達の存在自体、日本のサヨが特有のダメな点をも克服しないまま今日まで至ってきた反動故の二次発生品だもの。日本のサヨもダメだけど、特にGHQガー、洗脳ガーとか言っているウヨはもっとダメですよ。他にも在日特権とかアインシュタインの日本擁護とか嘘はつくわ、某庭球ギャグ漫画のライバルキャラみたいに某元アムステルダム市長とかの名前もマトモに覚えられないわとあんたらが死ぬほど嫌いな中国・韓国人(彼らにしたって全員がガチ反日なわけでもないだろうけど)や朝日・毎日等「反日」マスコミと何が違うのですか。バイアスの程度の差こそあれど、やってる事大して変わらないじゃん。被害者コスプレもしてるじゃん。美しい国とか過ちも犯した事のない偉大な民族とか妄想ファンタジーもしてるじゃん。つまりブーメランじゃん。

産経新聞やケント・ギルバート氏等の一部ウヨ論者もネトウヨにも媚びた様な主張もして、負の連鎖で劣化してきているのですが、何度も言う通り、洗脳の存在そのものやその悪弊を否定しているわけじゃないです。しかし、そういう話を聞けば聞くほど、「もっと複雑な話なんじゃないの?結局は自分達の不満を、自分達が気に入らない連中のせいにして、そこで半ば思考停止してるんじゃないの?自分達もダメだった点も探すよりそうして他人のせいにした方が楽だものね。」と言うか、「ホントにそれで良いのか?」な疑問が大きくなるばかりで、例えば日教組の組織率が40年強連続で低下しているのもご存じなのかい?でもあるけど、そんな過剰な被害者意識(があると私からは見える)で、そういうGHQが残した負の遺産を克服できるとは正直私には思えない。結局はまたそこから新たな歪みが生じてそれ故のジレンマにこれからの日本人が苦しめられるだけじゃないのか?ですが、もう一つ克服しなければいけない大きな悪弊はそういう勝率の高さの割には中国をも屈服させられなかった要因の一つである官僚主義も間違いなくそうで、現在の安倍政権下閣僚達の問題言動や事なかれも生まなくても良かった悲劇を産んでしまういじめ事件とかからでも覗える様に、あの戦争で散々痛い目に遭った筈なのに残念ながら・・・・・なのです。

http://www.sankei.com/world/news/170807/wor1708070034-n1.html
マクロン仏大統領、人気失速…支持率36%、不支持49%に 選出から3カ月「蜜月は終了」

 

 

フランスのマクロン大統領=3日、モワッソン(ロイター)

 【ベルリン=宮下日出男】フランスのマクロン大統領の支持率低下が目立ってきた。財政立て直しのための歳出削減のほか、権威主義的と批判された振る舞いが人気失速の背景にあるとされる。大統領選出から7日で3カ月。「ハネムーン期間は終了」(仏メディア)し、国内改革の実行に向け、試練はこれからだ。

 3日に仏メディアが伝えた世論調査では、マクロン氏の支持率は36%と7月から7ポイント減り、不支持が49%で上回った。7月下旬に公表された大手調査会社の支持率も6月から10ポイント減の54%。就任から同時期の比較では人気低迷に悩んだオランド前大統領を下回った。

 マクロン氏は就任直後から米露首脳と渡り合い、外交で存在感をアピール。6月の国民議会(下院)選では新党「共和国前進」を率いて政権基盤の構築にも成功した。これを弾みに国内の課題への取り組みに本腰を入れたものの、反発も強まってきた形だ。

 政府は財政赤字を国内総生産(GDP)比3%以内とする欧州連合(EU)のルールを守るため、今年予算で45億ユーロ(約5900億円)の追加の歳出削減を表明。今年秋から住宅補助を減額する方針も決め、影響を受ける学生や低所得者層から批判が上がっている。マクロン氏は国防費削減に異議を唱えた軍統合参謀総長に「私がボスだ」と発言し、総長が抗議で辞任。7月14日の革命記念日の恒例インタビューを控えるなど、マクロン氏がメディアと距離をとるのは権威を保つためとされるが、「権威への欲求は独裁と紙一重」(仏紙フィガロ)とたしなめる意見も出ている。

 経済再生に向けた重要課題の労働規制緩和では、議会承認なしに政令で行うことを上下両院が承認。政府は労使との交渉に入り、月内にも具体案を示す。マクロン氏は雇用・解雇の条件の柔軟化を目指すが、一部労組はすでに抗議デモも計画しており、強硬姿勢をとれば、国内の反発が高まる可能性もある。

そして話は変わるけど、これはその古川氏のツィッターから目にしたニュースだけど、「ああやっぱり」ですね。国民議会で議席過半数取ったまでは良くて、コアビタシオンになるだろうな私の予想は外れた事もこの場で強調させていただきますが、それで却って「国民の支持を得たんだから、大統領な俺が思い通りの政策何やっても良いだろ!!」とか能力不相応に勘違いしちゃっている様ですね。確かに戦前・戦中日本の、明治憲法の不備からも生じた今なおその不幸の痕跡が消えない軍部の暴走を見ても文民統制も大事で、マクロン大統領はその最高責任者、最高司令官でもありますが、だからと言って頭ごなしにどやしても制服組が納得するはずがない。まだ就任してから3ヶ月少しだから評価するには早いでしょうが、理想を語るのは上手いけど、統合調整能力は無いよね。この人って。

戦前・戦中の日本もそういうのが出来る政治家がいなくなってしまった(孫も彼の悪い点を受け継いでしまって、さらに某都知事であるその部下も・・・・・だけど、太平洋戦争直前に近衛文麿が当時の明治憲法では大臣の任免権も事実上なかった総理大臣になってしまったのも大きな不幸の一つだった)けど、それだって普通に強く求められる能力でしょう。所属政党も何だか民進党みたいに思想の違う人達が集まっていて、分裂の危険性も孕んでいる感もしますが、結局この人はこれも制度疲労甚だしいのであろうEUと一般国民や野党、党内での板挟みにあって、思ったほどやりたい事がやれない5年間になってしまうのではないだろうか?かって存在した中道政党、フランス民主連合もせいぜい30年弱しか持たず、現存する他の既存政党も民主運動も急進党も勢力は弱いらしいけど、民主連合と同じ様な末路を辿るのか?ましてやフランスってフランス革命から普仏戦争敗北まで目まぐるしく政体変わった事もあったし、まあ評価は早いと言ったけど、今のままではマクロン氏も現役大統領としてパリオリンピックを迎えられる可能性は低いでしょう。目新しさにも安易に惹かれて、過度の期待を持つ事も大きなリスクがあるとも改めて認識させられたけど、そういう意味では今度の茨城県知事選挙も長期政権の弊害もあるだろうけど、やはり橋本氏の7選となるか?いずれにせよ、過度の罪悪感から歴史に対して卑屈にならない様に戒めながら、これから頑張り次第でもっと明るい未来を作れるきっかけになればです。今年の、この戦後72年の終戦の日も。

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2017/08/13

足利尊氏・義詮・義満の子孫って今いるの?

http://sky.geocities.jp/awashimainjin/newpage58.html

https://2ch.live/cache/view/sengoku/1156769019

足利将軍では最も知名度が低い将軍であろう14代義栄、歴史に強い興味がない人には何もできない内に若くして死んだ傀儡将軍程度(特に中国の古典に詳しい読書家だったらしいが、入京すら出来なかった)の認識しかないだろうけど、もっと知名度が低いであろう弟の義助の子孫が代々平島公方として江戸時代後期に京都に出奔するまで続いたのも知っている人は知っていると思います。

上の方のHPでも系図も掲載されているけど、足利歴代将軍が最後の義昭ですらやっと60生きたか生きなかったかに対して歴代の平島公方家当主は概してこの時代にしてはかなり長生きです。義孝は生没年分からない(初代義冬から数えて11代目に数えられているので、少なくとも息子の義廉も生まれて、父の義俊が亡くなった1876年までは生きていたと思われる。生年は1820~30年代頃か?)けど、明治維新を迎えるまでの歴代当主で、4代続きの義次~義武までを含めて80代まで生きた人が5人もいます。徳川征夷大将軍の家康慶喜をも凌ぐ長寿ぶりです。

明治維新後も義廉は97歳(または96歳)まで生きていた様で、正直つい最近知った事ですが・・・・・・・・・既に10年以上前に某巨大掲示板の日本史板でもちょっとした論争になっていたらしいけど、その次の進悟氏は実は実子ではなく、婿養子で、しかも離婚してそのまた次の義弘氏は足利氏じゃない別の再婚した女性との間に生まれた人らしい。つまりは事実上平島公方家は乗っ取られた形になってしまったという事ですが、これホントなのですかね?だって、大河ドラマ「太平記」が放送された時も最後のゆかりの名所紹介コーナーで当時まだ存命だった進悟氏も出ていたじゃない。まあ先祖ゆかりの地でもある京都に在住していた事もあったのだろうけど、ホントにそうだとしたら、こちらも幕末に徳川斉昭の血筋となってしまったけど、維新後爵位も貰って足利に復した喜連川系から見たら「同じ養子筋でも俺達の方が格上、本家なのに離婚してもう足利と縁切った筈な奴なんかがどうして尊氏公の子孫面しているの?」とか思うよね?

まあこの喜連川系も先代当主の惇氏は当時既に故人で、その次の現当主、公平か浩平か?この人も名前すらハッキリしないけど、細川家からの養子?ソースは「花の乱」らしいけど、細川家と言っても色々な一族あって、一番栄えた和泉守護系からでも例えば熊本藩主家だけでなく、常陸谷田部藩主家とか何家もさらに出ているし、惇氏には3人の弟がいて、その1人の尚麿が他家に養子に行ったらしいけど、彼が細川一族の養子(実際江戸時代にも細川家からも養子を迎えた例が何例かあった)となって、公平氏は尚麿の息子なのか?他にいた4人の妹達はいずれも他家に嫁いだらしいし・・・・・・もしホントに義弘氏が血縁者じゃなかったとすれば現在も健在であろう尊氏らの子孫って宮原家、小田家(13代当主政治が堀越公方政知の子とされるが一族が結城松平家に仕えたという)、佐々家(丸亀藩家老、12代将軍義晴の娘が嫁いだ若狭武田氏の子孫とされる)ぐらいか?室町幕府初期に複雑でカオスだった観応の擾乱があった為か将軍家の庶子は基本出家させられていて、実際義教や義澄、義昭等歴代将軍及びその近親者にも還俗した人何人もいたけど、出家させなかったらさせなかったでもっと争いの種が出来ていたかもしれないからつくづく難しいね。

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2017/06/20

百人一首の歌人達(21)-2番持統天皇

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20170620-00000873-fnn-soci
眞子さま、7月8日に婚約内定発表

フジテレビ系(FNN) 6/20(火) 18:11配信

秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さま(25)と大学時代の同級生・小室 圭さん(25)との婚約内定が、7月8日に発表されることになった。
宮内庁によると、眞子さまと小室 圭さんとの婚約内定は、7月8日に発表され、午後に、お2人そろっての記者会見が予定されているという。
眞子さまは、6月8日にブータンから帰国後、小室さんと母親をお住まいの宮邸に招いて、発表に向けた日取りを調整し、小室さんの仕事に支障のない、7月8日の土曜日に決まったという。
小室さんの近況について、幼少期の小室さんのバイオリンの先生は、「(6月初めに)お母さんと圭さんと2人で、演奏会を聴きに来てくださって。忙しい中、お時間作っていらしてくださって、本当に感激しました」と明かした。
今後は、12年前に結婚した黒田清子さんの例を参考にしながら、2018年の結婚式に向けて、準備が進められる。

「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」(2番持統天皇)

一昨年、「天上の虹」もついに完結したらしく、私なんかが今さら取り上げる様な人物ではないけど、約3か月ぶりのこのシリーズ第21弾は2番・持統天皇です。天智天皇(中大兄皇子)とは親子で百人一首では1・2番手ですが、その政治的業績とかとはかけ離れた、季節の移り変わりを女性ならではの感性で感慨深げに噛み締めた様な歌ですね。

この人は特に結果論からその人間性とか語られがちな印象がありますが、それだけに果たしてホントに伝記漫画(集英社や小学館等の各種学習漫画、それに石ノ森章太郎先生の「マンガ日本の歴史」等)で描かれた様な人だったのか、改めて疑問にも感じます。

ネットでも色々博識な人達にも語られていて、平安初期までは皇位継承の際には血統が重要視されて、母親の身分が高くないと天皇になるのは困難でしたが、自分が産んだたった一人の男子だった草壁皇子が早世しても、その他の天武天皇と自分の姉妹との間の皇子達が皆まだ天皇になるには若かった(生母は鎌足の娘だったけど、新田部皇子にいたっては10歳にも満たなかったと思われる)のがこの人にとっては一番ラッキーだったでしょうね。

そういう意味ではまた、「天武=天智の異父兄説(622年生まれ)」も自分もその可能性はあるとも思いますが、少々怪しいかも?ホントにそうだとして、天武天皇は用明天皇の曽孫で、れっきとした皇位経験者(天皇号を初めて使用したのは推古天皇か天武かだと言われているので正確には語弊があるが)の男系子孫には変わりないのですが、622年生まれだと、中には生年不明の子女も何人かいるけど、十市皇女(649~53年頃生まれか)と高市以外は殆ど40前後になってから儲けた事になる。しかも母親(皇極・斉明天皇)だって皇位系経験者だったけど、この時代のサラブレッドにしては子供作るの遅いと言うか、やや不自然ですが、持統天皇はまた少なくとも独裁者ではなかったですよね。

他サイトでも指摘されていたけど、大津皇子を粛清したくだりも夫崩御直後だったという事もあったのだろうけど、他関係者への処罰も最小限に抑えていたし、既に自分の異母妹でもあった母親が皇族だった長屋王も生まれていた(潜在的な皇位継承の競争者となる可能性があり、実際その末路は周知の通りである)高市皇子も、異母弟の大友皇子の例に倣ったのか「皇太子ではないけど、皇太子に準ずるような」太政大臣にした。この高市皇子の最期も毒殺説とか指摘されていて、実際また毒殺されたと推測できる様な遺体も発見されていますが、持統天皇が実行犯だったという事は無いでしょう。実行犯は彼がいなくなって、持統天皇以上に得をした「誰かさん」でしょうが、まあこのエントリーを見ている人は誰なのかはもう察しが付くでしょう。

高市皇子薨去後も、葛野王が同じ壬申の乱の敗者側でもあったその「誰かさん」の入れ知恵で草壁遺児の軽皇子を推して、まあこのくだりも持統天皇が誰かさんにそういう話にもっていかせる様指示したか、誰かさんが高市暗殺前からシナリオ付けていて、持統天皇も了承済みだったのでしょうが、皇嗣選定会議で一応皇族達で話し合いさせて決めた形を取りました。まあ「兄弟継承より親子継承ならば葛野王が本来今頃天皇になっていた筈」なのですが、大友皇子(弘文天皇)はそもそも母親の身分も高くなかったし、即位していない説も根強く、即位したとみなされたのは大政奉還後だったので、それは野暮なツッコミなのかもしれません。

実際またです。BBの覚醒記録(以降BBと記述)というネトウヨ皇室ブログでは「どうして愛国保守のブロガー達はこの様な危機に際しても黙っているのだ」と声高に訴えていますが、もしこれがホントだとして・・・・・・・・・・その経歴は矛盾点のオンパレード(国立音大付属小学校に通っていたくせにバイオリンは小学校高学年までわざわざ横浜市港北区まで通いに行っていた、ICUでも三菱東京UFJでも入社式または入学式とかの様子や同級生や恩師達のコメント等が聞かれない、弁護士を目指しているけど、司法試験直前だったのに一人で記者会見に応じる、事務所のビルが開く時間すら知らない、母ちゃんとのツーショットまで写していた割に一橋大学院にも通学している様子が見られない、英語が堪能なくせにそれを裏づける好エピソードも聞かれず何故かレストランでさほど時給の高くないアルバイトしていた、祖父とされる男もホントに血縁者?ETC)で、父親が自殺したのは彼の責任ではないですが、よくもまあこんなに埃ばかり出てくるもんだと言うか・・・・・・・

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/2f24e517d70ea6cfdf50602b03016dee
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/7d9d82a303a1965943e481a3a0d550f5

日本人ですらない(イスラエルでは「キム」と報道されていた)可能性もある小室圭と眞子さまの婚約がついに7月8日に発表されるというニュースがついに報道された。良くてフリーター、下手すればニートかもしれないのに何故彼の都合に合わせて大安でもない土曜日に発表する?そう言えばヒトラーもラインラント進駐とか重要な政治・軍事活動は週末に実行する事が多かったですが、この言論テロかもしれない婚約報道も利用して女性宮家及び女系天皇を実現させようとする連中の言い分の一つとして、「天照大神は女性である。日本書紀でもそれを思わせる記述があるじゃないか。」との事ですが、この勝手に紹介させてもらったBBの最近のエントリーによれば、天照大神は実は男性で、女性としたのはその「誰かさん」が持統天皇が軽皇子成長まで待って即位して、天武皇統を、木本好信氏曰く持統・草壁皇統に変質した事を正当化する為だったという。天照大神は私も女性である印象が強かったけど、まあ既に噂の真相2002年2月号で、女系天皇の正当性の無さを説いた、ぐう正論な特集記事が発表された通りですが、その繁栄等を祈る宗教的祭祀な性格等男系子孫だけが皇位継承するのが日本が日本であるがための天皇制の本質であり、それは良いか悪いか、女性差別か否かの話では断じてないのです。

こうした神功皇后だけでなく、性別自体本来違う可能性が高い様である天照大神にも擬えていたあたりからも、持統・文武両天皇の政権基盤が必ずしも盤石ではなかった事が分かります。持統天皇は701年末に崩御し、死因は分からないながらも色々思い出があったであろう吉野行き直後の事だったあたり、71番経信同様高齢での遠方への移動が身体にこたえたのでしょうが・・・・・・・・・・

実際草壁の男系子孫達は皆病弱でもあり、以降の女性天皇達は「皇后になった事がない初めての女性天皇」、「母から継承した、初めての未婚女性天皇」、「男系子孫な弟(彼も誰かさんの孫に毒殺された説もあり)を差し置いて初めて女性皇太子(誰かさんの娘な母も初めての人臣皇后)になってから即位した女性天皇」と色々無理しすぎて、その皇統の末路も周知の通りですが、これも結果論だけど、自分達を正当化する為にやった事が、ついに天智系に皇統が戻ってしまった5.60年後にとどまらず、1300年近く経った、少子高齢化という壁にも直面している現実も無視できない現代においても良くない誤解、解釈を生んでいるのだからつくづく罪な御方でもありましたね。その「誰かさん」って。

悠仁さま世代の男性皇族では悠仁さましかいないのもまた事実で、持統・草壁皇統末期に、誰かさんの一族の勝手な都合で結婚・出産等女性としての幸福を奪われた反動もあってか権力に固執した称徳天皇と道鏡が登場して以来の皇室の危機を迎えていると言っても過言ではないかもしれません。元々皇籍離脱も、日本があの愚かな戦争に進む道を開いてしまった為政者達に利用されてしまった天皇ら皇族をGHQが弱体化させる為であり、状況はもはや全く変わってきているし、月並みながらも旧宮家の人達を復帰させる事等を検討すべきである。(一時しのぎと言っていた人も目にしたけど、悠仁さまばかりに跡継ぎとかプレッシャーをかけるよりはよほどマシであろう)もし一人も天皇の男系子孫がいなくなったらもうその時はその時で自然消滅してもしょうがない。天皇制の本質を無視し、日本の国体を崩壊させてまで女系天皇・女性宮家を実現させる意義は全くないとも断言して、持統天皇は有能だったのも否定しようのない事実でありますが、今こそこの奈良時代の幾多もの権力闘争も引き起こしてきた女性天皇達の登場とその悲劇も反面教師として、超えてはならない一線を超える事ない様にしていかねばならないと強く思います。正直眞子さまにはガッカリだでもありますが、ましてや、この国には残念な事に、自国民でありながら自国の為にならない事ばかりしてきた、またはしようとして、ネトウヨの大量発生やあの森友での教育勅語朗読や安倍総理崇拝とかもそうだけど、却って近年の著しい右傾化も煽っている困った人達も少なくない困った欠点があるのだから・・・・・・・・・・・

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2017/05/20

ソ連の副首相達その3

ブランクはあったけど、このシリーズ最終回です。

1986年10月 第一副首相4人・副首相8人
1991年1月 第一副首相3人・副首相3人


1986年10月、周知の通りゴルバチョフ時代に入り、チェルノブイリ原発事故が起きた半年後時点の事です。この時点で政治局員はグロムイコ、クナーエフ、ソロメンツェフと70代の長老達もまだ何人かはいて、特にソロメンツェフは70年代前半から長きにわたってロシアソビエト首相を務めていましたが、10年以上局員候補に据え置かれ、政治局員に昇格したのは70歳だった1983年末だったのも硬直化した老人支配の現れだったとも言えましたが、ブレジネフ時代末期から既に長く国を支配してきた長老達が姿を消し始めてきました。

ロシア史に詳しいある人のHPではブレジネフ死去直前に亡くなったミハイル・スースロフが最後のオールド・ボリシェヴィキと評されていました。「べリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路」でもリトアニア党委員会第一書記時代、現地でマトモに仕事せず、モスクワにも告発された有様だったのも描かれていて、それにもかかわらず要領よく出世して第二書記にまで登りつめ、灰色の枢機卿の異名をほしいままにしていたのですが、ロシア革命前に入党して、かつ最後まで政治局員であり続けたという意味ではアルビド・ぺーリシェが最後のオールド・ボリシェビキだったでしょう。共に国家元首である最高会議幹部会議長に在職した経験もあったシュヴェルニクとミコヤンがブレジネフ時代初期に引退した時点で現役オールド・ボリシェヴィキはほぼ絶滅状態(ミコヤンはヴォロシーロフ共々最晩年には中央委員には返り咲いたらしけど、もはや特段影響力とかも無かっただろうし)だったと思われ、最後の19世紀生まれの政治局員でもあったぺーリシェは改めて異例の存在に映りますが、ソロメンツェフは1982~83年にかけてスースロフ、ブレジネフ、ぺーリシェらが亡くなって漸く政治局員に昇格したのです。ゴルバチョフ時代に入っても党統制委員会議長としてアルマアタ暴動の鎮圧を指揮した等しばらくは重用されていた様である。

話は反れてしまっているけど、そうした老人達もまだ残っていながらも政治局員の平均年齢は1986年10月時点で64.7歳で、アフガン侵攻が起きた1979年12月の69.6歳よりはいくらか若返った。副首相も67.2歳から58.7歳と政治局員以上に若返って、話は先走りするけど、アリエフやシュワルナゼ等ソ連崩壊後の独立国家でも最高首脳となった面々も見られる様になったのです。(シュワルナゼは外相も兼ねていた)第一副首相の一人だったタルイジンはニコライ・バイバコフの後任のゴスプラン議長も兼ねていて、余談だけど、「スターリン 赤い皇帝と延臣たち」でも「このような人物が40年以上も経済に関わっていた事もソ連の停滞を象徴している。」と評されてしまったバイバコフはスターリン時代からの大臣経験者としてはおそらく最後の生き残りだったでしょうね。もうソ連末期も良い所な1991年には大きく副首相の人数が減っていますが、ゴルバチョフが既にボケてもいたらしいグロムイコを引退させて最高会議幹部会議長も兼ねても保守派と急進改革派の板挟みにあって、思う様に改革が進まなかったから今度は前年の1990年3月に大統領職を新設して、自ら就任した事とも関係していたのか。

周知の通りソ連は結局崩壊してしまいましたが、それまでに第一副首相は27人、ヒラの副首相は第一への昇格者を含めて91人出ました。その内1934年に新設された第一副首相は・・・・・・・・・・

中国の国務院常務副総理は万里(在任中に昇格)の例を除いて基本的に政治局常務委員ポストな様ですが、フルシチョフ時代初期までの20余年間は空席の時期もありながらも政治局員ポストだった様です。残念ながら「出る杭は打たれる」を地で行ってしまったヴォズネセンスキーは例外的に就任時は局員候補(戦後1947年に第二書記だった上司、ジダーノフの引き立てもあってか局員に昇格するも・・・・・・)でしたが、大抜擢だったと言えたでしょう。ところが、その後はコズロフ、コスイギン、ポリャンスキーの例もありながらもそうとは限らず、クズミンやスースロフ共々キングメーカーとして君臨したウスチノフの様に就任時は局員候補どころかヒラの中央委員な例も珍しくなくなっていた。彼らも多くは就任後は局員候補または局員に昇格していったのですが、クズミンはフルシチョフと対立してしまったのか、1960年にはスイス大使に左遷させられ、在任中に中央監査委員会のメンバーから外され、その後も閑職に回され、ブレジネフ時代に入って年金生活入りしてしまった様である。

結局彼は中央委員会においては中央委員のままキャリアを終えてしまった様ですが、その後もアルヒーポフや今年亡くなったムラホフスキーの様にそうなってしまった例もいくつか見られた様です。最後の政治局員第一副首相は結局外相も兼ねていて、既に70過ぎていたグロムイコとなってしまい、政治的重要性が薄れてしまっていた事が伺えますが、1957年に起きた反党グループ事件がそのターニングポイントだったと思われます。

実際、スターリンの死直後はベリヤが一時期ながらもマレンコフに代わって行政を取り仕切っていたし、案外(?)マトモな政策も見られながらも東ドイツ問題等スタンドプレーが過ぎたベリヤの処刑後も筆頭書記(後に第一書記に改称され、1966年にスターリン時代の書記長に戻る)をマレンコフから譲られ、首相も盟友のブルガーニンに譲らせた1955年3月時点で第一副首相はモロトフ(首相経験者でもあり、その就任も「君がやれ」なスターリン直々の命令だったという)、カガノーヴィチ、ミコヤン、ぺルヴ―ヒン、サブーロフの5人で史上最多(マレンコフもヒラの副首相にはとどまる)だったと思われますが、フルシチョフに味方したミコヤン以外は全員失脚しました。翌1958年にはブルガーニンも首相を解任されただけでなく、元帥階級も大将に二階級降格(現在もべリヤ共々復されていない)させられ、首相もスターリンに倣って自身が兼任する等集団指導体制は結局5年少しで事実上否定されてしまった。彭徳懐と共に金日成の行き過ぎた独裁に干渉した事もあったミコヤンが最高会議幹部会議長に棚上げされてからさらにそれは顕著となり、間もなくブレジネフ時代になって、「書記長と首相は同一人物が兼任しない」事が事実上のルールとなったらしいけど、書記長は社会主義国の実質的な最高権力者と言っても、あくまで国家や政府ではなく、党の役職である。ブレジネフは就任前に最高会議幹部会議長になってもいた(フルシチョフの後継者とされていたコズロフが健康を害した事により、第二書記も兼ねる事となったが、まもなくミコヤンに譲らされ、第二書記に専念する事となったのもフルシチョフ失脚の伏線となってしまったのであろう)からか、ジョンソンやニクソン等アメリカ大統領との首脳会談でも外交儀礼の序列1位じゃなかったのも我慢できず、今度は最高会議幹部会議長と兼任する事になったのだから、ソ連崩壊まで・・・・・・・だったのも必然的だったでしょう。

結局ロシアはソ連時代も含めて独裁者じゃないとなかなか国がまとまらず、しかしその一方でプーチン大統領が来年の大統領選挙に出馬しない事を求めたデモも起きた等いくらかは変わっている様ですが、そのプーチンも大統領になるまでは一週間だけ第一副首相を務め、エリツィンが次々と首を挿げ替えていた首相、そして間もなく大統領となった。その後については周知の通りで、現在のロシアでも副首相は5~9人程度いるらしいけど、さあ彼ら在職経験者の中からも果たしてポストプーチンは出てくるのか?統一ロシアのロシア民族主義も特に2014年クリミア危機以降行き詰まり甚だしい様に見えて、ホントにロシア国民は今まで通りの選択で良いのか?でもありますが・・・・・・・・

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2017/05/12

戦後のアンドレイ・アンドレーエフの断片的な姿(7/1追記あり)

https://www.youtube.com/watch?v=sy4R3mmUslk&t=42s

これ1946年夏の、ソ連国家元首で、ロックマンシリーズのコサック博士の容姿のモデル(名前のモデルは当時最高権力者だったゴルバチョフだったでしょうが)でもあったであろう、前最高会議幹部会議長、ミハイル・カリーニンの葬儀の様子を報道した動画で、0:43に過去ログでも何回か取り上げたアンドレイ・アンドレーエフの姿が見えます。1895年10月生まれの彼はこの時50歳で、「スターリン 赤い皇帝と延臣たち」によれば、戦後健康を害する様になっていたらしいですが、髪に白髪が目立つ等歳不相応に老け込んでいた感じです。同級生の(アナスタス・)ミコヤンなんか1966年、70余歳の引退直前(前年12月に最高会議幹部会議長は解任となるも、翌年4月まで政治局から改名された幹部会の会員に留任)でもまだ黒髪も全然目立っていたのに。

https://www.youtube.com/watch?v=HavbO7oH8Ho&t=443s

これはその2年後のアンドレイ・ジダーノフの葬儀の様子を報道した内容の動画で、0:30あたりで他の幹部達と一緒に歩いている、アンドレーエフらしき人物の姿が見えた。右からアンドレーエフ、シュヴェルニク(カリーニンの後任の最高会議幹部会議長)、スターリン、ヴォロシーロフ、べリヤ、モロトフ、コスイギン(?)、マレンコフが並んでいたけど、カリーニンの葬儀の時よりさらに老け込んだ感じでしたね。「赤い皇帝」ではまた小柄とも書かれていたけど、実際身長160前後しかなかったっぽいですね。当時のソ連国民として見ても全然小柄だったでしょう。と言うか、スターリンも身長163しかなく、5センチは誤魔化せるシークレットブーツ履いていたらしいけど、主な側近達で身長170以上あったのってモロトフ(172、3ぐらいか)とカガノーヴィチ(175程度か)ぐらいですよね。ブレジネフも173あって、コスイギンももっと大きかった様ですが、側近達もナポレオン(身長167だったらしいが、当時のフランス国民の平均身長は165弱と平均よりは高かった)とは対照的とも言うか、170ない人が大半だった様ですからスターリンの小柄ぶりもそれほどは目立たなかった様です。3:30~5:18にかけて、声優の上坂すみれ氏も大好きなモロトフが演説していますが、意志の強靭さと神経質さが同居した様な声ですね。もしスターリンを題材としたアニメを制作・放送するのなら、声優は西村知道氏あたりをイメージしていましたが・・・・・・しかし、ジダーノフが死んだのが1948年8月31日だから、葬儀は9月上旬頃だったんでしょ?幹部達は皆コートを羽織っていて、軍服姿のスターリン(最晩年にはまた人民服姿も見られる様になったが、1943~49年にかけては公では殆ど軍服姿しか見かけない)やヴォロシーロフもそうだったけど、既に日本でなら初冬並み以上の寒さだったのでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=w_Q3u8t1GOw (7/1追記)

これは1951年の空軍航空ショーを共産党や軍の幹部達が見物した動画ですが、0:26あたりから左に見えるミコヤンからフルシチョフ、顔が良く見えない1人置いてブルガーニン、スターリン、ベリヤ、マレンコフ、モロトフ、アンドレーエフ、シュヴェルニク、コスイギン、スースロフの順に並んでいるのが見えます。スースロフの右にはさらに2人並んでいて、彼らが誰かは確認できませんでしたが、アンドレーエフは白い服も度々着ていた様で、余計その小柄さも目立ちますね。スースロフはこの時点ではまだ政治局局員ではなかったけど、書記局の書記になっていて、更なる出世も暗示していた様です。

https://www.youtube.com/watch?v=RIgy9W071g0

これは1952年10月に開催された、第19回党大会でのマレンコフ演説シーンの動画だけど、注目すべきは1:24または2:45あたりのシーン。政治局員は前の方の座席に並んで座っている様で、最前列には左からカガノーヴィチ、モロトフ、ヴォロシーロフ、フルシチョフ、べリヤ、ブルガーニン、つまり最古参幹部と比較的新しく頭角を現した4人組(マレンコフもその1人)が座っていて、幹部達の序列を物語っている様でもある。スターリンは開幕日と閉幕日(この日に演説もしている)に姿を現しただけだった様ですが、後ろの方でアンドレーエフが1人だけポツンと寂しく座っている姿が見えます。5:12ではカガノーヴィチ、べリヤ、ブルガーニンらも後ろの席に移動し、スターリンの姿も見えるのも分かると思いますが、開幕日に早くもアンドレーエフは政治局員(1966年まで幹部会に改称される)を解任されており、副首相のポストはしばらくは保持(この党大会の4か月後にスターリンは急死するが、副首相もその後まもなく解任される)したものの、事実上の失脚を象徴した様でしたね。

76歳まで生きたから、ロシア人男性の平均寿命(2014年頃にソ連時代で最も高かった1986年の水準を漸く上回ったが、現在も65歳程度)よりは一回り以上長生きしたけど、健康は最期まで回復しなかったらしい。自身またはその一派が粛清されたべリヤやジダーノフよりは全然マシだったでしょうが、アンドレーエフも共産党幹部として戦前・戦中と戦後の落差が何気に激しかったとも言えます。93歳まで生きた娘のナターシャはあの時代のスターリンらが関与した粛清等も正当化しながらロシアのクリミア併合を見届けた直後に亡くなったけど、その胸中にあったのは、父もその歴史の歯車となって働いてきた強いロシアの栄光を取り戻した、確かな自信だったのか・・・・・・・・・現実には製造業で高い技術力を発揮できるのは軍需関連だけで、資源の呪いからも抜け出せず、経済制裁でプーチン第一次政権の様な高い成長率も望みにくい等ロシア民族主義・愛国主義は大きな行き詰まりに直面していますが・・・・・・・・勢力圏に固執し、技術力・競争力で劣る欧米と国力不相応な喧嘩を続けるのか?それともいくつか妥協してでも国民の実利を優先し、喧嘩の強さよりもどれだけ飯を食えるかで欧米と肩を並べる様にしていくべきなのか?アンドレーエフ親子も確かに関わったソ連、そしてその後のロシアの歴史を見ると、来年大統領選挙が予定されてもいますが、今この国の国民は変われるか変われないか、大きな決断の時を迎えているとも強く思います。

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2017/04/09

「べリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路」の感想

Saitama_r66old

もう散り始めていましたが、これは今日撮影した、埼玉県某市某県道旧道沿線に咲いていた桜の画像です。春の風物詩という事で載せておきます。

Be1

さて、この桜とは全くムードが合わない題材ですが、折角の週末なのにこれといったブログネタが無かったので、ウラジーミル・ネクラーソフ氏編の「べリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路」について、簡単にですが、感想を述べます。

本書は五部構成でしたが、さらに大きく分けると、第一章が主人公、ラヴレンチ―・べリヤの経歴を中心とした第一部、第二章がべリヤについての当時関わった人達の証言やべリヤの悪行を中心とした第二・三部、第三章が逮捕から処刑までの詳細な経緯を中心とした第四・五部となります。

この本の後、現在「スターリン 赤い皇帝と延臣たち」(以降「赤い皇帝」と表記)も読んでいて、これも凄い面白いけど、出世狙いで休暇を過ごしていたスターリンに近付こうとしたけど、当初はスターリンの態度はそっけなかったエピソードや、側近となった後、別荘の木の伐採作業で「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ、私が刈り取ってごらんになります・・・・・・・」と張り切っていたエピソード等は赤い皇帝でも言及されていましたね。共産党の官僚として駆け出し始めだった時から既にその経歴等怪しいものもあった様ですが、有名な魚色家ぶりな数々のエピソードもさる事ながら、サッカーの試合が自分の思い通りにならなかったからと言って、既に決勝戦まで終わっていたのに準決勝をやり直させた、スタロスティン兄弟事件も無茶苦茶でしたね。

モスクワにあるオトクリティエアリーナには彼らスタロスティン四兄弟の銅像も建っているらしいですが、証言者で、長兄のニコライ、この時は娘のエヴゲーニヤが当時の人民委員会議議長(首相に相当)、ヴャチェスラフ・モロトフ(なお、赤い皇帝によれば、当初はスターリンが書記長と兼任する案も出たが、ロシア人ではない自分に務まるのかの不安等から「君が議長になれ」とモロトフに勧めたという)の娘、スヴェトラーナ(スターリンの娘と同名でもある)と親しかったおかげで逮捕は免れましたが、モロトフがスターリンに人民委員会議議長を譲って議長代理(副首相に相当)兼外務人民委員(外務大臣に相当)となった直後に刑務所暮らしになってしまったらしい。そこでも、サッカーチームの指導等に従事した事で命までは取られず、まさに「芸は身を助く」でしたが、べリヤ処刑直後に釈放されて、ソ連崩壊も見届け、93歳まで長生き(弟たちも皆80前後以上まで生きていたらしい)したらしい。良かったね。

大粛清の代表的な犠牲者、ニコライ・ブハーリンの妻、アンナ・ブハーリナもこのスタロスティン長兄と同じ年(1996年)に亡くなって、孫のニコライ・ユーリエヴィチもサッカースクールを経営している(息子のユーリー・ニコラエヴィチは父が処刑された時はまだ1歳か2歳だったが、2014年に78歳で亡くなったらしい)らしいですが、彼女への尋問の際、夫をニコライ・イヴァノヴィチと敬称で呼んで(名前+ミドルネームは日本なら「~さん」な感覚である)命は助かる希望もあると見せかけて、色々心理的な揺さぶりをかけていたのも生々しいものがありましたね。大粛清の犠牲者と言えば、ヴァシーリー・ブリュヘル元帥の最期も眼球を失うほどの拷問を受けていたらしく、壮絶なものだった様です。逮捕されたのは1938年10月22日の土曜日で、前日は夜遅くまで家族と一緒に遊んでいたらしいですが、日本との戦(張鼓峰事件)を終えてリフレッシュしたと思ったら・・・・・・・ですが、赤い皇帝によれば、実際は損害の大きさをスターリンに「同志ブリュヘル、君は日本と真剣に戦う気があるのか?共産主義者でないのなら正直に言いたまえ。」と咎められて、モスクワに呼び戻されていたらしいですが。

べリヤは大粛清を当初から主導していたわけではなく、それはニコライ・エジョフがかなり張り切っていた様ですが、スターリンの立会いの下とべリヤと討議するも、「私は同志べリヤを信頼している。彼を内務人民委員の代理に推薦したいと思う。」な「裁定」が下った時点でエジョフの運命は決まってしまったのか・・・・・・・・ネストル・ラコバやグリゴリー・オルジョニキーゼとの確執もまさに陰湿極まりない「仁義なき戦い」で、特に前者は毒殺後の内臓の取り出し等の証拠隠滅も分かりやすかったですが、近親者達も面と向かって罵倒した事もあった弟のミハイルだけでなく、妻子らも悲惨な最期を遂げた等この時点ではまだ内務人民委員ではなかったながらもラコバ一族もブハーリンらとはまた別の性質でこの不幸な時代の申し子だったとも言えたでしょう。

第二次世界大戦中は当然カチンの森事件にも関与していて、スターリンがヤルタ会談の際、ルーズベルトらに「ウチのヒムラーです。」と紹介した有名なエピソード(まあヒムラーの方が普通にマトモに見えますけどね!!べリヤと比べれば!!どちらかと言えば、中国の康生の方がキ〇ガイぶりでは良い勝負になるかも?)もゴルバチョフ時代まで外相等長く要職を歴任したアンドレイ・グロムイコが語ってくれましたが、余談ながら過去エントリーでも取り上げた事のある、アンドレイ・アンドレーエフがかってはトロツキー派と意見を同じにしていた事もあったのも意外に感じられましたね。赤い皇帝でも、彼ら家族のエピソードもいくつか見られ、戦後は共産党統制委員会委員長のポストは保持し、人民委員会議から改編された連邦閣僚会議副議長を兼任するも、書記局の書記は解任されてしまったアンドレーエフは何だかいつの間に影が薄くなってしまった印象(アナスタス・ミコヤンの息子、セルゲイが受けたインタビューによれば、ラコバ同様聴覚障害を抱える様になってしまったらしいが、1952年10月に13年ぶりに開催された党大会では閣僚会議議長代理には留まるも、統制委員会委員長と政治局員からは解任されてしまい、議長代理もスターリンが死んだ直後更迭され、事実上失脚する)がありますが、モロトフも西側のマスコミがこの頃体調を崩して1か月半の休養を余儀なくされたスターリンの有力な後継者と持て囃したせいか疎まれる様になり、後継者候補はアンドレイ・ジダーノフかゲオルギー・マレンコフかになった模様。

マレンコフも決して順風満帆だったわけでも無く、エジョフに告発されて、逆に彼のあら捜しして、スターリンに報告して難を免れるわ、戦後一時期、中央アジアに左遷された事もあったらしいですが、大腸癌におかされ、引退を余儀なくされた、最高会議幹部会議長(国家元首相当で赤い皇帝では大統領と訳されていた)、ミハイル・カリーニンとほぼ入れ替わりに彼にと共に政治局員に昇格(昇格は1946年3月18日で、カリーニンの幹部会議長退任は翌日の3月19日、政治局員退任及び死去は同年6月3日のこと)していたべリヤは勝ち馬に乗るのが上手いと言うか、彼を後ろ盾として利用してさらに権力の高みに昇る道を選んだ様である。実際、スヴェトラーナとユーリー・アンドレ―エヴィチ(ジダーノフの息子)の結婚(1950年には娘が生まれて、スターリンも祝福の手紙を書いたという。ソースは「有名人の子供はつらい」です)には影響はなかった様ですが、ジダーノフが怪しい急死を遂げて、部下のニコライ・ヴォズネセンスキー等ジダーノフ派の粛清にも成功した。

どうも最終的に筆頭書記(書記長から改称)も閣僚会議議長も、そのポストを失って、最終的に失脚したあたり、マレンコフは側近としてはかなり有能でもリーダーとしてはやや頼りない印象を受けます。さすがにべリヤの本性を見抜けなかったほどバカだったわけでも決してなく、一緒に散歩した際、フルシチョフに忠告されるも「分かっているけど、どうすれば良いと言うのだ。」と返したエピソードも印象的でしたね。そのフルシチョフにも後塵を拝す事となってしまったのですが・・・・・・・・・

とにかく突出したナンバー2を作らない様意識していたフシもある晩年のスターリンからもさすがに警戒されていたべリヤでしたが、彼の死後、ナポレオンの帝政復古同様100日天下だったながらも実質的なナンバー1として頂点を極めたかに見えた。3月5日のスターリンの死~6月26日の逮捕までだとすると、正確には113日間でしたが、彼が主導した諸政策、例えば囚人の釈放は新たな犯罪の温床となった等当然と言えば当然ですが、否定的な評価を下していました。もしマレンコフが筆頭書記ではなく、閣僚会議議長の方をフルシチョフに譲っていればどうなったのかなあですが、その6月26日に逮捕されたとされた。フルシチョフだけでなく、ジュ―コフ元帥、コーネフ元帥、モスカレンコ元帥等軍の大物どころの証言も載っていましたが、逮捕から死刑までの経緯は食い違う証言もある様だし、事実はどうだったのか今後新たな検証が待たれる所でしょう。

しかし、月並みだけど、真に異常だったのはスターリンでもべリヤでもなく、彼らを国家の最高幹部にしてしまったソ連という国、もっと言えば幻想だった理想の為に多くの無辜の国民を死に追いやった共産主義思想そのものだったのでしょうね。特にスターリンは功罪両面共に非常にハッキリしていて、客観的な評価が難しいですが、スターリン時代以降、極端な恐怖政治や独裁、個人崇拝は抑えられはしたとは言え、押し付け憲法ならぬ押し付け社会主義国家だった衛星国への締め付けや重工業化の為に犠牲にされ、ルイセンコ理論も取り入れた農業の脆弱さ、ノルマ至上主義に陥り、技術革命や需要の多様化に対応できなかった計画経済等決定づけられた悪い体質もその崩壊まで残ってしまっただけに本書を読んで改めてそう認識させられました。その後継国家、ロシアも現在もシリア内戦において空爆を行う等イラク戦争というパンドラの箱を開いたアメリカもアメリカだけど、べリヤもその担い手となったスターリニズムよりももっと根深いこの国の本質は変わっていない様である。べリヤらの犠牲になった人達の死も無駄にならない様、いい加減変わっていかなければいけないのだけど・・・・・・赤い皇帝もまだ上巻すら読み終えてないけど、全部読み終わったらまた感想書きます。

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2017/04/01

ソ連の副首相達その2

その1からの続きです。

1955年3月 第一5人、ヒラ7人

首相がマレンコフからフルシチョフの盟友、ブルガーニンに交代した時です。(マレンコフも副首相兼発電所相にはとどまる)ついに第一が5人になってしまいましたけど、もしブルガーニンが外遊とかで不在の場合は、先任者、この場合はモロトフが閣議を取り仕切ったのか。彼ら第一首相達はあとでもっと詳細に触れるけど、5人全員幹部会会員でもありました。

1958年3月 第一2人、ヒラ4人
1962年11月 第一2人、ヒラ9人


ところが、ガチガチのスターリン主義者(モロトフ、カガノーヴィチら)と反経済分権主義者(マレンコフ、ぺルヴ―ヒン、サブーロフら)がフルシチョフ追い落しを狙った反党グループ事件で失脚してしまった影響で、副首相の人数は半減してしまいました。この頃、駐日ソビエト大使になっていたテヴォシアンも残念ながらガンで亡くなってしまったらしいですが、集団指導の筈が結局フルシチョフが衛星国(東欧、モンゴル、北朝鮮等)の指導者たち同様スターリンに倣って第一書記と首相を兼ねる事になってしまった。第一副首相は盟友のミコヤンフロル・コズロフの2人で、既にジダーノフ派が粛清されたレニングラード事件でレニングラード州党第一書記という要職に就いていたコズロフでしたが、中央委員から幹部会員への2階級昇格(1957年2月に会員候補、同年6月に正会員)、ロシアソビエト首相、そして第一副首相と急激な昇進ぶりでしたね。

コズロフの第一副首相就任はフルシチョフの首相就任の4日後の1958年3月31日の事でしたが、入れ替わりにヨシフ・クズミンがヒラの副首相に降格されています。しばらく兼任していたゴスプラン議長共々その地位を保っていたのが、その後スイスの全権大使を3年務めた後、外務省での専門コンサルタント職を経て年金生活入りとなってしまった様ですが、経済政策で意見の不一致等フルシチョフの不興を買って、左遷されてしまったのか。コズロフはその後クズミンの副首相及びゴスプラン議長解任とほぼ同時に中央委員会第二書記に新たに任じられて(後任の第一副首相はコスイギンが就任)、フルシチョフの後継者とされていた様ですが・・・・・・・・・1961年には社会主義労働英雄にもなった等この頃がコズロフの絶頂期だったでしょう。幹部会員と書記局書記を兼ねてもいたのなんて他にはフルシチョフ等数えるほどしかいなかったのだし、マレンコフ以降のソ連指導者では実際フルシチョフ以外は最高指導者になる前に第二書記となっていたのです。

この頃最高会議幹部会議長となっていたブレジネフの、wikiでのページではどうやら事実誤認な記述が見られる様ですが、1964年7月に書記局書記も兼ねていたブレジネフを解任させて、長くスターリン時代から貿易相等兼務しながら副首相を務めてきたミコヤンをその後釜に据えたのですが、何故この盟友を国家元首ながらも儀礼的なポストに棚上げさせたのですかね。コズロフが前年4月頃から健康を損ねる事になった(第二書記もブレジネフに譲る事となる)のも背景にあったのか。しかしまた、2か月前の5月17日にオットー・クーシネン(フィンランドでは売国奴扱いなのだろうと思いきや、2004年に発表された偉大なフィンランド人ランキングでは38位だったのは意外)の病死した以外は政治局も書記局も特に目立ったメンバーの交代とかは直近なかった様です。ロシア史に詳しいある人のHPでも指摘された通り、ブレジネフを書記局での党務に専念させて、かつ既に70近い老人となっていたミコヤンにもこれまで女房役を務めてくれた見返りとして箔をつけるつもりだったのですかね。

1966年1月 第一2人、ヒラ11人
1979年12月 第一1人、ヒラ10人


しかし、ブレジネフはその直後の8月、ヤルタで急死したイタリア共産党書記長、パルミーロ・トリアッティ(wikiでも彼のページもあるけど、この時点ではフルシチョフはまだ・・・・・・である)の葬儀参列やアルド・モーロ首相との会談の為にイタリアに行ったらしい(しかし、この際関係がギクシャクしてしまい、以降ブレジネフは死ぬまでイタリアを訪問する事は無かったというし、モーロも赤い旅団事件で誘拐・殺害される)ですが、10月についにフルシチョフは失脚、コズロフも書記局・政治局から追放されてしまい、間もなく亡くなった。ミコヤンも1965年12月に最高会議幹部会議長を解任されながらも、その直前に開催された中央委員会総会では後任が決まっていなかったのか幹部会員はまだ解任されず、翌1966年4月まで留まった(この時、幹部会は政治局に名称が戻され、第一書記も書記長に名称が戻される。なお余談ながら、1965年のメーデーについての動画でミコヤンがブレジネフら他の最高幹部達と壇上に登った姿を見た事があるが、ブレジネフのそれが173センチだった事等から推測するに、彼の身長は164、5センチぐらいだったであろう。スターリンも163弱だったらしいけど、1949年12月の誕生日で並んでいた、172あったらしい毛沢東とは大きい身長差は感じられなかった事からもシークレットブーツを履いていた様だし、側近達も当時としても小柄な人達が多く、カリーニンやヴォロシーロフなど160もなかったっぽいけど、170を超えていたのはせいぜいモロトフとカガノーヴィチぐらいだったんじゃなかっただろうか?当時の平均よりは高かったけど、周りの王族や将軍たちは180以上がゴロゴロいたから、結局後世でもネタにされるほど小さく見えてしまったナポレオンとは対照的である)様ですが、ブレジネフ時代以降終末期を除いて副首相は第一とヒラ合わせて10数人前後で定着した様です。

ところが、中国ですら江沢民の世代以降は10年で指導者が交代するのが慣例(ただし、習近平はそれ自体は儀礼的な権限しか持たない国家主席の再選制限撤廃策等終身的な権力掌握を目指している様だが)なのに対し、ソ連はついに病死か失脚以外指導者の交代は起きなかった様ですが、ソ連の黄金期だった事もまた確かであろうブレジネフ時代も末期は指導者層が高齢化して、国内外の諸問題はますます深刻なものになっていった。

1979年12月の、アフガニスタン侵攻直前時点で政治局局員14人の平均年齢は69.6歳。50代は後に直前11月27日に開催された中央委員会総会で局員候補となったゴルバチョフのライバルだったグリゴリー・ロマノフ(56歳)だけで、70歳以上が8人もいて、特に最後のオールド・ボルシェビキであろうアルビド・ペリシェにいたっては既に80歳になっていた。(最後の19世紀生まれの共産党最高幹部でもあっただろうが、スースロフやブレジネフとほぼ同時期に死去)大粛清が漸く収まるか収まらないかの1939年3月に開催された中央委員会総会時点ではアンドレーエフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、カリーニン、ミコヤン、モロトフ、スターリン、フルシチョフ8人の平均年齢が50.6歳だったからいかに高齢化が進んでいたか分かるものでしょう。

副首相も、フルシチョフ時代以前は70過ぎでの在任者はヴォロシーロフぐらいだったでしょうが、同時期の11人の彼ら、政治局員でもある第一副首相のチーホノフなど既に75歳(翌年コスイギンの後任の首相に昇格)で、50代はコンスタンチン・カチュシェーフ(52歳)だけで平均年齢は67.2歳でした。当時の男性国民の平均寿命(ソ連時代最も高かった1986年当時で64.8歳)をも上回っていました。と、ここでまた長くなりすぎてしまったので一旦区切ります。

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2017/03/25

ソ連の副首相達その1

http://rossia.web.fc2.com/sp/vozhd/premier.html

このHPでも首相(正確には1946年3月以前は人民委員会議議長、それ以後は閣僚会議議長)共々一覧表が載ってますが、旧ソ連の副首相達ですね。ソ連崩壊までに第一副首相は27人、副首相は91人就任したらしいから、前者は約5年で2人、後者は約3年で4人就任した事になります。ここで各時期ごとの在職者人数を見てみます。

1923年7月 5人
1924年2月 4人(レーニン死去直後、アレクセイ・ルイコフが昇格)
1926年1月 3人
1930年12月 3人

モロトフが、スターリンと対立したルイコフに代わって首相となったのですが、ここで特筆すべきは約9か月の在任ながらも、過去エントリーで取り上げたアンドレイ・アンドレーエフがこの3人の副首相の1人となった事です。しかも、彼は1926年7月に政治局局員候補に昇格したのが、解任された翌日に就任したのです。しかし、この時点ではまた、彼は労農人民委員(現在の日本でなら農林水産大臣に相当か)も兼ねていましたが、このポストも就任した直後だった様だし、農業集団化でスターリンの不興を買ったわけではなく、単に得票数が足りなかったから再選されなかったのでしょう。(実際後の1934年2月の党大会でも、スターリンは真っ先に中央委員を決める投票で選出されたかと思いきや、真っ先に選出されたのが書記長就任も打診されていたらしいセルゲイ・キーロフで、続けて選出されたのはカリーニン、ヴォロシーロフらで、スターリンは反対票も300票近くあり、選出されたのは10番目だったという。この反対票をカガノーヴィチによる不正で3票にしたのも過去エントリーで話した通りだけど、ヴォロシーロフも無能ながらも人望はあったのでしょうか?スターリンとは必ずしも関係良好ではなかったフルンゼの遺児達も引き取って育てていたらしいし)寧ろ局員候補に再選されなかったからこそ、一時的に慰めのつもりではなかったのでしょうが、兼任させられたのでしょう。労農人民委員の在任も短期で終わり、しばらく鉄道人民委員を務める事になりましたが、アンドレーエフの昇進は続きます。

1934年5月 第一1人、ヒラ3人

ヴァレリアン・クイビシェフが初代第一副首相だった様ですが、間もなく急死、ヒラの3人も全員直後の大粛清で粛清された様です。

1939年6月 6人

ヴォロシーロフ(国防人民委員)、カガノーヴィチ(交通人民委員)、ミコヤン(貿易人民委員、なお彼の後任者は出されたバナナが熟れてなかった事為にスターリンの怒りを買って解任されたが、命までは取られず74歳まで生きたらしい)、ヴィシンスキー(科学アカデミー国家法研究所所長)、ヴォズネセンスキー(ゴスプラン議長)と他の要職も兼ねた人達ばかりでしたが、ロザリヤ・ゼムリャーチカも大粛清という棚から牡丹餅でソ連では女性唯一であろう副首相のポストを手にした様です。彼女も短期間ながら国家監督委員会議長も兼ねていたのですが、19世紀から革命活動を始め、ロシア内戦でも軍の政治委員を務める等某東京都都知事も全く小者に見えてしまうほどのオールド・ボリシェヴィキだった様ですね。

1941年5月 第一1人、ヒラ13人

ご存知の通り、成立初期においても民族人民委員を務めた事があったスターリンが首相に就任した時期です。モロトフから譲ってもらった直前にクイビシェフの急死で空席になったヴォズネセンスキーが第一副首相となったのですが、この時点でまだ38歳。モロトフは形式上は副首相(兼外相、外務人民委員)に降格となりましたが、まもなく第一副首相となり、ブルガーニン以外にもコスイギン、ぺルヴ―ヒンやサブーロフとポストスターリン時代でも活躍する(後の2人は反党グループ事件で失脚したが)人も就任し、一気に14人に。

1946年3月 第一1人、ヒラ7人


人民委員会議から閣僚会議に改編された時期です。ヒラの副首相は減りましたが、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、ミコヤン、コスイギン、ヴォズネセンスキーに直後政治局員に昇格したべリヤ(ただしNKVD長官は解任される)と前述通り政治局委員候補解任直後に短期間務めた(1932年に局員に昇格する)アンドレーエフとスターリンの側近ばっかです。しかし、ヴォズネセンスキーはジダーノフの部下だった事が災いして彼の急死直後に・・・・・・・・スターリン時代、30代の人民委員(大臣)は特段珍しくはなかったけど、出世するのが早すぎて「出る杭は打たれる」となってしまったのかもね。

1950年4月 第一2人、ヒラ11人


中国と友好同盟相互援助条約を結んだ直後の時期です。モロトフだけでなく、ブルガーニンも専任の第一副首相に就任して、「第一」な筈なのにおそらく初めて2人併存する事となってしまいましたが、既に兼任していた外相も解任されてしまったらしいし、モロトフはますます干されてしまっていた様です。ユダヤ人だった奥さんまで刑務所送りにされて、それでも晩年も、「あなたは彼が背負っていた重荷が分かっていない!」とかスターリン及び大粛清や農業集団化等を擁護していた様ですが、まあスターリンのやった事を否定したら、実質的なナンバー2だった自分自身も否定する事になってしまいますからね。大学時代はロシア語を専攻していて、業界ではおそらく屈指のソ連・ロシア好きであろう声優の上坂すみれ氏は彼のファンで、そういう良くも悪くも最後まで信念を貫き通した、ブレないキャラに惹かれている様ですが。(ハッキリ「時勢を見ながら自分の意見をコロコロ変えるミコヤンより好きだ。」とか言っていた)

ヴォズネセンスキーがレニングラード事件で失脚した翌日にはアレクサンドル・エフレーモフが副首相に就任したのですが、彼は工作機械とかエンジニア畑を歩みながら着実に出世していったらしい。スターリンの首相就任時に新設された工作機械人民委員に就任したかと思えば、廃止となって、戦車産業副人民委員(次官級か)に降格されていたらしいですが、緒戦での大祖国戦争敗北が影響していたのか。しかし、間もなく再設置されたポストに返り咲いて、組織改編後も引き続き務めていた様ですが、残念ながら1951年に47歳の若さで亡くなった。

この直後にはイワン・テヴォシヤンも副首相となったのですが、彼はミコヤンと同郷のアルメニア人です。アルメニアは元々冶金業が発達していたらしいですが、テヴォシヤンも冶金畑を歩んだエンジニアだった様で、1952年10月に13年ぶりに開催された党大会では政治局から改編された幹部会の会員候補となった等スターリンのお気に入りだった事が伺えますが、そんな彼も大粛清の際には義兄(姉の夫)が粛清されて、自身も逮捕されそうだったのがべリヤとミコヤンに庇ってもらって何とか免れたという。一時お役御免になった冶金相も、翌1950年末に非鉄冶金相に改称した上で兼ねた様です。前述の党大会では、ミコヤンはモロトフ共々批判され、「非公式の幹部会」と言うか、幹部会常務会員と言った方が正確であろうメンバーから外されてしまった(アンドレーエフもどうやらこの頃聴覚障害を抱える事になってしまった様で、副首相のポストは保つも幹部会会員からは解任される)のは皮肉でしたが・・・・・・

1953年3月 第一4人、ヒラ1人
1953年12月 第一3人、ヒラ6人


30年近く最高指導者として世界の半分の支配者にまで至ったスターリンが亡くなった直後の時期です。前述の党大会で、世代交代を強く意識したであろう幹部会会員が多数解任された一方、テヴォシアンは幹部会委員候補は解任されるも、副首相兼非鉄冶金相のポストは一時的な解任を経て再び得た等世渡り上手だった様です。

党大会でスターリンを教師と称える演説をしたのも、葬儀で人民服姿で参列した(スターリンはどうやら元帥になった1943年以降は大事な行事とかでは軍服姿でも参加する様にもなった様だが)のも、その表れだったのでしょう。政治局員昇格とほぼ同時に副首相にもなっていたマレンコフが後継者として書記長から改称された筆頭書記と首相を兼ねたのですが、10日足らずで前者はフルシチョフに譲ってしまった。政務に専念という事で、その翌日には副首相が7人も解任されます。尤も、ヴォロシーロフは形式的には国家元首である最高会議幹部会議長に栄転となり、幹部会会員のポストも保った(政治局員歴34年6か月はスターリンの35年5か月に次ぐ在職期間だが、ソ連成立後ではナンバー1であろう)し、その他多くの面々も1953年中には復帰した様ですが、一時は第一副首相がモロトフ、カガノーヴィチ、べリヤ、ブルガーニンの4人に対して、ヒラの副首相はミコヤン1人だけとなってしまった。

この第一副首相の並立も、今度は集団指導体制を意識したものだったのだろうけど、内相も兼ねていたべリヤが実質的な政府の最高権力者みたいになってしまった様です。彼と比べればヒムラーですらマトモに見えてしまう、キ〇ガイ(特に若い女性絡みで)エピソードに溢れていて、だからこそそうした権力の絶頂にまで登れたのでしょうが、どうやら思ったほどリーダーシップがなかった様であるマレンコフに代わって打ち出した諸政策は案外マトモでした。しかし、結果論ですが、ドイツを統一させてアメリカに恩を売ろうとまで考えていたのはやり過ぎでしたね。マレンコフが首相の方をフルシチョフに譲っていたとしても、遅かれ早かれ破滅は免れなかったのだろうなあでもあり、その最期も異説もいくつもある様ですが、べリヤが処刑されたとされる同年の12月にはヒラの副首相は復帰組も含んで6人となりました。ヴャチェスラフ・マルイシェフもその1人で、彼は鉄道や戦車等軍事技術畑で活躍し、ソ連史上26人しかいない技術奉仕大将(この訳が適切か甚だ不安であるが)の階級も有していたのです。さあ、今度こそマレンコフを中心とした集団指導体制が再スタートすると思いきや・・・・・・長くなりすぎたので一旦ここで区切ります。

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2017/03/12

百人一首の歌人達(20)-16番中納言行平

「立ちわかれ いなばの山の 峯におふる まつかし聞かば 今かへりこむ」

(16番中納言行平)

約9か月ぶりのこのシリーズですが、中納言行平こと在原行平です。某アニメでも跡部様が声優だった弟の方が有名人ですが、今さら私が何か特別な事言うまでもないだろうという事で今回は兄貴な彼について取り上げます。

この歌は855年(斉衡2)に因幡守に任じられた時に歌ったという説と、源氏物語の舞台にもなった、蟄居していた須磨から帰京する時に歌ったという説がある様で、後者の場合、いなばの山は須磨離宮公園付近にある稲葉山の事を指すようです。帰京の際に烏帽子と狩衣に添えたとも言われていて、業平も狩衣姿の銅像とか残されている様ですが、彼ら在原兄弟存命時はまだ貴族の服装は奈良時代と同じだったでしょう。

何故行平が須磨にいたのかと言うと・・・・・・・話は長くなりますが、彼ら兄弟の父は阿保親王と言って、平城天皇の第一皇子でした。阿保親王は本来天皇になってもおかしくなかったのですが、天武天皇には他にも皇子が何人もいたのに、木本好信氏が指摘した(歴史読本2005年12月号「歴代皇后全伝」等を参照の事)通り持統・草壁皇統にこだわり、数々の権力闘争を引き起こしてきた事への反面教師の意味合いがあったのでしょう。平城の皇太子には弟の神野親王(嵯峨天皇)が立てられ、平城退位・嵯峨即位時の皇太子は阿保親王ではなく、異母弟の高岳親王が立てられました。高岳も外祖父の伊勢老人も桓武天皇の即位に不満を持っていた連中の期待を受けていた氷上川継の乱(川継は天武皇子の新田部親王の孫でれっきとした天武の男系子孫だったが、失敗に終わる)に連座した過去がありましたが、阿保親王外祖父の葛井高依が正五位下だったのに対し、老人はその後許されて最終的には正四位下だったのも影響したのですかね?高依は790年(延暦9)に皇太子(この場合はのちの平城)の家政一般をつかさどる春宮坊で二番目に偉い春宮亮となり、翌791年(延暦10)には宿禰性となったらしいですが、この直後に亡くなったのでしょう。もっと長生きしていればもしかしたら阿保が皇太子になっていたかもしれません。

ところが、のちの菅原道真等つくづく政争に敗れた左遷者の姥捨て山だったのか、薬子の変で阿保が太宰権帥に左遷されてしまいました。京に戻れたのが平城が崩御した824年(弘仁15)の事でしたが、818年(弘仁9)生まれの行平は大宰府で生まれていた可能性が高いです。そして帰京直後には異母弟の業平が生まれ、さらに間もなくして従兄弟の善淵(高岳の王子)らに倣って、臣籍降下していますが、これも晩年の承和の変での密告共々自己保身を図った行為だったのでしょう。直後に亡くなったらしいですが、ストレスの多い人生だった事は想像に難くありません。

ところが、今度は結果的にその承和の変で誕生した文徳天皇の皇太子を巡ってです。第一皇子は惟喬親王でしたが、生後間もない赤子の惟仁親王(清和天皇)が、生母が藤原氏(良房娘の明子)という事で半ば強引に皇太子に立てられてしまいました。行平はしばしば政争に巻き込まれた、または巻き込まれそうになり自己保身を繰り返した父の姿も見ていたからこそ、自らも「自主的に休職」して、須磨にほとぼりが冷めるまで引きこもったのでしょう。父の帰京後に生まれ、赤子の内に臣籍降下した業平の方がもっと惟喬とズブズブの関係だった様で、惟喬の伯父だった有常の娘を妻にしただけでなく、その縁で義理の従弟にもなった惟喬その人とも個人的な親交が深かった様です。実際彼も文徳朝期には六位まで下げられていたのではな説もあるようですが、舅の有常も文徳崩御直前には肥後権守等度々地方官に任じられていたあたり、軽い左遷を受けていたかと思われます。(なお、同じく百人一首歌人に選ばれている藤原敏行も業平とは妻同士が姉妹の義兄弟だったけど、父・富士麻呂の没年が850年で、少内記となったのが866年だったから生年は845~850年の間ごろ、没年が901年または907年だったから享年は50代~60代前半かと思われる)

行平が須磨から戻ったのは852年(仁寿2)末頃かと思われます。滞在期間は2年強ほどです。惟仁生母の明子が翌年の853年(仁寿3)に従三位となり、何月何日かは分かりませんでしたが、行平は正月7日に正五位下に昇叙したので、ほぼ同日の事だったでしょう。その後も弟・業平や惟喬、そして紀氏とは一定の距離を置いていたかと思われますが、応天門の変後、失脚した伴善男だけでなく、源信(左大臣)、藤原良相(右大臣)、平高棟(大納言)、藤原良縄(参議)と公卿達が何人か死んだ事もあってか、870年(貞観12)正月に参議となり、公卿に列せられた。

大抵は公卿への登竜門とされている蔵人頭を経て、参議になるのですが、行平の場合は参議となってから、872年(貞観14)に蔵人頭を兼ねたのです。そして翌873年(貞観15)12月に従三位に昇叙したのと同時に兼任していた蔵人頭や検非違使別当の職を解かれたのですが、娘の文子が清和天皇に更衣として入台したのはこの参議と蔵人頭等を兼任していた時期だったでしょう。非藤原氏の行平のこの兼任は後の兼家の中納言と蔵人頭の兼任以上に異例に感じられた人事でしたが、清和と、業平との関係も有名な高子との間には既に貞明(陽成天皇)、貞保の2皇子が生まれていた事や良房と彼の義理の甥(養子で甥の基経の妹、淑子と結婚していた)だった氏宗の死、基経のライバル、藤原常行(良相の子で、基経とは従兄弟にあたる)の大納言昇進、惟喬の出家等いくつかの政治的要因が重なったからこそ文子の入台も可能だったかと思われます。

しかし、それと同時にまた、太宰権帥も兼ねる様になります。同職が遥任化したのは250年後に藤原俊忠(俊成の父、定家の祖父だが、間もなく没する)が任命されて以降の事だったらしいので、行平は49年ぶりに大宰府に実際行ったと思われます。貞明、貞保の次期天皇候補が2人いたとは言え、やはり基経に警戒されて、軽い左遷となってしまったのでしょうか。大宰府から戻ってきたのは878年(元慶2)2月の事だったらしいですが、この間常行は結局基経の官位を越せないまま亡くなり、天皇は清和から陽成に交代、基経は新天皇の摂政となり、女御として清和に入台させていた佳珠子も貞辰親王を産んでおり、その権力はますます盤石なものとなっていました。一方で文子も貞数親王を産んでいて、この親王は実は父親は清和ではなく、業平だと噂されていたと伊勢物語にも書かれていたという。確かに小説のネタとしては面白いかもしれませんが、行平も業平も貞数誕生後も昇進を続けていたし、業平はまた、貞数誕生前後には意味深ながらも基経四十の賀で歌を献上してもいます。最晩年には蔵人頭となっていて、残念ながら兄より先に亡くなって、あと5年生きていたら参議になれたとも思いますが、三国志演義での曹操悪役設定もそうだけど、伊勢物語での業平=プレイボーイは話半分程度に聞くのが妥当かと思われます。

881年(元慶5)の貞数親王による、高子四十の賀を祝った陵王の舞(wikiでは882年とあるが、高子は842年生まれなので数え歳では881年に40歳となる)も陽成退位の遠因となったとは考えにくいです。この前後に行平は中納言・正三位に昇進しているからです。その後民部卿及び陸奥出羽按察使も兼ねていて、後者は約100年前に陸奥按察使となった大伴家持も遥任だった説があるし、行平もそうだったと思われますが、一方でまた基経の嫡男、時平元服時にも舞を踊っていたらしい。これも行平の関与もあったかとも思われますが、外孫の晴れ姿も見て、何か思う所があったのでしょう。この間、天皇は陽成から光孝天皇に交代しており、文子も従四位上に昇叙していましたが、数え年70歳となった887年(仁和3)に引退しました。そしてその直後、長男遠瞻の落雷死という不幸にも直面してしまったらしいですが、光孝崩御、宇多即位、阿衡の紛議、基経の死、弟と親交が深かった道真の参議昇進を見届けて、893年(寛平5)に満75歳で亡くなった。当時としては異例の長寿です。

行平は、生まれた時点からして祖父失脚のあおりを受け、京から遠く離れた地で過ごしましたが、帰京後も晩年まで政争で失脚していった数多くの貴族たちを目の当たりにし、自身も軽い左遷等で数度京を離れた事はあっても巧みに世渡りし、失脚を避けながら弟と共に朝廷で一定以上の地位を築く事に成功した辣腕政治家だったと言えます。

行平死後も昇進をつづけた道真はやがて他の貴族達の反感を買う様になり、その末路は周知の通りですが、彼の最晩年に従四位下となっていて、道真全盛期に参議に昇進していた次男の友干も、その失脚した道真の後任として太宰権帥兼任(太宰大弐からの昇格)となり、そのまま亡くなったのも皮肉な話ですね。つくづく大宰府に縁があるとも言うか、同時期には道真を失脚に追い込んだ時平や高子も亡くなっていて、その後在原氏から公卿が出る事は無かったながらも、兄弟とされる大江音人の子孫が毛利氏(ただし、途中の大江広元の父が誰なのかは異説もあり、ハッキリしない)ならば、行平の子孫は大谷氏、さらにこれも真偽は不明ながらも上野氏家康が出た松平氏は業平の子孫で、その後も特に戦国時代に活躍した様ですが・・・・・・・・・

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