歴史

2020/08/03

自分達に都合の良い嘘やデマばかり拡散するサイゾーに「真実の歴史」を語る資格なんか無いだろ(呆)

https://www.cyzo.com/2020/08/post_248439_entry.html

明智光秀は足軽だった? 斎藤道三との本当の仲…etc. 『麒麟がくる』が描かない不都合な歴史


文=堀江宏樹(ほりえ・ひろき)


大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)の放送が、新型コロナウイルスの影響で中断を余儀なくされている。放送再開が待ち遠しいが、この空白の時期を使って主人公「明智光秀」についてより理解を深めてみるというのはいかがだろうか? 今回は、歴史エッセイストの堀江宏樹氏が大河ドラマが描かない「不都合」な史実を紐解く──。前回はコチラ


『麒麟がくる』で斎藤道三を熱演した本木雅弘(Getty Images)

 NHKの「大河ドラマ」は、史実をベースにしたフィクションです。

麒麟がくる』で長谷川博己さんが演じる、誰に対しても誠実で、心やさしい明智光秀が、身内にはやさしいけれど、金にはシビアな史実の明智光秀の像と「多少」ズレていても、それはそれで構わないのです。歴史ドラマですから。

 しかし、謎の多い明智光秀という男を中心に、人間関係を作っていくのは視聴者が考える以上に大変なはずで、「うまいこと演出するなぁ」などと感心するシーンもありました。

 たとえば……『麒麟~』のホームページでは“(明智)光秀の生涯の朋友”として、細川藤孝(後の細川幽斎)が紹介されています。眞島秀和さんが好演なさっておられますね。ただ、残された史料からいうと、細川藤孝は明智の“朋友”どころか、当初は明智を“部下”として使っていた“上司”ではなかったかとさえいわれているのです。

 そもそも、残された史料を見る限り、明智光秀が最初にお仕えできた相手は、なんと将軍・足利義昭なんですね(これについては後で詳しく語ります)。『麒麟~』も放送再開後には、明智の人生のキーパーソンである足利義昭(滝藤賢一さん)との絡みが色濃く描かれるのでは、と思っています。

 しかし……それなら、『麒麟~』前半戦で描かれた斎藤道三(本木雅弘さん)や斎藤高政(伊藤英明さん)など、美濃(現在の岐阜)の「斎藤ファミリー」と明智の濃い絡みって、全部フィクションだったの? と拍子ぬけしてしまいますよね。

 でも、これも「YES」といわざるを得ないのです……。

 斎藤父子の戦に巻き込まれた明智一家は美濃を脱出、越前(現在の福井)に向かった……という放送休止までのストーリーは、江戸中期の歴史小説『明智軍記』がベースなんですね。

 明智光秀が美濃出身者であることは確かなようですが、美濃の明智家は応永6年(1399)に、将軍直臣となっています。つまり、明智光秀が生まれたとされる1528年から遡ること約130年も前に、美濃の斎藤家、それから土岐家とも主従関係を解消してしまっていた……というのが、記録で見る限りの「真実」なのでした。

 また、この美濃の明智家と、明智光秀本人の血縁関係があやふやだとすら一部の学者からは言われているのですが、それについては推論にすぎない印象もあります。この問題は、ここらへんで置いておきましょうかね。

 足利将軍家の直属の家臣になってからの明智光秀の祖先の働きは……? というと、これまたよくわかりません。ただ、注目すべきことはあります。足利将軍家とは祖先以来の「ご縁」があったからでしょうか、記録に残る明智光秀の最初の“就職先”は、ときの将軍・足利義昭の家中でした。

 しかし、「足軽衆」のひとりとして、なのですね(『群書類従』、『永禄六年諸役人附』など)。「え、明智光秀が足軽?」と、歴史に詳しい方はびっくりするでしょう。足軽って歩兵のはず。『麒麟~』の明智って、最初から馬に乗って戦ってなかった?

 そうなんです。騎馬で戦えるのは上流武士だけ。実際の明智は、そんな騎馬姿の上流武士の「進めー!」の号令で走り出す足軽だったのかもしれない、ということなんですね(ちなみに同史料の中で、細川藤孝は、将軍の側近である「御供衆」の一人として記載されています)。

 実際のところ、明智と細川の真の関係は“朋友”どころか、細川藤孝に明智光秀がお仕えしていたが、織田信長が明智の才能を見出し、自分の家臣としてスカウトしたとする史料もあります(『多聞院日記』)。

 イエズス会の宣教師のフロイスなどは、明智のことを一貫して「実家の身分が低い」などと書いていることで有名です。

 つまり……後の豊臣秀吉などと同じように、史実の明智光秀も苦労して底辺から這い上がった存在なのでは? というのが、最近の歴史研究をふまえた明智の実像なのでした。

 ただ、これには一考の余地はあるかな、というのが筆者の見解です。

今回は「記録で見る限り」などという表現を多用してきましたが、明智に関する仕官記録の類については、未来の子孫たちに残しておくべき記録として(とくに下級武士の記録については)取り扱われなかったことを指摘せねばなりません。

 そもそも当時、紙は上流階級の間で贈答品に使われるほど、非常に高価な代物でしたから、大したことのない記録は、裏紙として再利用されたりしました。そしてそのうち廃棄されてしまうのです。仕官記録も、すべてがすべて残されているというものでもないのですね。

 だから記録に残ってはいなくとも、別にどこかで明智はそれなりに仕官経験を積んで、足利家にも仕えるようになったと考えることもできます(足軽だった事実は消えませんが)。

 しかし、です。明智光秀は、おのれを源氏の名門・土岐一族につらなる家の出身だと、一貫して自己紹介していたようです。嘘ならもっと系図を盛るはずだし、折に触れて適当に先祖の名前を変えるのでは?

 本当にフロイスがいうように明智の身分が低いのであれば、いくら「足軽」としてにせよ、将軍・足利義昭に仕官することができるのかな……という疑問も残りますね。

 とすると、明智の実家は血筋をたどれば名門にいきつくが、彼が生まれるころには見る影もなく没落しており、ほとんどゼロベースでのスタートを切っていたのではないか、ということを考えたりもします。

 それにしても、秀吉とほぼ“同類”の明智となると、『麒麟~』はもちろん、これまでの大河で描かれたことのないキャラ設定になってしまいますよね。

 8月末からの『麒麟~』放送再開に向けて、これまでの総集編が放送開始です。大河が描こうとしない “不都合な真実”を頭の片隅にいれてドラマを見直すこともまた一興かもしれません。


まず強調したい事ですが、この人の見解を頭ごなしに否定するつもりはないです。この人が光秀についてそう思うのなら、そう思えば良いです。私自身の見解を押し付けるつもりはないです。しかし、「不都合な歴史」っていつから大河ドラマって歴史ドキュメンタリー番組になったのですか?大河ドラマって、いだてんではついにハッキリそうアナウンスしたらしいけど、史実を基にしたフィクションでしょ?

https://blog.goo.ne.jp/kafuka1955/e/0a057e7bb2f2b9749465750a9661c5b8

確かに光秀が道三に仕えていたかは微妙かもしれませんが、そもそもこの堀江宏樹の見解も100パーそうだと証明できるのですかね?上記ブログでは、「大河ドラマは史実に忠実になる必要はないけど、越えてはいけない一線はある(ような気がする。)」と言ってた人がいたけど、足軽説は麒麟がくる美濃編での脚色がその一線を越えてしまうレベルなほどの確かな事実なのですかね?足軽説は後世の追記に過ぎないとか、永禄の変で死んだ奉公衆の息子が改名したとかの異説もあるとかとも聞いたけど、「不都合な歴史」って、堀江宏樹だって自分に都合の良い情報だけ拾って、そういう異説は無視して、それらとの妥当性の比較もしていないではないですか。仮に光秀と道三らとの関係が全くのフィクションだとしても、そういう異説もあるという事は結局かなり確実な証拠とは言い難いけど、この程度で美濃編での脚色が都合の良い虚構だとしたら、他の大河ドラマだってアウトな脚色いくらでもあるよね。1980年代後半~90年代にかけて製作・放送されていたTBS大型時代劇だって、渡辺謙氏の織田信長なんか、こんなの装着してないだろな鎧を身に着けていたし、松方弘樹氏の徳川家康は桶狭間時点で生まれてすらいなかった井伊直政が家康(この時点ではまだ松平元康)と行動を共にしていたし、松平健氏の平清盛も、保元の乱の前に死んだ親父の忠盛がそれ以後も生きていたとかもっとアウトな脚色いくつもあったよ。でも、そんな事で一々文句を言うバカなんか聞いた事ない、せいぜいごく一部の史実厨だけでしょう。

https://ameblo.jp/eiichi-k/entry-12267639591.html

https://sengoku-his.com/497#link2

下のURの戦国ヒストリーの記事(1565年時点では近江にいたのは確かな様である)と違って異説を尤もらしく全くの事実であるかの様にミスリード(足軽説を主張する事自体は問題ない)している等サイゾー本来の得意分野(嘲笑)な芸能関係の嘘やデマ(例えば最近では川口春奈独立話とか)よりも悪質な記事、ちびまる子ちゃんの藤木よりも全然卑怯だと言うか、要するにこいつや、他人を貶める事だけが生き甲斐なサイゾーは上の方のURのブログの主が言う通り「脚本家の歴史解釈が気に食わない」だけ(サイゾーは前から麒麟がくるを叩いている様だけど、関係者に親でも殺されたのだろうか?)だろですが、もっと根本的にサイゾー自体が、9割方嘘やデマばかり拡散して、叶姉妹にも喧嘩を売って謝罪を余儀なくされた「前科」もあった等信頼度は底辺レベル、正確とか真実とかと最もほど遠いゴシップではないですか。本日一番の「お前が言うな!」ですよ。いや、サイゾーも全否定するわけでは無いですよ。大手マスコミと違ってジャニーズのスキャンダルも、見識は全く置いといてもスルーしないし、声優の滝本富士子氏が、声優で食っていく事の厳しさ等を語ったインタビュー記事も、魔法陣グルグルも毎週見ていた(ちなみに最初のシリーズの方ね)し、興味深く読ませてもらったけど、サイゾーに記事が載ったなんて、ツイートで公にアナウンスすべきではない、全く恥ずかしい、愚かな事です。これではフライデー元編集長の雅子皇后ヨイショ記事を載せたプレジデントや、サイゾーよりはいくらかはマシな程度に過ぎない日刊ゲンダイの安倍政権叩きツイートをリツイートしている反安倍・反自民な和製左翼・リベラルツイッター(こういう人達も、自分達が一番賢い、事の本質を知っている!!な顔をするんだからな・・・・・・・何のギャグだよ?だけど)の事も笑えない。知らない人だったけど、今後この堀江宏樹の発言を目にしても、私は絶対に信用したりはしないですね。ホントに堀江宏樹が歴史エッセイリストとして高い見識を持っているのなら、サイゾーなんか相手にしない、もっとマトモな媒体で発言できるはずなのだから。

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2020/07/24

百人一首の歌人達93番右大臣実朝

「世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも 」

久々のこのシリーズですが、右大臣実朝こと源実朝ですね。波打ち際をこぐ漁師の小船が網で引かれている姿も見える世の中の様子が変わらない事を願う意味の歌ですが、鎌倉幕府も開かれてまだそれほどは年月が経っておらず、創業の功臣もまだ何人も存命だったのに武家の棟梁らしかぬ歌です。

武家じゃなくて公家に生まれていれば、彼はもっとその歌の才能も活かせていたかもしれませんが・・・・・・・・・再来年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」も誰が実朝を演じる事になるのやらですが、思ったよりも早く父・頼朝が死んでしまって、兄の頼家も正式に征夷大将軍に任命された(頼朝も2年で辞職した説もあるが、真偽は不明)のがその3年後と若年だった事もあって、独自色を出せないまま御家人達の勢力争いに巻き込まれて命を落としてしまった中でもっと若い年齢で将軍になってしまったのです。

実朝について注目したいのがやはり急激な昇進です。頼朝がごく短期で辞任したとは言え、権大納言と右近衛大将となり、さらに実現はしませんでしたが、姉の大姫を入台させようとしたのだから源氏将軍はかっての平家同様清華家の家格を得ていたのでしょう。実際1209年に従三位となってすぐに右近衛中将となり、その後1216年に参議を経ないで権中納言となった(摂家・清華家は原則参議を経ないが、この時代の清華家は参議を経た者もいた)のですが、特に1218年は凄まじく、官位こそ正二位(1213年に叙任)のままでしたが、年初から年末にかけて一気に権中納言から右大臣に登ってしまったのです。おそらく短期間で3段階も昇進した人はいなかったでしょう。この時実朝は26歳でしたが、他の同時代の清華家当主の大臣昇進時の年齢は・・・・

三条公房 36歳
西園寺実氏 37歳
徳大寺実基 45歳
久我通光 32歳
花山院忠経 33歳
大炊御門家嗣 41歳
堀川具実 47歳

だったのだから、かなり早かったのが改めて分かります。昇進の速さを大江広元に諫められたのに対し、「私には子供もいないし、昇進して名をあげる事が生き甲斐なのだ。」と反論したエピソードも有名ですが、まだ20代と若く、子供もこれから儲けられる可能性もあったのに彼は果たしてそんな覇気のない将軍だったのでしょうか?

暗殺事件については後鳥羽上皇黒幕説(まあ三浦氏黒幕説が最も有力であろう)も実際ありますが、朝廷から見たら本来の身分不相応に高位・高官を与えて身を崩す位討ちを狙っていたのは確かでしょう。実際黒幕が誰であれ、実朝が暗殺されて源氏将軍が絶えたのは事実だったのですが、武家で初の右大臣となった実朝のその様な末路は鎌倉幕府滅亡後の日本の歴史にも大きな影響を及ぼしたのです。

https://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10871628425.html


このブログでも指摘されていましたが、室町幕府に義満が出てきて、足利将軍が摂家に準ずる家格(過去エントリーでも指摘した通り、参議は経ても権中納言は経なかった事も注目すべきである)を得ても、義満や義政に限らず右大臣となった足利将軍は一人も出ませんでした。義持も、特に若年期は義満の働きかけで昇進し、在任期間が長かった割には内大臣が極位で、他の公卿にも越されたままで終わったし、義尚も早死にしなくても右大臣になる事は無かったでしょう。

その後の足利将軍は明応の政変で傀儡と化し、京都にいる事すら出来なくなったのも珍しくなったので大臣にすらなれないまま最後の義昭も信長に追放されてしまいましたが、その信長も右大臣は短期間で辞職した。後任が二条昭実だったのも信長の養女と結婚して、信長と義理の親子になっていたのがおそらく原因で、信長が右大臣を辞職したのは天下統一(ただし、当時の感覚では畿内及びその周辺がその天下の範囲だったので、信長は既に天下を取ったと見る事も出来なくもない)した後に改めて武家の棟梁に就きたかったかららしいですが、最後どうなったかはもう周知のとおり。

どうやら短期で辞めても横死してしまったし、武家の右大臣は不吉という事で、信長を何年も間近で見てきた秀吉も内大臣から左大臣への昇進を望んで、結局は関白・太政大臣となったし、秀吉から関白を譲られた秀次もやはり内大臣から右大臣を経ないで左大臣となったのですが、彼も切腹に追い込まれてしまった。

最初は豊臣家の関白って、特例として秀吉一代限りなつもりだったらしいですが、秀次も切腹に追い込んだほどですから、やはり秀頼も関白にもしたかった様だ。摂関は大臣経験者のみが任命される(藤原兼通も一旦内覧・内大臣となってから任命)のですが、五摂家から摂関を出さない為に、秀次事件で秀次と連座した今出川晴季(右大臣)を辞めさせた後は後任を充てさせず、自分以外の大臣は家康を内大臣にしたのみでしたが、結果的に下手に右大臣になるよりも全然良かったのでしょうね。家康にとっては。

何せ、秀頼がまだ幼い内に秀吉自身や前田利家が死んだだけでなく、源氏長者と淳和奨学両院別当を輩出する資格があった久我家が女性スキャンダルを起こしたのも、征夷大将軍就任への追い風になったし、関ヶ原も実際は小早川秀秋ももう最初から東軍についていたらしいけど、兵力的にもう最初から東軍優勢で勝って、官位も従一位になって、秀頼を上回った上で実際征夷大将軍になれたのですからね。右大臣もごく短期ながらも任命されていたのですが、辞職したのは形式的にはこの時点で家康はまだ秀頼の家臣だから、配慮せざるを得ない所もあったのでしょう。

https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-11453493728.html

その秀頼も右大臣は短期で辞任して、上洛しなかった(家康と会見した1611年までその記録が無い)から辞めさせられたのだと指摘したブログもありますが、後任には九条幸家が就任したのは秀次の兄弟、秀勝の娘、宗子と結婚しただけでなく、岳母・江が秀忠と結婚していて、豊臣・徳川両家とも親戚になっていたからでしょう。朝廷では秀頼の左大臣昇進を推薦する動きも一部ありながらも、結局秀頼は果たせないまま「元右大臣」として大坂の陣で死に追い込まれる事になった一方で、家康と、武家官位としての右大臣となった秀忠はこのジンクスを破ったと思いきやです。

次の家光もやはり何人かの足利将軍同様右大臣を経ないで左大臣になったのは、家康・秀忠が太政大臣になった事と同様に豊臣政権下で高位高官となっていた諸大名とのバランスを取ったつもりだったのかもしれませんが、家綱も政権自体は安定しながらも跡継ぎを作れないまま亡くなって、左大臣昇進の話もあったらしいですが、ここで早くも徳川将軍家嫡流は途絶えてしまった。

もし左大臣に昇進していたら家綱は跡継ぎも作れたのかでもありましたが、綱吉以降の徳川将軍は、もう原則的に20年程度務めないと右大臣に任命されなくなってしまった様です。将軍家に限らず、御三家も権大納言の尾張・紀伊は光友も光貞も37年も権中納言のままだったし、水戸黄門こと光國も権中納言になったのは藩主となってから30年近くも経った後の事。(晩年の10年程度に過ぎなかった)

どうやら霊元天皇が幕府嫌いだった事も影響していた様で、実際光友・光貞・光國が極官に昇進したのは親幕派だった近衛基煕が朝廷における実権を握った直後でした。参議を極官としていた前田家も半世紀近く前に藩主になっていた綱紀がやっとその数年後に参議になれたのですが、その後もそうした原則は変わらなかった様で、それは異例の長期政権となった家斉も例外ではありませんでしたが、父の長期政権のおかげで将軍継嗣時点で内大臣となっていた家慶は将軍宣下と同時に左大臣となったし、家茂は短期で右大臣となりましたが、これは和宮と結婚して孝明天皇と義兄弟となった事が大きかったのでしょう。しかし、家茂も数年で早世した。その早世は勝海舟にも「これで徳川宗家は終わった。」と嘆かれたほどでしたが、実際次の慶喜は内大臣のまま大政奉還し、戊辰戦争も起こりこましたが、長く続いた武家の時代そのものが終わる事となったのです。

実朝その人とは直接関係ない話になってしまいましたが、他にも綱吉・吉宗・家治も跡継ぎに先立たれてその代わりを作れなかった、または健康を害してしまって、自然災害も起きてしまったし、結局武家右大臣=不吉な悪いジンクスは江戸(徳川)時代となって、泰平の世となっても完全には無くならなかった様です。「鎌倉殿の十三人」では実朝もどの様な描かれ方をされるかですが、やはり改めてその人物像とか注目されてほしい所ですね。

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2020/06/20

大石泰史著「今川氏滅亡」の感想

放送休止中だけど、麒麟がくるで今川義元も登場したという事で、桶狭間直前の三河・尾張両国の情勢がどうだったのか、桶狭間後どうして今川氏は10年もたたない内に領土を失ってしまったのかとかに疑問を持ったので、大石泰史氏著作の「今川氏滅亡」を読んでみました。

本書でよく使われていた用語が「家中」と言って、今川氏の内政・外交に関する問題を取り扱い対処していたらしいですが、義元の片腕だった雪斎や朝比奈泰能が亡くなる前も結構頻繁に入れ替わっていたらしいですね。弘治年間にこの2人が亡くなった際にも義元はちゃんと代わりも起用していた様で、三河で起こっていた反乱も抑える事が出来た様ですが、甲陽軍艦で家康が「義元は雪斎和尚とだけ政治について話し合って、家老をないがしろにしていたから、死後は政治は安定しなかった。」という様な事を言っていたのも的外れなのも分かりますね。

義元に否定的な人って、ほぼ必ずこの甲陽軍鑑も根拠にしていて、近年は史料的価値が低いとされていた評価も見直されている様ですが、やはり義元に限らず甲陽軍鑑での武将達の否定的な評価を信じるのは、サイゾーや東スポとかでの芸能人の記事を信じる様なものだと認識せざるを得ないです。桶狭間については、そこまで深くはツッコまれてはいなかったですが、もし直前に品野城が陥落されてなかったら、雪斎がいなくても義元の戦死はなかったのでしょうか。いや、義元が戦死していても今川家中の武将達は生き残っていたら、また三河で反乱起きていたかもしれないですが、何とか抑えられたかもしれない。

20年近く勢力拡大の為には倒さなければいけなかった敵と認識して争ってきた織田家であの信長が出てきてしまったのも今川氏にとっては不運でしたが、優勢だったはずの尾張出兵(上洛説は近年はほぼ否定されている)で、桶狭間で義元だけでなく、有力武将達も何人も戦死して、ただでさえ雪斎や泰能がいなくなってまだそこまで年数が経っていなかった所を「家中」が経験乏しい若手に強制交代となっただけでなく、武田信玄や北条氏康と同盟関係を結んでいた為に直後の上杉謙信の関東出兵にも援軍を派遣して、三河の維持よりも優先せざるを得なかった(と氏真はそう判断していた様だけど、祖父の氏親は氏康の祖父の早雲のおかげで当主になれたのだからその判断も無理は無かった)事や信玄の信濃侵攻も、既に謙信との勢力境界線は殆ど変動せず、北辺を除いて完了していた事とか氏親及び今川氏にとって悪い状況が重なっていた事が本作を呼んで改めて分かりました。

政治だけでなく、軍事でも氏真は自ら三河に出陣してもいて、1561年の信長による3度の西三河侵攻はいずれも負け戦(同年の4月に家康が今川氏に対して独立の意思を示したのを見ての軍事行動だったのだろうが、信長はこの西三河侵攻で同地の一部を得るもまもなく家康と和睦し、翌1562年に正式に同盟する事となる)でしたが、家康との戦いは局地的な勝ち戦もあったらしい。氏真は軍事指揮官としても全く無能ではなかった事も改めて分かりましたが、最終的には周知の通り1565年もしくは1566年頃には三河一向一揆も乗り越えた家康の三河統一を許し、駆逐されてしまった。

家康を岡崎城に置いたのも、信長に対する牽制役を期待しての事だったとの説も近年出ている様で、実際家康って狸親父とか良くないイメージがあるけど、信長との同盟も「その時歴史が動いた」でも武田勝頼に高天神城を攻められてもちゃんと信長の援軍が来るまで待っていた(結局陥落し、7年後の1581年に奪還する)エピソードが紹介されていたけど、信長が本能寺で倒れても次男の信雄と組んで秀吉と小牧・長久手の戦いで戦った等長く保ったし、関ヶ原も、加藤清正や福島正則等自分に味方してくれた豊臣恩顧の大名には大幅な石高増等結構配慮していて、彼らの目が黒い内はどんなに秀頼と淀君が自分に従う気はなくても、形式的には秀頼の執政代行者であり続けて手を出さなかった等律義者だったし、この判断も間違っていたとは言い切れなかったでしょう。しかし、最終的には領土を失ってしまったのは否定しようのない事実ですから、やはり戦国武将として平均点以上の評価をするのは難しいですが、繰り返し言う通り氏真は名実ともに今川氏の当主となってしまった時の状況が悪すぎた、運が無かった(最終的には高家としては存続できたのだから勝頼や北条氏政・氏直親子とかよりは全然マシだっただろう。大名に復帰できた丹羽長重や立花宗茂はもっと凄かったけど)、100年生まれてきたのが早かったのだろうと言うか、ほぼ毎日がギャンブルな戦国の過酷さを痛感させられましたね。本多忠勝&忠朝親子も大河ドラマ誘致活動が進められているらしいですが、もしホントに実現したら義元・氏真親子もどういう描写がなされるのかでもありますが・・・・・・・・・・・・

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2020/06/07

麒麟がくるもついに桶狭間まで来たが・・・・・・・・・

https://news.yahoo.co.jp/articles/ff7798a5261d2cd0f76ebd05bb4ea427bdcafddf

染谷将太、「練習を重ねた」『麒麟がくる』バージョンの「敦盛」披露



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大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦!桶狭間」より。唐突に「敦盛」を口ずさみはじめる織田信長(染谷将太) (C)NHK

 NHKで放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)は、放送一時休止前、最後となる第21回「決戦!桶狭間」が7日に放送された。今川義元(片岡愛之助)が尾張に攻め込んでくる中、織田信長染谷将太)は清須城で戦況報告を受け、「籠城する」と家臣に告げた後、、帰蝶(川口春奈)の前で思案しながらうたったのは、幸若舞「敦盛」の一節だった。

 

【場面写真】桶狭間の戦いのシークエンスをたっぷりと

 

 織田信長の一代記である史料「信長公記(しんちょうこうき)」にも、桶狭間へ出陣する前に信長が「幸若舞」の一節を舞ったと記されているという。信長は「人間五十年、化天のうちを比ぶれば…」という節を特に好んだそう。演出を担当した一色隆司氏は次のように語っている。

 

 「八方塞がりの状況の中で死をも覚悟した信長の口から無意識にこぼれ出てきたのがこの『敦盛』です。自分の立場を認識しながらもどこかに光明が差さないか集中する信長に、ある種の悟りの境地が訪れるような意味合いにしたくて染谷さんとは、うたい方だけではなく、うたい出すまでの気持ちの流れ、そして、思わず口ずさみ始める時の表情、そして、うたいながら命の全てをかけて打開策を模索する思い、そしてひらめき…一つ一つの思いを意識して演じていただきました。このシーンは、この回の信長にとってはターニングポイントになるシーンだったので、いかにドラマチックに『敦盛』を表現できるのか…ということに注力しました」

 

 また、染谷は公式ホームページのインタビューに「信長は、自分という存在をかけ、自らを試すように死をも覚悟して出陣します。でも、その前に『敦盛』をうたうとは思ってもいませんでした(笑)。芸能指導の先生(友吉鶴心氏)と練習を重ね、『麒麟がくる』バージョンの『敦盛』を謡っているので楽しみにしていただけたらうれしいです」と答えている。




http://koukorekisikikou.a.la9.jp/nobunaga/okahazamasuiri.htm

https://note.com/dadamail/n/ne9b52f43be12

桶狭間の戦いについても今改めて興味を持っていて、上記URのページでも考察されてますが、桶狭間は戦いの場所は田楽狭間ではなく、桶狭間山で、奇襲でもなく、兵力を分断させたのが一番の信長の勝因だったらしいです。季節的にも、太陽暦換算では6月12日だから梅雨時でしたが、突然の豪雨で、義元の本隊に接近しやすくなったのも大きかった様ですね。

丸根と鷲津を落としながら敗れてしまった義元、駿河・遠江・三河を合わせても70万石弱でしたが、既に小和田哲男氏も指摘した通り、氏親の代から今川氏は安倍金山とか金山開発にも力を入れていたし、桶狭間直前時点で尾張も知多郡と海西郡の多くを勢力下においていたのだから100万石相当の国力は確かにあったのでしょう。(実際また、後に尾張の一部を除いた今川の旧領に加えて甲斐と北信を除いた信濃を領有した時点での家康の石高も表高は119万石だったが、実際は150万石あったという)1万石ごと250人動員できるらしいから、兵力もいくつも説もありますが、2万5千動員できてもおかしくなかったかと思われます。

大将本人が討ち取られてしまった他の例は龍造寺隆信しかなく、結果的に戦国大名としての今川氏の滅亡につながってしまったのだから、桶狭間での敗死はどうしても客観的に見てマイナス点と認定せざるを得ません。しかし、名指ししたり、URを張り付けたりはしませんが、義元に否定的な人って、十分でない根拠も基にしている様に見えます。

http://imagawayakata.blog92.fc2.com/blog-entry-123.html

例えば、山本勘助と豊臣秀吉をみすみす他家(それぞれ武田家・織田家)に渡してしまったのだから人を見る目がないという意見で、勘助については、上記HPでも指摘されていますが、そもそもその根拠となる甲陽軍鑑は史料的信用性に乏しく、実際義元との絡みでもいくつも矛盾が見られるし、秀吉についてはまた、「今川は譜代ばかり重用して、秀吉みたいに能力があっても身分が低い人物はそれ相応の起用をせず、家臣達も『出る杭は打つ』で秀吉をいじめていたから見切りをつけたのだ。」と言っていた別の某ブロガーも目にしましたが、秀吉だって義元の家臣の家臣に短期間仕えていたに過ぎなかったではないですか。(現代で言えば、東海地方で一番有力な大企業の孫会社にいた事になるけど、孫会社と祖父会社の社風が同じとは限らないでしょ?短期間で祖父会社の社風なんて分かる人なんかいるのですか?)しかも出仕を止めた理由も確かに小和田氏監修の小学館「少年少女人物日本の歴史 豊臣秀吉」とかでは金が無くなっているのを同僚達が秀吉のせいにしていじめた説が採られていましたが、これだって真偽は不明、そもそも秀吉が信用するに足る史料に初めて現れたのは桶狭間よりももっと後の事、信長が反抗的だった一族の信清を追放してやっとこさ尾張を統一した頃です。

また雪斎におんぶにだっこで、戦国武将としての実績は雪斎がいてこそという意見も目にしましたが、確かに片腕だった雪斎の功績も大きかったでしょう。しかし、どんなに彼が優れていて、戦国武将が専制君主ではなかった(信長は例外だったが)としても最終的に判断を下したのは義元だっただろうし、雪斎が死んだ後もまだ統治が不安定だった様である三河での反乱は抑えていたし、尾張への蚕食も、桶狭間直前に品野城を信長に落とされてしまいましたが、前述通りある程度の勢力は維持しています。

やはり結論としては今川義元も名将だったという事です。(凡将ならば、川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信の調停も出来る筈がない)義元に限らず、武田勝頼、朝倉義景、浅井長政と戦国三英傑に敵対した人物は、多くは最終的に滅んでいる。武田氏滅亡時点では武田氏の武将で、家康には度々苦杯を飲ませた真田昌幸だって、最終的には関ヶ原では長男の信之は家康に味方したけど、西軍についた自身と信繁は負けて九度山に流されて、大坂の陣に出陣した信繁も最終的には討ち取られてしまった(浅井は、三女の江が秀忠と結婚して、摂関家や皇室にもその血を伝えたし、武田遺臣も多くは家康が自身の家臣として採用してもいたけど)のですが、運も確かにモノにしていった信長の戦術がもっと上を行っていた、信長がもっと凄かったのです。信長がいなければ、群雄割拠はあと100年以上は続いていたかもしれないけど、信長はやはり戦国乱世に現れるべくして現れた風雲児、不世出の英雄なのです。勝頼については外交の失敗、義景は軍事を一族の宗滴に丸投げして自身は平和ボケして、義昭という神輿も信長に渡してしまった等信長とは直接関係ない滅亡の原因もありましたが、信長(と家康が出た松平氏)と早くから領国を接していたのが不運だったのです。

それでも、父と有力武将を亡くした悪い状況で名実ともに跡を継ぐ(家督は既に1558年に譲られていた)事になった氏真も、戦国武将としての能力は平均未満でも領国を失った後の立ち回りは悪くなく、勝頼や北条氏政・氏直親子、義景とかと比べれば全然マシな人生だったとも思いますが、コロナの所為で麒麟が放送休止になってしまうのはやはり残念です。今月下旬から撮影再開、8月下旬から放送再開となるらしく、越年になっても全44話放送する方向で話が進んでいる(そう言えば、ナレーター担当でもある海老蔵氏主演の桶狭間はどうなったんだ?竹中直人、北村一輝、中尾明慶各氏新キャスト様の発表以来2か月も新情報を聞かないけど)ですが、光秀はまだ信長の家臣にすらなっておらず、本格的な活躍はこれからなのですから、最後までしっかり麒麟の到来を求めていた戦国武将達のドラマを描いていただきたいです。

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2020/05/16

歴代足利将軍の官位・官職昇進の傾向

麒麟がくるでも、向井理氏演ずる義輝に光秀が今川と織田の停戦を調停させる様頼んだ話がありましたが、歴代足利将軍の官位・官職の昇進について興味を持って調べたら傾向が分かったので、以下に記します。

①参議と左近衛中将任命はセット。(義政とかは例外)
②義満以降、官位は正官の任命例は少なく、従官の任命例が大半。
③権中納言・右大臣の任命例は皆無。
④従三位になって、すぐまた権大納言に昇進。
⑤権大納言になってから大臣に昇進するまでの間に右近衛大将も兼務。
⑥義満~義尚までは従一位になってから大臣に昇進。義満・義教以外の昇進者は従一位~内大臣の昇進に5年前後要した。
⑦戦国時代突入後は大臣・右近衛大将の任命例が皆無で、官位も多くは従三位止まり。

①は義量は元服してすぐ右近衛中将に任官していますが、父・義持の後押しだったのでしょう。義政も右近衛中将との兼務でしたが、他任命者がいたのでしょうか。②は尊氏と義詮は最終的に正二位でしたが、義持と義尚が例外で、義持は父・義満の後押しだったのでしょうが、義尚は当時まだ異常事態だった応仁の乱が終わっていなかった事とも関係があったのでしょう。③は、権中納言については尊氏が征夷大将軍任命時には既に権大納言だった事も理由だったのかもしれませんが、参議を経ない摂関・清華家と権中納言を経ない足利将軍家の対照にも注目です。右大臣も、源実朝が任命直後にすぐ暗殺されてしまったから(後に秀吉が、かっての主君だった信長が右大臣が最高職のまま本能寺で横死した事が理由で内大臣から左大臣の昇進を望んだ事と似ているとも言える。秀吉の場合はそれで摂関職交代するかしないかで揉めて、ついに自身が関白となったわけだけど)だったのでしょう。秀吉からさらに時代が下って、武家官位としてでしたが、徳川将軍が基本的に右大臣を最高職にしたのとも対照的です。(ただ、徳川将軍の場合は綱吉以降は、長く将軍を経験しないと任命されず、内大臣のまま亡くなった将軍もいた)④は義詮以降先例となり、平安中期以降は権大納言に昇進した時点で大抵官位も正二位か従二位になっていると思われますが、前述通り権中納言は経ない為に一時的ながらも官位と官職のバランスの悪さが感じられた様に見えます。⑤は、清華家も安土桃山期以前は左近衛大将に任命された例はありましたが、足利将軍はその例はありませんでした。あの義満ですら経験していませんが、そんな事は彼にとってはどーでも良かったのかもしれません。⑥は、摂関家は従一位になった時点で官職も既に大臣を経験していて清華家も殆どがそう、中にはそうでない人もいながらもそういう人は従一位昇進と同時に権大納言は辞職したらしいですが、足利将軍にとっての従一位は近い将来の大臣昇進の約束となっていた様です。

一番残念だったのが⑦ですね。義教は任命時既に壮年期だったからか参議・左近衛中将~内大臣まで僅か3年で昇進したのですが、基本的に官位は従三位・官職は権大納言が最高で、義稙は大内義興の軍事的支援を得て返り咲いた時に従二位まで登りましたが、官職は再び辞めるまで10年以上も権大納言のまま。義澄にいたっては参議止まり。義晴も何度か京から逃げたり、一時引退をほのめかしたりした事もあってか、16年も従三位・権大納言のままで将軍をやめてから右近衛大将になったのですが、それが殆ど意味をなさなかったのは最期を見ても分かる事でしょう。義輝も暗殺されるまで10年以上従三位・参議止まり、義栄はそもそも京都に入れなかったので四位にすらなれず、義昭も信長に追放された時点で従三位・権大納言。最終的には、足利将軍家では義視(彼自身は将軍にならなかったが)以来の准三后宣下を受けましたが、この時点で既に秀吉による天下統一は時間の問題であり、それに貢献したわけでもありませんでした。

https://r-kiyose.hatenablog.com/entry/20060316/p1

大臣も大将もそれぞれ拝賀・節会に金がかかるので出来なかったという経済的な事情もあったらしいですが、それにしても・・・・・・・・このはてなブログでは足利将軍家が摂関家に准ずる地位を獲得したとの説が紹介されてましたが、義尚が早世してから義昭が信長に追放されるまでついに80年以上も大臣にも大将(厳密には、前述通り義晴は将軍職をまだ義藤と名乗っていた義輝に譲って以降久々に右近衛大将になったが、大きな意味はなかった)も出せず、従二位・兵部卿になった大内義隆みたいに足利将軍よりも高位の戦国大名も出てきた事からもです。

このはてなブログでも言及されていた今谷明氏「信長と天皇」という著書でも「信長が光秀に裏切られて本能寺で死んで、織田政権はたちまち瓦解したのに対し、足利義満が応永の乱で大内義弘を滅ぼして以降は光秀の様な存在等皆無となり、その後15代まで続いた。」と、比較していましたが、足利将軍が15代約240年続いたのをどや顔で強調するのなんか的外れなのが改めて分かります。そもそもまた、信長と朝廷の関係も近年は今谷氏らが言う様な対立説よりも調和・友好説の方が有力になってきていて、確かに応永の乱は義弘その人を滅ぼす事には成功しましたが、義弘の跡継ぎを義満や幕府が望む人物にする事に失敗して、そうでなかった盛見の継承を認めざるを得ず、その後もなかなか幕府の言う事を聞かなかった九州の諸大名対策だって、義満本人が今川貞世(了俊)に代わって起用した、九州探題だった筈の渋川氏よりも大内氏をアテにせざるを得なかったではないですか。

今谷氏ってどうも足利政権、特に義満を過大評価しているきらいがあって、結局は守護大名に領土を与え過ぎた体制そのものまで変える事が出来なかったのは義満の限界点(家康は関東移封時、家臣に領土を与えた際も井伊直政と榊原康政、本多忠勝以外は石高一桁で、蒲生氏郷は「ケチだから天下が取れない。」と評したらしいが、足利政権の失敗点も反面教師にしたとも言える)でしたが、これでは映画では日本アカデミー賞で優秀主演女優賞と、優秀助演女優賞のダブル受賞も果たしたのをスルーして、民衆の敵(これだって、私も決して支持者ではないけど、甥もテレビ局社員なのに某総理の持病を揶揄する脚色も見せたのだからマトモな人がそっぽを向くのは当然の事)とかたまたま近年の出演ドラマが低視聴率だったのを蒸し返して、「今度のハケンの品格続編の視聴率が取れなかったから彼女はもうオワコンだ。」という様な、ちびまる子ちゃんの藤木よりも全然「卑怯」なネガキャンした東スポやアサ芸の事も批判する資格もありません。東スポは最近もまた、「最初はオファーを受ける気はなかったが、レッスンで綺麗になって体重も10キロ落ちて30代前半の美貌に戻った」なんてセクハラまがいのクソ記事書いていて、元々歳相応より若々しい美人だろで、いい加減廃業してくれないかね~ですが・・・・・・・・・・・・

まあそれはともかく、麒麟も桶狭間で放送休止という事は、その直前の信長上洛(同時期には上杉謙信も上洛している)の話も描かれて、また向井義輝も登場するのかな?ですが、義輝も義昭もどういう人物に描かれるのか。話数削減しないで越年になっても全44回放送してほしいけど、史実の足利将軍がじり貧になってもそれも要注目であります。

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2020/05/02

小学館学習まんが人物館「明智光秀」感想

https://www.shogakukan.co.jp/books/09270134

緊急事態宣言も延長される見込みだし、完結できるのか不透明(桶狭間までは収録済みらしいが・・・・・・・)な「麒麟がくる」ですが、今年の大河主人公という事で明智光秀も最近何作も伝記漫画が出ている様です。まあ以前からも火の鳥文庫でも取り上げられた事があったのですが、少年少女人物日本の歴史シリーズでも戦国時代研究の第一人者で、信長らの監修を担当されていた小和田哲男氏が監修なこの小学館学習漫画人物館版のも目にする機会があったのでちょっとした感想を述べます。

そもそも生年も父親が誰なのかもハッキリ分からない謎だらけの人物(これが自分が光秀に惹かれる大きな理由の一つなのですが)だという事もあってか、始まりは足利義輝が暗殺される直前の、朝倉義景に仕えていた所からのスタートでしたが、義輝暗殺が無ければこのまま朝倉氏の家臣で終わっていたかもしれないですね。しかし、運命は大きく変わり、義輝が暗殺されて、弟の義昭(当初は義秋)が越前に逃げてきた事で義昭が義景の代わりに頼った信長に仕える事になったのですが、光秀が主人公という事でか、信長はどちらかと言えば暴君で、最初は光秀の意見も聞いていたのがしだいに独裁者的傾向を強めていった姿も描かれていました。(あの髑髏のエピソードも忘れていなかった)

それに比べて秀吉は、集英社版の「織田信長」ではお互いライバルとして張り合っていた姿が強調されていましたが、この小学館版では光秀の良き同僚みたいな感じでしたね。顔つきは貧相でしたが・・・・・・・・・・・・信長が佐久間信盛を追放した際、光秀と秀吉を引き合いに出して高く評価していた事についても触れられていましたが、「魔王が近くに入れても自分達を守ってくれるとは限らない」もその通りだと言うか、実際信長は仕えてみると神経すり減らしそうですね。信長も好きだけど、仕えるのなら家康の方が良いと言うか、当然終盤は本能寺の変の話となっていったのですが、武田討伐直後の祝宴で「我々も骨を折った甲斐がござった」で信長がキレた件は本当かもしれないし、長宗我部氏がらみで自分の立場に危機感を感じたのも確かに理由の1つだと思います。しかし、敵のそれと接しない領地(丹波と近江坂本)召し上げと切り取り次第な新領地のセットはどうやら真実ではないらしいです。敵の領地に接した加賀南半を領していた簗田広正に同北半の切り取り次第を命じるも、結局失敗して、元の領地まで召し上げられた例はあったらしいですが・・・・・・・・・・

小和田氏も、学者だからあまり軽々しく断定すべきではないと思われていたのか、怨恨説や黒幕説は最近そんな支持されなくなっているとか述べた程度で光秀が本能寺の変を起こした明確な理由については述べてなかったですが、謀反人として後世良くないイメージがついてしまった一方で、現在でも福知山とかゆかりのある地域では愛されている事も示されていましたが、特にその福知山では光秀が喋る自販機もあるらしい。

他の光秀の伝記漫画も読んでみたいとも思うけど、やはりコロナも早く収束して、麒麟も打ち切りになんかなる事なく完結してほしいですね。長谷川博己氏だって、正直前は演技上手いのかそうではないのか分からない印象があったけど、麒麟での光秀本来のキャラクターに良くマッチした演技されているし、麒麟自体も見ていて普通に面白いですし・・・・・・・・・・・・・・

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2018/12/02

イタリアキリスト教民主主義の首相、党首、書記長について

早いもので来年1月で10周年を迎えるこのブログは出来るだけ土日祝日は更新するつもりですが、今回はこの話ですね。何の話かと言うと、最近イタリアキリスト教民主主義(以降DCと表記)を中心とした戦後のイタリア政治史にも興味を持っていて、中公新書の「イタリア現代史」という本も買って、ざっと読んでみたのですが、冷戦終結直後までずっと政権与党で、保守~穏健なリベラル・左派まで幅広い考えの人達が集まっていて、首相交代が頻繁で、最後は汚職等の腐敗から与党の座を失う・・・・・・・と55年体制時の自民党と似ていました。違っていたのは選挙制度の違い故にDCは単独過半数の議席を得ていたのはごく一時期で、最大野党・共産党との勢力差は自民と社会よりは小さくて、殆ど他の政党と連立政権と組んでいた事と、政党自体が無くなってしまった事とかですが、それだけではなく・・・・・・・・

自民の場合は党のトップを選出する総裁選挙は事実上の首相選挙ですが、DCは書記長が党のトップかと思いきや、さらに別にPRESIDENTE DELLA DEMOCRAGIA CRISTIANAという役職が存在したのです。キリスト教民主主義党首と訳して差し支えないだろうけど、それぞれ歴代の面々を見たら、首相在任期間は吉田茂とほぼ重なっていたアルチーデ・デ・ガスペリは殆ど党首と首相を兼任していたけど、他は党首も書記長も首相と兼任した事がある人はそれぞれ数人しかいなくて、しかもごく短期です。

DCの党首、書記長はそれぞれ自民の総裁、幹事長に相当するのだろうけど、自民は総裁の後幹事長になったのは谷垣禎一氏しかいないのに対し、DCはもっと例があった様です。また党首は、5代目のベニグノ・ザッカグニーニまでは1期3年だったのが、6代目のアミントレ・ファンファーニが元老院議長に就任するためにすぐ辞任した後はしばらく1期2年に短縮されて、9代目のアルラルド・フォルラーニからは1期3年で連続3選まで(首相も兼ねたが、8ヶ月で辞任し、数年後に副首相としばらく兼任し、退任後は今度は16年ぶりに書記長に就任する)に戻った・・・・・・・・・

と思われると思っていたら、この党首はPRESIDENTE DEL CONSIGLIO NAGIONALEとも表記される様なのです。直訳すれば国民議会会長となります。日本でも例えば自民の場合は橋本聖子氏が参議院議員会長を務めていますが、日本に当てはめれば、実際は存在しませんが、参議院だけでなく衆参両院における国会活動を取り仕切る役職という事になるのか?と思いきや、それも権限の一つなのだろうけど、CONSIGLOは会議とも訳す事が出来て、国民会議議長と訳するのがより適当な気がします。、つまり、党会議(党大会)時に議長として取りし切る役職だった様です。ただ、何年に1度と厳密に決まっていたわけでもなかったらしいですが、次の党会議(党大会)開催を待たない交代も見られた様です。

要するに、党会議議長は議会における元老・代議両院での国会活動の統括(実際また、日本の参議院とは違い元老院も必ず代議院と同時に解散する)及び2~4年に1度開催される党会議の議長、党書記長は日常的な党務の統括が主な権限(日本の政党の幹事長にそのまま相当すると見て良いだろう)で、首相と明確な権力分担がなされていたのでしょうね。前述通り首相と党会議議長または党書記長が同一人物だった時期はガスペリ政権期を除けばごく短期に過ぎず、またいくつも派閥もあったのもDCと自民は似ていて、党議会議長・党書記長・首相がそれぞれどの派閥に所属していたかまでは知りませんが、今後時間あらば色々調べてみたいと思います。

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2018/09/17

百人一首の歌人達(24)-15番光孝天皇後編

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
(15番光孝天皇)

さて、前編では時康親王(光孝天皇)その人よりも彼が就いていた式部卿の話が中心となってしまいましたが、後編です。

式部卿は基本的に皇族の最長老格が任じられる「上がりポスト」で、時康親王任命時はもう一人の叔父の秀良親王もまだ存命でしたが、前編でも話した通り、どうも祖父の嵯峨上皇が亡くなった途端パッとしなくなってしまいました。単に凡庸な人物だった事以外にも直後の承和の変で主導権を確立した藤原良房との関係とか考えられる理由はいくつかあるのでしょうが、ともかく忠良親王の後任として876年(貞観18)末に任命されました。

この直前、天皇は清和天皇から陽成天皇に代替わりしましたが、陽成天皇は兄の文徳天皇の孫ですから、2世代後の幼君です。天皇が幼君という事で、外伯父の藤原基経が摂政になりましたが、同母弟の貞保親王もいたし、その上基経は清和上皇に娘の頼子と佳珠子も入台させていて、上皇と佳珠子との間にも貞辰親王が産まれていました。皇室と藤原北家嫡流の外戚関係は当分安泰かと思われました。

ところが、伊勢物語等での在原業平との関係もどこまでが本当だか分かりませんが、天皇実母の高子は兄・基経と仲が悪かったのです。陽成天皇自身も暴君ぶりが伝えられるエピソードが残ってしまって、わずか16歳で退位させられてしまいましたが、実際は兄妹の確執のとばっちりを受けてしまったに過ぎなかったのでしょう。そして、その後の天皇が誰になるのかですが、当時の感覚では既に老人な時康親王に白羽の矢が立ってしまったのです。

しかし、前述通り他に次期天皇候補がいなかったわけでもなかったのですが、貞保親王はまあ、母親(高子)の悪い影響をおそらく受けていたから分かります。しかし、貞辰親王が即位できなかったのはいささか解せないです。養父(叔父)の良房同様天皇の外祖父になれたのにです。加納重文氏は権勢者への道を開いてくれた感謝の念もあった一方、権謀術数の行使があまりに露骨だった事への反感もあって、良房が敷いたレールに頼らない自己流の権勢を築こうとしたのではないかとの見解を述べていました。(ソースは「歴史と旅」1990年12月号)

実際基経はまた、これも加納氏は指摘していましたが、40年以上前に承和の変で皇太子を廃されていた恒貞親王も天皇候補にしようとしていた様で、これは本人が断ったため実現しませんでしたが、恒貞は既に60近い老齢(もし即位していたら現在でも生没年のハッキリしている歴代天皇では61歳の光仁天皇に次ぐ2位の即位時高齢天皇となった)な上に、若くして出家した事もあったのか記録に残る子女はいなくて陽成天皇廃位7か月後に亡くなっています。つまり、即位してもほんの一時的な中継ぎにしかなれなかったのですが、基経は天皇の首も思う様に挿げ替えられた様に見えて、かなり焦っていた事が伺えます。

貞辰親王はどうして即位できなかったのか?生母の佳珠子は母親が誰なのか分からず、879年(元慶3)に夫、清和上皇が出家したために恩給を止められて以降どうしていたのか分かりませんでしたが、陽成廃位時には既に亡くなっていたのでしょうか。

この頃また、高子は既に皇太后の尊称を得ています。いくら清和法皇の別の妃腹の子(貞辰)が天皇になっても高子は継母でもあるからそれ相応の配慮や待遇などはしなければいけません。結局基経は何かそこまで弱みを握られていたわけでもないにしても、もう一人の妹で、夫(藤原氏宗)死後は宮廷につかえていて、一定の発言力もあった淑子と連携する道を選んだのでしょう。時康親王に白羽の矢が立ったのは息子の一人であった定省王が淑子の猶子だった事も大きかったのでしょうが、基経とは母親同士が姉妹だったのも決め手になったと思われます。実際また、時康親王即位後すぐに淑子は天皇の傍に仕える尚侍に任じられましたが、これも高子への牽制の意味合いも多分にあったかと思われます。

さて、そうして即位した時康親王もとい光孝天皇でしたが、当然政治にはそんな関心などなかったと思われたので、既に太政大臣にもなっていた基経に国政委任する旨の詔を出しました。この時点では関白という日本特有でもあった正式な官職が作られたわけではなかったのですが、実質的な関白だったと見ても差し支えありません。前述した通り、光孝天皇が誕生したのは貞保・貞辰どちらが天皇になっても基経は不仲な高子とも強調して政権運営しなければいけない事に変わりなかったからですが、光孝天皇はホント良い人で、貞保が次の天皇になるにあたって面倒なもめ事を起こさない為に皇子達を臣籍降下させたのです。嫡男の時平が元服する際にも自ら加冠しました。

しかし、天皇の治世は長くは続かず、887年(仁和3)に重態となってしまったのですが、基経も天皇の配慮を一方的に受け続けていたわけでもなく、まあ前述通り淑子の猶子となっていた事が大きかったのでしょうが、臣籍降下していた源定省を推薦したのです。愚管抄によれば、天皇は両手で基経・定省それぞれの手を取り、「大臣の恩を忘れる事なかれ」と繰り返し定省に説いたとされています。間もなく天皇は崩御しました。

そして宇多新天皇が誕生して、ここで正式に基経を関白に任命しますが、辞退されます。これはあくまで形式的なもので、「俺って慎み深いから一旦断ったけど、それでも『是非やってくれ』と言われるほど信頼されているんだぜ~」と示す為のものでしたが、橘広相が改めて出す詔勅を起草しました。しかし、その中に明言されていた役職が阿衡という具体的な権限がないとされているものだったから大問題となり、しばらく政務をボイコットしてしまったのです。

表向きは菅原道真の諫言で機嫌を直したという事になっていますが、基経の真の目的は広相潰しだったのでしょう。そもそも繰り返し言う通り、他にも天皇候補がいたのに光孝天皇や宇多天皇(さらに醍醐天皇)が登場したのはそれ相応の配慮や待遇をしなければいけない高子との不仲故に断念しなければいけなくなったからで、しかも宇多天皇はまだ源定省(または定省王?)だった頃からこの広相の娘とも結婚していたから、なおさら誰のおかげで天皇になれたか分からせてやらなければならないとも思ったのでしょう。実際また、この後基経のもう一人の娘、温子も入台しましたが、皇女一人しか生まれなかったばかりか基経が死んだ後はもう果たす義理なんてないと思ったのかどうか知らないけど、もう皇子女は生まれませんでした。

もうここからはなるべくあまり突っ込んで言及したりはしないけど、宇多天皇が基経に色々配慮していた父と違って、彼の死後、時平がまだ若い事も言い訳にして菅原道真らを起用して藤原氏を抑えながら親政したのは良いのです。しかし、実際やった事は却って道真の立場を悪くしたものも目立ちました。

臣下からの即位という前代未聞の例となり、実際陽成上皇(源定省だった時に仕えていた)とか快く思っていなかった面々もいて、温子との間に皇子が生まれない内にもという事で893年(寛平5)に実施した敦仁親王の立太子を道真だけに相談したまではまだかろうじてセーフだったでしょう。第一皇子だったし、生母は主流ではないとは言え、藤原北家勧修寺流の出身であり、一方で時平にとっては妹である温子との間には前述通り基経死去以降皇子女は生まれなかったからです。しかし、譲位までその時点で中納言から太政官の首班となっていた時平にも相談しないで、これまた道真と2人で進めた事は実際ボイコットした公卿も数人出たほど反感買うのは当然だったし、トドメを刺したのは時平の妹、穏子を醍醐天皇に入台させるのは反対していた一方で、天皇のすぐ下の弟、斉世親王(厳密には斉中親王という天皇と同じ生年の弟もいたが、既にこの時点では早世していた)と道真の娘を結婚させた事です。しかもこの斉世親王の母は阿衡事件で基経の標的にされた広相の娘、美子です。阿衡事件で基経の機嫌を取る為に自分の誤りを認めてまでしたからこそ、藤原氏を抑制しようとしていたはずなのですが、そんな事までしたらなおさら藤原氏が黙っているわけがないとか想像できなかったのでしょうか?過去の苦い経験自体もう忘れてしまったのでしょうか?

その結果、実際陽成上皇を警戒していたにしても、「天皇の直系尊属である」と付け加えるの忘れていたんじゃないの?でしたが、「上皇または法皇と言えども天皇の許可なくして内裏に入る事は出来ない。」なんてルールも作ってしまったから道真を見殺しにしてしまいました。その後は「もう済んでしまった事はしょうがないや、てへっ」と思っていたのかどうかは知らないけど、遊興を楽しんでいた様で、温子が亡くなった907年(延喜7)には小倉山にハイキングに行った際、紅葉に感動して、「天皇にもこの紅葉をみせてあげたいものだ。」とうそぶいたほどだった(これを見た時平の弟、忠平の歌も百人一首に選ばれている)のだから遅くともこの頃までには醍醐天皇と和解していたのでしょう。時平も無視していたわけでは決してなかったらしいですしね。

それでも、時平も亡くなって、忠平が平将門も自分の手足として使いながら藤原北家の主流たる地位を確立していくにつれて宇多法皇も一定の政治的影響力も取り戻していった様で、正直君主として高い点数は付けられないのですが、道真の怨霊も含む数々の事件も有りながらも2018年現在に至るまで光孝天皇直系の子孫のみが皇位を継承しています。光孝天皇の即位はその後も注目された事があった様で、特に室町時代です。以前過去エントリーで光孝天皇の即位から500年下った北朝(もっと正確には後光厳系)の天皇達も自らの正当性の弱さにコンプレックスを持っており、ついにそれを克服する事が出来ないまま本来の嫡流だった崇光系に皇位が戻ってしまったと指摘しましたが、それは北朝最後の天皇である後小松天皇も例外ではなかった様です。

yahoo知恵袋でもベストアンサーに選ばれた回答していた人がいましたが、南北朝の動乱は初期と観応の擾乱期を除けば勢力的には北朝が優勢でしたが、合一が成ったのは南朝が正当なのを認めたからで、そこまでして三種の神器を後亀山天皇から譲ってもらったのですが、確かに「南朝の判定勝ち」とも見れなくもなかったでしょう。

勿論古今東西、約束事なんて当事者間の力関係次第で変えられるものですが、足利義満もタヌキでしたから両統徹立は反故にされて、自らの次は皇子の實仁親王(称光天皇)が他天皇になる事が出来ました。しかし、本来臣下である筈の義持に名前も変えさせられてしまったけど、病弱で子女に恵まれず、もう一人の皇子の小川宮も奇行が目立っていて、自身も義持の事を「室町殿様」と呼ぶほどだったらしいです。

その義持が死んだらたちまち報復行為を取ったのも、石ノ森章太郎氏の「マンガ日本の歴史」にも描かれていて、その裏返しと言えたのでしょうし、これも知っている人は知っていますが、「小松」は光孝天皇の異称なのです。結局称光天皇も小川宮も子女が出来ないまま早世し、落胤と言われている一休宗純も既に出家していたから自身の直系子孫に皇位を継承する事は出来ませんでしたが、後小松の遺詔は自身だけでなく、祖父の後光厳や父の後円融(円融天皇も、上の兄弟には冷泉天皇の他にも将来を期待されていた為平親王がいたが、即位100年後に冷泉系を女系として皇統が融合される事となった)も含んだ後光厳系の正当性を示す強い意志の表れな想像は難くないです。しかしまた、少子高齢化が進んでいる現代ではもうこの光孝天皇の様な皇位継承例は発生しないでしょうけどね。その次の宇多天皇の例だったら、もう70年以上もブランクあるけど、まあ存命中の皇籍離脱された旧皇族の方々もまだ何人かはいる(ただし、後陽成天皇や東山天皇の男系子孫の方々の方もいる)し、まだほんの少しは可能性あるかもしれませんが・・・・・・・・・・不謹慎なのは重々承知しているけど、秋篠宮も眞子さまダメだったものね。佳子さまだって祖母の悪い影響受けてそうだし、これで悠仁さままでダメだったらな悪い予感もせずにいられないもの。正直な話・・・・・・・・・・

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2018/09/09

百人一首の歌人達(23)-15番光孝天皇前編

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
(15番光孝天皇)

約4か月ぶりのこのシリーズですが、第23弾は光孝天皇です。誰なのかは分かりませんが、この歌の意味は想いの人の長寿を願って春の野草を積みに行ったら、服の袖にもう季節外れな筈の雪が降り積もってきましたというもので、実際光孝天皇って他にもいくつかぐう聖エピソードがあって、晩年に深く関わる事になる藤原基経も感心したほどだったらしいですが、優しい人柄が偲ばれる様な名歌でしょう。

実際光孝天皇こと時康親王は将来の即位が望まれる様な人では全然ありませんでした。生母は兄の文徳天皇と同じ藤原氏でも四条流で、高祖父の藤原魚名は桓武朝初期に失脚してしまい、死後名誉回復がなされるも曽祖父の末茂と祖父の総継は従五位で終わっています。生母の沢子は、810年(弘仁1)生まれの夫・仁明天皇と同じぐらいの歳だったでしょうが、少年期に死別しています。

承和の変直後に元服して以降、権力の中枢とは関係ない、親王が就く事が慣例となっている官職ほぼ全て歴任しました。同母兄弟の宗康・人康両親王は比較的若くして亡くなりましたが、時康親王は最長老的皇族が就く慣例となっている式部卿まで昇進しました。八省卿は他にも中務卿と兵部卿が親王ポストとなっていた様で、いずれも嵯峨朝以降の慣例となっていた様ですが、歴代人物を見ると、必ずしも厳密にそうだったわけもなかった様です。

舅の仲野親王(大叔父でもある)が863年(貞観5)に辞任して、その次は2歳年下だった賀陽親王かと思われましたが、彼も既に70近く、引退を願い出ていたほどだった事もあってか実現しませんでした。結局一世代下って、嵯峨天皇の皇子だった忠良親王が任命されましたが、彼も当時存命で、親王だった嵯峨天皇の皇子達の中で最年長だったわけでもなかったのです。

業良親王は、薬子の変等どうやら将来の皇位継承をめぐる権力争いに巻き込まれてしまった様ですが、生母の高津内親王(嵯峨天皇とは異母兄妹で、この時代は片親が違う兄妹または姉弟同士の結婚は珍しくなかった)が妃をやめさせられ、自身も精神疾患を抱えていた(ただ、無品でもあったが、当時の感覚では短命ではなく、享年は50代後半と思われる)からまあしょうがないとして、もう一人の兄の秀良親王も、以前取り上げた源融共々宇多朝時まで存命していたのですが、父上皇(嵯峨の事)が亡くなった途端パッとしなくなり、左大臣まで出世した融やその他兄弟達と違い、影の薄い存在なまま生涯を終えてしまった様です。父から気に入られてはいたが、能力は特に秀でていたわけでもない凡庸な人物だったのでしょう。

取りあえずそこから90年近く下って、時康親王からは孫にあたる敦実親王が950年(天暦4)に出家した後は、他の兄弟で存命者はいなかった(姉妹だったら数人いた)ので、また一世代下って、当時存命の、村上天皇の兄親王面々では最年長だった重明親王が任命されました。ところが、重明親王も4年で亡くなってしまい、その次は式明親王か有明親王が・・・・・と思いきや、嫡流ではなくなって既に半世紀以上経っていた文徳系(陽成上皇皇子)の元平親王が任じられ、彼も数年で亡くなったら今度は元長親王が任じられたのです。

元平・元長両兄弟の方が重明親王らよりも年長で、元長親王任命時には既に有明親王(なお、最初に取り上げた藤原定家も彼の子孫でもある。有明親王-源守清-源高雅-源ヨシ子-藤原忠家-藤原俊忠-藤原俊成-藤原定家・・・・)は亡くなっていたのですが、元長親王はまだ分かります。時康親王の息子で、後述しますが、天皇になる可能性もゼロではなかった是忠親王の娘が生母(つまり時康親王にとっては曽孫)だったからです。

元長親王には同母弟の元利親王もいて、彼は兄より先に亡くなってしまった様ですが、元平親王の外祖父は藤原遠長という、公卿にすらなれなかった傍流に過ぎません。ましてや、時康親王もその後に即位した宇多天皇も陽成上皇を警戒していた様で、宇多天皇が結果的に菅原道真を見殺しにしてしまったのも、「上皇といえども天皇の許可なく内裏に入ってはいけない」なルールを作ってしまったからなのですが、長生きだった陽成上皇も既に亡くなっていて、彼に配慮する必要もなかった筈です。何故そんな人物が名誉職とは言え式部卿になれたかですが、この元平親王、実は清和源氏の祖とされる源経基と同一人物だったのではな説もあるのです。

経基は生没年共にハッキリしませんが、生年は893年か914年で没年は958年か961年です。元平親王は890年(寛平2)生まれの元良親王のすぐ下の弟ですから、2、3歳程度しか離れていなかったでしょう。没年は958年(天徳2)で、経基の推定生没年とほぼ重なります。今回はホントにそうだったのか深い考察をする余裕はありませんが、もしホントに同一人物だったとしたら、平将門の反乱を告発(しかし、その時点では偽証だった)し、藤原純友の乱を鎮圧(ただし、実際純友を破ったのは小野好古)した功績も称えられての任命という事になりますが、それならそれで敦実親王のすぐ後に任命されていただろうし、経基が元平親王の息子だったという説の方がまだしっくりきます。(その場合、源頼朝や足利尊氏ら後世の子孫達も清和源氏ではなく陽成源氏という事になるが、経基は914年生まれと見た方が正しく、一方で今度は満仲が先に生まれた事になってしまうが、満仲は919~928年の間に生まれた説もあるから、920年代後半生まれならばまあ元平親王の孫で経基の子なのもありえなくはない)

ホントはどうだったのかは分かりませんが、元長親王も父ほどではないにせよ、70代半ばまで長生きして亡くなった時には既に円融天皇の御代となっていました。この時点で皇族の最長老格は章明親王でしたが、後任は天皇の兄である為平親王でした。彼の場合は理由は明白です。後ろ盾となるはずだった外祖父の源高明が安和の変で藤原氏に排除されてしまい、即位への道が完全に閉ざされてしまった事への配慮です。(これで藤原氏の権勢を脅かす存在が完全にいなくなったと思いきや、今度は天皇の伯父・叔父である兼通・兼家両兄弟の確執が始まり、そのあおりを受けて源兼明も皇族復帰させられ、彼が弟の章明親王に代わって最年長皇族となる)

為平親王の後も藤原氏嫡流の都合で天皇になり損ねた面々の任命が続く事になりました。外戚の中関白家が没落してしまった敦康親王はわずか16歳2か月で任命され、葛原親王が200年以上保持していた任命時最年少記録(23歳10か月)を更新してしまいましたが、亡くなるのも早く、僅か19歳1か月の生涯でした。(娘がいて、従兄でもある後朱雀天皇に入台したが、皇女しか生まれなかった)その後の敦儀・敦平両親王道長との確執の末、内裏の火事や眼病もあって退位を余儀なくされた三条天皇の皇子、皇位継承権を辞退させられた敦明親王(彼も式部卿経験あり)の弟で、次の敦貞・敦賢両親王はその敦明親王の息子です。

「親王の息子も親王?」とツッコまれる方もいるかもしれませんが、敦明親王は皇太子辞退と引き換えに准太上天皇の待遇も得たので、本来三世王なこの両親王も親王待遇となったのです。ところが、長く続いた藤原氏の全盛期もこの間に陰りが見られる様になりました。敦賢親王が亡くなった時には既に白河天皇の御代、時代は摂関政治から院政への移行期となっていましたが、白河天皇には存命のおじや大おじはいなくて、彼の後に即位するはずだった弟達(実仁・輔仁両親王)もまだ幼く、法親王達も登場する(以前から入道親王は存在してはいたが)様になり、さらに院政から武士の時代となった為か式部卿はこの後200年以上も途絶えてしまった様です。

復活した時は既に百人一首の歌人達は全員故人となっていて、式部卿の話に随分深入りしてしまいましたが、実際また、皇族が就くのが慣例になってから白河朝で長く途絶えるまでは基本的に「上がりポスト」にもなっていました。時康親王も本来式部卿として生涯を終える筈でした。しかし、運命のいたずらが起こります。長くなってしまったので前編・後編に区切ります。続きは後編で。

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2018/07/11

春秋後期~戦国期における東周の面積はどれぐらいだったか

http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/C027.htm

最近中国史は周代~春秋戦国期に興味を持っていて、故・横山光輝先生の史記も何巻か買いましたが、その中でも特にその周ですね。

別のサイトでは、最大領域は現在の中国の6分の1ぐらいだったのではと考察(ちなみに秦は統一後に征服した華南とベトナム北部の一部を含めて2.5分の1ぐらいだろうとの事)されていましたが、その周も建国後200年を過ぎると衰えが目立つ様になった様です。イソップ童話のオオカミ少年に似ている幽王の末路は正直私はあまり信じていませんが、その当時は統一王朝とされていた西周のラストキングだった事は事実であり、彼の治世を境に、都も現在の洛陽市に遷都(東周)、春秋戦国時代に入ったわけですが、いつの間にその洛陽周辺を支配するに過ぎない地方政権に転落していった様です。

殷・周代は邑という都市国家の集まりだったらしい(夏は実在した王朝だったかは微妙だが、証拠も全く皆無ではない様である)ですが、その洛陽周辺だけが実際直接的に支配していた地域だったのでしょう。実際これも他のサイトでも指摘されている様ですが、周の王って日本の室町幕府の将軍に似てるよね。血縁者も珍しくなかった諸侯達との連合政権で、一諸侯に転落してもしょーこりもなく跡継ぎ争いを繰り返していた所とか。周の王はその室町幕府将軍に宗教的権威をプラスした様でもあったけど、末期でも積極的に戦国大名間の調停等していて、織田信長や上杉謙信も直接会いにやってきた足利義輝の様な将軍もいた室町幕府(だからと言って、今谷明氏が「信長と天皇」で足利義満と信長の権力基盤の強弱も比較して、信長をやたら過小評価したのには「足利将軍が15代続いたのなんてドヤ顔で強調すべきことじゃないだろーーー!!」とか「全盛だった義満期だって、鎌倉公方を牽制する為に元々南朝方だった伊達氏に協力してもらわざるを得なかったし、応永の乱も大内義弘その人を滅ぼす事は成功しても、その後幕府が望む跡継ぎを擁立できなかったじゃないか!!」とか色々ツッコミどころ有りでしたが)と比べると特に戦国期の周および周王の空気ぶりには独特の強い哀愁を感じるのです。

そもそも周が地方政権に転落したのも、褒ジ(変換できず)の存在有無に関わらず、後継者問題が大きな原因の一つだったのに彼らはつくづく歴史から学ぶ事が出来なかった様ですが、この上記サイトでも東周がさらに本家と西周公、本家と西周公・東周公に分裂した話が分かりやすく紹介されています。この東周の分裂は春秋末期の事で、直前に王が1年で3人も代わる異常事態も間違いなくその引き金となっていたのだろうけど、東周の面積はこのサイトによれば「東京都と同じぐらい」らしい。ソースは吉川弘文館「世界史地図」だけど、実際はどれぐらいだったのか考察してみました。

まずこのサイトでそのソースとされていた地図中の周の東端と西端は現在のどこの市区に相当するかです。東端のケイ陽は河南省鄭州市ケイ陽市(中国では地級市の中に県級市という自治体があり、ケイ陽市は鄭州市の一部なのである)で、西端は西北部の周との国境に近い街に垣曲がありますが、これは現在の山西省運城市垣曲県(日本では県の方が上位の自治体だが、中国では地級市の下位自治体な様である)の事な様で、その位置から鑑みるに、河南省三門峡市東部かと思われます。両市の距離は190キロぐらい、約120キロな檜原村(国道411号の山梨県との境)~葛飾区(国道6号の千葉県との境)までよりは遠いです。次に北端と南端の距離です。嵩山と陽城(現在の鄭州市登封市)のほぼ中間にある、当時の韓との国境から魏との国境である黄河(現在の河南省焦作市辺り)までの距離は55キロほどです。東京都の場合、清瀬市から稲城市までの距離は25キロほどですが、国内どこでも南北55~65キロほどの距離があったかと思われます。

東周の面積は東西で東京都の1.6倍ほど、南北で同都の2.4倍ほどだけど、東京都よりは明らかに広く、3.5~4倍はあったかと思われます。しかし、それでも7600~8500㎢ほどで、約6100㎢の茨城県よりも広いけど、現在の河南省でも北西部の一部を治めていた過ぎなかったのですね。東周公は地図中のキョウ(またまた変換できず)は現在の鄭州市キョウ義市で、ケイ陽市までの距離は45キロ程度だから、面積は東周全体の4分の1、2000㎢前後で東京都とほぼ同じ、神奈川県等よりはやや狭く、外国と比べればミニ君主国家のモナコやリヒテンシュタインよりは広いけど、同じくそうであるルクセンブルクの8割程度に過ぎません。確かに、時のまにまにとして中国のラストエンペラー達等HPで歴史エッセイも公開しているMIC's Convenienceの管理人、猪間道明氏が言う通り、東周以降の王はプリンス(大公)相当だと見るのが妥当でしょうね。

BC(紀元前)256年に先に本家周と西周公が滅んだけど、これら合わせておそらく面積は茨城県と同じぐらい、しかし、人口は西周は3万人しかいなかったという。下妻市や高萩市、旧笠間市(友部町、岩間町との合併直前時点)等と同じぐらいじゃない。周が殷に代わって統一王朝となったのはBC1046年頃で、東周公もとうとう秦に滅ぼされたのが同249年だから約800年続いた事になります。(殷周革命前から国自体は存在していたけど)秦以降の各王朝と比べて、領域範囲は狭くとも、存続した期間はダントツのナンバー1かと思われますが、滅亡後王族達もどうなったかハッキリ分からない(劉姓を名乗る様になり、魏晋南北朝時代に活躍した末裔もいたらしいが・・・・・・・)し、後からならば何とでも言えると言うか、アウラングゼーブ死後のムガル帝国もそうだけど、狂いだした歯車を止めて、もっと一定以上の勢力を維持する事は出来なかったのか?周の歴史を改めてざっと俯瞰するとそうも思いますね。最近また、佐藤信弥氏著作「周-理想化された古代王朝」も買ったので、完読したらその感想も述べてみたいとも思います。

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