歴史

2017/04/09

「べリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路」の感想

Saitama_r66old

もう散り始めていましたが、これは今日撮影した、埼玉県某市某県道旧道沿線に咲いていた桜の画像です。春の風物詩という事で載せておきます。

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さて、この桜とは全くムードが合わない題材ですが、折角の週末なのにこれといったブログネタが無かったので、ウラジーミル・ネクラーソフ氏編の「べリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路」について、簡単にですが、感想を述べます。

本書は五部構成でしたが、さらに大きく分けると、第一章が主人公、ラヴレンチ―・べリヤの経歴を中心とした第一部、第二章がべリヤについての当時関わった人達の証言やべリヤの悪行を中心とした第二・三部、第三章が逮捕から処刑までの詳細な経緯を中心とした第四・五部となります。

この本の後、現在「スターリン 赤い皇帝と延臣たち」(以降「赤い皇帝」と表記)も読んでいて、これも凄い面白いけど、出世狙いで休暇を過ごしていたスターリンに近付こうとしたけど、当初はスターリンの態度はそっけなかったエピソードや、側近となった後、別荘の木の伐採作業で「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ、私が刈り取ってごらんになります・・・・・・・」と張り切っていたエピソード等は赤い皇帝でも言及されていましたね。共産党の官僚として駆け出し始めだった時から既にその経歴等怪しいものもあった様ですが、有名な魚色家ぶりな数々のエピソードもさる事ながら、サッカーの試合が自分の思い通りにならなかったからと言って、既に決勝戦まで終わっていたのに準決勝をやり直させた、スタロスティン兄弟事件も無茶苦茶でしたね。

モスクワにあるオトクリティエアリーナには彼らスタロスティン四兄弟の銅像も建っているらしいですが、証言者で、長兄のニコライ、この時は娘のエヴゲーニヤが当時の人民委員会議議長(首相に相当)、ヴァチェスラフ・モロトフ(なお、赤い皇帝によれば、当初はスターリンが書記長と兼任する案も出たが、ロシア人ではない自分に務まるのかの不安等から「君が議長になれ」とモロトフに勧めたという)の娘、スヴェトラーナ(スターリンの娘と同名でもある)と親しかったおかげで逮捕は免れましたが、モロトフがスターリンに人民委員会議議長を譲って議長代理(副首相に相当)兼外務人民委員(外務大臣に相当)となった直後に刑務所暮らしになってしまったらしい。そこでも、サッカーチームの指導等に従事した事で命までは取られず、まさに「芸は身を助く」でしたが、べリヤ処刑直後に釈放されて、ソ連崩壊も見届け、93歳まで長生き(弟たちも皆80前後以上まで生きていたらしい)したらしい。良かったね。

大粛清の代表的な犠牲者、ニコライ・ブハーリンの妻、アンナ・ブハーリナもこのスタロスティン長兄と同じ年(1996年)に亡くなって、孫のニコライ・ユーリエヴィチもサッカースクールを経営している(息子のユーリー・ニコラエヴィチは父が処刑された時はまだ1歳か2歳だったが、2014年に78歳で亡くなったらしい)らしいですが、彼女への尋問の際、夫をニコライ・イヴァノヴィチと敬称で呼んで(名前+ミドルネームは日本なら「~さん」な感覚である)命は助かる希望もあると見せかけて、色々心理的な揺さぶりをかけていたのも生々しいものがありましたね。大粛清の犠牲者と言えば、ヴァシーリー・ブリュヘル元帥の最期も眼球を失うほどの拷問を受けていたらしく、壮絶なものだった様です。逮捕されたのは1938年10月22日の土曜日で、前日は夜遅くまで家族と一緒に遊んでいたらしいですが、日本との戦(張鼓峰事件)を終えてリフレッシュしたと思ったら・・・・・・・ですが、赤い皇帝によれば、実際は損害の大きさをスターリンに「同志ブリュヘル、君は日本と真剣に戦う気があるのか?共産主義者でないのなら正直に言いたまえ。」と咎められて、モスクワに呼び戻されていたらしいですが。

べリヤは大粛清を当初から主導していたわけではなく、それはニコライ・エジョフがかなり張り切っていた様ですが、スターリンの立会いの下とべリヤと討議するも、「私は同志べリヤを信頼している。彼を内務人民委員の代理に推薦したいと思う。」な「裁定」が下った時点でエジョフの運命は決まってしまったのか・・・・・・・・ネストル・ラコバやグリゴリー・オルジョニキーゼとの確執もまさに陰湿極まりない「仁義なき戦い」で、特に前者は毒殺後の内臓の取り出し等の証拠隠滅も分かりやすかったですが、近親者達も面と向かって罵倒した事もあった弟のミハイルだけでなく、妻子らも悲惨な最期を遂げた等この時点ではまだ内務人民委員ではなかったながらもラコバ一族もブハーリンらとはまた別の性質でこの不幸な時代の申し子だったとも言えたでしょう。

第二次世界大戦中は当然カチンの森事件にも関与していて、スターリンがヤルタ会談の際、ルーズベルトらに「ウチのヒムラーです。」と紹介した有名なエピソード(まあヒムラーの方が普通にマトモに見えますけどね!!べリヤと比べれば!!どちらかと言えば、中国の康生の方がキ〇ガイぶりでは良い勝負になるかも?)もゴルバチョフ時代まで外相等長く要職を歴任したアンドレイ・グロムイコが語ってくれましたが、余談ながら過去エントリーでも取り上げた事のある、アンドレイ・アンドレーエフがかってはトロツキー派と意見を同じにしていた事もあったのも意外に感じられましたね。赤い皇帝でも、彼ら家族のエピソードもいくつか見られ、戦後は共産党統制委員会委員長のポストは保持し、人民委員会議から改編された連邦閣僚会議副議長を兼任するも、書記局の書記は解任されてしまったアンドレーエフは何だかいつの間に影が薄くなってしまった印象(アナスタス・ミコヤンの息子、セルゲイが受けたインタビューによれば、ラコバ同様聴覚障害を抱える様になってしまったらしいが、1952年10月に13年ぶりに開催された党大会では閣僚会議議長代理には留まるも、統制委員会委員長と政治局員からは解任されてしまい、議長代理もスターリンが死んだ直後更迭され、事実上失脚する)がありますが、モロトフも西側のマスコミがこの頃体調を崩して1か月半の休養を余儀なくされたスターリンの有力な後継者と持て囃したせいか疎まれる様になり、後継者候補はアンドレイ・ジダーノフかゲオルギー・マレンコフかになった模様。

マレンコフも決して順風満帆だったわけでも無く、エジョフに告発されて、逆に彼のあら捜しして、スターリンに報告して難を免れるわ、戦後一時期、中央アジアに左遷された事もあったらしいですが、大腸癌におかされ、引退を余儀なくされた、最高会議幹部会議長(国家元首相当で赤い皇帝では大統領と訳されていた)、ミハイル・カリーニンとほぼ入れ替わりに彼にと共に政治局員に昇格(昇格は1946年3月18日で、カリーニンの幹部会議長退任は翌日の3月19日、政治局員退任及び死去は同年6月3日のこと)していたべリヤは勝ち馬に乗るのが上手いと言うか、彼を後ろ盾として利用してさらに権力の高みに昇る道を選んだ様である。実際、スヴェトラーナとユーリー・アンドレ―エヴィチ(ジダーノフの息子)の結婚(1950年には娘が生まれて、スターリンも祝福の手紙を書いたという。ソースは「有名人の子供はつらい」です)には影響はなかった様ですが、ジダーノフが怪しい急死を遂げて、部下のニコライ・ヴォズネセンスキー等ジダーノフ派の粛清にも成功した。

どうも最終的に筆頭書記(書記長から改称)も閣僚会議議長も、そのポストを失って、最終的に失脚したあたり、マレンコフは側近としてはかなり有能でもリーダーとしてはやや頼りない印象を受けます。さすがにべリヤの本性を見抜けなかったほどバカだったわけでも決してなく、一緒に散歩した際、フルシチョフに忠告されるも「分かっているけど、どうすれば良いと言うのだ。」と返したエピソードも印象的でしたね。そのフルシチョフにも後塵を拝す事となってしまったのですが・・・・・・・・・

とにかく突出したナンバー2を作らない様意識していたフシもある晩年のスターリンからもさすがに警戒されていたべリヤでしたが、彼の死後、ナポレオンの帝政復古同様100日天下だったながらも実質的なナンバー1として頂点を極めたかに見えた。3月5日のスターリンの死~6月26日の逮捕までだとすると、正確には113日間でしたが、彼が主導した諸政策、例えば囚人の釈放は新たな犯罪の温床となった等当然と言えば当然ですが、否定的な評価を下していました。もしマレンコフが筆頭書記ではなく、閣僚会議議長の方をフルシチョフに譲っていればどうなったのかなあですが、その6月26日に逮捕されたとされた。フルシチョフだけでなく、ジュ―コフ元帥、コーネフ元帥、モスカレンコ元帥等軍の大物どころの証言も載っていましたが、逮捕から死刑までの経緯は食い違う証言もある様だし、事実はどうだったのか今後新たな検証が待たれる所でしょう。

しかし、月並みだけど、真に異常だったのはスターリンでもべリヤでもなく、彼らを国家の最高幹部にしてしまったソ連という国、もっと言えば幻想だった理想の為に多くの無辜の国民を死に追いやった共産主義思想そのものだったのでしょうね。特にスターリンは功罪両面共に非常にハッキリしていて、客観的な評価が難しいですが、スターリン時代以降、極端な恐怖政治や独裁、個人崇拝は抑えられはしたとは言え、押し付け憲法ならぬ押し付け社会主義国家だった衛星国への締め付けや重工業化の為に犠牲にされ、ルイセンコ理論も取り入れた農業の脆弱さ、ノルマ至上主義に陥り、技術革命や需要の多様化に対応できなかった計画経済等決定づけられた悪い体質もその崩壊まで残ってしまっただけに本書を読んで改めてそう認識させられました。その後継国家、ロシアも現在もシリア内戦において空爆を行う等イラク戦争というパンドラの箱を開いたアメリカもアメリカだけど、べリヤもその担い手となったスターリニズムよりももっと根深いこの国の本質は変わっていない様である。べリヤらの犠牲になった人達の死も無駄にならない様、いい加減変わっていかなければいけないのだけど・・・・・・赤い皇帝もまだ上巻すら読み終えてないけど、全部読み終わったらまた感想書きます。

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2017/04/01

ソ連の副首相達その2

その1からの続きです。

1955年3月 第一5人、ヒラ7人

首相がマレンコフからフルシチョフの盟友、ブルガーニンに交代した時です。(マレンコフも副首相兼発電所相にはとどまる)ついに第一が5人になってしまいましたけど、もしブルガーニンが外遊とかで不在の場合は、先任者、この場合はモロトフが閣議を取り仕切ったのか。彼ら第一首相達はあとでもっと詳細に触れるけど、5人全員幹部会会員でもありました。

1958年3月 第一2人、ヒラ4人
1962年11月 第一2人、ヒラ9人


ところが、ガチガチのスターリン主義者(モロトフ、カガノーヴィチら)と反経済分権主義者(マレンコフ、ぺルヴ―ヒン、サブーロフら)がフルシチョフ追い落しを狙った反党グループ事件で失脚してしまった影響で、副首相の人数は半減してしまいました。この頃、駐日ソビエト大使になっていたテヴォシアンも残念ながらガンで亡くなってしまったらしいですが、集団指導の筈が結局フルシチョフが衛星国(東欧、モンゴル、北朝鮮等)の指導者たち同様スターリンに倣って第一書記と首相を兼ねる事になってしまった。第一副首相は盟友のミコヤンフロル・コズロフの2人で、既にジダーノフ派が粛清されたレニングラード事件でレニングラード州党第一書記という要職に就いていたコズロフでしたが、中央委員から幹部会員への2階級昇格(1957年2月に会員候補、同年6月に正会員)、ロシアソビエト首相、そして第一副首相と急激な昇進ぶりでしたね。

コズロフの第一副首相就任はフルシチョフの首相就任の4日後の1958年3月31日の事でしたが、入れ替わりにヨシフ・クズミンがヒラの副首相に降格されています。しばらく兼任していたゴスプラン議長共々その地位を保っていたのが、その後スイスの全権大使を3年務めた後、外務省での専門コンサルタント職を経て年金生活入りとなってしまった様ですが、経済政策で意見の不一致等フルシチョフの不興を買って、左遷されてしまったのか。コズロフはその後クズミンの副首相及びゴスプラン議長解任とほぼ同時に中央委員会第二書記に新たに任じられて(後任の第一副首相はコスイギンが就任)、フルシチョフの後継者とされていた様ですが・・・・・・・・・1961年には社会主義労働英雄にもなった等この頃がコズロフの絶頂期だったでしょう。幹部会員と書記局書記を兼ねてもいたのなんて他にはフルシチョフ等数えるほどしかいなかったのだし、マレンコフ以降のソ連指導者では実際フルシチョフ以外は最高指導者になる前に第二書記となっていたのです。

この頃最高会議幹部会議長となっていたブレジネフの、wikiでのページではどうやら事実誤認な記述が見られる様ですが、1964年7月に書記局書記も兼ねていたブレジネフを解任させて、長くスターリン時代から貿易相等兼務しながら副首相を務めてきたミコヤンをその後釜に据えたのですが、何故この盟友を国家元首ながらも儀礼的なポストに棚上げさせたのですかね。コズロフが前年4月頃から健康を損ねる事になった(第二書記もブレジネフに譲る事となる)のも背景にあったのか。しかしまた、2か月前の5月17日にオットー・クーシネン(フィンランドでは売国奴扱いなのだろうと思いきや、2004年に発表された偉大なフィンランド人ランキングでは38位だったのは意外)の病死以外は政治局も書記局も特に目立ったメンバーの交代とかは直近なかった様です。ロシア史に詳しいある人のHPでも指摘された通り、ブレジネフを書記局での党務に専念させて、かつ既に70近い老人となっていたミコヤンにもこれまで女房役を務めてくれた見返りとして箔をつけるつもりだったのですかね。

1966年1月 第一2人、ヒラ11人
1979年12月 第一1人、ヒラ10人


しかし、ブレジネフはその直後の8月、ヤルタで急死したイタリア共産党書記長、パルミーロ・トリアッティ(wikiでも彼のページもあるけど、この時点ではフルシチョフはまだ・・・・・・である)の葬儀参列やアルド・モーロ首相との会談の為にイタリアに行ったらしい(しかし、この際関係がギクシャクしてしまい、以降ブレジネフは死ぬまでイタリアを訪問する事は無かったというし、モーロも赤い旅団事件で誘拐・殺害される)ですが、10月についにフルシチョフは失脚、コズロフも書記局・政治局から追放されてしまい、間もなく亡くなった。ミコヤンも1965年12月に最高会議幹部会議長を解任されながらも、その直前に開催された中央委員会総会では後任が決まっていなかったのか幹部会員はまだ解任されず、翌1966年4月まで留まった(この時、幹部会は政治局に名称が戻され、第一書記も書記長に名称が戻される。なお余談ながら、1965年のメーデーについての動画でミコヤンがブレジネフら他の最高幹部達と壇上に登った姿を見た事があるが、ブレジネフのそれが173センチだった事等から推測するに、彼の身長は164、5センチぐらいだったであろう。スターリンも163弱だったらしいけど、1949年12月の誕生日で並んでいた、172あったらしい毛沢東とは大きい身長差は感じられなかった事からもシークレットブーツを履いていた様だし、側近達も当時としても小柄な人達が多く、カリーニンやヴォロシーロフなど160もなかったっぽいけど、170を超えていたのはせいぜいモロトフとカガノーヴィチぐらいだったんじゃなかっただろうか?当時の平均よりは高かったけど、周りの王族や将軍たちは180以上がゴロゴロいたから、結局後世でもネタにされるほど小さく見えてしまったナポレオンとは対照的である)様ですが、ブレジネフ時代以降終末期を除いて副首相は第一とヒラ合わせて10数人前後で定着した様です。

ところが、中国ですら江沢民の世代以降は10年で指導者が交代するのが慣例(ただし、習近平はそれ自体は儀礼的な権限しか持たない国家主席の再選制限撤廃策等終身的な権力掌握を目指している様だが)なのに対し、ソ連はついに病死か失脚以外指導者の交代は起きなかった様ですが、ソ連の黄金期だった事もまた確かであろうブレジネフ時代も末期は指導者層が高齢化して、国内外の諸問題はますます深刻なものになっていった。

1979年12月の、アフガニスタン侵攻直前時点で政治局局員14人の平均年齢は69.6歳。50代は後に直前11月27日に開催されたの中央委員会総会で局員候補となったゴルバチョフのライバルだったグリゴリー・ロマノフ(56歳)だけで、70歳以上が8人もいて、特に最後のオールド・ボルシェビキであろうアルビド・ペリシェにいたっては既に80歳になっていた。(最後の19世紀生まれの共産党最高幹部でもあっただろうが、スースロフやブレジネフとほぼ同時期に死去)大粛清が漸く収まるか収まらないかの1939年3月に開催された中央委員会総会時点ではアンドレーエフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、カリーニン、ミコヤン、モロトフ、スターリン、フルシチョフ8人の平均年齢が50.6歳だったからいかに高齢化が進んでいたか分かるものでしょう。

副首相も、フルシチョフ時代以前は70過ぎでの在任者はヴォロシーロフぐらいだったでしょうが、同時期の11人の彼ら、政治局員でもある第一副首相のチーホノフなど既に75歳(翌年コスイギンの後任の首相に昇格)で、50代はコンスタンチン・カチュシェーフ(52歳)だけで平均年齢は67.2歳でした。当時の男性国民の平均寿命(ソ連時代最も高かった1986年当時で64.8歳)をも上回っていました。と、ここでまた長くなりすぎてしまったので一旦区切ります。

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2017/03/25

ソ連の副首相達その1

http://rossia.web.fc2.com/sp/vozhd/premier.html

このHPでも首相(正確には1946年3月以前は人民委員会議議長、それ以後は閣僚会議議長)共々一覧表が載ってますが、旧ソ連の副首相達ですね。ソ連崩壊までに第一副首相は27人、副首相は91人就任したらしいから、前者は約5年で2人、後者は約3年で4人就任した事になります。ここで各時期ごとの在職者人数を見てみます。

1923年7月 5人
1924年2月 4人(レーニン死去直後、アレクセイ・ルイコフが昇格)
1926年1月 3人
1930年12月 3人

モロトフが、スターリンと対立したルイコフに代わって首相となったのですが、ここで特筆すべきは約9か月の在任ながらも、過去エントリーで取り上げたアンドレイ・アンドレーエフがこの3人の副首相の1人となった事です。しかも、彼は1926年7月に政治局局員候補に昇格したのが、解任された翌日に就任したのです。しかし、この時点ではまた、彼は労農人民委員(現在の日本でなら農林水産大臣に相当か)も兼ねていましたが、このポストも就任した直後だった様だし、農業集団化でスターリンの不興を買ったわけではなく、単に得票数が足りなかったから再選されなかったのでしょう。(実際後の1934年2月の党大会でも、スターリンは真っ先に中央委員を決める投票で選出されたかと思いきや、真っ先に選出されたのが書記長就任も打診されていたらしいセルゲイ・キーロフで、続けて選出されたのはカリーニン、ヴォロシーロフらで、スターリンは反対票も300票近くあり、選出されたのは10番目だったという。この反対票をカガノーヴィチによる不正で3票にしたのも過去エントリーで話した通りだけど、ヴォロシーロフも無能ながらも人望はあったのでしょうか?スターリンとは必ずしも関係良好ではなかったフルンゼの遺児達も引き取って育てていたらしいし)寧ろ局員候補に再選されなかったからこそ、一時的に慰めのつもりではなかったのでしょうが、兼任させられたのでしょう。労農人民委員の在任も短期で終わり、しばらく鉄道人民委員を務める事になりましたが、アンドレーエフの昇進は続きます。

1934年5月 第一1人、ヒラ3人

ヴァレリアン・クイビシェフが初代第一副首相だった様ですが、間もなく急死、ヒラの3人も全員直後の大粛清で粛清された様です。

1939年6月 6人

ヴォロシーロフ(国防人民委員)、カガノーヴィチ(交通人民委員)、ミコヤン(貿易人民委員、なお彼の後任者は出されたバナナが熟れてなかった事為にスターリンの怒りを買って解任されたが、命までは取られず74歳まで生きたらしい)、ヴィシンスキー(科学アカデミー国家法研究所所長)、ヴォズネセンスキー(ゴスプラン議長)と他の要職も兼ねた人達ばかりでしたが、ロザリヤ・ゼムリャーチカも大粛清という棚から牡丹餅でソ連では女性唯一であろう副首相のポストを手にした様です。彼女も短期間ながら国家監督委員会議長も兼ねていたのですが、19世紀から革命活動を始め、ロシア内戦でも軍の政治委員を務める等某東京都都知事も全く小者に見えてしまうほどのオールド・ボリシェヴィキだった様ですね。

1941年5月 第一1人、ヒラ13人

ご存知の通り、成立初期においても民族人民委員を務めた事があったスターリンが首相に就任した時期です。モロトフから譲ってもらった直前にクイビシェフの急死で空席になったヴォズネセンスキーが第一副首相となったのですが、この時点でまだ38歳。モロトフは形式上は副首相(兼外相、外務人民委員)に降格となりましたが、まもなく第一副首相となり、ブルガーニン以外にもコスイギン、ぺルヴ―ヒンやサブーロフとポストスターリン時代でも活躍する(後の2人は反党グループ事件で失脚したが)人も就任し、一気に14人に。

1946年3月 第一1人、ヒラ7人


人民委員会議から閣僚会議に改編された時期です。ヒラの副首相は減りましたが、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、ミコヤン、コスイギン、ヴォズネセンスキーに直後政治局員に昇格したべリヤ(ただしNKVD長官は解任される)と前述通り政治局委員候補解任直後に短期間務めた(1932年に局員候補に再昇格、1934年に局員に昇格する)アンドレーエフとスターリンの側近ばっかです。しかし、ヴォズネセンスキーはジダーノフの部下だった事が災いして彼の急死直後に・・・・・・・・スターリン時代、30代の人民委員(大臣)は特段珍しくはなかったけど、出世するのが早すぎて「出る杭は打たれる」となってしまったのかもね。

1950年4月 第一2人、ヒラ11人


中国と友好同盟相互援助条約を結んだ直後の時期です。モロトフだけでなく、ブルガーニンも専任の第一副首相に就任して、「第一」な筈なのにおそらく初めて2人併存する事となってしまいましたが、既に兼任していた外相も解任されてしまったらしいし、モロトフはますます干されてしまっていた様です。ユダヤ人だった奥さんまで刑務所送りにされて、それでも晩年も、「あなたは彼が背負っていた重荷が分かっていない!」とかスターリン及び大粛清や農業集団化等を擁護していた様ですが、まあスターリンのやった事を否定したら、実質的なナンバー2だった自分自身も否定する事になってしまいますからね。大学時代はロシア語を専攻していて、業界ではおそらく屈指のソ連・ロシア好きであろう声優の上坂すみれ氏は彼のファンで、そういう良くも悪くも最後まで信念を貫き通した、ブレないキャラに惹かれている様ですが。(ハッキリ「時勢を見ながら自分の意見をコロコロ変えるミコヤンより好きだ。」とか言っていた)

ヴォズネセンスキーがレニングラード事件で失脚した翌日にはアレクサンドル・エフレーモフが副首相に就任したのですが、彼は工作機械とかエンジニア畑を歩みながら着実に出世していったらしい。スターリンの首相就任時に新設された工作機械人民委員に就任したかと思えば、廃止となって、戦車産業副人民委員(次官級か)に降格されていたらしいですが、緒戦での大祖国戦争敗北が影響していたのか。しかし、間もなく再設置されたポストに返り咲いて、組織改編後も引き続き務めていた様ですが、残念ながら1951年に47歳の若さで亡くなった。

この直後にはイワン・テヴォシヤンも副首相となったのですが、彼はミコヤンと同郷のアルメニア人です。アルメニアは元々冶金業が発達していたらしいですが、テヴォシヤンも冶金畑を歩んだエンジニアだった様で、1952年10月に13年ぶりに開催された党大会では政治局から改編された幹部会の会員候補となった等スターリンのお気に入りだった事が伺えますが、そんな彼も大粛清の際には義兄(姉の夫)が粛清されて、自身も逮捕されそうだったのがべリヤとミコヤンに庇ってもらって何とか免れたという。一時お役御免になった冶金相も、翌1950年末に非鉄冶金相に改称した上で兼ねた様です。前述の党大会では、ミコヤンはモロトフ共々批判され、「非公式の幹部会」と言うか、幹部会常務会員と言った方が正確であろうメンバーから外されてしまった(アンドレーエフもどうやらこの頃聴覚障害を抱える事になってしまった様で、副首相のポストは保つも幹部会会員からは解任される)のは皮肉でしたが・・・・・・

1953年3月 第一4人、ヒラ1人
1953年12月 第一3人、ヒラ6人


30年近く最高指導者として世界の半分の支配者にまで至ったスターリンが亡くなった直後の時期です。前述の党大会で、世代交代を強く意識したであろう幹部会会員が多数解任された一方、テヴォシアンは幹部会委員候補は解任されるも、副首相兼非鉄冶金相のポストは一時的な解任を経て再び得た等世渡り上手だった様です。

党大会でスターリンを教師と称える演説をしたのも、葬儀で人民服姿で参列した(スターリンはどうやら元帥になった1943年以降は大事な行事とかでは軍服姿でも参加する様にもなった様だが)のも、その表れだったのでしょう。政治局員昇格とほぼ同時に副首相にもなっていたマレンコフが後継者として書記長から改称された筆頭書記と首相を兼ねたのですが、10日足らずで前者はフルシチョフに譲ってしまった。政務に専念という事で、その翌日には副首相が7人も解任されます。尤も、ヴォロシーロフは形式的には国家元首である最高会議幹部会議長に栄転となり、幹部会会員のポストも保った(政治局員歴34年6か月はスターリンの35年5か月に次ぐ在職期間だが、ソ連成立後ではナンバー1であろう)し、その他多くの面々も1953年中には復帰した様ですが、一時は第一副首相がモロトフ、カガノーヴィチ、べリヤ、ブルガーニンの4人に対して、ヒラの副首相はミコヤン1人だけとなってしまった。

この第一副首相の並立も、今度は集団指導体制を意識したものだったのだろうけど、内相も兼ねていたべリヤが実質的な政府の最高権力者みたいになってしまった様です。彼と比べればヒムラーですらマトモに見えてしまう、キ〇ガイ(特に若い女性絡みで)エピソードに溢れていて、だからこそそうした権力の絶頂にまで登れたのでしょうが、どうやら思ったほどリーダーシップがなかった様であるマレンコフに代わって打ち出した諸政策は案外マトモでした。しかし、結果論ですが、ドイツを統一させてアメリカに恩を売ろうとまで考えていたのはやり過ぎでしたね。マレンコフが首相の方をフルシチョフに譲っていたとしても、遅かれ早かれ破滅は免れなかったのだろうなあでもあり、その最期も異説もいくつもある様ですが、べリヤが処刑されたとされる同年の12月にはヒラの副首相は復帰組も含んで6人となりました。ヴャチェスラフ・マルイシェフもその1人で、彼は鉄道や戦車等軍事技術畑で活躍し、ソ連史上26人しかいない技術奉仕大将(この訳が適切か甚だ不安であるが)の階級も有していたのです。さあ、今度こそマレンコフを中心とした集団指導体制が再スタートすると思いきや・・・・・・長くなりすぎたので一旦ここで区切ります。

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2017/03/12

百人一首の歌人達(20)-16番中納言行平

「立ちわかれ いなばの山の 峯におふる まつかし聞かば 今かへりこむ」

(16番中納言行平)

約9か月ぶりのこのシリーズですが、中納言行平こと在原行平です。某アニメでも跡部様が声優だった弟の方が有名人ですが、今さら私が何か特別な事言うまでもないだろうという事で今回は兄貴な彼について取り上げます。

この歌は855年(斉衡2)に因幡守に任じられた時に歌ったという説と、源氏物語の舞台にもなった、蟄居していた須磨から帰京する時に歌ったという説がある様で、後者の場合、いなばの山は須磨離宮公園付近にある稲葉山の事を指すようです。帰京の際に烏帽子と狩衣に添えたとも言われていて、業平も狩衣姿の銅像とか残されている様ですが、彼ら在原兄弟存命時はまだ貴族の服装は奈良時代と同じだったでしょう。

何故行平が須磨にいたのかと言うと・・・・・・・話は長くなりますが、彼ら兄弟の父は阿保親王と言って、平城天皇の第一皇子でした。阿保親王は本来天皇になってもおかしくなかったのですが、天武天皇には他にも皇子が何人もいたのに、木本好信氏が指摘した(歴史読本2005年12月号「歴代皇后全伝」等を参照の事)通り持統・草壁皇統にこだわり、数々の権力闘争を引き起こしてきた事への反面教師の意味合いがあったのでしょう。平城の皇太子には弟の神野親王(嵯峨天皇)が立てられ、平城退位・嵯峨即位時の皇太子は阿保親王ではなく、異母弟の高岳親王が立てられました。高岳も外祖父の伊勢老人も桓武天皇の即位に不満を持っていた連中の期待を受けていた氷上川継の乱(川継は天武皇子の新田部親王の孫でれっきとした天武の男系子孫だったが、失敗に終わる)に連座した過去がありましたが、阿保親王外祖父の葛井高依が正五位下だったのに対し、老人はその後許されて最終的には正四位下だったのも影響したのですかね?高依は790年(延暦9)に皇太子(この場合はのちの平城)の家政一般をつかさどる春宮坊で二番目に偉い春宮亮となり、翌791年(延暦10)には宿禰性となったらしいですが、この直後に亡くなったのでしょう。もっと長生きしていればもしかしたら阿保が皇太子になっていたかもしれません。

ところが、のちの菅原道真等つくづく政争に敗れた左遷者の姥捨て山だったのか、薬子の変で阿保が太宰権帥に左遷されてしまいました。京に戻れたのが平城が崩御した824年(弘仁15)の事でしたが、818年(弘仁9)生まれの行平は大宰府で生まれていた可能性が高いです。そして帰京直後には異母弟の業平が生まれ、さらに間もなくして従兄弟の善淵(高岳の王子)らに倣って、臣籍降下していますが、これも晩年の承和の変での密告共々自己保身を図った行為だったのでしょう。直後に亡くなったらしいですが、ストレスの多い人生だった事は想像に難くありません。

ところが、今度は結果的にその承和の変で誕生した文徳天皇の皇太子を巡ってです。第一皇子は惟喬親王でしたが、生後間もない赤子の惟仁親王(清和天皇)が、生母が藤原氏(良房娘の明子)という事で半ば強引に皇太子に立てられてしまいました。行平はしばしば政争に巻き込まれた、または巻き込まれそうになり自己保身を繰り返した父の姿も見ていたからこそ、自らも「自主的に休職」して、須磨にほとぼりが冷めるまで引きこもったのでしょう。父の帰京後に生まれ、赤子の内に臣籍降下した業平の方がもっと惟喬とズブズブの関係だった様で、惟喬の伯父だった有常の娘を妻にしただけでなく、その縁で義理の従弟にもなった惟喬その人とも個人的な親交が深かった様です。実際彼も文徳朝期には六位まで下げられていたのではな説もあるようですが、舅の有常も文徳崩御直前には肥後権守等度々地方官に任じられていたあたり、軽い左遷を受けていたかと思われます。(なお、同じく百人一首歌人に選ばれている藤原敏行も業平とは妻同士が姉妹の義兄弟だったけど、父・富士麻呂の没年が850年で、少内記となったのが866年だったから生年は845~850年の間ごろ、没年が901年または907年だったから享年は50代~60代前半かと思われる)

行平が須磨から戻ったのは852年(仁寿2)末頃かと思われます。滞在期間は2年強ほどです。惟仁生母の明子が翌年の853年(仁寿3)に従三位となり、何月何日かは分かりませんでしたが、行平は正月7日に正五位下に昇叙したので、ほぼ同日の事だったでしょう。その後も弟・業平や惟喬、そして紀氏とは一定の距離を置いていたかと思われますが、応天門の変後、失脚した伴善男だけでなく、源信(左大臣)、藤原良相(右大臣)、平高棟(大納言)、藤原良縄(参議)と公卿達が何人か死んだ事もあってか、870年(貞観12)正月に参議となり、公卿に列せられた。

大抵は公卿への登竜門とされている蔵人頭を経て、参議になるのですが、行平の場合は参議となってから、872年(貞観14)に蔵人頭を兼ねたのです。そして翌873年(貞観15)12月に従三位に昇叙したのと同時に兼任していた蔵人頭や検非違使別当の職を解かれたのですが、娘の文子が清和天皇に更衣として入台したのはこの参議と蔵人頭等を兼任していた時期だったでしょう。非藤原氏の行平のこの兼任は後の兼家の中納言と蔵人頭の兼任以上に異例に感じられた人事でしたが、清和と、業平との関係も有名な高子との間には既に貞明(陽成天皇)、貞保の2皇子が生まれていた事や良房と彼の義理の甥(養子で甥の基経の妹、淑子と結婚していた)だった氏宗の死、基経のライバル、藤原常行(良相の子で、基経とは従兄弟にあたる)の大納言昇進、惟喬の出家等いくつかの政治的要因が重なったからこそ文子の入台も可能だったかと思われます。

しかし、それと同時にまた、太宰権帥も兼ねる様になります。同職が遥任化したのは250年後に藤原俊忠(俊成の父、定家の祖父だが、間もなく没する)が任命されて以降の事だったらしいので、行平は49年ぶりに大宰府に実際行ったと思われます。貞明、貞保の次期天皇候補が2人いたとは言え、やはり基経に警戒されて、軽い左遷となってしまったのでしょうか。大宰府から戻ってきたのは878年(元慶2)2月の事だったらしいですが、この間常行は結局基経の官位を越せないまま亡くなり、天皇は清和から陽成に交代、基経は新天皇の摂政となり、女御として清和に入台させていた佳珠子も貞辰親王を産んでおり、その権力はますます盤石なものとなっていました。一方で文子も貞数親王を産んでいて、この親王は実は父親は清和ではなく、業平だと噂されていたと伊勢物語にも書かれていたという。確かに小説のネタとしては面白いかもしれませんが、行平も業平も貞数誕生後も昇進を続けていたし、業平はまた、貞数誕生前後には意味深ながらも基経四十の賀で歌を献上してもいます。最晩年には蔵人頭となっていて、残念ながら兄より先に亡くなって、あと5年生きていたら参議になれたとも思いますが、三国志演義での曹操悪役設定もそうだけど、伊勢物語での業平=プレイボーイは話半分程度に聞くのが妥当かと思われます。

881年(元慶5)の貞数親王による、高子四十の賀を祝った陵王の舞(wikiでは882年とあるが、高子は842年生まれなので数え歳では881年に40歳となる)も陽成退位の遠因となったとは考えにくいです。この前後に行平は中納言・正三位に昇進しているからです。その後民部卿及び陸奥出羽按察使も兼ねていて、後者は約100年前に陸奥按察使となった大伴家持も遥任だった説があるし、行平もそうだったと思われますが、一方でまた基経の嫡男、時平元服時にも舞を踊っていたらしい。これも行平の関与もあったかとも思われますが、外孫の晴れ姿も見て、何か思う所があったのでしょう。この間、天皇は陽成から光孝天皇に交代しており、文子も従四位上に昇叙していましたが、数え年70歳となった887年(仁和3)に引退しました。そしてその直後、長男遠瞻の落雷死という不幸にも直面してしまったらしいですが、光孝崩御、宇多即位、阿衡の紛議、基経の死、弟と親交が深かった道真の参議昇進を見届けて、893年(寛平5)に満75歳で亡くなった。当時としては異例の長寿です。

行平は、生まれた時点からして祖父失脚のあおりを受け、京から遠く離れた地で過ごしましたが、帰京後も晩年まで政争で失脚していった数多くの貴族たちを目の当たりにし、自身も軽い左遷等で数度京を離れた事はあっても巧みに世渡りし、失脚を避けながら弟と共に朝廷で一定以上の地位を築く事に成功した辣腕政治家だったと言えます。

行平死後も昇進をつづけた道真はやがて他の貴族達の反感を買う様になり、その末路は周知の通りですが、彼の最晩年に従四位下となっていて、道真全盛期に参議に昇進していた次男の友干も、その失脚した道真の後任として太宰権帥兼任(太宰大弐からの昇格)となり、そのまま亡くなったのも皮肉な話ですね。つくづく大宰府に縁があるとも言うか、同時期には道真を失脚に追い込んだ時平や高子も亡くなっていて、その後在原氏から公卿が出る事は無かったながらも、兄弟とされる大江音人の子孫が毛利氏(ただし、途中の大江広元の父が誰なのかは異説もあり、ハッキリしない)ならば、行平の子孫は大谷氏、さらにこれも真偽は不明ながらも上野氏家康が出た松平氏は業平の子孫で、その後も特に戦国時代に活躍した様ですが・・・・・・・・・

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2017/02/27

森友学園は愛国者の皮を被ったカルト教団なのだろう

https://news.nifty.com/article/domestic/government/12145-2017022700582/

園児が「安倍首相頑張れ」=国有地取得の学校法人-民進、教基法違反の疑い指摘

 

 国有地を格安で取得した学校法人「森友学園」(大阪市)が運営する塚本幼稚園(同)で、園児に「安倍首相頑張れ」などと言わせる教育が行われていることが27日の衆院予算委員会で取り上げられた。民進党は、特定の政党を支持する政治教育を禁じた教育基本法に違反する疑いがあると指摘。安倍晋三首相は不適切との認識を示した。首相はまた、同学園が今春開設予定の小学校の名誉校長を辞任した昭恵夫人が報酬を受け取ったことはないと説明した。
 民進党の福島伸享氏らは質疑で、塚本幼稚園の運動会の映像から、選手宣誓で園児に「首相頑張れ」と言わせていたことが判明したと指摘。さらに、「安保法制国会通過良かったです」「日本を悪者として扱う中国、韓国が心を改め、歴史でうそを教えないようお願いします」とも言わせていたと紹介し、問題視した。
 これに対し、首相は「園児に言ってもらいたいとは考えていないし、適切ではない」と答弁。その上で「同園の教育の詳細は承知していない。所管の大阪府が監督するものだ」と述べた。一方、塚本幼稚園は取材に対し、「担当者が不在のため分からない」としている。
 松野博一文部科学相は、同幼稚園の教職員を過去2回、優秀教職員として表彰していたことを明らかにした。取り消すかどうかは「府の判断を踏まえ検討する」と述べた。
 国有地払い下げに関し、首相は「私も妻も絶対に売買に関わっていない」と改めて強調。昭恵夫人への金銭提供に関しては「報酬も講演料も全く受け取っていないと聞いている」と否定した。
 民進党の今井雅人氏は、国有地値引きの理由とされた埋蔵ごみの撤去は行われていないと指摘し、「売却には瑕疵(かし)がある」と批判した。 

テレビも漸くこの話題について取り上げましたか。まあNHKは会長が籾井氏のままだったらずっとスルーしていただろうけど。史実を歪曲してまでもアメリカにも異常に気を遣った某大河ドラマの私物化も酷かったし。

今日の某チャンネルでの某ニュース番組も一部始終目を通しましたが・・・・・・・教育勅語は、アデナウアー初代西ドイツ首相もドイツ語訳したものを執務室に飾っていたらしいけど、そこに書かれていた事自体は、儒教の影響も垣間見られますが、それほど悪い事ではないです。自分もそうだけど、今の日本人が忘れかけているものも色々あるでしょう。

しかし、発表された当時と今では勿論社会状況とかも大きく違うけど、園児達が教育勅語を唱えさせる事に強い違和感があったのは、教育勅語も国民がいてこそ国家があるのに、国家の為に国民を必要あらば奴隷にし、そうした奴隷化への疑問を持つ事も許さない、実際の権力者である為政者達自身に都合の良いファシズム国家に作りたてるのに天皇その人共々利用したからです。足利尊氏をちょっと称賛しただけで大臣の首が飛んだり、豊洲問題で責任を追及されている誰かさんが中傷した、当時の東京都都知事のお父さんでもあるけど、天皇機関説を提唱しただけで大バッシング(しかも、当の昭和天皇は肯定していたというオチ)されたのも、「愚民どもは俺達の言う通りに、俺達の為に国に奉仕していれば良いんだ。愚民に余計な思想なんか必要ないから黙ってろこの非国民が!!」というのが彼らの必死な本音故だったのでしょう。俗に言う、天皇制ファシズムです。

残念ながら、教育勅語も明治天皇の本来の日本と言う国、その国に生きる臣民達への想いから独り歩きしてしまったよね、結果的にですが、その成れの果てが何だったのか?太平洋戦争は確かに自分もアメリカにそういう選択せざるを得ない様追い込まれた面もあるとも思いますが、だからと言って無反省で良いのだは全くあり得ない。

http://d.hatena.ne.jp/khideaki/20070502/1178066961

そしてその後の戦後民主主義教育、このはてなエントリーも目を通して、「なるほど・・・・・」と思うものもありましたが・・・・・・・・確かに欠点がないとは言いません。最近も話題となっているその他ニュースもこうした戦後民主主義教育の欠点及び限界と全く無関係ではないでしょう。しかし、勿論そうでない人も中にはいるでしょうが、右翼や保守等そうした戦後民主主義教育を批判している人達はそれで飯が食える保証なんかどこにもないのに、イデオロギーに囚われていて、日本の悪い点はやれアメリカが悪い、やれサヨクが悪いとか半ば他人のせいばかりにして、あの当時の日本は何を間違えていたのか?では、これから自分達はこれからどうすれば良いのか?客観的な視点に立った上での見識があるとは思えません。(言っておきますが、こういう思想の人達を全否定しているわけでもないですよ。例えば櫻井よしこ氏みたいに個人的な思想は違っていもいくらか共感持てる点もある人もいます)

確かにこの国には日本人なのに日本を貶めているどうしようもない人達もいます。靖国問題や慰安婦問題で騒いで、寝た子を起こしてしまった人達や親が自衛隊関係者というだけで学校の生徒をつるし上げて、君が代にも独り相撲的にかみついてロクに斉唱もしない人達とかです。彼らも戦後民主主義教育の悪い意味での申し子でしょう。プラスとマイナス、生と死、男と女とかの様に彼らとは表裏一体であるとも言えるのでしょうが、日本会議の連中もまた、天皇制ファシズムの亡霊の落とし子なのかもしれません。

そのメンバーにはこの森友学園の理事長もいる事も周知の通りで、彼らにもあの時の日本人も反省すべき点はあったとか、真摯に過去の歴史に正面から向き合おうな視点なんか全く無いのでしょうが、子供が自分達の世界が狭く、判断能力に乏しい事を良い事に、各々の人生を通して自然に培われるべきな愛国心を押し付け、前述した様な人間を多数製造して、天皇も利用して戦前への回帰を企んでいるのです。だからこそ、安倍総理についても「首相頑張れ」と言わせている様ですが、これスターリンや毛沢東、金一族の個人崇拝と一体何が違うんですか?スターリンについてはさすがに近年再評価も進んでいる一方、その死後、行き過ぎた恐怖政治や個人崇拝等は抑えられた(彼をも過剰に称える歌詞も見られたソ連国家に比べれば、君が代なんて全然可愛いもんじゃんでもあるけど)様ですが、おたくらが大嫌いであろう特亜と、程度の差こそあれ、「洗脳」であるベクトル的にはやってる事大しては変わりないじゃないですか。皆考えている事が一緒って気持ち悪いじゃないけど、それだったらチョー極端な話、この世界に日本人なんて必要ないじゃないですか。藤子F不二雄先生のパーマンにも出てきたコピーロボットだけいればいい。違いますか?こんな教育をしている学園の連中が本来の意味での愛国者だとは思えない。愛国者の皮を被ったカルト教団じゃないですか。森友学園は。そこまでしないと保てない愛国心を持つ事に一体何の意味があるのだろうか?彼らは芥川龍之介の「河童」とか読んでも全く理解できないでしょう。

勿論「いいや、俺はこう思う」とか異論はいくらでもあるでしょう。それも承知の上で今まで長々と書いてきたけど・・・・・・・・・・民進も勿論政権取ってほしいとは「間違っても」思わないけど、これが政権奪回できる最後のチャンスだぞ!!と思いきや・・・・・・実際大西健介議員が追及していて、産経新聞も論点反らしも出来て嬉しそうなのが文中からよーく伝わった(苦笑)けど、この学園には民主党政権時代にも表彰した事があったらしいですね・・・・・・・・つまりはまたまたブーメランヒットと相成ってしまったわけです。まあ自分達に甘くて他人に厳しい連中ばかりだからそんなの恥ずかしいともひっとつも思ってないのでしょうが、一体いくつダメダメネタ披露すれば気が済むんだよ・・・・・・・次から次へといくつも出てくるのが凄いと言うか、こうした惨状からも余計特亜諸国の事笑えないとも言うか、これじゃあ強い追及できないよね。結局は責任問題も有耶無耶になって、安倍総理の支持率が一時的にいくらか低下する程度、最悪2018年の総裁選に敗北して総理も退任にはなっても民進や同じくこの事件に関わりがある様である維新が政権を取るなんて事はないでしょうね。

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2017/01/22

スターリン時代のソ連共産党政治局員達の変遷とアンドレイ・アンドレーエフについて

ソ連時代、書記局が人事等党の日常的な運営担当ならば、政治局は党の政策決定担当で、共産党の一党独裁が正当化されているから、共産党の書記長(時代によって名称は変わったが)が最高権力者ながらも、政治局の局員達も書記長に次ぐ最高幹部達という事だったのでしょう。

wikiでのソ連共産党政治局のページでは、日本語版では時系列で誰が政治局員または局員候補に選出されたか、誰が死んだかとか詳細に記されているのに対し、ロシア語版では局員経験者ごとにいつの期間在任していたかが記されていましたが、レーニン死去~第二次世界大戦終戦直後までの政治局員メンバーの移り変わりをざっと述べます。

出会った直後から彼の事を嫌っていたスターリンは、レーニンが死んでまだ1年も経たなかった1924年11月には既にトロツキーを厳しく批判して、軍事人民委員(人民委員は他国の大臣に相当した)から電気産業特許委員会委員長に左遷しながらもまだしばらく政治局員にはとどまっていた様です。この共産党政治局は話はさかのぼりますが、1919年3月25日に改編され、1925年11月の時点では政治局員はスターリン、トロツキー、レフ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフ、アレクセイ・ルイコフ、ミハイル・トムツキー、ニコライ・ブハーリンの7人だった様です。

ところが、直後の同年12月の共産党大会で、カーメネフとジノヴィエフはレーニンの奥さんで、スターリンから「ウラジーミル・イリイチ(レーニンのこと)と政治の話はするな!!」と強い叱責をされた事もあったクルプスカヤと組んで、スターリンに対抗、一国社会主義の是非が論点となった様ですが、翌1926年1月にまずカーメネフが局員候補に降格となって、革命家時代から仲が良かったクリメント・ヴォロシーロフ、ヴァチェスラフ・モロトフ、それに革命家としてもスターリンの先輩だったミハイル・カリーニンの3人が局員に昇格したのですが、カリーニンは局員候補ですら昇格したのはレーニン死後の1924年6月の事で、名誉職でスターリンに害を及ぼす様な人でもなかったにも関わらず、既に1919年から国家元首ポジである全ロシアまたは全連邦中央執行委員会議長(つまり、名目上はカリーニンも首相に相当する人民委員会議議長だったルイコフもスターリンより偉かったのである)を務めていただけに遅すぎた昇格だった気がしないでもなかったです。

wikiにも書いてあるんで、あまり詳細には突っ込まないですが、話はさらに飛んで、農業集団化や重工業化が強行されて、その副作用としてウクライナを中心に大飢饉が起きた後の1934年1月~2月に開催された第17回共産党大会では10人が局員に選出された様ですが、スターリンの有力な後継者とされたセルゲイ・キーロフの同年12月の暗殺事件及び大粛清で、キーロフ、ヴァレリヤン・クイビシェフ、スターリンとは同郷の友人でもあったグリゴリー・オルジョニキーゼ、スタ二スラフ・コシオール、ヤン・ルズタークが脱落して、モロトフ、ヴォロシーロフ、ラーザリ・カガノーヴィチ、アンドレイ・アンドレーエフに加えて、アナスタス・ミコヤン、アンドレイ・ジダーノフ、カガノーヴィチに取り立ててもらったフルシチョフ、秘密警察の長、ラヴレンチ―・べリヤ、自身も危うく粛清されそうになったゲオルギー・マレンコフの9人がスターリンの最重要な側近メンバーとして固定された感じですね。

もっとも、前任者のニコライ・エジョフですら昇格できなかったのだけど、べリヤとマレンコフが局員に昇格したのは戦後の1946年の事ですが、第18回共産党大会が開催されていた1939年3月22日時点での彼ら側近の役職をここで挙げてみます。(()内コメントは各々の主な有名エピソード等について)

モロトフ(パン籠、外交畑で辣腕を)・・・・人民委員会議議長(前述通り首相に相当)
ヴォロシーロフ(無能、最初の五大ソ連邦元帥の一人)・・・・国防人民委員(国防相に相当)
カガノーヴィチ(ウクライナ大飢饉に深く関与)・・・・人民委員会議副議長兼輸送人民委員(副首相兼運輸大臣に相当か)
アンドレーエフ(?)・・・・書記局書記、ソ連最高会議議長、共産党中央統制委員会委員長
ミコヤン(来日2度、商業畑で活躍)・・・・人民委員会議副議長兼貿易人民委員
ジダーノフ(前衛芸術批判、息子がスターリンの娘、スヴェトラーナと結婚)・・・・レニングラード党委員会第一書記、党中央委員会秘書長、同中央委員会宣伝扇動局長、ロシアソビエト最高会議議長
フルシチョフ(スターリン批判、平和共存)・・・・ウクライナ共産党第一書記
べリヤ(ソ連のヒムラー、病的なロリコン)・・・・内務人民委員部長官 ※局員候補
マレンコフ(スターリン死後、短期間だけ筆頭書記及び首相に相当する閣僚会議議長を兼任)・・・・党中央委員会書記


他にも人民委員会議副議長にはニコライ・ブルガーニンがいて、さらに議長と副議長の間に第一副議長のポストもあったのですが、大粛清の影響で、キーロフが暗殺された1934年12月時点では第一副議長がクイビシェフ、副議長がワレリー・メズダレク、ルズターク、チュバーリの合わせて4人いたのが、クイビシェフは急死してしまったけど、第一副議長は空席、副議長がいずれもスターリンの側近なカガノーヴィチ、ミコヤン、ブルガーニンの3人となって、党大会閉幕直後、アンドレイ・ヴィシンスキー、ロザリア・ゼムリヤンツカ等が就任と乱発気味となり、スターリンがモロトフから譲られて、第二次世界大戦、人民委員会の改編を経て改めて創設された閣僚会議議長にスターリンが引き続き就任した直後の1946年3月19日時点で第一副議長がモロトフ、副議長がべリヤら7人の計8人と倍増した様です。

彼ら当然ながら国家や党の重職を担っていたわけですが、その中で興味を持ったのはアンドレイ・アンドレ―エヴィチ・アンドレーエフです。親父の名前もアンドレイと言ったから、この様なフルネームだったのであり、略してanan(アンアン)ならぬananan(アンアンアン)と何ともエロい(?)響きですが、彼も結構いくつも要職を兼ねていました。

最高会議は閉会期間は短く、確かに1936年のスターリン憲法制定以降はロシア史に詳しいある人のHPでも指摘されていた通り骨抜きされていたのですが、特に党の運営面で重責を担っていた事が分かります。他のスターリンの側近達と違い、未だ日本語版wikiでは彼のページが作成されてなくて、その明確な人物像が掴めていないから却って興味を持ったのですが、スモレンスク県の農民の家の生まれだった彼は既に第一次世界大戦以前から革命活動を始めていた様で、サンクトペテルブルク(当時レニングラード)やウクライナで活動した後、1920年に25歳で党中央委員会委員(政治局員および局員候補は彼らの中から選出される)となり、その後組織局局員(のち1952年に書記局に吸収される)となり、前述のカーメネフ降格、モロトフら昇格と同時に30歳で局員候補に昇格、一緒に昇格したミコヤンと並んで最年少の局員候補でもありました。その後北カフカ―ス党委員会第一書記として地方に転勤させられた様ですが、数年でモスクワに呼び戻され、1930年に党中央統制委員会委員長、32年に政治局員に昇格、キーロフが暗殺された直後の1935年2月に書記局書記と順調に要職を歴任してきた様です。

ここで書記に選任された時の背景についてです。スターリンは一時絶対権力を確立したと思ったら農業集団化、重工業化がいかんせん強行的過ぎて、世界大恐慌に苦しむ他の列国を尻目に高度成長を遂げた一方、ウクライナでは大飢饉が発生したりと求心力が低下気味だった様です。一時は失脚したカーメネフやジノヴィエフ等に寛容な態度を示したのも、他の某HPでも何かとんでもない事をしでかす前の「フェイント」だったと指摘されていましたが、そうせざるを得なかった面もあったのでしょう。しかし、それでも不満は収まらなかった様で、17回共産党大会では投票でキーロフのそれが3票に対し、スターリンは292票も反対票が出てしまった様です。結局亡命したガンビアの某大統領もビックリな(?)カガノーヴィチによる不正行為(反対票の改竄で2票とする。このくだりはミコヤンも後に回顧録で触れていたと言う)とキーロフの辞退でキーロフ新書記長就任はならなかった様ですが、この時期が最高権力者となったスターリンにとって最も危機的状況に立たされた時だったでしょう。

この年、同じ独裁者のヒトラーも長いナイフの夜事件でレーム等の政敵を粛清しましたが、スターリンにも大きな影響を与えた事でしょう。「一番得した奴を犯人だと疑え」というのが、事件捜査の鉄則だと言われている様で、ナポレオンの毒殺(ヒ素も決定的な証拠にはならないという)等共々確実な証拠はない様ですが、やはりキーロフはスターリンの指示で暗殺されたのでしょう。その直後にアンドレーエフは書記局書記にもなり、頼朝が実は征夷大将軍は2年で辞任したのではな説があるように、スターリンも1934年以降は署名の際、必ずしも書記長を名乗らなくなった様ですが、スターリンの側近で書記局書記と政治局局員を同時に兼ねていたのはアンドレーエフ以外にはキーロフ、カガノーヴィチ、ジダーノフ、マレンコフ、フルシチョフぐらいしかいなかったのだからいかにアンドレーエフもスターリンから信頼されていたかが分かります。と言うか、奥さん同士(ドーラとスターリン二番目の妻、ナジェージダ)が仲が良かったのも出世を後押しした様です。

その後も大粛清ではブハーリンやルイコフの逮捕(一方で一昨年2015年に93歳で亡くなった、バリバリのスターリン主義者でもあった娘のナターシャの証言によれば、友人を粛清から救ってもいたという)にも関わっていた様ですが、農業人民委員等を経て、戦後の人民委員から閣僚会議への改編の際副首相に相当する7人いた閣僚会議副議長の1人となった様ですが・・・・・・・・赤軍粛清もやり過ぎたせいで、フィンランド相手にも手こずっただけでなく、ヒトラーに裏切られた独ソ戦序盤でも敗北を重ねたトラウマで、スターリンは1930年代の大粛清を生き延びた側近達にも強い猜疑心を抱くようになった様です。明の洪武帝ともダブるものがあって、カリーニンも大腸癌で死ななかったらあのまま無事に寿命全うできたのかなあですが、まず首相経験者だったモロトフが、ユダヤ人だった奥さんが逮捕された等事あるごとに標的にされた様です。となると、スターリンだって既にこの時点で70近い老人で、べリヤとマレンコフは政治局局員に昇格したばかりでしたが、前述した現役の書記局書記と政治局局員を兼ねた面々がモロトフに代わるスターリンの有力後継者となり得ます。

その一人なフルシチョフも、ウクライナソ連(ベラルーシソ連と共にソ連と別枠で国連にも加盟)共産党第一書記の他にも大戦末期の1944年からスターリンの不興を買っていたレオニード・コルニェツからウクライナ人民会議議長(1946年以降はウクライナ閣僚会議議長か)を譲られたのが、1947年3月~12月にかけて第一書記をかっての上司で閣僚会議副議長も兼ねていたカガノーヴィチに譲らされ、ウクライナ人民会議議長専任となり、デミュヤン・コロトチェンコに人民会議議長を譲った後またウクライナソ連共産党第一書記に返り咲いたのですが、ウクライナソ連での権力集中を間違いなくスターリンに警戒された・・・・と思いきや、ウクライナではまた飢餓が発生して、それをスターリンに咎められたらしいです。

となると、次の有力後継者はジダーノフです。なるほど、レニングラード共産党第一書記はお役御免となって、1946年3月に就任したソ連最高会議議長は名誉職な面も多分にあったのでしょうが、政治局局員と書記局書記の地位は保っているし、前述のジダーノフ批判とコミンフォルム組織でしっかり点数稼ぎしたし、博士号を取った息子のユーリーもスターリンの娘、スヴェトラーナと結婚しそうだ。(実際結婚して、間にスターリンの母と同じ名前のエカテリーナが生まれて、「有名人の子供はつらい」という本でも書かれていたけど、マザコンでもあったスターリンから祝福の手紙ももらったらしい。結局数年で離婚したらしいが)

ところが彼もユーリーとスヴェトラーナとの結婚を待たないで急死してしまった。you tubeでモロトフらが葬儀で弔辞を述べた動画も目にしたけど、これもキーロフ同様怪しいぞ?じゃあ次はマレンコフか?閣僚評議会副議長にもなったし、べリヤと組んで同じ副議長のニコライ・ヴォズネセンスキーらをレニングラード事件としてでっちあげて粛清した。そうかと思えばまた、今度はそのべリヤが同胞のミングレル人達が標的にされて、横っ腹を殴られたみたいだ。そしたら今度はまた、フルシチョフがモスクワに呼び戻されて中央委員会書記とモスクワ党委員会第一書記に栄転したぞ。あれっ?アンドレーエフはどうしたの?いつの間に影薄くなってない?

実際は1946年夏のカリーニンの葬儀にも参列し、このレニングラード事件での粛清にも関わっていた様ですが、どうやらミコヤンの息子、セルゴが受けたインタビューによれば、戦後健康を害して(1949年1月にはレニングラード事件の「共犯者」でもあるマレンコフに「医者の言う通りに養生しているが、眩暈が止まらない。」旨を訴えた手紙を出しているが、不眠症治療にコカインを服用していたらしい)いたアンドレーエフは聴覚障害を抱えて、補聴器が必要となり、スターリンからもロクに議論が出来ない奴なんて政治局には必要ないとこの頃には信頼を失ってしまっていた様です。この間起きた、外務人民委員を務めた事もあったけど、ユダヤ人という事で独ソ不可侵条約を結ぶ際解任されてしまったマクシム・リトヴィノフ(スターリンがそんな事で気を遣うタマには見えないだけに意外にも感じられたけど、彼もユダヤ人にはあまり好印象を抱いていたかった様だし)の事故死もそれに見せかけたスターリンによる陰謀じゃないかとか言われていた様ですが、1952年10月に久しぶりに開催された第19回共産党大会ではモロトフだけでなく、ミコヤンもスターリンから標的にされてしまって、政治局員とは別に組織された幹部会のメンバーからも外されてしまったけど、アンドレーエフもアレクセイ・コスイギン共々とうとう政治局員にすら再選されなかった様です。

既に1948年には新たにブルガーニンと後にブレジネフ時代に閣僚会議議長を務める事になるコスイギンが政治局局員に加わったけど、クビになったのはアンドレーエフとコスイギンの2人だけだったのに16人も新たに局員への昇格者が出た。周知の通り、この大会が開催された後、5か月足らずでスターリンは死ぬ事になって、医師団事件をきっかけに次なる粛清を考えていたのを察知したべリヤに毒殺された説(モロトフに自慢していたらしい)も知っている人は知っていますが、この党大会での大量昇格も間違いなくその伏線だったのでしょうね。ヴォルコゴーノフという歴史学者によれば、1953年2月28日の会議では朝鮮戦争や前述の医師団事件についてフルシチョフら側近と話し合うもほぼ終始不機嫌で、「昔の功績さえあれば生きていけると思うのはとんでもない間違いだ。」とまで言っていた様ですが、逆にフルシチョフの回顧録ではしばしば開かれていたパーティーで楽しんでいて機嫌が良かったという。どっちが本当なんだ?まあ前者の方が可能性としては高いでしょうが、モロトフ、フルシチョフ、ジダーノフ、ミコヤン、べリヤ、そしてアンドレーエフ等長く仕えてきた側近達を次々とチクリと標的にして、突出したNO.2を作らない様にしながら、彼らを粛清して一気に世代交代を実現させ、彼らよりもっと若い幹部を自分の後継者候補にしたいと考えていた様です。

ミハイル・スースロフがその有力候補(と言っても、マレンコフとは同い年だが)だったらしいですが、実際昇格者16人中、そのスースロフも含む14人がスターリンが死んだ1953年3月5日に早くも解任されています。(人員削減を提案したのは、当日スターリンが死ぬ直前にフルシチョフらと会議したマレンコフである)スターリンの世代交代策は明らかに否定されたわけです。

その後マレンコフが書記長から改称された筆頭書記と閣僚会議議長を兼ねるも10日足らずで筆頭書記はフルシチョフに譲り、第一閣僚評議会副議長となったべリヤが実質的な最高権力者になったかに見えました。ヒムラーが全然マトモに見えるほどのキ〇〇イエピソードであふれているべリヤも、諸政策は案外(?)マトモでしたが、ドイツ問題でアメリカに恩を売ろうとしたのが命取りとなってしまった様です。中華思想の中国もそうだけど、ロシアも、タタールのくびきというトラウマを経験して、その後も大きな混乱が度々続いてきた歴史を歩んできたからかあれだけ国がバカ広いくせに自分達の縄張りを広げ、守る事にかけては他のどの国よりも貪欲です。だからスターリンだって功罪の罪の面も目立つのに今のロシアでも肯定的な評価の方が多い反面、ソ連を結果的に解体させてしまったゴルバチョフは売国奴認定されているし、北方領土問題もウクライナ・クリミア併合問題もこうしたトラウマによる貪欲さを認識しないと理解できないのですが、「こいつをいい加減何とかしないとヤバいぞ」なムードになってしまったのは当然だったでしょう。

べリヤ処刑、スターリン批判、反党グループ事件等を経て集団指導体制をうたった筈が結局フルシチョフ独裁体制となってしまいましたが、もしアンドレーエフが政治局局員だったならば反党グループ事件でのフルシチョフ解任決議にはダー、ニェットどちらを選択していたのでしょうかね?この時彼は中央委員会委員(だから、委員としては実際解任決議におそらく投票している)やソ連最高会議議員の職は保持していて、この事件が起きた1957年には中ソ友好協会会長にもなっています。この頃はまた、中ソ対立も起こり始めましたが、勿論アンドレーエフに中ソ両国のパイプ役を望んだ上での抜擢ではなかったでしょう。そもそも彼の経歴から見ても中国と特別パイプのある人には見えない。国共内戦中に訪中して毛沢東と会談したり、逆に中華人民共和国建国後の毛沢東らの訪ソの際に中ソ友好同盟相互援助条約締結の交渉をしたり、スターリン批判直後の金日成のソ連派への粛清を彭徳懐と共に止めさせようとしたりとミコヤンの方が全然そうした強いパイプがあったはずです。フルシチョフにとっては特に危険な人物とかではなかったのでしょうが、政治局員として先輩だった等元々格上だったのだから、あまり大きな顔をされても困る存在だったのも確かと言うか、中ソ友好協会会長もそんな彼に据えた名誉職だったのでしょう。1962年までには前述の公職いずれも退いて、最高会議の顧問に転じた様ですが、既に1952年10月に政治局員を解任された時点で半引退、最高会議議員等を退いた時点で実質完全引退したと言って良いでしょう。

アンドレーエフらの代わりに大量昇格されるも、スターリンの死で解任となった14人の内、スースロフは1955年に再昇格しましたが、反党グループ事件後に昇格したメンバーの一人だったブレジネフ共々フルシチョフに引導を渡す形となって、特にまた、前者がブレジネフやアンドレーエフと同じ1952年10月にいったん解任されたコスイギン(1960年に再昇格、コスイギン改革も行うが・・・・・・)共々影の最高権力者として長く続いた「停滞の時代」の象徴になったのも皮肉な話ですが、アンドレーエフもフルシチョフの後を追う様にその死の約3か月後に亡くなり、共に失脚したという事でクレムリンにも埋葬されなかったのもまた然りかもしれません。ジョジョの吉良吉影みたいに目立ち過ぎない、突出しすぎない程度に立ち回り、そつなく実務をこなして出世していったのが、戦後は健康を害して点数稼ぎで他の側近達に後れを取り、スターリンの信用も失って失脚し、政治的には先細りにフェードアウトしていった印象もある彼の人生でしたが、スターリンという赤いツァーリには仕える事自体が命がけだったし、ミコヤン共々その側近としては比較的したたかかつ平穏に生き抜いた方だったでしょう。

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2016/06/05

百人一首の歌人達(19)-52番藤原道信朝臣

「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな」

(52番藤原道信朝臣)


もうすぐで夏至ですが、この歌は夜明けが来るのが恨めしいと思えるほど、恋人とのひと時等強い恋心をストレートに歌った歌ですね。

この歌を歌った、藤原道信は名前は道長らと似ているけど、藤原北家でも傍流で、道長らとは従兄弟関係にあたります。(父の為信が道長らの父の兼家の弟)何で似ているのかと言うと、兼家の養子になったからです。兼家の養子にはもう一人いて、兼家長男で、道長長兄の道隆の長男、道頼で、彼が六男扱いだったから、道信が七男だったのでしょうが、いつ頃養子になったのでしょうね。彼らは。

寛和の変で、最高権力者になれそうでなれなかった兼家がやっと摂政になった時の、wikiにも書いてある為信の立ち回りからして、道信がこの伯父の養子になったのは986年7月の兼家摂政就任・右大臣辞任~同10月の元服の間ですか。次は道頼の方ですが、彼は早くて984年の兼家外孫の懐仁親王立太子した頃ですか。この時点で既に兼家は将来の青写真(花山天皇退位、懐仁親王即位、そして定子の入台)を描いていたのでしょう。道隆は愛妻・高階貴子との間に生まれた伊周・定子・隆家と比べて、守仁女との間に生まれた道頼には冷淡に接していたらしいですが、既に祖父の忠平の時から、摂関とは別に太政官の公事等を仕切って、蔵人別当も兼ねて蔵人所も把握する一上が制度化してきた。

詳しくは大津透氏著作「道長と宮廷生活」を読んでくださいですが、忠平以降も摂関は実頼はそもそも天皇とは外祖父でも外伯父(外叔父)でもなかったし、伊尹は自分が太政大臣になった直後に寿命切れ、兼通は従兄弟で右大臣だった頼忠を一上にして、左大臣だった兼明親王はかなり強引に皇族復帰させたのは良かったけど、息子の顕光・正光らを昇進させきれないまま寿命切れとなってしまった。頼忠についてもwikiで書かれている通りだけど、直接太政官を指導できたわけではなかった(兼家の摂政就任後の右大臣兼任解除以降それが一層明確となった様である)から、それならば、2人の兄(伊尹・兼通)も反面教師として、息子達をどんどん昇進させて、太政官での自分の味方を増やさなければいけない。単純な孫への愛情だけでない、いればいるほど良い子孫の栄達を願う兼家と、伊周を嫡子として定子入台の布石にもしたい道隆のそれぞれの政治的思惑がかなり絡んでいたのでしょうね。

しかし、摂家は頼通以降、正五位下または従五位上に初叙されるのが先例となった様ですが、道頼・伊周が従五位下でスタートしたのに対し、道信はその後の摂家に準ずる従五位上と一段階高かった。しかしまた、道頼・伊周の場合はまだ花山天皇在位時だったから、一条天皇在位時には彼らも同じ従五位上スタートになっていただろう・・・・・と思いきや、989年に元服した隆家も従五位下スタートだったんですね。まあこれは一時はやはり天皇の外戚になる野望もあった為光に恩を売るつもりだったのでしょうね。ところが、平安貴族って繁田信一氏の著書とかからも分かる通り乱暴だった様で、988年には道綱と道長が乗っていた牛車が為光のそれを通過したのにいじやけた従者達が石を投げつける凶行をやらかしてしまった。同年の、兄の誠信の参議昇進とどっちが先かは分からないけど、いくら摂関が前述した様な事情故(左大臣で道長の義父でもあった源雅信は摂関を止めて太政大臣には留まっていた頼忠共々まだ存命だった)に為光を兼家が厚遇しなければいけない面もあったとは言え、実際その参議昇進も泣いて懇願してやっと実現したほどだったらしいから、「一体何て事してくれたんだ!!」な気分だったのだろうと言うか、この投石事件の方が先だったのでしょうね。為信はまたそれが叶うなら右大臣を止めても良いとも言っていた様で、流石にそうはならなかったのですが、そうすると雅信の弟だった重信を後任の右大臣にしなければならない(実際、兼家死後の991年に太政大臣に表向きは昇進、悪く言えば干された為光の後任として昇進)し、最初からそこまでする意思は兼家にはなかったでしょう。その代り、話は前後するけど、987年にはまだ権大納言だった道隆を従一位にしようとして、これは辞退されたけど、989年に内大臣として次期摂関就任の資格を半ば強引に与えた様です。

そういう色々な「大人の事情」もあった様で、道信メインの話ではなくなってきているけど、スタートは道頼・伊周以上に順調で、侍従、兵衛左等を歴任する等典型的な昇進コースを辿って行った様ですが、従四位下・左近衛少将だった時点で兼家が亡くなってしまった。あとは当然伊周とはどんどん昇進差は広がっていったし、年下だった隆家にも越されそうになっていた。しかし、道信も994年正月には従四位上に昇進し、この時点ではまた、左近衛中将でもあったから・・・・・・しかし、乱暴者も多い平安貴族の中でも奥ゆかしい性格だったらしく、同じく性格はよかった道頼共々良い人ほど早く・・・・・・だったのでしょう。この年から流行し始め、翌年には中納言以上の公卿が8人も命を落とした天然痘により、彼の人生は終わってしまったのです。長兄の誠信よりも有能だった次兄の斉信が991年に24歳で従四位上、994年に27歳で蔵人頭、996年に29歳で参議になった事を考えると、彼の政治能力は分からないけど、もっと政治でも歌でも能力を発揮できていたかもしれないですね。ただ、妻にもう一人の伯父だった藤原遠量の女(つまり従兄妹同士の結婚)がいたらしいですが、これは昇進への追い風とかにはなったか。遠量は他の兄弟達の昇進速度とかから推測するに、935年前後頃の生まれかと思われますが、伊尹が従五位上昇進から昇殿許されたのに7年、兼家が8年かかったのに対し、遠量は13年かかった(ちなみに兼通が17年だった)様で、少なくとも973年までは生きていた様ですが、従四位上どまりで公卿にはなれなかった様なのであまり有能とは言えず、大きな影響はなかったかもですね。

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2016/03/20

古代の主な長寿者たち

http://gottanirekishikan.web.fc2.com/fuhou.html

ググっていたら、たまたまこのサイトを目にしたのですが、これは飛鳥時代~現在までの訃報年表のページです。泉重千代翁は最後の江戸時代生まれの日本人かと思いきや、出生記録は早世した兄のそれで、翁は実際は明治10年代半ば頃の生まれだったらしいですが、飛鳥~平安時代に在位した歴代天皇(舒明~安徳各天皇)の治世に生まれ、最後まで生きた人は誰だったのかこのページを参考に調べてみました。


舒明天皇・・・・石上麻呂(640~717)

里中満智子先生の「天上の虹」、「長屋王残照記」いずれにも登場していて、晩年は藤原京の留守役にされていたけど、その時点で70代だったし、必ずしも冷遇されていたわけでもなかったかもですね。

皇極天皇・・・・義淵(643~728)

斉明天皇・・・・阿部広庭(659~732)

天智天皇・・・・巨勢奈弓麻呂(670~753、実際は弓の下に横線が付く)

奈弓麻呂は父の比等が壬申の乱で流罪になる等官人としての出世にはかなり不利な条件を抱えていましたが、最終的には大納言にまでなった等壬申の乱の敗者サイドでは前述の麻呂に次ぐ昇進ぶりを見せましたね。勝者にはついたけど、おそらくすぐ早世した蘇我安麻呂の孫、石川年足もそうだったけど、聖武朝末期~淳仁朝においては一度衰退した氏族の中興も見られた様です。それも、実質的最高権力者だった藤原仲麻呂の権勢のおこぼれでしたが・・・・・・・

天武天皇・・・・泰澄(682~767)

持統天皇・・・・慈訓(691~777)

文武天皇・・・・多治比長野(706~789)

長野はほぼ奈良時代と共に生きた人生だったと言って良かったでしょう。精力もあった様で、娘の真宗は63歳の時の子でしたが、桓武天皇の夫人となり、葛原親王等を産み、途中の系図は曖昧な点もありながらも、桓武平氏等武士の起こりとなっていきました。

元明天皇・・・・賢けい(714~93、変換できず)

元正天皇・・・・羽栗翼(719~98)

聖武天皇・・・・藤原継彦(749~828)

孝謙天皇・・・・護命(750~834)

淳仁天皇・・・・竹田千継(760~860、医師)

称徳天皇・・・・延祥(769~853)

光仁天皇・・・・橘永名(780~866)

前述の仲麻呂との政争に敗れて処刑された橘奈良麻呂の孫で、嵯峨天皇皇后となった嘉智子とは従兄妹にあたります。さらに空海と共に唐に行った逸勢の兄でもあり、近親者は有名人が多いですね。娘の氏子がその女御となっていたので、婿だった淳和天皇とその次の従妹甥だった仁明天皇の治世では昇進したかと思いきや、承和の変で軽い左遷に。しかし、数年で戻ってこれてさらに20年以上生きて晩年は公卿にもなったけど、応天門の変が起きた直後に亡くなったのは何だか皮肉でしたね。

桓武天皇・・・・真然(804?~91)

平城天皇・・・・藤原冬緒(808~90)

嵯峨天皇・・・・藤原良世(823~900)

淳和天皇・・・・相応(831~918)

ただし、菅原道真のライバルだった大蔵善行が832年生まれで、少なくとも921年までの生存が確認できます。道真の左遷(昌泰の変)に関与した連中がその怨霊で次々死んだと言われた中では余計異例な長寿でしたね。悪い奴ほど良く生きるという事ですか。

仁明天皇・・・・増利(836~928)

文徳天皇・・・・会利(852~935)

清和天皇・・・・仁咬(873~959、実際は口へんではなく、白へん)

陽成天皇・・・・寛空(884~972)

光孝天皇・・・・藤原元名(885~965)

宇多天皇・・・・光智(894~979)

醍醐天皇・・・・平忠頼(930~1018)

生まれたのが旧暦で6月だったから、醍醐天皇崩御3か月前でしたが、ここでやっと武士が初登場です。桓武平氏で、前述の長野の子孫でもあります。(多治比長野―真宗―葛原親王―高見王―平高望―良文―忠頼)幼少時は従兄の平将門が一族との土地争いから乱を起こして、ついに関東一帯を支配して新皇を名乗るも間もなく討たれた。そう言えば彼の命日である3月25日まであと少しですが、亡くなった時は道長がこの世をばを歌うか歌わないかの藤原氏全盛期。しかし、道長亡き後すぐに今度は息子の忠常が乱を起こす事となり、藤原氏の満月にも早くも陰りも見え始めます。

朱雀天皇・・・・藤原顕光(944~1021)

村上天皇・・・・源倫子(964~1053)

道長の正室ですが、祖母が時平の娘だったので、時平の子孫って男系は確かに早々と歴史の表舞台から姿を消しましたが、女系では今日に至るまで結構栄えているんですよね。昌泰の変も、例えば宇多天皇の譲位なんか現在に当てはめれば、今の天皇陛下が麻生副総理(彼は総理大臣経験者でもありますが)にだけ皇太子さまへの譲位を相談して、安倍総理にはしなかった様なものですから、時平から見れば「何でそんな大事な事俺にも相談しないの?」な筈である。でも、死んだ時の様子もあの蛇とか面白おかしく描かれていて、悪人扱い、女系子孫の事も半ば無視されてしまっているのも何だかちょっと可哀想ですね。倫子の話じゃないのでこれぐらいにしておきますが。

冷泉天皇・・・・延殷(968~1050)

円融天皇・・・・源算(983~1099)

実は1000年生1107年没な異説もあり、こちらの説の方が本当ならば、四条貞子(孫の後深草法皇・亀山法皇も後を追う様に亡くなっている)よりも先な、3世紀にまたがって生きた、おそらく最初の記録に残る日本人になります。

花山天皇・・・・明快(985~1070)

一条天皇・・・・教懐(1001~93)

三条天皇・・・・蓮待(1013~98)

後一条天皇・・・・藤原寛子(1036~1127)

後朱雀天皇・・・・藤原道子(1042~1132)

後冷泉天皇・・・・源方子(1066~1152)

皇室関係者が続きますが、近衛天皇生母の美福門院こと藤原得子の母で、父の源俊房も長生きで左大臣歴は藤原頼通に次ぐ38年(11世紀は彼ら2人が左大臣だった時期が過半数を占めてもいた)を誇りましたが、天皇の祖母となって、藤原永手以来実に376年ぶりの生前正一位となりました。近衛天皇は1155年まで生きたので、まさに栄光の頂点の中で天寿を全うした事になります。

後三条天皇・・・・藤原実光(1069~1147)

白河天皇・・・・千葉常重(1083~1180)

前述の忠頼の玄孫で、父の平忠兼も81歳、子で、現在も千葉市に胸像がある常胤も83歳まで生きました。武士は貴族みたいに変な迷信とかには囚われず、食事も質素ながらも新鮮で栄養あるものを取っていた様ですが、健康に気を遣った賜物だったでしょうか。常重は治承・寿永の乱勃発直後に亡くなりましたが、その直後常胤が頼朝の挙兵に呼応して、以後相馬氏等子孫繁栄の基を作ったのです。

堀河天皇・・・・大中臣親隆(1105~87)

大中臣氏も、天武系から天智系への皇統移り変わり時に上手く立ち回った清麻呂や平安中期に出て、父の方は百人一首歌人でもあった能宣・輔親親子と長生きした人は何人かいましたが、彼も82歳まで生き、正三位まで登り、三男の能隆も88歳まで生きています。

鳥羽天皇・・・・宇都宮朝綱(1122~1204)

崇徳天皇・・・・寒河尼(1137~1228)

頼朝の乳母でしたが、死去時には彼の子孫は貞暁(頼朝庶子)と竹御所(頼家の娘)しか残っていませんでした。死去2年後には竹御所は鎌倉幕府4代将軍となった藤原頼経と結婚しましたが・・・・・・

近衛天皇・・・・小山朝政(1167~1254)

後白河天皇・・・・菅原為長(1158~1246)

二条天皇・・・・粟田口国綱(1163?~1255)

六条天皇・・・・結城朝光(1168~1254)

何だか国連は今度は代表作の「風と木の詩」までイチャモンつけている(いい加減もっといくつもある大事な仕事しろよでもあるけど)様ですが、竹宮惠子先生が手掛けられた吾妻鏡の漫画版でも特に後半レギュラーみたいな活躍見せていたのも印象的でしたね。

高倉天皇・・・・藤原信実(1177?~1265)

安徳天皇・・・・西念(1182~1289)

近年は平安時代の終わり・鎌倉時代の始まりは1185年説が有力となっている様ですが、おそらく彼が平安時代生まれ最後の生き残りだったでしょうね。既に鎌倉時代も後半が良い所で、持明院統と大覚寺統の対立が深刻なものとなっていましたが・・・・・・

と言うかまた、該当者は斜線表示しましたけど、お坊さんが多かったのが特徴的でしたね。中には僧兵もいて、特に平安後期は朝廷を悩ませましたが、精進料理とか厳しく節制していたからでしょうか。確実な最後の江戸時代生まれの日本人は1977年に109歳の誕生日直前に亡くなった中山イサ氏だった様ですが、男ではおそらく村上直次郎氏(1868年2月生、1966年9月没)で、一世一元(つまり、天皇在中は元号は改元しない)制前の天皇、孝明天皇在位時に生まれた有名人ではスルガ銀行生みの親だった岡野喜太郎氏(1864年生、1965年没)ですね。おそらく。と言うかまた、このサイトでは南北朝時代のページでは文字化けしていて見れないのですが、坊さん以外にも脇役ばかりながらもその時その時の歴史に欠かせない存在ばかりな面々だった事も分かります。以降の面々はまた気が向いたら・・・・・・という事で。

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2015/09/20

百人一首の歌人達(18)-55番大納言公任

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ(55番大納言公任)

久々のこのシリーズですが、今回は大納言公任こと、藤原公任です。

彼が生まれたのは966年(康保3)、又従兄弟の道長と同い年です。当時は村上朝末期で、皇太子は憲平親王(冷泉天皇)、その母の藤原安子は2年前の964年(応和4)に亡くなっていましたが、父・頼忠の従兄弟だった、兼通、兼家らが外伯父または外叔父となっていたのですから、祖父の実頼及び父の頼忠は皇室との外戚関係においては不利だったのですが、親王の外祖父だった師輔が亡くなった時点で既に30を超えていた彼らはいずれも公卿にすらなっていませんでした。天暦の治と後世称された村上朝はまだ藤原氏以外の氏族にもある程度は昇進できるチャンスもあった様ですが、さすがに以前過去ログで取り上げた事もあるはその師輔の長男で、皇太子の外伯父なのに従四位上・左近衛中将のままでおかしいと思ったのか、師輔の死から3か月後の960年(天徳4)8月に参議に昇進しています。そして公任が生まれた次の年の967年(康保4)1月には従三位・権中納言に昇進し、これが村上朝における極位極官となったのですが、兼通は漸く公卿への最短距離にあった蔵人頭にのぼったばかりで、兼家共々まだ公卿にはなっていませんでした。

一方で、実頼系(小野宮流)である頼忠は話は前後しますが、事務方の官職を地道に歴任しながら、既に963年(応和3)には参議として公卿の仲間入りを果たし、弟の斉敏も公任が生まれた年に春宮(皇太子)権亮と言う、皇太子に奉仕する官司の高級幹部(兼家も翌967年2月に春宮亮となっている。最終的には従三位・参議)となる等師輔系の面々とは昇進でさほどの差は無かったのは救いだったでしょうか。村上天皇崩御~頼忠の関白就任までの詳細な話は割愛しますが、安和の変及びその直後の公卿達の世代交代(9世紀末~10世紀初頭生まれの、実頼・師輔世代の公卿たちの相次ぐ死等)や兼通・兼家の有名な確執もあって、現代なら小学校五年生あたりになった頃には父はいつの間に少なくとも形式的には最高権力者となっていたのです。

だから殿上で元服できたし、官位も正五位下からのスタート。982年(天元5)には早くも従四位上と父が36歳で漸く昇った官位に、若干16歳で昇りました。この年はまた、姉の遵子が兄の冷泉から譲位された円融天皇の中宮となり、公任は大鏡によれば兼家の娘、道長の姉で天皇の女御だった詮子サイドに「こちらの女御はいつ立后されるのかな?」と嫌味を言ったと言われています。後の三舟の才でのエピソードからも伺える様に、確かに自惚れてしまう所もあったかもしれませんが、この話が事実だったかどうかは甚だ疑問です。確かに中宮にはなりましたが、遵子が未だ天皇との間に皇子を産んでなかったのに対し、詮子は懐仁親王(一条天皇)を産んでいたし、さらに兼家は伊尹存命時には既にもう一人の娘な超子を冷泉に嫁がせ、居貞(三条天皇)・為尊・敦道各親王が生まれていました。内為尊親王は和泉式部との恋愛が有名で、流石に兼家は失望のあまり、超子の死も拍車をかけたのか、詮子や懐仁親王共々東三条邸に引きこもってしまった様ですが、さらに2年後の984年(永観2)には状況が悪化します。

円融天皇が冷泉上皇の皇子で皇太子だった師貞親王(花山天皇)に譲位したのですが、花山天皇は伊尹の娘、懐子が生母で彼女は既に故人でしたが、弟で天皇にとっては外叔父にあたる義懐が、前年までは正五位下に過ぎなかったのがこの年の10月にはあっという間に正三位・右近衛中将まで昇進しました。この時点で従四位上・讃岐守だった公任はあっという間に官位・官職を抜かれてしまいました。さらに次の皇太子は兼家が外祖父の懐仁親王で、長男の道隆が従三位・春宮権大夫となりました。その他いくつかエピソードがあって、まあそれも割愛しますが、決して頼忠一族にはバラ色の未来が待っていた様な状況ではなかったのです。そんな時に姉が中宮になった程度で浮かれてこんな皮肉を言うなんてハッキリ言ってバカです。若気の至りとか言えば聞こえは良いのでしょうが、道長が「あいつの影どころか面を踏んづけてやりますよ。」と言ったとされるほどの人で、まあこの話も本当なのかどうかは疑わしいですが、話半分聞く程度にとどめるのが妥当でしょう。

さて、どうしても懐仁親王を自分が生きている内に即位させたかった兼家は息子達をフル動員させて、花山天皇を退位させて、それも詳しい経緯は割愛しますが、それは成功し、頼忠は摂関を辞めざるを得ませんでした。流石に晴れて一条天皇の摂政になった兼家は、太政大臣の位まで頼忠から奪おうとまでは思わなかった様で、右大臣を辞めて従一位・准三后となり、自らを臣下の一人から皇族に準ずる立場に引き上げる事で頼忠や、左大臣だった源雅信の下位者の立場を脱したのですが、ほぼ同時に公任が昇殿を許されたのも前関白・頼忠に対する配慮だったのでしょうか。以降昇進は道隆や道長等兼家の息子達には遅れを取りましたが、父が亡くなった989年(永延3)には蔵人頭となって、直後兼家が亡くなって、道隆の時代になってもです。この頃、公任が結婚した昭平親王(冷泉・円融天皇の兄弟)の娘が道隆・道長らの兄弟で、自分が一番花山の退位に貢献したのに道隆が摂関職を継いだにの不満を持っていた道兼の養女でもあった事から、道兼と連携して道隆に対抗する意図もあったのではとの意見もある様ですが、道隆関白期においても992年(正歴3)に参議に昇進して、26歳での公卿の仲間入りは決して遅い昇進スピードではなかったし、誰ともバランスを取ってある程度以上仲良くしていたのでしょう。実際また、995年(長徳1)には皇后宮大夫にもなり、この時の皇后は道隆の娘の藤原定子だったのですが、この2日前の9月19日に公卿達の疫病等による相次ぐ死で既に内覧(関白に準ずる)となっていた道長が右大臣・藤原氏長者となり、まだ道隆の息子達である伊周や隆家という政敵はいましたが、やがて法皇となっていた花山を襲って自滅した等道長の時代となります。

冒頭の歌は999年(長徳5)に道長の嵯峨遊覧に同行した時に歌った歌ですが、道長の政権獲得直後は皇后宮大夫等必ずしも彼にすり寄っていたわけでは無かった公任も、遅くともこの頃以降は道長に追従しながらも、自らの才能を発揮していく道を選んだ様です。この年まで官位はずっと正四位下だったのが、1月7日に従三位に昇進し、翌1000年(長保2)には中納言・正三位、1005年(寛弘2)には従二位、1009年(寛弘6)には権大納言となりました。この間また、皇太后宮大夫となっており、皇太后は姉の遵子の事でしたが、とうとう円融との間に子は生まれなかったので、もはや公任の出世とかには何の影響もありませんでした。その後は道長だけでなく、閑院流の祖だった公季や無能な事で有名だった顕光(兼通長男)、従兄の実資等長生きな先輩公卿が目立った事や、皇室との血縁関係も活かした摂関職の世襲化が進み始めた(ほぼ完全に確立したのは院政期だが)事もあって、結局正二位・権大納言が極位極官となったのですが、娘が道長の五男・教通と結婚し、彼からも舅としてそれ相応以上の敬意も受けていたと言います。また孫娘も教通の息子、信長と結婚した等教通一族のかかわりはしばらく続きました。

小野宮流は公任の子孫は公卿となったのは曽孫の公定まででしたが、彼の弟の定綱の娘が道長・頼通の御堂流でも傍流な家忠と結婚し、忠宗等を産んでいます。政治的にはついに兼家・道隆・道長の風下に立ち続けてしまったままだった公任でしたが、以降頼忠・公任の血筋は女系も介しながらも現在まで血筋は受け継がれています。その系図は以下の通りですが、康親の子には他にも有名なあの岩倉具視がいます。さらに具視の曽孫だった故・小桜葉子氏は俳優の故・上原謙氏と結婚して加山雄三氏や池端亮子氏を儲けました。さらにまた、加山・池端両氏兄妹の従兄弟が喜多嶋舞氏の実父の喜多嶋修氏なので、加山・池端両氏兄妹や喜多嶋氏等も藤氏小野宮流の末裔であるとも言えるのです。

藤原実頼-頼忠-公任-定頼-定綱-女子-忠宗-花山院忠雅・・・師継-女子-今出川実尹・・・・女子-庭田重保-正親町季秀-持明院基久-女子-持明院基定-高野保春-四辻実長-裏松謙光-堀河親実-堀河康親-堀河親賀-堀河康隆-花山院親家・・・花山院弘ただ(変換できず)-花山院悠生(次期当主)

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2015/01/15

舒明天皇陵はお引越しされていた?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150115-00000126-jij-soci

舒明天皇の初葬地か=国内最大級の方墳発見―石積み、堀出土・奈良

時事通信 1月15日(木)17時3分配信    

 

 奈良県立橿原考古学研究所は15日、同県明日香村で、天皇か大豪族クラスの古墳の一部とみられる石積みと堀が見つかったと発表した。7世紀中頃の方墳と推定され、墳丘は一辺50メートル以上。石舞台古墳(7世紀前半、同村)を超える国内最大級の方墳とみられる。同研究所は規模などから、中大兄皇子(天智天皇)の父、舒明天皇が最初に葬られた墓の可能性が高いとしている。
 舒明天皇は没後、最初に葬られた場所から同県桜井市の段ノ塚古墳に改葬されたとされる。同研究所の菅谷文則所長は「(改葬後に)元の場所がどうなったか、解明の端緒になる」と話している。
 同研究所によると、見つかった古墳は四角形と推定され、墳丘下部とみられる石積みが10段(高さ計約60センチ)と、堀の跡が確認された。堀は幅が約3メートル90センチで、底部に石が敷かれていた。
 墳丘の反対側の堀の斜面には多数の石が貼り付けられ、発掘された分だけで高さが11個分(約1メートル)あった。墳丘と堀は、場所によって異なる種類の石材が丁寧に使い分けられていた。石室は見つかっていない。 

そう言えば今日、去年末に20歳になられたばかりの佳子内親王が曽祖父・昭和天皇の武蔵野陵に参拝されたらしいですが、実にタイムリーなニュースですね。

実際比定されている押坂内陵も規模のでかい古墳らしいですが、これもですね。故・手塚治虫先生の火の鳥でも題材(ヤマト編で、死に際に「バカは死ななきゃ治らない」な名言wwも遺した大王が急死した為に、主人公・ヤマトオグナが作った墓の代わりに急造で作られたという設定)にされていて、蘇我馬子が有力な被葬者とされている石舞台古墳よりもでかいらしいですが、まあ舒明天皇その人の権力よりも、当時の蘇我氏の権勢の大きさを示したものだったのでしょう。

と言うか、この天皇の近親者達って生年不明な人達が多い様である。特に大海人皇子(天武天皇)は・・・・・ですが、生没年560年頃~600年代前半頃で享年は40代前半だったかと思われる父の押坂彦人大兄皇子は蘇我氏の血を引いてなかったから王位につけなかったし、山岸凉子先生の日出処の天子でも病弱設定されてましたけど、やはりその一族は無視できない存在だったのでしょう。以降基本的にこれで統一しますが、田村皇子その人は593年(推古天皇1)前後生まれでほぼ間違いないでしょうが、馬子との娘との間に生まれた古人大兄皇子は娘の倭姫を自分の弟であった、626年(推古天皇34)生まれとされている中大兄皇子(天智天皇)と結婚させていたのだから大兄皇子の生年は609~612年頃でしょう。当時まだ田村皇子と名乗っていた天皇と馬子娘との結婚はその直前だったのでしょうが、日本書紀で、厩戸皇子(聖徳太子)の目立った政治的活動が見られなくなった時と重なっていたのはやはり偶然とかではなかったのでしょうね。実際の厩戸皇子の推古朝での活躍っぷりはどれほどのものだったのかはもう推測の域を出ないのだろうけど、既に605年(推古天皇13)には明日香村にあったとされる豊浦宮や小墾田宮より離れた斑鳩宮に移っていたあたり、この頃にはまた彦人大兄皇子が亡くなったと思われますが、厩戸皇子の半引退&田村皇子の次期王位候補者認定は既定路線となっていたのでしょうね。(政治に参加していたとしても、東京都都知事在任後期の石原慎太郎氏みたいに週数日しか小墾田宮に来ていなかったのかも?)

そして厩戸皇子も、馬子も、推古天皇も亡くなった後の田村皇子がどうなったかはもう周知の通りで、田村皇子が擁立された理由もyahoo知恵袋でも回答していた人がいました。ここで今更詳しく述べたりはせず、これは個人的な拙劣な推測に過ぎませんが、この明日香村の方墳から押坂内陵に移されたのは642年9月~643年11月の間頃だったのでしょう。背景にあったのは、①ホントなら田村皇子の後にすぐ蘇我氏としては古人大兄皇子に王位を継がせたかったのでしょうが、母親が皇族だった中大兄皇子がいたから取り敢えず中継ぎとしてその母親、宝女王を王位につかせた(皇極天皇)事②しかし、却ってそれ故に両親とも王位継承経験者となってしまった中大兄皇子の血統値がさらに上昇してしまった事③父の厩戸皇子自体、その実態は政治に重きをなした存在ではなかった(親子関係を疑う説もある)ながらも蝦夷の外甥として無視できない存在だった山背大兄皇子が依然健在だった事④外征等でイケイケムードだった貞観の治・唐を中心とした国際情勢⑤そして実はこれが一番大きかったのでは?ですが、皇極天皇が、蝦夷が失敗した雨乞いに成功して5日間に渡る大雨を降らせた事・・・・・・これらが挙げられるのではと思います。

⑤についても、岡田准一氏主演のドラマ「大化改新」でも描かれていて、まあ日本書紀自体蘇我氏に否定的だからホントに実話だったのかですが、まあそうだったのでしょうね。科学的根拠とかがあったわけではなかったのですが、蝦夷の面目丸つぶれだったのは確かだったでしょう。ここで蝦夷は父・馬子をも超える自分独自の新たな権威・権力の確立を迫られたと思われます。息子の入鹿に独断で大臣を譲ったのも、彼が日本書紀で描かれたような悪人ではなくて、父にも引けを取らない、現実に即した有能な政治家という事もあったのでしょうが、自己をヤマト王権をも超越した存在に位置づけようとしていたのでしょう。つまり後の太閤とか上皇とか大御所とかの元祖みたいなものだったのでしょうね。中大兄皇子と倭姫の結婚(しかし、子供はできなかった)もこの頃かと思われますが、その一環で、仕上げは山背大兄皇子の強制退場です。これを聞いた蝦夷が、「お前は何という事をしでかしたのだ!!これではお前の身もどうなるか分かったものじゃないぞ!!」と怒ったのもフィクションでしょう。さらに甘樫丘に邸宅を築き、上の宮門・谷の宮門と名付けたのも入鹿と話し合ってやった事だったでしょう。ただ、中大兄皇子について言えばまた、実はどちらかと言えば、大海人皇子と同父兄弟ではなかったとすれば、中大兄皇子の方が宝女王(皇極天皇)が田村皇子との結婚前に出産した漢王と同一人物だったのではとも思います(しかし、いずれにせよこの異父兄弟説についてはそういう可能性あるかもな程度で、積極的に支持するほどではないです)が、まあ別の検証とかが今後も必要でしょう。

蝦夷ってまた、大臣蘇我氏としては3代目だったのですが、「大化改新」で描かれたような頼りない人ではなく、だからと言って、池田理代子先生「聖徳太子」で描かれたような悪人でもない、実は同じ3代目な足利義満や徳川家光みたいな英明な政治家・・・・・だったかもしれないとふと思いましたね。しかし、後の足利義教とかもそうで、あとは古人大兄皇子を王位につける環境をもっと整えていくだけだったのですが、これも周知の通り、蝦夷・入鹿親子の絶頂期はそう長くは続かなかったのです。その後蘇我氏(後石川朝臣)は蝦夷の弟の倉麻呂の子孫達が平安初期の桓武朝まで断続的(実質80年近く公卿輩出が途絶えた事もあった)ながらも高位高官として歴史に関わっていくのですが、時代の波に乗り切れず、衰退からの中興を繰り返してついに・・・・・・だったのですが、この舒明天皇(田村皇子)別陵発見か?のニュースも、そんな蘇我氏、特に蝦夷個人の再評価とかにも果たしてつながるのでしょうか。それこそ、副主人公待遇だったけど、日出処の天子の解釈をもぶっとばすぐらいの。

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