歴史

2018/09/17

百人一首の歌人達(24)-15番光孝天皇後編

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
(15番光孝天皇)

さて、前編では時康親王(光孝天皇)その人よりも彼が就いていた式部卿の話が中心となってしまいましたが、後編です。

式部卿は基本的に皇族の最長老格が任じられる「上がりポスト」で、時康親王任命時はもう一人の叔父の秀良親王もまだ存命でしたが、前編でも話した通り、どうも祖父の嵯峨上皇が亡くなった途端パッとしなくなってしまいました。単に凡庸な人物だった事以外にも直後の承和の変で主導権を確立した藤原良房との関係とか考えられる理由はいくつかあるのでしょうが、ともかく忠良親王の後任として876年(貞観18)末に任命されました。

この直前、天皇は清和天皇から陽成天皇に代替わりしましたが、陽成天皇は兄の文徳天皇の孫ですから、2世代後の幼君です。天皇が幼君という事で、外伯父の藤原基経が摂政になりましたが、同母弟の貞保親王もいたし、その上基経は清和上皇に娘の頼子と佳珠子も入台させていて、上皇と佳珠子との間にも貞辰親王が産まれていました。皇室と藤原北家嫡流の外戚関係は当分安泰かと思われました。

ところが、伊勢物語等での在原業平との関係もどこまでが本当だか分かりませんが、天皇実母の高子は兄・基経と仲が悪かったのです。陽成天皇自身も暴君ぶりが伝えられるエピソードが残ってしまって、わずか16歳で退位させられてしまいましたが、実際は兄妹の確執のとばっちりを受けてしまったに過ぎなかったのでしょう。そして、その後の天皇が誰になるのかですが、当時の感覚では既に老人な時康親王に白羽の矢が立ってしまったのです。

しかし、前述通り他に次期天皇候補がいなかったわけでもなかったのですが、貞保親王はまあ、母親(高子)の悪い影響をおそらく受けていたからまあ分かります。しかし、貞辰親王が即位できなかったのはいささか解せないです。養父(叔父)の良房同様天皇の外祖父になれたのにです。加納重文氏は権勢者への道を開いてくれた感謝の念もあった一方、権謀術数の行使があまりに露骨だった事への反感もあって、良房が敷いたレールに頼らない自己流の権勢を築こうとしたのではないかとの見解を述べていました。(ソースは「歴史と旅」1990年12月号)

実際基経はまた、これも加納氏は指摘していましたが、40年以上前に承和の変で皇太子を廃されていた恒貞親王も天皇候補にしようとしていた様で、これは本人が断ったため実現しませんでしたが、恒貞は既に60近い老齢(もし即位していたら現在でも生没年のハッキリしている歴代天皇では61歳の光仁天皇に次ぐ2位の即位時高齢天皇となった)な上に、若くして出家した事もあったのか記録に残る子女はいなくて陽成天皇廃位7か月後に亡くなっています。つまり、即位してもほんの一時的な中継ぎにしかなれなかったのですが、基経は天皇の首も思う様に挿げ替えられた様に見えて、かなり焦っていた事が伺えます。

貞辰親王はどうして即位できなかったのか?生母の佳珠子は母親が誰なのか分からず、879年(元慶3)に夫、清和上皇が出家したために恩給を止められて以降どうしていたのか分かりませんでしたが、陽成廃位時には既に亡くなっていたのでしょうか。

この頃また、高子は既に皇太后の尊称を得ています。いくら清和法皇の別の妃腹の子(貞辰)が天皇になっても高子は継母でもあるからそれ相応の配慮や待遇などはしなければいけません。結局基経は何かそこまで弱みを握られていたわけでもないにしても、もう一人の妹で、夫(藤原氏宗)死後は宮廷につかえていて、一定の発言力もあった淑子と連携する道を選んだのでしょう。時康親王に白羽の矢が立ったのは息子の一人であった定省王が淑子の猶子だった事も大きかったのでしょうが、基経とは母親同士が姉妹だったのも決め手になったと思われます。実際また、時康親王即位後すぐに淑子は天皇の傍に仕える尚侍に任じられましたが、これも高子への牽制の意味合いも多分にあったかと思われます。

さて、そうして即位した時康親王もとい光孝天皇でしたが、当然政治にはそんな関心などなかったと思われたので、既に太政大臣にもなっていた基経に国政委任する旨の詔を出しました。この時点では関白という日本特有でもあった正式な官職が作られたわけではなかったのですが、実質的な関白だったと見ても差し支えありません。前述した通り、光孝天皇が誕生したのは貞保・貞辰どちらが天皇になっても基経は不仲な高子とも強調して政権運営しなければいけない事に変わりなかったからですが、光孝天皇はホント良い人で、貞保が次の天皇になるにあたって面倒なもめ事を起こさない為に皇子達を臣籍降下させたのです。嫡男の時平が元服する際にも自ら加冠しました。

しかし、天皇の治世は長くは続かず、887年(仁和3)に重態となってしまったのですが、基経も天皇の配慮を一方的に受け続けていたわけでもなく、まあ前述通り淑子の猶子となっていた事が大きかったのでしょうが、臣籍降下していた源定省を推薦したのです。愚管抄によれば、天皇は両手で基経・定省それぞれの手を取り、「大臣の恩を忘れる事なかれ」と繰り返し定省に説いたとされています。間もなく天皇は崩御しました。

そして宇多新天皇が誕生して、ここで正式に基経を関白に任命しますが、辞退されます。これはあくまで形式的なもので、「俺って慎み深いから一旦断ったけど、それでも『是非やってくれ』と言われるほど信頼されているんだぜ~」と示す為のものでしたが、橘広相が改めて出す詔勅を起草しました。しかし、その中に明言されていた役職が阿衡という具体的な権限がないとされているものだったから大問題となり、しばらく政務をボイコットしてしまったのです。

表向きは菅原道真の諫言で機嫌を直したという事になっていますが、基経の真の目的は広相潰しだったのでしょう。そもそも繰り返し言う通り、他にも天皇候補がいたのに光孝天皇や宇多天皇(さらに醍醐天皇)が登場したのはそれ相応の配慮や待遇をしなければいけない高子との不仲故に断念しなければいけなくなったからで、しかも宇多天皇はまだ源定省(または定省王?)だった頃からこの広相の娘とも結婚していたから、なおさら誰のおかげで天皇になれたか分からせてやらなければならないとも思ったのでしょう。実際また、この後基経のもう一人の娘、温子も入台しましたが、皇女一人しか生まれなかったばかりか基経が死んだ後はもう果たす義理なんてないと思ったのかどうか知らないけど、もう皇子女は生まれませんでした。

もうここからはなるべくあまり突っ込んで言及したりはしないけど、宇多天皇が基経に色々配慮していた父と違って、彼の死後、時平がまだ若い事も言い訳にして菅原道真らを起用して藤原氏を抑えながら親政したのは良いのです。しかし、実際やった事は却って道真の立場を悪くしたものも目立ちました。

臣下からの即位という前代未聞の例となり、実際陽成上皇(源定省だった時に仕えていた)とか快く思っていなかった面々もいて、温子との間に皇子が生まれない内にもという事で893年(寛平5)に実施した敦仁親王の立太子を道真だけに相談したまではまだかろうじてセーフだったでしょう。第一皇子だったし、生母は主流ではないとは言え、藤原北家勧修寺流の出身であり、一方で時平にとっては妹である温子との間には前述通り基経死去以降皇子女は生まれなかったからです。しかし、譲位までその時点で中納言から太政官の首班となっていた時平にも相談しないで、これまた道真と2人で進めた事は実際ボイコットした公卿も数人出たほど反感買うのは当然だったし、トドメを刺したのは時平の妹、穏子を醍醐天皇に入台させるのは反対していた一方で、天皇のすぐ下の弟、斉世親王(厳密には斉中親王という天皇と同じ生年の弟もいたが、既にこの時点では早世していた)と道真の娘を結婚させた事です。しかもこの斉世親王の母は阿衡事件で基経の標的にされた広相の娘、美子です。阿衡事件で基経の機嫌を取る為に自分の誤りを認めてまでしたからこそ、藤原氏を抑制しようとしていたはずなのですが、そんな事までしたらなおさら藤原氏が黙っているわけがないとか想像できなかったのでしょうか?過去の苦い経験自体もう忘れてしまったのでしょうか?

その結果、実際陽成上皇を警戒していたにしても、「天皇の直系尊属である」と付け加えるの忘れていたんじゃないの?でしたが、「上皇または法皇と言えども天皇の許可なくして内裏に入る事は出来ない。」なんてルールも作ってしまったから道真を見殺しにしてしまいました。その後は「もう済んでしまった事はしょうがないや、てへっ」と思っていたのかどうかは知らないけど、遊興を楽しんでいた様で、温子が亡くなった907年(延喜7)には小倉山にハイキングに行った際、紅葉に感動して、「天皇にもこの紅葉をみせてあげたいものだ。」とうそぶいたほどだった(これを見た時平の弟、忠平の歌も百人一首に選ばれている)のだから遅くともこの頃までには醍醐天皇と和解していたのでしょう。時平も無視していたわけでは決してなかったらしいですしね。

それでも、時平も亡くなって、忠平が平将門も自分の手足として使いながら藤原北家の主流たる地位を確立していくにつれて宇多法皇も一定の政治的影響力も取り戻していった様で、正直君主として高い点数は付けられないのですが、道真の怨霊も含む数々の事件も有りながらも2018年現在に至るまで光孝天皇直系の子孫のみが皇位を継承しています。光孝天皇の即位はその後も注目された事があった様で、特に室町時代です。以前過去エントリーで光孝天皇の即位から500年下った北朝(もっと正確には後光厳系)の天皇達も自らの正当性の弱さにコンプレックスを持っており、ついにそれを克服する事が出来ないまま本来の嫡流だった崇光系に皇位が戻ってしまったと指摘しましたが、それは北朝最後の天皇である後小松天皇も例外ではなかった様です。

yahoo知恵袋でもベストアンサーに選ばれた回答していた人がいましたが、南北朝の動乱は初期と観応の擾乱期を除けば勢力的には北朝が優勢でしたが、合一が成ったのは南朝が正当なのを認めたからで、そこまでして三種の神器を後亀山天皇から譲ってもらったのですが、確かに「南朝の判定勝ち」とも見れなくもなかったでしょう。

勿論古今東西、約束事なんて当事者間の力関係次第で変えられるものですが、足利義満もタヌキでしたから両統徹立は反故にされて、自らの次は皇子の實仁親王(称光天皇)が他天皇になる事が出来ました。しかし、本来臣下である筈の義持に名前も変えさせられてしまったけど、病弱で子女に恵まれず、もう一人の皇子の小川宮も奇行が目立っていて、自身も義持の事を「室町殿様」と呼ぶほどだったらしいです。

その義持が死んだらたちまち報復行為を取ったのも、石ノ森章太郎氏の「マンガ日本の歴史」にも描かれていて、その裏返しと言えたのでしょうし、これも知っている人は知っていますが、「小松」は光孝天皇の異称なのです。結局称光天皇も小川宮も子女が出来ないまま早世し、落胤と言われている一休宗純も既に出家していたから自身の直系子孫に皇位を継承する事は出来ませんでしたが、後小松の遺詔は自身だけでなく、祖父の後光厳や父の後円融(円融天皇も、上の兄弟には冷泉天皇の他にも将来を期待されていた為平親王がいたが、即位100年後に冷泉系を女系として皇統が融合される事となった)も含んだ後光厳系の正当性を示す強い意志の表れな想像は難くないです。しかしまた、少子高齢化が進んでいる現代ではもうこの光孝天皇の様な皇位継承例は発生しないでしょうけどね。その次の宇多天皇の例だったら、もう70年以上もブランクあるけど、まあ存命中の皇籍離脱された旧皇族の方々もまだ何人かはいる(ただし、後陽成天皇や東山天皇の男系子孫の方々の方もいる)し、まだほんの少しは可能性あるかもしれませんが・・・・・・・・・・不謹慎なのは重々承知しているけど、秋篠宮も眞子さまダメだったものね。佳子さまだって祖母の悪い影響受けてそうだし、これで悠仁さままでダメだったらな悪い予感もせずにいられないもの。正直な話・・・・・・・・・・

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2018/09/09

百人一首の歌人達(23)-15番光孝天皇前編

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
(15番光孝天皇)

約4か月ぶりのこのシリーズですが、第23弾は光孝天皇です。誰なのかは分かりませんが、この歌の意味は想いの人の長寿を願って春の野草を積みに行ったら、服の袖にもう季節外れな筈の雪が降り積もってきましたというもので、実際光孝天皇って他にもいくつかぐう聖エピソードがあって、晩年に深く関わる事になる藤原基経も感心したほどだったらしいですが、優しい人柄が偲ばれる様な名歌でしょう。

実際光孝天皇こと時康親王は将来の即位が望まれる様な人では全然ありませんでした。生母は兄の文徳天皇と同じ藤原氏でも四条流で、高祖父の藤原魚名は桓武朝初期に失脚してしまい、死後名誉回復がなされるも曽祖父の末茂と祖父の総継は従五位で終わっています。生母の沢子は、810年(弘仁1)生まれの夫・仁明天皇と同じぐらいの歳だったでしょうが、少年期に死別しています。

承和の変直後に元服して以降、権力の中枢とは関係ない、親王が就く事が慣例となっている官職ほぼ全て歴任しました。同母兄弟の宗康・人康両親王は比較的若くして亡くなりましたが、時康親王は最長老的皇族が就く慣例となっている式部卿まで昇進しました。八省卿は他にも中務卿と兵部卿が親王ポストとなっていた様で、いずれも嵯峨朝以降の慣例となっていた様ですが、歴代人物を見ると、必ずしも厳密にそうだったわけもなかった様です。

舅の仲野親王(大叔父でもある)が863年(貞観5)に辞任して、その次は2歳年下だった賀陽親王かと思われましたが、彼も既に70近く、引退を願い出ていたほどだった事もあってか実現しませんでした。結局一世代下って、嵯峨天皇の皇子だった忠良親王が任命されましたが、彼も当時存命で、親王だった嵯峨天皇の皇子達の中で最年長だったわけでもなかったのです。

業良親王は、薬子の変等どうやら将来の皇位継承をめぐる権力争いに巻き込まれてしまった様ですが、生母の高津内親王(嵯峨天皇とは異母兄妹で、この時代は片親が違う兄妹または姉弟同士の結婚は珍しくなかった)が妃をやめさせられ、自身も精神疾患を抱えていた(ただ、無品でもあったが、当時の感覚では短命ではなく、享年は50代後半と思われる)からまあしょうがないとして、もう一人の兄の秀良親王も、以前取り上げた源融共々宇多朝時まで存命していたのですが、父上皇(嵯峨の事)が亡くなった途端パッとしなくなり、左大臣まで出世した融やその他兄弟達と違い、影の薄い存在なまま生涯を終えてしまった様です。父から気に入られてはいたが、能力は特に秀でていたわけでもない凡庸な人物だったのでしょう。

取りあえずそこから90年近く下って、時康親王からは孫にあたる敦実親王が950年(天暦4)に出家した後は、他の兄弟で存命者はいなかった(姉妹だったら数人いた)ので、また一世代下って、当時存命の、村上天皇の兄親王面々では最年長だった重明親王が任命されました。ところが、重明親王も4年で亡くなってしまい、その次は式明親王か有明親王が・・・・・と思いきや、嫡流ではなくなって既に半世紀以上経っていた文徳系(陽成上皇皇子)の元平親王が任じられ、彼も数年で亡くなったら今度は元長親王が任じられたのです。

元平・元長両兄弟の方が重明親王らよりも年長で、元長親王任命時には既に有明親王(なお、最初に取り上げた藤原定家も彼の子孫でもある。有明親王-源守清-源高雅-源ヨシ子-藤原忠家-藤原俊忠-藤原俊成-藤原定家・・・・)は亡くなっていたのですが、元長親王はまだ分かります。時康親王の息子で、後述しますが、天皇になる可能性もゼロではなかった是忠親王の娘が生母(つまり時康親王にとっては曽孫)だったからです。

元長親王には同母弟の元利親王もいて、彼は兄より先に亡くなってしまった様ですが、元平親王の外祖父は藤原遠長という、公卿にすらなれなかった傍流に過ぎません。ましてや、時康親王もその後に即位した宇多天皇も陽成上皇を警戒していた様で、宇多天皇が結果的に菅原道真を見殺しにしてしまったのも、「上皇といえども天皇の許可なく内裏に入ってはいけない」なルールを作ってしまったからなのですが、長生きだった陽成上皇も既に亡くなっていて、彼に配慮する必要もなかった筈です。何故そんな人物が名誉職とは言え式部卿になれたかですが、この元平親王、実は清和源氏の祖とされる源経基と同一人物だったのではな説もあるのです。

経基は生没年共にハッキリしませんが、生年は893年か914年で没年は958年か961年です。元平親王は890年(寛平2)生まれの元良親王のすぐ下の弟ですから、2、3歳程度しか離れていなかったでしょう。没年は958年(天徳2)で、経基の推定生没年とほぼ重なります。今回はホントにそうだったのか深い考察をする余裕はありませんが、もしホントに同一人物だったとしたら、平将門の反乱を告発(しかし、その時点では偽証だった)し、藤原純友の乱を鎮圧(ただし、実際純友を破ったのは小野好古)した功績も称えられての任命という事になりますが、それならそれで敦実親王のすぐ後に任命されていただろうし、経基が元平親王の息子だったという説の方がまだしっくりきます。(その場合、源頼朝や足利尊氏ら後世の子孫達も清和源氏ではなく陽成源氏という事になるが、経基は914年生まれと見た方が正しく、一方で今度は満仲が先に生まれた事になってしまうが、満仲は919~928年の間に生まれた説もあるから、920年代後半生まれならばまあ元平親王の孫で経基の子なのもありえなくはない)

ホントはどうだったのかは分かりませんが、元長親王も父ほどではないにせよ、70代半ばまで長生きして亡くなった時には既に円融天皇の御代となっていました。この時点で皇族の最長老格は章明親王でしたが、後任は天皇の兄である為平親王でした。彼の場合は理由は明白です。後ろ盾となるはずだった外祖父の源高明が安和の変で藤原氏に排除されてしまい、即位への道が完全に閉ざされてしまった事への配慮です。(これで藤原氏の権勢を脅かす存在が完全にいなくなったと思いきや、今度は天皇の伯父・叔父である兼通・兼家両兄弟の確執が始まり、そのあおりを受けて源兼明も皇族復帰させられ、彼が弟の章明親王に代わって最年長皇族となる)

為平親王の後も藤原氏嫡流の都合で天皇になり損ねた面々の任命が続く事になりました。外戚の中関白家が没落してしまった敦康親王はわずか16歳2か月で任命され、葛原親王が200年以上保持していた任命時最年少記録(23歳10か月)を更新してしまいましたが、亡くなるのも早く、僅か19歳1か月の生涯でした。(娘がいて、従兄でもある後朱雀天皇に入台したが、皇女しか生まれなかった)その後の敦儀・敦平両親王道長との確執の末、内裏の火事や眼病もあって退位を余儀なくされた三条天皇の皇子、皇位継承権を辞退させられた敦明親王(彼も式部卿経験あり)の弟で、次の敦貞・敦賢両親王はその敦明親王の息子です。

「親王の息子も親王?」とツッコまれる方もいるかもしれませんが、敦明親王は皇太子辞退と引き換えに准太上天皇の待遇も得たので、本来三世王なこの両親王も親王待遇となったのです。ところが、長く続いた藤原氏の全盛期もこの間に陰りが見られる様になりました。敦賢親王が亡くなった時には既に白河天皇の御代、時代は摂関政治から院政への移行期となっていましたが、白河天皇には存命のおじや大おじはいなくて、彼の後に即位するはずだった弟達(実仁・輔仁両親王)もまだ幼く、法親王達も登場する(以前から入道親王は存在してはいたが)様になり、さらに院政から武士の時代となった為か式部卿はこの後200年以上も途絶えてしまった様です。

復活した時は既に百人一首の歌人達は全員故人となっていて、式部卿の話に随分深入りしてしまいましたが、実際また、皇族が就くのが慣例になってから白河朝で長く途絶えるまでは基本的に「上がりポスト」にもなっていました。時康親王も本来式部卿として生涯を終える筈でした。しかし、運命のいたずらが起こります。長くなってしまったので前編・後編に区切ります。続きは後編で。

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2018/07/11

春秋後期~戦国期における東周の面積はどれぐらいだったか

http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/C027.htm

最近中国史は周代~春秋戦国期に興味を持っていて、故・横山光輝先生の史記も何巻か買いましたが、その中でも特にその周ですね。

別のサイトでは、最大領域は現在の中国の6分の1ぐらいだったのではと考察(ちなみに秦は統一後に征服した華南とベトナム北部の一部を含めて2.5分の1ぐらいだろうとの事)されていましたが、その周も建国後200年を過ぎると衰えが目立つ様になった様です。イソップ童話のオオカミ少年に似ている幽王の末路は正直私はあまり信じていませんが、その当時は統一王朝とされていた西周のラストキングだった事は事実であり、彼の治世を境に、都も現在の洛陽市に遷都(東周)、春秋戦国時代に入ったわけですが、いつの間にその洛陽周辺を支配するに過ぎない地方政権に転落していった様です。

殷・周代は邑という都市国家の集まりだったらしい(夏は実在した王朝だったかは微妙だが、証拠も全く皆無ではない様である)ですが、その洛陽周辺だけが実際直接的に支配していた地域だったのでしょう。実際これも他のサイトでも指摘されている様ですが、周の王って日本の室町幕府の将軍に似てるよね。血縁者も珍しくなかった諸侯達との連合政権で、一諸侯に転落してもしょーこりもなく跡継ぎ争いを繰り返していた所とか。周の王はその室町幕府将軍に宗教的権威をプラスした様でもあったけど、末期でも積極的に戦国大名間の調停等していて、織田信長や上杉謙信も直接会いにやってきた足利義輝の様な将軍もいた室町幕府(だからと言って、今谷明氏が「信長と天皇」で足利義満と信長の権力基盤の強弱も比較して、信長をやたら過小評価したのには「足利将軍が15代続いたのなんてドヤ顔で強調すべきことじゃないだろーーー!!」とか「全盛だった義満期だって、鎌倉公方を牽制する為に元々南朝方だった伊達氏に協力してもらわざるを得なかったし、応永の乱も大内義弘その人を滅ぼす事は成功しても、その後幕府が望む跡継ぎを擁立できなかったじゃないか!!」とか色々ツッコミどころ有りでしたが)と比べると特に戦国期の周および周王の空気ぶりには独特の強い哀愁を感じるのです。

そもそも周が地方政権に転落したのも、褒ジ(変換できず)の存在有無に関わらず、後継者問題が大きな原因の一つだったのに彼らはつくづく歴史から学ぶ事が出来なかった様ですが、この上記サイトでも東周がさらに本家と西周公、本家と西周公・東周公に分裂した話が分かりやすく紹介されています。この東周の分裂は春秋末期の事で、直前に王が1年で3人も代わる異常事態も間違いなくその引き金となっていたのだろうけど、東周の面積はこのサイトによれば「東京都と同じぐらい」らしい。ソースは吉川弘文館「世界史地図」だけど、実際はどれぐらいだったのか考察してみました。

まずこのサイトでそのソースとされていた地図中の周の東端と西端は現在のどこの市区に相当するかです。東端のケイ陽は河南省鄭州市ケイ陽市(中国では地級市の中に県級市という自治体があり、ケイ陽市は鄭州市の一部なのである)で、西端は西北部の周との国境に近い街に垣曲がありますが、これは現在の山西省運城市垣曲県(日本では県の方が上位の自治体だが、中国では地級市の下位自治体な様である)の事な様で、その位置から鑑みるに、河南省三門峡市東部かと思われます。両市の距離は190キロぐらい、約120キロな檜原村(国道411号の山梨県との境)~葛飾区(国道6号の千葉県との境)までよりは遠いです。次に北端と南端の距離です。嵩山と陽城(現在の鄭州市登封市)のほぼ中間にある、当時の韓との国境から魏との国境である黄河(現在の河南省焦作市辺り)までの距離は55キロほどです。東京都の場合、清瀬市から稲城市までの距離は25キロほどですが、国内どこでも南北55~65キロほどの距離があったかと思われます。

東周の面積は東西で東京都の1.6倍ほど、南北で同都の2.4倍ほどだけど、東京都よりは明らかに広く、3.5~4倍はあったかと思われます。しかし、それでも7600~8500㎢ほどで、約6100㎢の茨城県よりも広いけど、現在の河南省でも北西部の一部を治めていた過ぎなかったのですね。東周公は地図中のキョウ(またまた変換できず)は現在の鄭州市キョウ義市で、ケイ陽市までの距離は45キロ程度だから、面積は東周全体の4分の1、2000㎢前後で東京都とほぼ同じ、神奈川県等よりはやや狭く、外国と比べればミニ君主国家のモナコやリヒテンシュタインよりは広いけど、同じくそうであるルクセンブルクの8割程度に過ぎません。確かに、時のまにまにとして中国のラストエンペラー達等HPで歴史エッセイも公開しているMIC's Convenienceの管理人、猪間道明氏が言う通り、東周以降の王はプリンス(大公)相当だと見るのが妥当でしょうね。

BC(紀元前)256年に先に本家周と西周公が滅んだけど、これら合わせておそらく面積は茨城県と同じぐらい、しかし、人口は西周は3万人しかいなかったという。下妻市や高萩市、旧笠間市(友部町、岩間町との合併直前時点)等と同じぐらいじゃない。周が殷に代わって統一王朝となったのはBC1046年頃で、東周公もとうとう秦に滅ぼされたのが同249年だから約800年続いた事になります。(殷周革命前から国自体は存在していたけど)秦以降の各王朝と比べて、領域範囲は狭くとも、存続した期間はダントツのナンバー1かと思われますが、滅亡後王族達もどうなったかハッキリ分からない(劉姓を名乗る様になり、魏晋南北朝時代に活躍した末裔もいたらしいが・・・・・・・)し、後からならば何とでも言えると言うか、アウラングゼーブ死後のムガル帝国もそうだけど、狂いだした歯車を止めて、もっと一定以上の勢力を維持する事は出来なかったのか?周の歴史を改めてざっと俯瞰するとそうも思いますね。最近また、佐藤信弥氏著作「周-理想化された古代王朝」も買ったので、完読したらその感想も述べてみたいとも思います。

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2018/05/13

百人一首の歌人達(22)-18番藤原敏行朝臣

「すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ
(18番藤原敏行朝臣)


1年弱ぶりのこのシリーズ、今日外出しようと思ったらあいにくの雨だったので久々に更新しますが、第22弾は18番藤原敏行朝臣です。


「すみの江」とは今の大阪府大阪市住吉区にあった海岸の事で、今でこそ埋め立て地になっていますが、当時は砂浜だった様です。夢も平安貴族にとっては単なる縁起の良さだけでなく、想いの人との恋の深さを占うバロメーターでもあったらしいですが、なかなか会う事が出来ないもどかしさを感傷的に歌った名歌だと言えるでしょう。

https://news.nifty.com/topics/mdpr/180513241649/

なぜ今回そんな歌を歌った彼を取り上げたのかと言うと、これは小野妹子の子孫と称する某タレントについての記事で、織田信成氏同様正直ホントに子孫なのか疑っているし、この記事ではまた一言コメントも残しましたが・・・・・・・・小野氏と言えば、小野篁も著名な出身者ですが、敏行は在原業平の妻の姉妹だけでなく、この篁の妹も妻にしていたのです。業平の妻の姉妹は紀有常の娘で、紀貫之とも縁戚という事になるから、何気に(?)他の百人一首歌人何人とも縁戚になっているという事ですが、そもそも彼の出自はと言うと・・・・・・・・・

名前通り藤原氏ではあるけど、主流の北家ではなく、南家巨勢麻呂流です。巨勢麻呂は敏行の高祖父に当たる人物ですが、兄だった藤原仲麻呂の乱で、兄に味方してしまった為に殺されてしまった。一方で、その直前に死んだ異説もあるのですが、いずれにせよ、兄の権勢のおこぼれに預かっていた事は確かだったので、子供達の立場が良くなるはずは無かった。

巨勢麻呂は子沢山で、男の子だけでも13人いたけど、その様に野球だけでなく、サッカーも出来るほどいながら公卿になったのは貞嗣だけでしたが、彼にしても60過ぎまで生きたからこそとも言えます。

叙爵し、貴族(五位以上)となったのは35歳の時で、同年代で北家嫡流だった藤原内麻呂の25歳と比べると10年も遅かったけど、他の兄弟達も30代後半から40代前半で漸く叙爵し、河主に至っては、叙爵の時期はハッキリ分からず、豊前守に任ぜられた799年(延暦18)直前だとすれば生年は760年前後と思われますが、従五位上に上がったのはそれから約四半世紀後の823年(弘仁14)の事。少なくとも正五位下に上がった829年(天長6)までの生存は確認でき、この時70歳前後だったかと思われますが、貞嗣以上に長生きしてもそこまでが精いっぱいだった様です。

敏行の曽祖父は真作で、貞嗣・河主らの兄にあたり、彼も生年は不明ですが、784年(延暦3)に叙爵された事から745年前後だと推定できます。娘の美都子が内麻呂の次男で、嵯峨朝以降朝廷の実力者となった冬嗣に嫁ぎましたが、長良・良房らの外祖父、清和天皇の高祖父でもあります。しかし、三守は嵯峨天皇の側近、冬嗣の義弟として右大臣まで出世(同母弟の三成もあと10年生きていたら公卿になれたかもしれない)しましたが、真作自身は娘婿の出世を見る事無く、桓武朝期に亡くなったと思われます。享年は50代半ば前後でしょう。祖父は村田で、816年(弘仁7)に叙爵されたので、生年は780年前後と推定できますが、三守と同じ冬嗣の義弟(義兄?)だったのに正五位下止まりとパッとしませんでした。父は富士麻呂でしたが、最終官位は従四位下で、祖父や曽祖父よりは出世しています。

そして敏行ですが・・・・・・・・・・・・・父もスタートは皇太子の家政一般をつかさどる職員の一角な春宮小進だった様で、この役職は従六位下相当だったらしいですが、敏行は866年(貞観8)に少内記となっており、これは平城朝以降は正七位上相当だったらしいのでさらに低い官位からのキャリアスタートとなった様です。生年は845年頃だろうと、在原行平の回で軽く触れたけど、実際はもっと前でしょう。と言うのも、舅の一人である小野岑守は830年(天長7)に亡くなっているので、妻となった娘は遅くともその前後には生まれている筈です。敏行の生年は835~840年頃と思われますが、それでも岑守の娘は彼より10歳程度も年上な「姉さん女房」だったし、義兄の篁とは親子ほどの年齢差で父の富士麻呂とも同年代です。

キャリア前半は文官職を歴任していたのが、後半は武官職を歴任する様になって、宇多朝期の895年(寛平7)には蔵人頭となった。公卿昇進も目前かと思われましたが、残念ながら間もなく病により辞職を余儀なくされた様です。運が悪かったけど、この時点で50代後半から60代前半となっていたと思われるのでまあしょうがなかったのでしょう。直後、醍醐天皇が即位した祝いという事で、従四位上・右兵衛督に昇進したけど、右兵衛督は本来五位相当職であり、これが彼のキャリアハイとなった様です。没年もハッキリせず、901年(昌泰4)説と907年(延喜7)説がありますが、前者の方が可能性高いでしょう。もしホントにそうならば享年は60代で当時としては決して短命ではないですが、菅原道真が左遷された昌泰の変前後に没した事になります。晩年に従四位上に昇進したのも、春宮坊の中・上級職員として皇太子時代の醍醐天皇に仕えた功績を評価されての事でしたが、その醍醐天皇を藤原時平共々支える筈だった道真の左遷を見て何を思ったか・・・・・・・・醍醐天皇の立太子・即位を進言したのも道真だったし、共に宇多・醍醐両天皇を支えた同志として何か複雑な感情があったかもしれません。(一方で友人だった筈の紀長谷雄は内裏に駆け込もうとした宇多法皇を敏行と同じ南家巨勢麻呂流の菅根らと共に阻止していたのだけど、三善清行の事も落第させたり、酷評したりと天才肌にありがちと言うか、道真は他人を見下していた悪癖もいくらかはあったのだろう)敏行にはまた、奇妙な逸話があり、死んだはずがやり残したことがあったと言わんばかりに一時的に生き返って自分のお経を書いて今度こそホントに死んだのそれとかです。義兄の孫でもある小野道風からも一流の能書家とも評価されていたけど、自分の特技に病的にまでこだわるとかの一面もあったのか。

残念ながら公卿昇進は果たせなかった敏行でしたが、醍醐天皇も自分に仕えてくれた事を後々まで忘れていなかった様で、父と共に仕えてもいた息子の伊衝も醍醐朝で要職を歴任し、皇太子時代の朱雀天皇にも仕え、最終的には父が果たせなかった公卿昇進を果たし、娘も更衣として天皇に入台しました。残念ながら間に生まれた第17皇子の源為明は祖父や曽祖父ほど長命ではなく、30代半ばで亡くなってしまった様ですが・・・・・・・・・・この伊衝にも歌人としての才能も有った様ですが、いずれにせよ、業平らと並ぶ平安前期を代表する歌人である事は少なくとも間違いないでしょう。

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2018/02/10

歴代衆議院議長(日本国憲法下)の顔ぶれ

折角の3連休ですが、これと言ったブログネタも無い(明日ならばダリフラ感想とか書けるのだが)ので、日本国憲法下の歴代衆議院議長についてちょっと語ってみます。

誰の記事かは忘れたけど、戦前は国会(衆議院・貴族院)議長の地位は現在よりずっと低かったと言う。(退任後次官に就いた例もあった)現在は総理大臣より給料も僅かながら高いし、海外では国家元首(天皇はそうだと明確に明記されてないですよね、確か)に準じた扱いを受ける等決して単なる名誉職ではない様ですが、歴代の面々の就任時の当選回数及び退任後に就いた主な要職について調べてみました。(左から当選回数、退任後要職、あればその他一言コメント)

松岡駒吉(2、?)・・・・あと5年以上存命だったら民社党に移籍していたかも。
幣原喜重郎(2だが、大日本帝国憲法下で貴族院議員も3期21年務める、在任中死去)・・・・唯一の総理大臣経験者
林譲治(7、自由党幹事長)
大野伴睦(7・8、北海道開発庁長官・自由党総務会長・自由民主党副総裁)・・・・この人ももっと長生きだったら佐藤政権は史実の様な長期政権になってたか。
堤康次郎(9、?)・・・・西武グループ創業者
松永東(6、文部大臣)・・・・議員在職中は当時の東京音楽短期大学の学長も務める。
益谷秀次(9、副総理兼行政管理庁長官)・・・・入閣経験がついに無いまま終わった三木武吉との椅子取りゲームを制して就任。
星島二郎(15、?)・・・・短期で辞職
加藤鐐五郎(11、?)・・・・医者出身
清瀬一郎(11・12、?)・・・・映画「プライド」では自身も政治家の秘書経験がある、犬養毅の孫、安藤和津の夫、奥田瑛二が演ずる。
船田中(11、のち再任、その後自民党副総裁)・・・・晩年江川事件にも巻き込まれるも、江川のプロ公式戦初登板を見る事無く死去。
山口喜久一郎(11、?)・・・・不祥事で辞職。
綾部健太郎(7、落選して引退)・・・・山口の後任として就任も間もなく解散となり、総選挙で落選する。
石井光次郎(9、自民党顧問)
松田竹千代(12、落選して引退)
中村梅吉(12、法務大臣)・・・・失言で辞職するも、半年後に法務大臣として入閣。
前尾繁三郎(10、?)・・・・大平正芳のクーデターで派閥のボスを辞めさせられるも中村の後任として就任。
保利茂(12、間もなく死去)
灘尾広吉(10・11、?)
福田一(11、?)
福永健司(14、?)
坂田道太(16、?)・・・・リクルート事件後総理候補にも名が挙がる。晩年、弟子の森喜朗にかってに殺された。(秘書と混同したらしいが、坂田夫妻もこの時の発言を実際見ていたというオチww)
原健三郎(17、?)・・・・最後の明治生まれかつ帝国議会時代からの現役国会議員だった。日本国憲法下では初めての議長を経験した名誉議員に。
田村元(12、自民党最高顧問)
櫻内義雄(16、?)・・・・非政治職では日本プロスポーツ会長も兼務。原と共に最後の明治生まれの現役国会議員及び名誉議員になる。
土井たか子(9、社民党党首)・・・・初の女性議長にして非第一党(自民は過半数割れとなっていたものの、第一党だったのは変わりなかった)の議長。
伊東宗一郎(12、?)・・・・退任直後に死去。
綿貫民輔(11、国民新党代表)・・・・2016年に自民に復党。
河野洋平(13・14、引退)・・・・初の与党党首経験者の就任例。(就任時の自民は野党で、村山富市を擁立したまま総裁職を橋本龍太郎に譲ったので、初の総理になれなかった自民総裁でもある)在職日数は最長。
横路孝弘(10だが、途中北海道知事を3期務める、民主党北海道連代表)・・・・社会党在籍経験者では3人目の議長。
伊吹文明(10、?)・・・・2018年1月現在の国会議員では最年長。
町村信孝(12、間もなく死去)
大島理森(11・12、現職)

こうして見ると、戦後日本国憲法下で平和国家として再出発してもすぐ衆議院議長の地位が戦前と比べて著しく上がったわけでもない様です。公職追放された面々もいたし、当選回数が比較的少ないのは致し方ないにしても、中には幣原の様な総理経験者(ただし、大日本帝国憲法下の総理大臣も日本国憲法下のそれと比べて権限は弱かった)もいたけど、退任後は党幹事長とか大臣とかに就いていた人も珍しくなく、70年代初頭までは現在ほどの重職ではまだ無かったのでしょう。

それは一度退任した筈が再就任した船田の例も見られた事からも伺え、当選回数は保守合同成立、55年体制成立直後に就任した星島以降は殆ど2桁ですが、閣僚経験は船田まで2年に満たない面々が続きました。

中村・前尾・保利在任期にかけて衆議院議長の地位が高まったかと思われます。前述通り中村は失言問題で辞職を余儀なくされてしまいましたが、その半年後の田中内閣の改造で石橋・岸内閣以来の法務大臣に就任しました。後任はその前の佐藤内閣時に思ったほど存在感を示せず、ついに宏池会を大平に乗っ取られてしまった前尾で、いずれも不憫に思った角栄の計らいだったのでしょうか。しかし、この改造内閣は自民の5大派閥のボス、所謂大福三角中が勢ぞろいした重量級で、中村も総務会長とか党要職経験も豊富だったし、前尾も乗っ取られたとはいえ、元派閥のボスだった事には変わりなく、一時は角栄の後任としても名が挙がった程だった。結局就任したのは三木武夫でしたが、その擁立に関わった保利も閣僚だけでなく、党三役も総務会長及び幹事長の経験がありました。

角栄は総理・総裁就任の目安として「当選10回、閣僚入り3回(出来ればその内外務・大蔵を各1回)、党三役1回」と語っていたらしいですが、中村以降は前尾、保利、灘尾、福永、櫻内、綿貫、河野、伊吹、大島とその条件を満たしている面々は多いし、福田と田村も党七役ポストの一つである国対委員長の経験はあります。坂田と原は党三役の経験は無いですが、「田中角栄 権力の源泉」によれば、福永の後任にはその角栄は腹を推していたが、坂田を推していた金丸信の案が通って、彼が就任したらしい。

55年体制最後の議長はその櫻内で、その次は初の女性議長で社会党ではおそらく約半世紀ぶりの議長(副議長は55年体制下でも何人かいた)でもあった土井でしたが、社会党は非自民・非共産連立政権内では最大与党ながらも再統一後では最低議席(70)となり、自民が第一党(223)だった事には変わりなかったからこの起用には不満の声も少なくは無かったらしい。副議長はこの時初の野党総裁となった河野の後ろ盾にもなっていた鯨岡兵輔でしたが、もし議長も自民から出すとすれば、河本敏夫とか二階堂進とか原田憲とかの長老が就任していたのでしょうか。実際河本や二階堂は総裁出馬経験または総裁被擁立経験があったし、原田は土井の後任議長候補とされていたが、次の総選挙で落選し、ガッカリきてしまったのか間もなく鬼籍に入ってしまったのは残念でしたが・・・・・・・・・

もし二階堂が議長になっていれば、正副議長合わせて162歳のコンビになっていたのだけど、結局この3人とも1996年に引退し、伊東の在任を経て、綿貫が最初の昭和生まれの衆議院議長になった。しかし、在任中に小泉純一郎が橋本龍太郎を破って総理・総裁になってしまい、平成研究会を徹底的に冷遇した為に浮いた立場になってしまった感もしないでもなかったです。実際また、郵政民営化にも反対していたけど、退任後に自民を離党して別の政党の党首になった初の議長経験者でもあったでしょう。その次に就任した河野は逆に自民に戻ってきた後に総裁等を経て議長に就任し、在職日数も最長を記録したけど、総裁時代から支持してくれて、外務大臣-総理大臣としてもコンビを組んで(この時杉原千畝を名誉回復もしている。ネトウヨ達は絶対その功績を認めようとはしないだろうが)、小泉政権下でも一定の影響力はあったとのパイプが功を奏した様です。総理にはなれそうでなれなかったけど、まあ一度自民を出ていった不利な経歴もあったにしては一番出世を果たした(その次が現任幹事長の二階かな?ただ、息子は評判悪く、市長選でも現職に大差で落選したらしいから、古賀誠みたいに地盤を譲る事はしないかも)と言えるでしょう。

その河野は2009年の解散と同時に引退し、民主党が大勝したので議長も当然民主党から出た。戦前は知事経験者の議長は何人かいたけど、おそらく社会党在籍経験者では3人目の議長だった横路はその点久々の議長でもあったでしょう。次の2012年総選挙でまた自民が与党に返り咲いて、さらに次の2014年総選挙後で総理大臣と同じ清和会の町村が議長になるも・・・・・・・・・・・・

「安倍晋三 沈黙の仮面」でも書かれた通り、町村は既に2012年総選挙直前の総裁選から脳梗塞を発症していて、健康だったならば総理になれた可能性も高かった様だ。今度はあの例の下町ボブスレーとかもう「日本スゲー!!」とか大概にせえよ、ラトビアやジャマイカからの評判も悪くしてどうする、公式ツイッターでも韓国の悪口も言っているけど、いい加減そんな事しているてめーらがその韓国や中国、左翼、在日、朝日新聞ETC嫌いな連中以下になっている事に気づけよだけど、ホントに町村総理が誕生していれば今の日本はまだここまでは酷くなっていなかったかもしれない。河野みたいに総理になれなくても議長に・・・・・・・との事だったのでしょう。実際安倍も兄の様に彼を慕っていたらしいが・・・・・・・・・・・・・・

不運と言えば自民の政権奪還直前に総裁を退任せざるを得なくなり、その後幹事長として安倍を支えるも、不慮の事故で療養・引退を余儀なくされた谷垣禎一もそうでした。現在の衆議院第48期は昨2017年11月から始まって、実際またそういう憶測の報道も一部見られた様ですが、もし健康だったならば彼も大島の後任として議長になっていたのか?この人は他の重鎮幹部達みたいに右に偏っていないし、実際議長になってほしかったと思うけど、貧乏くじを引かされてしまった感じでした。また、他には額賀福志郎の名も挙がっていた様ですが、2回も大臣途中辞職だけならまだしだし、日韓議員連盟の会長としての活動(何度も言っている通り、自身と国を同一視し、近隣諸国へのヘイトに血道をあげる風潮には辟易していますが、外国人参政権は絶対反対です)なんかも置いといても総裁選出馬経験は無く、派閥のボスとして清和会支配に対抗する事も出来ず、しかも2015年終戦の日には中年女性と不倫していたスキャンダルも報じられた様では結局大島続投となったのも無理なかったでしょう。

次の総選挙は遅くとも2021年秋には実施されます。もしかしたら、東京五輪前に憲法改正の国民投票と同時にやるのかな?いずれにせよ、大島議長は次の解散と同時に退任し、その後議員を務めるにしてもあと1期で引退するのでしょうが、ポスト大島は果たして誰になるのか。政権交代の可能性は低いだろう(ホントはもう一度実現しなければいけないのだが。民主党政権の反省も活かして)けど、自民議員で当選回数最多な野田毅は高齢な上にオールゼロ議員になった事もあるし、甘利明もUR疑惑どうした?他にも衛藤征士郎、石原伸晃、川崎二郎、船田元、村上誠一郎、山口俊一とかどれも決定打に欠けますね。まあ総理大臣も篠原孝とかが平成以降小粒化していると指摘(篠原氏は中曽根・安倍両氏を比較して、安倍総理を酷評した記事をブロゴスで公開した事もあったが、ここもネトウヨの巣靴と化しているので当然彼らの反発を買ってしまった)していたけど、国会の神様とも言うべき衆議院議長も再び軽量化してしまう可能性が高そうです。そうだとしても、どうすれば良いか?まあ分かっている人は分かっているでしょうが、今こそ改めて議会制民主主義を十分に機能させ、守っていかなければいけないとこの衆議院議長の顔ぶれも見ても改めてそう思った次第であります。

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2018/01/20

再注目されている海道東征から感じられる一種の「胡散臭さ」

https://www.youtube.com/watch?v=T1sxUFxgsTs

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最近ちょっと話題になっている様である、北原白秋作詩、信時潔作詞の海道東征だけど、you tubeでの演奏動画を聞いてみました。

今から見れば「そんなの時の権力者が自分の権力保持の為に天皇を利用して、国民に無条件の忠誠等を強要した妄想ファンタジー、天皇制ファシズムの一種でしょ。」であると言うか、ハッキリ言って私は皇紀2678年どころか神武天皇の実在性そのものに対して否定的ですが、そういう日本神話の基になった英雄はまあ確かにいたのでしょう。

そういう天孫降臨とか神武東征とか全く根拠がないとまでは言わないし、そんな右翼・保守の人達が絶賛するほど素晴らしいものなのかでしたが、もっと何か勇ましい、駆り立てられる様なメロディだったわけでもなかったと言うか、想像していたよりも淡々としていた感じでしたね。

正直嫌悪感・忌避感も無かったけど、何度でも聞いてみたいと思える様な高揚感も無く、要するに「可もなく不可もなく」でした。まあそれでも特に日教組とか左翼の人達にとっては君が代(これも別に私は何とも思わないですが。他の国、例えばソ連国歌みたいに特定の政治家を賛美しているわけでもないし)ですらアレなのだから受け入れられる様なものではないかもしれませんが、彼らの過剰反応も決して一笑に付すべきでもないとも思います。

それは杉原千畝を、名前もロクに読めない総理大臣が賞賛しただけでなく、ネトウヨ達が「ビザ発行は大日本帝国の総意」とかまたまた得意の嘘をついていたのもそうで、「お前らがあの時代に生きていたら、彼を売国奴認定して排除、罵倒していただろうが!!」でしたが、個人的にはそれ自体にはそんな独り善がりな自尊史観みたいなものは感じられなかったこの海道東征も「明治150年」の一環でも杉原氏同様ネトウヨを含む右翼・保守の人達に都合よく利用されてきているみたいでスゲー胡散臭さが感じられるからです。確かに海道東征とかには今の日本人が忘れてしまった精神みたいなものとかもあるかもしれません。そして右翼・保守の人達曰くな自虐史観等そうした精神の忘却等敗戦直後のGHQ統治による悪弊も否定するわけではないし、今の皇后が皇室に嫁いだ(そして皇太子妃に小室圭氏ともっとダメな手合いが皇室に絡んできた。メーガン・マークルとやらも小室氏よりはいくらかマシな程度に過ぎないじゃない、よくエリザベス女王許したねだけど)のもその一つなのでしょうが・・・・・・・・・・・・

https://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/041.html

確かにまた、鈴木政権下で定められた近隣諸国条項は周辺諸国に配慮しすぎ(当時の中曽根総理が胡耀邦総書記の立場に配慮して靖国参拝を止めたのは間違っていなかったと思う)だったのは否めませんが、一方でかっては学校での第二次世界大戦についての教育は「日本国民は災害の被害者」意識が強かったと聞いた事あるぞ?だったし、このページで指摘されていた通り、東南アジアに対しても戦後約30年間、田中政権下までは「解放史観」が強かったらしい。彼らって、1943年5月の御前会議で決められた事や、インドネシア独立のために戦った日本兵が脱走者扱いだった事とか自分達の史観に都合の悪い事は半ばスルー(杉原氏を名誉回復したのが彼らが存在自体認めたくないであろう当時の河野洋平外相なのもそうか)しているけど、「あれっ?言ってた事と違うじゃん!!」でしたね。

まあ「スゲー!!」番組なんか垂れ流している場合じゃないと言うか、例えば55年体制以降特定の政党が殆どの期間政権握っている(他にもスウェーデンやイタリア、メキシコ、インド等一党優位体制な主要国はいくつかはある)、一人当たりGDPの順位がどんどん低下、大企業でも過労自殺事件起きているけど、先進国でも高い自殺率、逆に低い有給消化率、非正規雇用者の増加による格差の拡大、自分達と異質な存在を受け入れず排除しようとするムラ社会的根性、過剰な不倫叩き(でも、ベッキー氏にはタイキックまでしてもジャニーズやバーニング等大手芸能事務所タレントは見逃して、寧ろ祝福してしまう)や藤井四段(何食おうがそんなの知ったこっちゃないよだけど、どんなに強くてもまだ子供な彼を必死こいて叩いた勝間和代&大竹まこと両氏もスゲーダサい)・シャンシャンフィーバー等マスコミの偏向報道ETC・・・・・・・と今の日本、悪い点ならいくらでも思いつきます。

しかし、これももう何度も何度も言っているし、里中満智子先生の「天上の虹」でも大海人皇子(天武天皇)が「人間は今の嫌な所と過去の良い所を比べたがるものだ。」という様な事言っていた通りそれも日本人に限らず「人間の性」と言えるのかもしれませんが、これが分割統治だったら天皇制も廃止されてもっと悲惨な目に遭ってたかもしれないぞ?(でも、昨今の風潮を見るとその方が良かったのか?)だったし、GHQのたかだか10年も無かった統治ぐらいでそんな腑抜けになるほど日本人が阿保でノータリンだとも思えないですよ!!私からは!!

それぞれ南京大虐殺、慰安婦で騒いでいる(と右翼・保守の人達からは見える)中国、韓国の事も笑えないと言うか、いつまでもそんなGHQの洗脳ガーで騒いでいる連中こそが一番の自虐史観の持ち主なのですが、そんな腑抜けがホントにいるのならば、それはアメリカに無条件で追従して、北朝鮮にとってはアウトオブ眼中な国々にまで態々告げ口外交している政治家達やその政治家達を妄信していて、時には杉原氏のビザ発行や沖縄米軍ヘリ事故とかでもウソを垂れ流し、後者についてはまた、自国民を罵倒・中傷し、彼らよりも2000億以上金もらっている駐留国軍を擁護していて、国内の左翼どころか彼らよりももっと死ぬほど嫌いであろう特亜以下の存在になっている事にも気づいていない連中だけです。習近平国家主席も金正恩委員長も(それと、特亜じゃないけどプーチン大統領もか)冷酷な悪人ではあってもバカで腑抜けでは全然ないですからね。

だからこそ、別に海道東征を演奏するのは良いし、特に強い興味なんかもないからそれ自体については何とも思わない、1年365日、日本全国どこでもやればよろしいだけど、海道東征を再評価するのならば、個人的なイデオロギーや近隣諸国との確執に囚われない、天皇制も含む日本人の純粋な古来からの精神だけでなく、北原白秋とか高村光太郎とか三好達治とか彼ら文化人(津川雅彦氏や松本人志氏とか総理大臣と会食した芸能人達とも重なり合うものがあるかも?)を戦争協力にも駆り立てた時代の強制力及びその未来へ向けた意義と教訓とか客観的な評価がなされるべきではないかと思います。そう言えば、小池都知事が平昌大会を平壌大会と評したのも、確かに文政権は北朝鮮にやや甘いながらも、「あなた達はそんなに戦争してほしいのか?あなたのお膝元の都民だって最悪死者出るかもしれないんだぞ?そんなネトウヨ受けする事言う暇があるんならさっさと都政の方で成果出せよ!!」だけど、たとえ侵略戦争であろうが無かろうが、この海道東征が発表された皇紀2600年の翌年に起きた太平洋戦争からの第二次世界大戦敗戦は明治維新の成功に驕って、自国を過大評価して、天皇も利用(美濃部達吉の天皇機関説も当の昭和天皇は容認していたというオチだったし)して、朝鮮統治は赤字、中国も屈服させられなかったのに身の丈に合わなかった大日本主義を掲げて暴走してきたなれの果てであり、海道東征もそうした評価無しではいつまでも経っても進歩せず、下手すれば日本はますます「世界の孤児」になるだけです。

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2017/12/12

油井大三郎らによる高校歴史用語精選案は明治懐古、戦前美化の安倍政権へのカウンターアタックか

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171212-00000500-san-soci

人気の「坂本龍馬」たちが消えたナゾ 高校歴史用語精選案で広がる波紋

12/12(火) 9:08配信    

    

産経新聞

 国民的人気の高い「坂本龍馬」が消え、論争が続く「従軍慰安婦」が残る-。高校や大学の教員がまとめた高大連携歴史教育研究会(高大研、会長・油井大三郎東大名誉教授)の高校歴史用語精選案が波紋を広げている。高大研は精選案の内容についてアンケートを実施し、年度内に最終案をまとめる方針だが、個別の用語の選定基準は明らかにしていない。論争のある従軍慰安婦や南京大虐殺以外に、人名でも精選基準には疑問のある部分が多い。(社会部 花房壮、寺田理恵)

 精選案では、日本史と世界史でそれぞれ現行の半分以下となる約1600語を「教科書本文に載せ、入試でも知識として問われる基本用語」として選定。叙述や考察に必要な概念用語を多く盛り込む一方、人名や文化史用語を大幅に削減したのが特徴となっている。人名の選定で物議を醸したのは「坂本龍馬」「吉田松陰」「高杉晋作」「楠木正成」「上杉謙信」「武田信玄」「高野長英」など歴史小説や時代劇のヒーローとしてなじみの深い人名が数多くカットされたことだ。高大研側は精選案から外れた用語を教科書に載せることは否定していないが、個別の用語の選定基準については「アンケート調査に予断を与えかねない」として明らかにしていない。

 一方、論争を呼びそうな人名が多く選ばれていることも議論を呼びそうだ。例えば「厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子)」は、文部科学省が今春告示した中学の新学習指導要領の記載をめぐり、「聖徳太子の抹殺だ」「約20年前に唱えられた聖徳太子虚構説の押し付け」などと批判を浴びた表記だ。その一方で、戦前に聖徳太子の功績について批判的研究を行った歴史学者の津田左右吉も選ばれている。

 小中学校教科書では、新規参入の中学教科書1点を除いて「聖徳太子」を主たる表記とした。ところが文科省は現行の「聖徳太子」を「没後の呼称であり、中学では史実を学ぶ」などとして、2月に公表した指導要領改定案で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。これに対し、国会などで批判が相次ぎ、専門家からも「古代の主要資料には見られず、実名のように扱うのは不適切だ」などとの指摘があったことから、3月の告示で「聖徳太子」を復活させた経緯がある。精選案に入った「厩戸王(聖徳太子)」は再び議論を呼びそうだ。

 精選案で学習項目「国際協調の時代」「初期の占領政策」の2カ所に採用されているのが外交官・政治家の幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう、1872~1951年)だ。幣原は、両大戦間の大正末期から昭和初期にかけ協調外交を推進した“幣原外交”で知られる。また、先の大戦後の昭和20年10月に首相に就任し、憲法改正にかかわった。現行の高校教科書では「幣原喜重郎内閣はGHQから憲法改正を指示され」などと記述されている。

 日本国憲法の成立過程をめぐっては議論がある。現行の日本国憲法は連合国軍総司令部(GHQ)によって草案が作成されたことから、「米国からの押し付け憲法」として改正を目指す理由の一つともなっている。だが、押し付けを否定する人や、戦争放棄などを規定した9条の発案者を日本人の幣原とする説を唱える人もいる。

 生徒が自ら考え議論する活動を重視した次期学習指導要領では、多面的・多角的な見方を養う授業を目指しており、議論のある用語を選ぶこと自体は必ずしも否定されるものではないが、特定の見方を押しつけられることのないよう留意すべきだ。

この油井大三郎氏の事は良く知らないけど、削除対象の歴史上の人物の面々だけ見ても、特に所謂長州史観を中心とした幕末~昭和前期の戦前日本に対して否定的な歴史観の持ち主である想像は容易ですね。武田晴信(信玄)と上杉輝虎(謙信)は一見そんな長州史観とは関係なさそうで、前者は寧ろその長州史観では悪な徳川時代では「神君家康公に黒星つけたからスゲー!!」な過大な程の高い評価を受けていたのだけど、戦前期は何故か勤王家として楠木正成共々評価されていたと言うから、宿命のライバルな輝虎もセットでその対象となったのでしょう。

しかし、坂本龍馬は確かに一緒に暗殺された中岡慎太郎後藤象二郎の功績を横取りしてしまっている面はあるし、吉田松陰も近年はテロリスト認定(それを言ったら伊藤博文もおそらく唯一の殺人経験がある総理大臣だが、学研の、故・田中正雄氏漫画担当の伝記ではそういう黒い面は全く描かれなかった。まあ昭和版の学研日本史伝記漫画の主人公って、天智天皇や源頼朝とかもそうだったし、伊藤の場合は田中氏が終戦直後、凄い長生きだったけど、107歳だった幼馴染の爺さんから聞いた話を基に執筆したらしいから猶更だろう)する声も根強い様である。

来年2018年は1月1日に遡って慶応から明治に改元されてから150年目ですが、慰安婦や南京大虐殺の明記共々総理(副総裁や文部科学大臣とかもそうだけど)が山口県出身という事で福井国体の政治利用や明治の日復活案等明治懐古を押し進め、戦前日本を美化し、国民のナショナリズムを煽る安倍政権に対する油井氏らのカウンターアタックなのでしょう。天皇陛下の生前退位が憲法改正へのカウンターアタックである様に。稲田朋美氏とか神武天皇の偉業って、マジで神武天皇が実在性の高い人物だと思ってるのか?だけど、彼女ら右傾政治家達のいう日本の伝統とか日本人の精神の独立とか、長州史観にも拠った己らの狭い価値観も押し付け、国民を騙し欺いているみたいで、私には一種の胡散臭さとか感じられません。

高野長英までも対象になったのも、徳川幕府に弾圧されただけでなく、その2018年元旦に彼も登場する風雲児たちが放送予定なのと決して無関係ではあるまいですが、特に日露戦争以降の戦前日本に対してどちらかと言えば否定的(明治維新で近代化を成功させた事等は普通に誇っていいと思います。その近代化に成功してから第二次世界大戦に負けるまでが大きな失敗が目立って、そのツケを払いきれていないくせにその失敗を忘れつつあるのだけど)な私から見てもこの精選案は首を傾げる様な内容であります。たとえ戦前日本に対して否定的であっても、その礎を作った人物まであたかも大した事なんかしていなかった様に扱って削除するのではなく、しっかり各々の人物の功罪とか広い視点で考えさせる様な教育がなされるべきです。

従軍慰安婦や、明日で丁度80年を迎えるけど、南京大虐殺を明記するのも反対はしませんが、例えば前者は「高級売春婦か性奴隷かその実態にも各説はあるが、強制性の有無は国または地域により異なり、旧オランダ領東インドでは実際スマラン事件が起きた」、後者は「それ自体の有無や被害者の人数、事件が起きた範囲等様々な視点から議論がある」(個人的には30万人説は信用していませんが、小規模でも殺戮自体はあったのではないかとの認識です)とかのなるべく中立性を保った注釈等も絶対不可欠だと思います。厩戸皇子(聖徳太子)も、私は彼の政治的業績は皆無で、それらは全て推古天皇と蘇我馬子がやった事ではないかと思っていますが、まあ前述の神武天皇の実在性共々100パー証明できるのかと言うと、「?」だし、「実在はしたが、政治的業績は無かった説または実在自体無かった説もあるが、確証はない。」と軽く触れる程度で良いんじゃないですか。

「特定の見方を押し付けられることのないよう留意すべきだ。」ってそれはあんたらが味方している彼らにも行ってくれよですが、安部一強状態となってしまっているのも左翼の人達が特に偽善的で、一般庶民の味方面しているけど、実はバカにし、見下していて、他人の異なる意見も柔軟に受け入れず、変化した社会情勢にも対応出来なかった(SEALDsの主なメンバーもそうだが、先日ある地球温暖化懐疑論への反論記事も目にしたけど、その記事の、40代前半の男性な某ライターもそんなダメな左翼の一人で、「温暖化していないと思っている人は騙されている」って、随分一方的な物言いだねでしたが、ちょっと調べたらネットでも評判のよくない人物である事が分かって「さもありなん」だった)のも大きな原因です。そうしたダメぶり故にも右傾化している。

倉山満氏も、三木武夫氏や鈴木善幸氏とか目の敵にしているのも道理でと言うか、確かに大日本帝国憲法の復活とかもマジで望んでいる彼にとっては55年体制以前の自民ハト派政治家達だって立派な左翼だよね~と悪い意味で納得したけど、2018年はマジで近隣諸国との確執にも囚われて明治懐古、戦前美化の下、ますます歪んだナショナリズムに走る年になりそうだ。でもこれではその近隣諸国らも笑えまいですが、油井氏らにも個人的な歴史観に囚われず、北朝鮮の核開発も良い様に利用してそんなきな臭い運動を進めている安倍政権の暴走を抑えるストッパー、日本の良心であってほしいです。

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2017/08/15

72年目の終戦の日×産経新聞の中国ヘイト記事×マクロン大統領の支持率低下

https://twitter.com/furukawa1917

このツイッターの主である古川氏(furukawa1917)、某巨大掲示板にも個人スレが立っているほどの有名人(?)な様ですが、確かに西洋思想を過大評価しているきらいとか否めないながらも度々定期的にツイートチェックしています。だって、私と思想的に違う面も目立ちますが、主張には独特のユーモアみたいなのも感じられて普通に面白い事言ってるから。

その古川氏の最近のツイートで特に引いたのは「一応、日本も八紘一宇やアジア植民地の解放といった日本なりのプロパガンダをおこなっていたとは思うが、せいぜい国内向けの効果しかないもので、蒋介石や毛沢東や北ベトナムのプロパガンダに比べれば児戯に等しい。しかも自分のプロパガンダに自分が騙されている。こんなんじゃ次の戦争も絶対負けるな」ですね。今日で今年も終戦の日を迎えて、産経新聞では野口裕之氏が習近平国家主席の先月末の視察もバカにしたヘイト記事書いていて、この人もネットでも一部良識ある人達から批判されていますが・・・・・・・・・・・・確かに特亜三国ともどうしようもない国ですが、それらとの確執にも囚われ右傾化、偏狭な愛国心にも走っている昨今の日本人の歪で、過去の失敗からも学ぼうとしていない歴史認識を鋭く突いたツイートだったと思います。

http://www.sankei.com/premium/news/170814/prm1708140006-n1.html

これがそのヘイト記事で、長征を散々逃げ回ったとバカにしたり、日中戦争で日本は優勢だったとか言ってて、前にもこのブログでも言ったけど・・・・・・・・確かにまた、中共はかっての日本軍以上の侵略者になっていて、政治体制が変わっても、環境問題とか国内の問題をおざなりにしたまた同じ事(つまりは自分達が偉大な民族だと錯覚、妄想して外征等に血道をあげる事)しかしようとしないこの国や国民も不幸で、一体いつになったら変われるのかなあです。ホントに最近「いつから中国人ってこんなダメになったんだろ?」って自問自答せずにもいられないのだもの。

野田聖子氏も靖国参拝しないとかは勝手でも、南シナ海の問題は日本には関係ないってそんなわけないだろーー!!困った事に近年女性政治家達のダメっぷりが目立つ世界のいくつかの主要国の中でも日本は群を抜いていて、もっと酷いのが何人(今井氏や某エリカ様なんか政治家になったのがそもそもの間違いだと言えるし。今井氏については、お仲間の上原氏の方がもっと悪質だけど)もいるから野田氏も全然マシには見えます(でも、総理にはなってほしくない)が・・・・・・・・・日中戦争なんてホントに日本軍が勝ってたのなんて1938年秋に武漢三鎮を落とした時まででしょ。確かに日本軍と正面切って戦ったのは主に国民党軍で、それも日本軍が勝った戦いの方が多かった。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1334079388

しかし、日本軍は中国大陸ではその様に終戦間際まで精強だった一方、官僚主義の悪弊にどっぷりはまっていた。東条英機が開戦時の総理大臣になってしまったのもそれを象徴していた(彼も日米開戦を煽ったり、公私混同甚だしい等褒められないエピソードも見られて、東京裁判の問題性も無視しないけど、死刑になるほどまでの悪人ではなかったでしょう)けど、彼ら官僚って学校での狭い意味でのお勉強は凄い出来るけど、現状認識・把握やビジョンの策定は凄い下手。だから中国大陸でも勝った戦い自体は多かったながらも自分達の目的が何なのか、どういう見通しを立てれば無駄な労力を使わないで達成できるのか、分かっていたつもりで分かってなかったじゃないですか。野口氏はまた別の記事でも大陸打通作戦の成功と毛沢東の持久戦論の誤り(しかし、実際は少なくとも華北については正しかった。別に私は毛沢東主義者とかでは決してないけど、政治家としては残念ながら無能認定は免れないが、革命家・戦略家としてはやはり彼は卓越していた。レーニンみたいに建国後数年で死んでれば良かったよね)をどや顔で強調していて、前者については上記yahoo知恵袋のベストアンサーみたいに「太平洋で勝っても中国で負けたら戦争自体が負け」と明言した上で評価する意見もあって、私も意見は違いながらも一理あるとも思いますが、結局は結果論だけど、日本の降伏が僅かに先延ばしになっただけじゃないの?で、作戦そのものを中止しような意見も出たのですが、まあ右寄りの人達って自分に都合の悪い事実はスルー(その最たる例が1943年5月の御前会議で決められたあの「方針」)という悪癖があるから当然野口氏も触れるわけがない。

逃げ回っていたとバカにしていた中共や毛沢東も、確かに前者が戦争が起きる様煽って、後者が「7割は勢力拡大、2割は妥協、1割は日本軍と戦う事にエネルギーを使え」という様な事を言ったのも事実です。南京陥落も喜んで祝杯を挙げたほどだったのも、「さもありなん」でしょう。しかし、ドイツの伍長閣下もオーストリアとスデーテンで満足しておけば良かったのについにポーランドまでせめて、ナポレオンの失敗にも学ばなかったからああいう周知の通りの最期を迎える事となったけど、伊丹万作が「戦争責任者の問題」(「騙す者と騙される者双方がいなければ戦争は起こらない」とか)でも言った通り、満州(なお、リットン調査団は中華民国の満州領有も認めていなかった)を守る為だとか尤もらしい理由つけて、石原莞爾の制止も聞かないで熱河や内モンゴルまで侵略した挙句、中共に乗せられて、逃げ回っていた筈のその中共にいつの間に国そのものを乗っ取る力まで蓄えさせてしまった日本軍も何だったのだろうか?どれだけお前ら間抜けだったの?ですけどね。勿論あのまま国民党が大陸支配を維持していたとして中共みたいに反日に走る可能性がないとまでは言わないけど。

実際は日本は少なくとも中国にあの戦争で勝っていたわけでない。朝鮮統治も赤字で、明治維新に成功しても、本来海外領土はせいぜい台湾と南洋諸島程度しか領有できない程度の国力だったから当然と言えば当然だったのだけど、5ラウンドあたりで判定勝ちしたに過ぎない日露戦争の勝利の意味(東郷平八郎だって晩年は老害と化していたし)を30年以上も勘違いし続けた結果、中国すら屈服させられなかった有様なまま太平洋で利権争い(単純な侵略とは違う)をせざるを得なくなって、あの当時から見ても冷静に見れば勝てる筈がなかったアメリカに挑戦して敗戦に追い込まれた。故・江藤淳氏とか右寄りの人達がしきりに強調しているウォーギルトインフォメーションプログラムもその存在自体や今日まで及ぼしている悪弊も否定しないです。日教組もその一つで、例えば自衛隊の子いじめなどはどー見ても擁護できる事ではないです。しかし、限度はあれど、占領者が占領地や被占領者を自分達の都合の良い様に作り変えるのは彼らから見れば当然の権利でしょ?

ましてやあの当時前大統領のルーズベルトが容共過ぎて、ソ連が東欧にも勢力圏を伸ばしていたし、これが分割(厳密には実際の占領時代も全くの単独統治ではなかったらしいが、実際日本分割案もあった)またはソ連の単独統治だったらもっと日本は悲惨な目に遭ってたんじゃないの?だからと言って全てアメリカ・GHQや特亜、GHQが生み出した同胞左翼が全て悪い!!美しい国に住む俺達美しい日本人は悪くないなんて単純すぎるでしょ?

そもそもまた、石橋湛山がアメリカやGHQにもハッキリ物申して、当時の国民からも支持されてた(さらにそれ故の公職追放からの復帰後も、政府でも支持基盤があったから首相にまでなったが、短命政権に終わったのは惜しまれる)なんてのもスルーなんだろうねだけど、日本人って、別に中国の文革の様な事までされたわけじゃなかったのに日中戦争で逃げ回ってたばかりだった筈の中共天下取りもアシストしただけじゃなくて、そんな10年にも満たない占領政策で骨の髄まで改造される様な阿保でノータリンなのかよと。そんなわけないでしょ。確かに失敗点もあったけど、そんな長いものには何でも巻かれる様な単純阿保とかだったら、トルコとか外国にもお手本にされる様な明治維新だって成功しなかったんじゃないの?他の多くのアジア・アフリカ諸国みたいに欧米列強の植民地にされてたんじゃないの?

勿論いつまでも謝り続けるのも卑屈だし、靖国・慰安婦問題とか日本人でありながら自国を貶める様な事をするマスコミや文化人達もいるのも事実だけど、GHQの洗脳「だけで」そういう事するに至った思想持つのかよと。ネトウヨも当然含むウヨが一番過去に囚われていて、一番自虐史観に毒されてるじゃん。5000歩譲ってそういう「GHQ極悪論」とかウヨ達の言い分通りだとして、私から見れば彼らウヨ達の存在自体、日本のサヨが特有のダメな点をも克服しないまま今日まで至ってきた反動故の二次発生品だもの。日本のサヨもダメだけど、特にGHQガー、洗脳ガーとか言っているウヨはもっとダメですよ。他にも在日特権とかアインシュタインの日本擁護とか嘘はつくわ、某庭球ギャグ漫画のライバルキャラみたいに某元アムステルダム市長とかの名前もマトモに覚えられないわとあんたらが死ぬほど嫌いな中国・韓国人(彼らにしたって全員がガチ反日なわけでもないだろうけど)や朝日・毎日等「反日」マスコミと何が違うのですか。バイアスの程度の差こそあれど、やってる事大して変わらないじゃん。被害者コスプレもしてるじゃん。美しい国とか過ちも犯した事のない偉大な民族とか妄想ファンタジーもしてるじゃん。つまりブーメランじゃん。

産経新聞やケント・ギルバート氏等の一部ウヨ論者もネトウヨにも媚びた様な主張もして、負の連鎖で劣化してきているのですが、何度も言う通り、洗脳の存在そのものやその悪弊を否定しているわけじゃないです。しかし、そういう話を聞けば聞くほど、「もっと複雑な話なんじゃないの?結局は自分達の不満を、自分達が気に入らない連中のせいにして、そこで半ば思考停止してるんじゃないの?自分達もダメだった点も探すよりそうして他人のせいにした方が楽だものね。」と言うか、「ホントにそれで良いのか?」な疑問が大きくなるばかりで、例えば日教組の組織率が40年強連続で低下しているのもご存じなのかい?でもあるけど、そんな過剰な被害者意識(があると私からは見える)で、そういうGHQが残した負の遺産を克服できるとは正直私には思えない。結局はまたそこから新たな歪みが生じてそれ故のジレンマにこれからの日本人が苦しめられるだけじゃないのか?ですが、もう一つ克服しなければいけない大きな悪弊はそういう勝率の高さの割には中国をも屈服させられなかった要因の一つである官僚主義も間違いなくそうで、現在の安倍政権下閣僚達の問題言動や事なかれも生まなくても良かった悲劇を産んでしまういじめ事件とかからでも覗える様に、あの戦争で散々痛い目に遭った筈なのに残念ながら・・・・・なのです。

http://www.sankei.com/world/news/170807/wor1708070034-n1.html
マクロン仏大統領、人気失速…支持率36%、不支持49%に 選出から3カ月「蜜月は終了」

 

 

フランスのマクロン大統領=3日、モワッソン(ロイター)

 【ベルリン=宮下日出男】フランスのマクロン大統領の支持率低下が目立ってきた。財政立て直しのための歳出削減のほか、権威主義的と批判された振る舞いが人気失速の背景にあるとされる。大統領選出から7日で3カ月。「ハネムーン期間は終了」(仏メディア)し、国内改革の実行に向け、試練はこれからだ。

 3日に仏メディアが伝えた世論調査では、マクロン氏の支持率は36%と7月から7ポイント減り、不支持が49%で上回った。7月下旬に公表された大手調査会社の支持率も6月から10ポイント減の54%。就任から同時期の比較では人気低迷に悩んだオランド前大統領を下回った。

 マクロン氏は就任直後から米露首脳と渡り合い、外交で存在感をアピール。6月の国民議会(下院)選では新党「共和国前進」を率いて政権基盤の構築にも成功した。これを弾みに国内の課題への取り組みに本腰を入れたものの、反発も強まってきた形だ。

 政府は財政赤字を国内総生産(GDP)比3%以内とする欧州連合(EU)のルールを守るため、今年予算で45億ユーロ(約5900億円)の追加の歳出削減を表明。今年秋から住宅補助を減額する方針も決め、影響を受ける学生や低所得者層から批判が上がっている。マクロン氏は国防費削減に異議を唱えた軍統合参謀総長に「私がボスだ」と発言し、総長が抗議で辞任。7月14日の革命記念日の恒例インタビューを控えるなど、マクロン氏がメディアと距離をとるのは権威を保つためとされるが、「権威への欲求は独裁と紙一重」(仏紙フィガロ)とたしなめる意見も出ている。

 経済再生に向けた重要課題の労働規制緩和では、議会承認なしに政令で行うことを上下両院が承認。政府は労使との交渉に入り、月内にも具体案を示す。マクロン氏は雇用・解雇の条件の柔軟化を目指すが、一部労組はすでに抗議デモも計画しており、強硬姿勢をとれば、国内の反発が高まる可能性もある。

そして話は変わるけど、これはその古川氏のツィッターから目にしたニュースだけど、「ああやっぱり」ですね。国民議会で議席過半数取ったまでは良くて、コアビタシオンになるだろうな私の予想は外れた事もこの場で強調させていただきますが、それで却って「国民の支持を得たんだから、大統領な俺が思い通りの政策何やっても良いだろ!!」とか能力不相応に勘違いしちゃっている様ですね。確かに戦前・戦中日本の、明治憲法の不備からも生じた今なおその不幸の痕跡が消えない軍部の暴走を見ても文民統制も大事で、マクロン大統領はその最高責任者、最高司令官でもありますが、だからと言って頭ごなしにどやしても制服組が納得するはずがない。まだ就任してから3ヶ月少しだから評価するには早いでしょうが、理想を語るのは上手いけど、統合調整能力は無いよね。この人って。

戦前・戦中の日本もそういうのが出来る政治家がいなくなってしまった(孫も彼の悪い点を受け継いでしまって、さらに某都知事であるその部下も・・・・・だけど、太平洋戦争直前に近衛文麿が当時の明治憲法では大臣の任免権も事実上なかった総理大臣になってしまったのも大きな不幸の一つだった)けど、それだって普通に強く求められる能力でしょう。所属政党も何だか民進党みたいに思想の違う人達が集まっていて、分裂の危険性も孕んでいる感もしますが、結局この人はこれも制度疲労甚だしいのであろうEUと一般国民や野党、党内での板挟みにあって、思ったほどやりたい事がやれない5年間になってしまうのではないだろうか?かって存在した中道政党、フランス民主連合もせいぜい30年弱しか持たず、現存する他の既存政党も民主運動も急進党も勢力は弱いらしいけど、民主連合と同じ様な末路を辿るのか?ましてやフランスってフランス革命から普仏戦争敗北まで目まぐるしく政体変わった事もあったし、まあ評価は早いと言ったけど、今のままではマクロン氏も現役大統領としてパリオリンピックを迎えられる可能性は低いでしょう。目新しさにも安易に惹かれて、過度の期待を持つ事も大きなリスクがあるとも改めて認識させられたけど、そういう意味では今度の茨城県知事選挙も長期政権の弊害もあるだろうけど、やはり橋本氏の7選となるか?いずれにせよ、過度の罪悪感から歴史に対して卑屈にならない様に戒めながら、これから頑張り次第でもっと明るい未来を作れるきっかけになればです。今年の、この戦後72年の終戦の日も。

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2017/08/13

足利尊氏・義詮・義満の子孫って今いるの?(2018年9月13日追記)

http://sky.geocities.jp/awashimainjin/newpage58.html

https://2ch.live/cache/view/sengoku/1156769019

足利将軍では最も知名度が低い将軍であろう14代義栄、歴史に強い興味がない人には何もできない内に若くして死んだ傀儡将軍程度(特に中国の古典に詳しい読書家だったらしいが、入京すら出来なかった)の認識しかないだろうけど、もっと知名度が低いであろう弟の義助の子孫が代々平島公方として江戸時代後期に京都に出奔するまで続いたのも知っている人は知っていると思います。

上の方のHPでも系図も掲載されているけど、足利歴代将軍が最後の義昭ですらやっと60生きたか生きなかったかに対して歴代の平島公方家当主は概してこの時代にしてはかなり長生きです。義孝は生没年分からない(初代義冬から数えて11代目に数えられているので、少なくとも息子の義廉も生まれて、父の義俊が亡くなった1876年までは生きていたと思われる。生年は1820~30年代頃か?)けど、明治維新を迎えるまでの歴代当主で、4代続きの義次~義武までを含めて80代まで生きた人が5人もいます。徳川征夷大将軍の家康慶喜をも凌ぐ長寿ぶりです。

明治維新後も義廉は97歳(または96歳)まで生きていた様で、正直つい最近知った事ですが・・・・・・・・・既に10年以上前に某巨大掲示板の日本史板でもちょっとした論争になっていたらしいけど、その次の進悟氏は実は実子ではなく、婿養子で、しかも離婚してそのまた次の義弘氏は足利氏じゃない別の再婚した女性との間に生まれた人らしい。つまりは事実上平島公方家は乗っ取られた形になってしまったという事ですが、これホントなのですかね?だって、大河ドラマ「太平記」が放送された時も最後のゆかりの名所紹介コーナーで当時まだ存命だった進悟氏も出ていたじゃない。まあ先祖ゆかりの地でもある京都に在住していた事もあったのだろうけど、ホントにそうだとしたら、こちらも幕末に徳川斉昭の血筋となってしまったけど、維新後爵位も貰って足利に復した喜連川系から見たら「同じ養子筋でも俺達の方が格上、本家なのに離婚してもう足利と縁切った筈な奴なんかがどうして尊氏公の子孫面しているの?」とか思うよね?

まあこの喜連川系も先代当主の惇氏は当時既に故人で、その次の現当主、公平か浩平か?この人も名前すらハッキリしないけど、細川家からの養子?ソースは「花の乱」らしいけど、細川家と言っても色々な一族あって、一番栄えた和泉守護系からでも例えば熊本藩主家だけでなく、常陸谷田部藩主家とか何家もさらに出ているし、惇氏には3人の弟がいて、その1人の尚麿が他家に養子に行ったらしいけど、彼が細川一族の養子(実際江戸時代にも細川家からも養子を迎えた例が何例かあった)となって、公平氏は尚麿の息子なのか?他にいた4人の妹達はいずれも他家に嫁いだらしいし・・・・・・もしホントに義弘氏が血縁者じゃなかったとすれば現在も健在であろう尊氏らの子孫って宮原家、小田家(13代当主政治が堀越公方政知の子とされるが一族が結城松平家に仕えたという)、佐々家(丸亀藩家老、12代将軍義晴の娘が嫁いだ若狭武田氏の子孫とされる)ぐらいか?室町幕府初期に複雑でカオスだった観応の擾乱があった為か将軍家の庶子は基本出家させられていて、実際義教や義澄、義昭等歴代将軍及びその近親者にも還俗した人何人もいたけど、出家させなかったらさせなかったでもっと争いの種が出来ていたかもしれないからつくづく難しいね。

【以下2018年9月13日追記】

不覚と言うか、すっかり見落としていましたが、他にも足利将軍家の子孫である事が確実な人達がいました。そう、戦国時代までは傍流だったけど、近世大名として明治維新を迎えた藤孝流細川氏です。藤孝と言えば、義晴の落胤説もありますが、それは全く無視して・・・・・・・・・・藤孝の祖母は三渕晴貞の娘なのですが、この晴貞の曽祖父である持清が義満か義持の庶子らしいのです。藤孝や忠興は再来年の大河ドラマ「明智光秀」でも登場するのは確実(彼らにとっては父または祖父の三渕晴員は微妙かな?)でしょうが、やっぱいたんですね。まあそもそも細川も足利の別れですが・・・・・・・・・・

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2017/06/20

百人一首の歌人達(21)-2番持統天皇

https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20170620-00000873-fnn-soci
眞子さま、7月8日に婚約内定発表

フジテレビ系(FNN) 6/20(火) 18:11配信

秋篠宮ご夫妻の長女・眞子さま(25)と大学時代の同級生・小室 圭さん(25)との婚約内定が、7月8日に発表されることになった。
宮内庁によると、眞子さまと小室 圭さんとの婚約内定は、7月8日に発表され、午後に、お2人そろっての記者会見が予定されているという。
眞子さまは、6月8日にブータンから帰国後、小室さんと母親をお住まいの宮邸に招いて、発表に向けた日取りを調整し、小室さんの仕事に支障のない、7月8日の土曜日に決まったという。
小室さんの近況について、幼少期の小室さんのバイオリンの先生は、「(6月初めに)お母さんと圭さんと2人で、演奏会を聴きに来てくださって。忙しい中、お時間作っていらしてくださって、本当に感激しました」と明かした。
今後は、12年前に結婚した黒田清子さんの例を参考にしながら、2018年の結婚式に向けて、準備が進められる。

「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」(2番持統天皇)

一昨年、「天上の虹」もついに完結したらしく、私なんかが今さら取り上げる様な人物ではないけど、約3か月ぶりのこのシリーズ第21弾は2番・持統天皇です。天智天皇(中大兄皇子)とは親子で百人一首では1・2番手ですが、その政治的業績とかとはかけ離れた、季節の移り変わりを女性ならではの感性で感慨深げに噛み締めた様な歌ですね。

この人は特に結果論からその人間性とか語られがちな印象がありますが、それだけに果たしてホントに伝記漫画(集英社や小学館等の各種学習漫画、それに石ノ森章太郎先生の「マンガ日本の歴史」等)で描かれた様な人だったのか、改めて疑問にも感じます。

ネットでも色々博識な人達にも語られていて、平安初期までは皇位継承の際には血統が重要視されて、母親の身分が高くないと天皇になるのは困難でしたが、自分が産んだたった一人の男子だった草壁皇子が早世しても、その他の天武天皇と自分の姉妹との間の皇子達が皆まだ天皇になるには若かった(生母は鎌足の娘だったけど、新田部皇子にいたっては10歳にも満たなかったと思われる)のがこの人にとっては一番ラッキーだったでしょうね。

そういう意味ではまた、「天武=天智の異父兄説(622年生まれ)」も自分もその可能性はあるとも思いますが、少々怪しいかも?ホントにそうだとして、天武天皇は用明天皇の曽孫で、れっきとした皇位経験者(天皇号を初めて使用したのは推古天皇か天武かだと言われているので正確には語弊があるが)の男系子孫には変わりないのですが、622年生まれだと、中には生年不明の子女も何人かいるけど、十市皇女(649~53年頃生まれか)と高市以外は殆ど40前後になってから儲けた事になる。しかも母親(皇極・斉明天皇)だって皇位系経験者だったけど、この時代のサラブレッドにしては子供作るの遅いと言うか、やや不自然ですが、持統天皇はまた少なくとも独裁者ではなかったですよね。

他サイトでも指摘されていたけど、大津皇子を粛清したくだりも夫崩御直後だったという事もあったのだろうけど、他関係者への処罰も最小限に抑えていたし、既に自分の異母妹でもあった母親が皇族だった長屋王も生まれていた(潜在的な皇位継承の競争者となる可能性があり、実際その末路は周知の通りである)高市皇子も、異母弟の大友皇子の例に倣ったのか「皇太子ではないけど、皇太子に準ずるような」太政大臣にした。この高市皇子の最期も毒殺説とか指摘されていて、実際また毒殺されたと推測できる様な遺体も発見されていますが、持統天皇が実行犯だったという事は無いでしょう。実行犯は彼がいなくなって、持統天皇以上に得をした「誰かさん」でしょうが、まあこのエントリーを見ている人は誰なのかはもう察しが付くでしょう。

高市皇子薨去後も、葛野王が同じ壬申の乱の敗者側でもあったその「誰かさん」の入れ知恵で草壁遺児の軽皇子を推して、まあこのくだりも持統天皇が誰かさんにそういう話にもっていかせる様指示したか、誰かさんが高市暗殺前からシナリオ付けていて、持統天皇も了承済みだったのでしょうが、皇嗣選定会議で一応皇族達で話し合いさせて決めた形を取りました。まあ「兄弟継承より親子継承ならば葛野王が本来今頃天皇になっていた筈」なのですが、大友皇子(弘文天皇)はそもそも母親の身分も高くなかったし、即位していない説も根強く、即位したとみなされたのは大政奉還後だったので、それは野暮なツッコミなのかもしれません。

実際またです。BBの覚醒記録(以降BBと記述)というネトウヨ皇室ブログでは「どうして愛国保守のブロガー達はこの様な危機に際しても黙っているのだ」と声高に訴えていますが、もしこれがホントだとして・・・・・・・・・・その経歴は矛盾点のオンパレード(国立音大付属小学校に通っていたくせにバイオリンは小学校高学年までわざわざ横浜市港北区まで通いに行っていた、ICUでも三菱東京UFJでも入社式または入学式とかの様子や同級生や恩師達のコメント等が聞かれない、弁護士を目指しているけど、司法試験直前だったのに一人で記者会見に応じる、事務所のビルが開く時間すら知らない、母ちゃんとのツーショットまで写していた割に一橋大学院にも通学している様子が見られない、英語が堪能なくせにそれを裏づける好エピソードも聞かれず何故かレストランでさほど時給の高くないアルバイトしていた、祖父とされる男もホントに血縁者?ETC)で、父親が自殺したのは彼の責任ではないですが、よくもまあこんなに埃ばかり出てくるもんだと言うか・・・・・・・

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/2f24e517d70ea6cfdf50602b03016dee
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/7d9d82a303a1965943e481a3a0d550f5

日本人ですらない(イスラエルでは「キム」と報道されていた)可能性もある小室圭と眞子さまの婚約がついに7月8日に発表されるというニュースがついに報道された。良くてフリーター、下手すればニートかもしれないのに何故彼の都合に合わせて大安でもない土曜日に発表する?そう言えばヒトラーもラインラント進駐とか重要な政治・軍事活動は週末に実行する事が多かったですが、この言論テロかもしれない婚約報道も利用して女性宮家及び女系天皇を実現させようとする連中の言い分の一つとして、「天照大神は女性である。日本書紀でもそれを思わせる記述があるじゃないか。」との事ですが、この勝手に紹介させてもらったBBの最近のエントリーによれば、天照大神は実は男性で、女性としたのはその「誰かさん」が持統天皇が軽皇子成長まで待って即位して、天武皇統を、木本好信氏曰く持統・草壁皇統に変質した事を正当化する為だったという。天照大神は私も女性である印象が強かったけど、まあ既に噂の真相2002年2月号で、女系天皇の正当性の無さを説いた、ぐう正論な特集記事が発表された通りですが、その繁栄等を祈る宗教的祭祀な性格等男系子孫だけが皇位継承するのが日本が日本であるがための天皇制の本質であり、それは良いか悪いか、女性差別か否かの話では断じてないのです。

こうした神功皇后だけでなく、性別自体本来違う可能性が高い様である天照大神にも擬えていたあたりからも、持統・文武両天皇の政権基盤が必ずしも盤石ではなかった事が分かります。持統天皇は701年末に崩御し、死因は分からないながらも色々思い出があったであろう吉野行き直後の事だったあたり、71番経信同様高齢での遠方への移動が身体にこたえたのでしょうが・・・・・・・・・・

実際草壁の男系子孫達は皆病弱でもあり、以降の女性天皇達は「皇后になった事がない初めての女性天皇」、「母から継承した、初めての未婚女性天皇」、「男系子孫な弟(彼も誰かさんの孫に毒殺された説もあり)を差し置いて初めて女性皇太子(誰かさんの娘な母も初めての人臣皇后)になってから即位した女性天皇」と色々無理しすぎて、その皇統の末路も周知の通りですが、これも結果論だけど、自分達を正当化する為にやった事が、ついに天智系に皇統が戻ってしまった5.60年後にとどまらず、1300年近く経った、少子高齢化という壁にも直面している現実も無視できない現代においても良くない誤解、解釈を生んでいるのだからつくづく罪な御方でもありましたね。その「誰かさん」って。

悠仁さま世代の男性皇族では悠仁さましかいないのもまた事実で、持統・草壁皇統末期に、誰かさんの一族の勝手な都合で結婚・出産等女性としての幸福を奪われた反動もあってか権力に固執した称徳天皇と道鏡が登場して以来の皇室の危機を迎えていると言っても過言ではないかもしれません。元々皇籍離脱も、日本があの愚かな戦争に進む道を開いてしまった為政者達に利用されてしまった天皇ら皇族をGHQが弱体化させる為であり、状況はもはや全く変わってきているし、月並みながらも旧宮家の人達を復帰させる事等を検討すべきである。(一時しのぎと言っていた人も目にしたけど、悠仁さまばかりに跡継ぎとかプレッシャーをかけるよりはよほどマシであろう)もし一人も天皇の男系子孫がいなくなったらもうその時はその時で自然消滅してもしょうがない。天皇制の本質を無視し、日本の国体を崩壊させてまで女系天皇・女性宮家を実現させる意義は全くないとも断言して、持統天皇は有能だったのも否定しようのない事実でありますが、今こそこの奈良時代の幾多もの権力闘争も引き起こしてきた女性天皇達の登場とその悲劇も反面教師として、超えてはならない一線を超える事ない様にしていかねばならないと強く思います。正直眞子さまにはガッカリだでもありますが、ましてや、この国には残念な事に、自国民でありながら自国の為にならない事ばかりしてきた、またはしようとして、ネトウヨの大量発生やあの森友での教育勅語朗読や安倍総理崇拝とかもそうだけど、却って近年の著しい右傾化も煽っている困った人達も少なくない困った欠点があるのだから・・・・・・・・・・・

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