歴史

2021/02/27

室町幕府は実力主義だった?

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5912

麒麟がくるで、改めて室町幕府にも興味を持って、この亀田俊和氏の見解が述べられた記事も目にしましたが・・・・・・・

戦国時代の時は幕末と違って外圧があったわけではなかったのだから、同じ末期でも江戸幕府より室町幕府の方がしぶとかったと見做すのは必ずしも適切ではないとは思いますが、室町幕府の実力主義はある程度再評価すべきの見解には同意です。

https://hajimete-sangokushi.com/2020/10/24/muromatimeritism/

また、このはじめての三国志でも、室町幕府が弱いのは実力主義のせいだったと指摘してましたが、その一方で、九州攻略に多大な功績があった筈の今川了俊に代わって九州探題を世襲する事になった渋川氏(足利将軍家や斯波氏とも親戚関係だった)は、満頼はまだ無難にこなしていたけど、病気を患っていたわけでもなかっただろうに早々とまだ20前(この時代の感覚ではもう大人だったけど)の息子、義俊の代で早くも舐められる様になって、大内氏らの方が少弐氏や菊池氏等反幕府勢力対策を主導的にやってましたものね。それでも、渋川氏は満頼系から弟の満行系に移りはしたけど、渋川氏の探題職世襲は続いた。

満行系では2代目の教直は就任時点ではまだ12歳だったけど、なかなかの手腕を発揮した。歴代の九州探題渋川氏では一番有能だったでしょう。しかし、この時代の感覚では満頼ほどではなかったにせよ長命だったながらも、息子の政実が先に死んで、代わりに後継ぎ候補となった万寿丸がまだ少年だった内に死んでしまったのは不運でした。万寿丸も殺されて、その弟のただ繁(変換できず)も生年は分からないけど、万寿丸が死んだ時点で19歳(とっくに元服を済ませてもおかしくなかったけど、敵対勢力対策でそんな暇も無かったのか)だったから若年だったのは確かだったでしょう。ガタが来ていた所を立て直した有能な親が死んで、若い後継ぎが続いてしまい、再び動揺してしまったのは嘉吉の変以降の幕府と重なり合うものも感じられます。

結局次の義長の代で九州探題は途絶えてしまったけど、他に探題がつく職は羽州探題を世襲した最上氏は一定の勢力は維持(江戸時代に改易されたが)したけど、幕府との関係が微妙だった筈の鎌倉公方側について伊達氏・大崎氏と戦う有様だったし、大崎氏は大崎氏で同じく斯波氏支流で、奥州探題を世襲していたけど、幕府が鎌倉公方に対抗する為に伊達氏(元々は南朝側)や蘆名氏を京都扶持衆にしたのも却って足を引っ張ってしまった様で最上氏と比べて振るわなかった様だ。

各探題の実態を見ても、どうも特に地方統治がグダグダ、不安定と言うか、やはり室町幕府は亀田氏の言う通り江戸幕府と比較するのは酷ながらも弱い幕府だったと認識せざるを得ないけど、実力主義と言っても、足利将軍家御一門、特にその中でも家格が高いのはまだそこまで徹底されていたわけでも無かった様に思えます。実力主義と言うと、聞こえは良いですが、室町幕府の場合はその実力への見返りが大きすぎ、何せ、著作「信長と天皇」でも足利義満について「大内義弘を滅ぼした後の義満には光秀の様な存在などあり得なかった」なんて、的外れな信長との比較をした今谷明氏は当然スルーしていたけど、明徳の乱で勢力を削減した筈の山名氏が早くもまた6か国も所有する様になったものね。亀田氏はまた、将軍は力の強すぎる守護を望んでいなかっただけで守護そのものを否定してわけではなかったとも言っていたけど、6か国も領有している山名氏は普通に再び力を持ち過ぎた守護大名になってしまったと思うのですが。但馬・伯耆・因幡に加えて備後・安芸・石見の守護になったけど、時代は200年近く後ながらも1598年の検地時の換算で30.4万石から69.6万石と約2.3倍も増えたんだぜ?江戸時代の大名でこれよりもっと多い石高を有していたのは前田と島津だけです。しかも、江戸時代の外様大名は幕末を除いて政治に参加する事なんか出来なかったし。

http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/murotai.html

大内氏だって、確かに義弘その人を滅ぼすのには成功したけど、大内氏恒例の代替わり時の後継ぎ争いで勝った、幕府が望んでいなかった盛見の家督を認めざるを得ず、これも1598年検地の換算だけど、義弘の時は周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の計93.6万石だったのが、結局周防・長門・豊前・筑前の77.5万石とある程度は勢力が回復してしまった。結局義満が本当に勢力削減に成功したのは土岐氏だけ。だから、尚更強きを助け弱きを挫く政治スタイルを貫かざるを得なかったのであり、それでも義満が有能な政治家だったのは否定し様の無い事実ですが、九州以西と関東以東の統治は不安定で、有力守護大名を抑制しきれなくなるリスクを抱えていたのは変わりありません。今ではもう見れない様である、あるHPで見れた論文の要約として、「尊氏は何とか相対的優位を保ったまま義詮にバトンタッチして、義詮は苦戦しながらもそれをより確実にし、義満は相対的安定まで持っていった」と評されてましたが、絶対的安定までは築けなかったのは、南北朝という時代の情勢もありましたが、室町幕府及び義満の限界だったという事でしょう。だから、上記HPでも、実際の太平記の終盤(同じ脚本家の麒麟がくる同様、終盤は駆け足じみていたのでその補完な面もある)とも重なっている、細川頼之と義満を主人公とした室町太平記という「勝手に大河ドラマ」コーナーも見られるけど、義満期でさえ実態は前述した通りだし、やはり厳しいでしょう。失礼だけど、門脇麦氏程度の女優(さすがにさあ、岡田茉莉子氏みたいに今の人気があるとされている女優なんか女優じゃなくてタレントだとまで言うつもりはないけど)を、あたかも余人をもって代えがたいほどの人材だと思ってしまっているプロデューサーもいる今のNHKでは尚更の事です。取り上げやすい戦国物だって、利家とまつ以降も江も麒麟も駄作、直虎だって良い点もいくつかあったけど、所詮1年も引っ張れる様な題材じゃなかった(脚本担当も、同じ戦国時代の花戦さでも秀吉や三成とかステレオタイプな脚色が目立ったし、現代ものドラマでは実績あるけど、時代劇は畑違いだった感が否めない)のに今のNHKに作れる筈が無いです。

|

2021/01/17

酒井忠次・家次親子ってそんなに冷遇されてたのか?

https://www.sankei.com/life/news/141117/lif1411170023-n1.html

これ、産経新聞で本郷和人氏が連載している「日本史ナナメ読み」のページで、家康が存命中は重臣の一人だった酒井忠次とその息子・家次は一貫して冷遇されていたと主張していたけど、ホントにそうなのかな疑問がわきました。なので、家康が1590年に関東に入ってから1616年に亡くなるまで、関東内で領土を3万石以上与えられた武将達の石高の推移を調べてみました。

井伊直政・直克・直孝 12→18(関ヶ原後)→20(大坂の陣後)
榊原康政・康勝・忠次 10
本多忠勝・忠政・忠刻 10(→15、1617年)
大久保忠世・忠隣 4.5→6.5(1594年に羽生2万石加増)→改易
鳥居元忠・忠政 4→10(関ヶ原後)
平岩親吉 3.3→6.3(関ヶ原後)→12.3(1607年)
本多康重・康紀 3.3→5(関ヶ原後)
奥平信昌 3→10(関ヶ原後)
酒井家次 3.7→5(1604年)
小笠原秀政 3→5(関ヶ原)→8(1603年)
大須賀忠政・忠次 3→6(関ヶ原)→榊原家を継ぐ

家次は3万石以上与えられた徳川家家臣の中では若い方だったし、他のそういう家臣達は多くは関ヶ原(と大坂の陣)での戦功を評価されて加増を受けていますが、家次は関ヶ原は秀忠に付いていた為に本戦には間に合わなかったし、大坂の陣でも天王寺・岡山の戦いでは敗走する有様でした。これではいくら忠次が家康の父、広忠の代から仕えていた重臣で、家次も家康の従弟(母親が家康の祖父、松平清康の娘)だったからと言っても優遇されなかったのも無理もなかったでしょう。秀忠には気に入られていたのか、戦では目立った活躍が無かったのに松平忠輝改易後に高田藩10万石に加増されましたが、案外本人は驚いていたもかもしれません。そもそも信康と築山殿が粛清されたのも、信長の意向ではなく、信康も決してバカでも無能でも無かっただけに家康派と信康派に別れて、徳川家そのものが空中分解するのを防ぐ為の措置だった説も出てきているのですが、信長のせいにしようとしたのもまあ有り得なくはないでしょう。

そう言えばまた、あるブログでも、35話時点でだったのですが、真田丸がカビの生えた徳川史観に先祖返りしてしまったと批判していた人がいた。確かにその人がまた言っていた通り、徳川幕府が1867年に大政奉還しても私達はその時代までに世に現れた資料を徳川史観というフィルターを通してみるのはどうしても避けられないかもしれない。しかし、その人はどうも江戸時代の資料は全て徳川史観故の嘘や歪曲にまみれている、多くの人達はバカだから徳川幕府が大政奉還してから150年経っても依然それに騙されていると言わんばかりの言い様でしたが、韓国じゃあるまいし、徳川史観が全て嘘や歪曲にまみれているとかなんて思っている自分の単純で浅はかな歴史観がかなり偏っており、多くの人達の賛同なんか得られないという事に全く気付いていないのも全く愚かな事だと思いました。

三谷幸喜氏の作品も「?」だと思ったのもいくつかありますが、自分こそが一番この世の真実を知っているな顔をして三谷氏を批判する前に自分のそういう歴史観の誤りを自覚するのが先だろうと思いましたね。別に江戸時代がユートピアだったなんて言うつもりも無ければ、徳川の信者でも何でも無いですが、徳川史観批判こそが全くカビが生えていると言うかつまらないです。だって、頭が30年以上前で止まってもいる様な批判だもの。そういうのは真面目に聞くに値しないです。

|

2021/01/12

徳川史観どうのこうの以前にサライ史観こそがチョーお粗末だと思うが

https://news.yahoo.co.jp/articles/2ece8a4f9afc90dba17ef9189f88d8e4312aa165

〈鳴かぬなら~〉信長、秀吉、家康とホトトギスの歌に秘められた「徳川史観」の印象操作【麒麟がくる 満喫リポート】



配信

















  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
サライ.jp




鳴くのは鳥の勝手なのだが・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●江戸末期の名随筆家・松浦静山が描いた「ホトトギス」



〈神君〉〈大権現様〉と称された徳川家康

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヤフコメでもコメント(まあ最近はヤフテレの方がメインですが)したけど、確かに信長は江戸時代では全然不人気だったのは事実です。特に民衆・学者からの評判は悪かったらしいですが、正直この見解には全く同意しかねます。

なら、何故秀忠は信長の孫・姪と婚約または結婚したのでしょうか?これは養女としていた秀吉の意向であり、家康・秀忠は断れる立場ではなかったのでしょうが、姪の江については秀吉が死んだ後も特に冷遇されたわけでもなく、後継ぎを作って(秀忠が恐妻家だった俗説もあるが、これもどこまで本当だから分からないし)、信長の近親者の血を引く将軍が家光~家継まで5代90年強も続いたし、家継の死で秀忠・江の徳川将軍家での血筋が絶えても軽んじられたわけでもないでしょうが、何故徳川実紀も信長を神君と共に天下統一を目指した存在だったとそれなりに評価していたのでしょうか?神君(家康の事)が天下布武に協力してあげたのに、後継ぎ候補の信康とその生母(築山殿)を死に追いやった悪人として描かれた(中には勿論信長を悪人扱いした史書もいくつもあったのでしょうし、信康事件も、実際は家康派と信康派の派閥争いで、事実ではない可能性が濃厚である武田との内通説も信長のせいにしたいという思惑もあったのでしょうが)とかなら分かりますが、何故家康は関ヶ原で一旦改易した信雄一族を大名、それも準国主待遇として復帰させたのでしょうか?前述通り、いくら江と結婚した事で徳川将軍家と織田家は親戚関係になったからと言って、秀忠は他の女との間の子女は保科正之しかいなかったとは言って、本当にそんな徳川史観もあったとして、そこまでする義理なんかあったのですか?松浦静山が甲子夜話を出した時点では既に明和事件で準国主待遇は取り消しとなっていたけど。

https://blog.goo.ne.jp/kafuka1955/e/0556cf494cbde5073c43b9009f09c311

新井白石ら学者達が信長を低評価していたのも別に徳川史観とは直接は関係なかった(彼らが詳しかった学問が徳川幕府にとって都合の良かった面は多分にあっただろうけど)だろうに、何だか今も日本人は徳川史観に騙されているとも言わんばかり(苦笑)だよね。このブログでも、徳川史観批判に対する反論が述べられているけど、ブログ主が言う通りそんなの影響を受けた、家康が主人公または主人公に深い関りを持つ時代劇なんか特に2000年代以降は殆ど無いでしょう。自分が見た時代劇ではそんなの、このブログで言及されていた「徳川家康」と同じ山岡荘八氏原作の「戦国最後の勝利者徳川家康」が最後ですが、もう30年近くも前の作品だよ。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14115736034

確かにまた、良く「歴史は勝者によって書かれる」とも言って、石田三成や毛利輝元はその徳川史観で貶められた印象もあると思いきや、このヤフチエ(yahoo知恵袋)でも的を得た回答がいくつも見られますが、世の中そんな単純じゃないですよ。徳川系の史書は確かに信長の人物像も歪曲していた面も無かったとは言いませんが、必ずしもそんな上手くいかないですよ。だからこそ歴史も面白いんじゃないの?


信長がカインコンプレックスだった旨の記事も、じゃあ何故信長は一度信勝が逆らった時点で彼を処刑しなかったのよ?何故自分の息子達(信忠ら)とも同年代でもあった信澄も処刑しないで態々柴田勝家に養育させたのよ?何故信澄が成人した後でも、1世代上の、信包以外の自分の弟たちよりも上の序列にしたのよ?何故外様では唯一最高幹部となった明智光秀の娘とも結婚させたのよ?何故同じく信勝に味方していた柴田勝家も、既に50代後半とこの時代の感覚では全く老人だったのに林秀貞とセットでリストラしなかったのよ?(リストラとまでは行かなくても尤もらしい理由付けて強制隠居ぐらいは屁でも何でもなかっただろうし)とツッコミのオンパレードだったけど、徳川史観といい、信長のカインコンプレックスといいサライのライター連中の歴史観って半ば30年以上前で止まっている面がある感じだし、他にも松永久秀についての記事も前に乗せたのを再録した等手抜きぶりも目立つではないですか。

この世の中、私よりも歴史に詳しい人だって全然いるし、一々記事目にするのも正直馬鹿馬鹿しく感じてしまう、そもそもまた、ホトトギスでも徳川史観に騙されるほど殆どの日本人はバカでもノータリンでもありません。そんなバカだったらそもそも世界でも異例な長い平和が続いた徳川政権自体誕生しません。他の多くのアジア・アフリカの国々同様欧米列強の植民地になっていたでしょうが、サライのライター連中の見識には激しく疑問符を付けざるを得ません。サライの記事を読むぐらいなら、武将ジャパンとかはじめての三国志とかネットの歴史サイトではなるほどと思える記事等を書いているサイトがいくつでもあります。麒麟がくるが終わったらどういう記事を書くつもりなのか知りませんが、いい加減もう少し読んでてなるほどと思える様な記事を書けるほどの見識を得てほしいです。徳川史観がどうのこうの言う前にお粗末な自分達のサライ史観をアップデートしてほしいです。

|

2020/12/31

サライはやっぱり駄目だという事が今年の最後の最後で良く分かった

https://news.yahoo.co.jp/articles/dc3f9b81da2f5fd52afc7e664ca5a37125c0541e

織田信長の「憎悪」「嫉妬心」は、カインコンプレックスが原因だった! 専門医が分析した信長の深層心理【麒麟がくる 満喫リポート】



配信










  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
サライ.jp




冷酷で残虐な側面がある一方で慈悲深さもあわせ持っていた信長。(名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園に立つ信長銅像)

 

 

 

 

 

 

 


●部下に厳しく接するのは幼少期の体験が原因



信長の居城のひとつ小牧山城。ほかの戦国大名が本拠地から離れるのを良しとしない中で、信長は、清須→小牧山→岐阜→安土と本拠の移転を繰り返した

 

 

 

 

 


●弟を溺愛した母が信長を「うつけ」にした。

 


●信長は、自らの頭で考え、咀嚼し、理解する

 

 

 


●裏切り者と期待に違えた者は絶対に許さない

 

 

 

 

●冷血と寛容――。信長には矛盾する性格が同居していた

 

 

 

 

 

 

 

 


ヤフコメでもコメントしたけど、確かにマザコンだったのはあったのかもしれない。でも、裏切り者については絶対許さないみたいな論調だったけど、浅井長政に対しては降伏勧告していたし、松永久秀だってこの記事では触れられていなかったけど、最後爆死した直前も許そうとしていたし、荒木村重だってすぐ母親も人質に出して謝罪しに来れば許すつもりだったのですよ。信長は。

実際、跡を継いで天下人となった秀吉だって、脇坂安治宛てに「信長の時代の様には甘くない」という書状を送ったのも最近明らかになったけど、最もおかしいと思ったのはカインコンプレックスですね。そこまでコンプレックスを持っていたのなら、そもそも信勝なんか一度逆らった時点で処刑されていたでしょう。あの時代の他の戦国武将達だって、例えば毛利元就も、今川義元も、斎藤義龍も、大友宗麟も兄弟を殺したのですよ?義龍は親父も殺したけど、まさかサライは知らないわけ無いよね?宗麟については黒に近いグレーで、100パーそうだという証拠があるわけではないですが、能力も人格も分からない赤子、ましてや信忠ら自分の息子達と同年代だった信勝の子、信澄だって柴田勝家に養育させていたし、成人後も、信包以外の、1世代上な信長の弟たちよりも序列上で、中途入社しながらも最高幹部の一人だった明智光秀の娘とも結婚している。どうしてこんなに優遇していたの?影山氏やサライのライター達は、ホントにそういうコンプレックスを持っていた信長の立場だとして、そこまでしてやりたいと思うのですか?

他人の事を分かった様に精神分析する前に、もし自分が同じ立場だったらどうするかとか想像するのが先なんじゃないの?今川・武田・北条の三国同盟が不毛な川中島合戦の基になったという記事も、「後からなら何とでも言えるだろ。」で、武田氏が置かれていた状況なんか全くわかってない感じだったけど・・・・・・・・今年の最後まで毒を吐いてしまう事になったけど、サライは無能だわという事がこの記事を読んで良く分かりました。yahooニュースは、コメントでの、最初に表示される有識者のコメントは的を得たのが多いのですが、特集記事はハズレの方が目立つし、このサライの記事も、そもそも前にも目にしたものですが、いくら年末年始だからと言ってこんな手抜きな仕事をしちゃ駄目ですよ。だったら仕事をさぼっていた方がまだマシです。みんなの三国志や武将ジャパンの方がサライよりもよっぽど読んでてなるほどと思える様な記事を書いている。それじゃあ全然駄目でしょう。マスコミは学習能力が無いんだから西から太陽が出るぐらいあり得ないだろうけど、サライも来年こそは彼らと同じぐらいのレベルになってください。

|

2020/12/30

今川×北条×武田の三国軍事同盟は本当に信玄VS謙信の不毛な戦いの原因となったのか?

https://news.yahoo.co.jp/articles/a3427cb1fafa2671a8ef2210e3e3fb84de07d10a

「戦国でもっとも不毛な戦い」のきっかけを作った 武田×今川×北条の「三国軍事同盟」【麒麟がくる 満喫リポート】



配信





  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
サライ.jp




川中島古戦場

 




川中島にある信玄と謙信像。川中島合戦はお互いにとって不毛な戦いだった

 

 

 




三国同盟で背後を気にすることなく尾張に進出できたことが結果的に仇となった今川義元(臨済寺蔵)

 

 


 


政略結婚で他国に嫁いだ姫たちのその後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



最近yahooニュースでもサライの記事も見かけますが、確かに上杉謙信の家臣達にとってはその通りだったかもしれないでしょう。しかし、海が無くて周りを有力大名に囲まれていて、本国(甲斐)も大して豊かでなかった信玄にとっては、どんなに時間がかかろうが信濃は絶対に手に入れなければならなかったのです。ましてや、信玄は中央集権化を進めていた信虎に反感を持っていた家臣や国人達に担がれた身です。ネットでは良く同盟破りの常習者だと言われてますが、それは信玄の人間性とは必ずしも関係ありません。周りがそうさせた面だってあります。

たとえ川中島が不毛だったとしても、三国同盟を結んでそうなったのではなく、たまたま結果的に信玄と謙信が長く抗争する事になるかならないかの時に、今川義元に嫁いでいた信玄の姉貴も死んで、新たな血縁関係も結ばなければいけなかった武田だけでなく、今川は織田信秀が死んで、信長が継ぐも一族にもまだ敵がいたのもチャンスとして尾張も手にしたい、北条は上杉憲実を追い出して謙信と勢力圏を接する事になった情勢の変化もあって三国同盟を結んだだけの事です。結果的に、川中島がひと段落した時はもう信玄の寿命は10年も残ってはいませんでしたが、元々周辺国も豊かな国が多かった信長と比べれば、あとはせいぜい飛騨や東美濃・越中のそれぞれ一部しか伸びしろがなかったのです。

義元が長生きだったら、信玄は海に出れないまま生涯を終えていた可能性が高かったでしょうが、「後からなら何とでも言える。」それがこの記事に対する第一感想ですね。謙信と長く抗争した事よりも、今川領の分割を約束した筈の家康も裏切ってしまった方が信玄の失敗点だと思いますが、前述通り領土を広げなければいけない信玄なりの事情があったのだから仕方のない面もあります。勝頼が信玄のやり過ぎのツケを払わされた面もありますが、領土拡大にばかり目が行って、あまり後先考えない外交をしてしまった勝頼にも武田氏滅亡の責任が無かったとは決して言えません。

https://hajimete-sangokushi.com/2019/12/27/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84%E8%A5%BF%E4%B8%8A%E4%BD%9C%E6%88%A6%E8%B2%A7%E4%B9%8F/

それにまた、この記事は義元が信玄・謙信間の調停をした事は全く触れてなくて、それもおかしい事だと思いますが、正直サライの記事を読んでなるほどと思った事は無いですね。サライの記事よりも、はじめての三国志や武将ジャパンの方が読んでてタメになる記事を書いています。はじめての三国志は、徳川を過小評価している欠点もありますが、例えば上記URのこの記事ももしホントだとしたら、仮に信玄が信長と直接対決しても局地的には勝てても、信長に大打撃を与えるほどの勝利を収めるのは難しかった様な気がします。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/micin/history/history10.htm

信玄最晩年時点で、信長の勢力範囲なんか既に断トツでトップだったし、「もし信玄と信長が直接対決していたらどうなったか?」の歴史の「IF」についてはこの上記サイト管理者の見解をベストアンサー認定したいと思いますが・・・・・・・偉そうな事を言うけど、サライも後からなら何とでも言えるとかツッコみたくなるほどの見識の浅い記事じゃなくて、はじめての三国志や武将ジャパン程度の記事を書いてほしいです。

|

2020/12/27

正親町天皇がラスボスなんて面白くも何ともない

https://news.yahoo.co.jp/articles/873f800185b156b2112e3d75a4f47ddfcef80cb4

<麒麟がくる>“ラスボス感”増す正親町帝 信長に静かな怒り、意味深発言 「本能寺 朝廷黒幕説」強まった?



配信












  • この記事についてツイート
  • この記事についてシェア
MANTANWEB




NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で坂東玉三郎さんが演じている正親町天皇 (C)NHK

 





 


まず最初に肯定的なコメントから述べますが、玉三郎氏の正親町天皇は高貴な役柄らしく気品に満ち溢れていて、そのカリスマ性は同じ池端氏脚本の「太平記」の片岡後醍醐天皇にもそうは劣らないと思います。

この麒麟がくるでは蘭奢待の横流しが原因で、織田と毛利が喧嘩する事になるばかりか本能寺も朝廷黒幕説が取られそうですが、室町幕府の最後を描きたかったのではないですか?さすがに、彼がそうした為に信長が天下統一を阻まれたなんて評価は、毛利は織田に対して劣勢で、信長の跡を継いで天下人となった秀吉だって領国を5か国にしようとしていた(結局は、徳川も北条も服属してなかったから7か国+残り2か国のそれぞれ半分領有を認めましたが)し、彼を過大評価しすぎですが、足利義昭と毛利の接触は描かれずじまい?室町幕府の最後を描きたかったのではないですか?知っているのだろうけど、義昭が征夷大将軍を辞めるのはまだまだ後の話だよ?

勿論輝元と叔父さん二人組も登場しないのだろうし、別に史実通りに描けなんて言うつもりもないですが、近年の研究では否定されつつある信長と朝廷の関係微妙説を描かれてもねえ・・・・・・・・・・・ですが、そう言えばその説を唱える面々の一人である今谷明氏の著作、「信長と天皇」も家にもあったけど、そこでは大内義弘を滅ぼした後の義満には明智光秀の様な存在などありえず、足利政権は15代続いた、織田政権は見かけほどの強さなんかなかったとか的外れな比較がされていた。

https://hajimete-sangokushi.com/2018/05/12/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%82%AA%E3%83%AF%E3%82%B3%E3%83%B3/

確かにこの「はじめての三国志」というサイトでも指摘されていた通り、織田政権は内部崩壊する要素も抱えていたけど、義満だって、確かに応永の乱では義弘その人を滅ぼす事には成功したけど、その後幕府が望む後継ぎを擁立できず、盛見の継承を認めざるを得なかったばかりか、菊池氏共々幕府にあまり従順じゃなかった少弐氏も勢力を盛り返してしまって、今川了俊に代わって九州探題とした渋川氏も2代目で彼らを抑えきれなくなった。関東・東北もやはり独立志向が強かった鎌倉府に対する牽制として元々は南朝方だった伊達氏の力も借りなければいけなかったし、大内氏の他に土岐氏や山名氏とかの勢力を削減しても結局新たな強大な勢力を持つ守護大名が出てきてしまった。

彼らに多くの土地を与えたのは、時代の状況がそうさせた面もある。何も義満だけが悪いわけではないですが、結局後継ぎ争いも満足に裁定が出来ないまま応仁の乱が起きて、その後もおひざ元の山城国で一揆をおこされたり、六角氏も懲らしめきれなかった内に、義詮政権期に清氏が南朝に降って討たれた以外はそれほどの打撃が無かった細川氏にクーデターを起こされて、以後権威はそれなりに保っただけの死に体となったではないですか。(家康はこの室町幕府の失敗からも良く学んでいたのだとも改めて思います。譜代大名にあまり石高を与えなかったのは、三河武士たちは横並び意識が強かったからとか関ヶ原でも譜代はあまり活躍できなかったからだとか言ってた人もいましたが、関ヶ原で活躍しようがしまいが、井伊とか本多とか榊原とかの石高はそうは大きく変わらなかったと思います。そもそもまた、関ヶ原自体最初から大して勝負にならなかった説も出てきていますし)

過去エントリーでも指摘したけど、官位・官職だって、義満の代で摂関家に準ずるまでの家格を得た筈が、そのクーデター以降は最高でも従二位・権大納言で、義輝みたいに20年近く在位しても従三位・参議で終わった人もいて、大内義隆みたいに足利将軍よりも高位・高官の戦国大名だって出てきた有様だった。足利将軍が15代続いたのなんて、もっと空気だった春秋・戦国時代の周とかよりはマシながらもそんなどや顔で強調すべき話じゃないだろでしたね。麒麟がくるも、室町幕府の終わりを描きたいのなら、こういう足利将軍の現状ももっと詳しく描くべきだったのですが、駒とか架空人物もチョーご都合主義的な立ち回り以外にも尺配分でも失敗している。同じ信長が主人公、またはそれにかなり近いポジションの作品では緒形直人氏のキングオブジパングと比べて5話分は遅れている。

yahooテレビでは、これについては国盗り物語を意識したんじゃないのかと指摘した人もいたけど、国盗り物語と比べると7話も少ないのですが。話数が例年より少ないのも、コロナで放送が一時中断となったのもNHKやそのスタッフには責任はないですが、特に美濃編ですよ。やはり18回は多すぎた。池端氏は道三も好きな様だけど、その2/3で十分だった。キングオブジパングなんか13・14話目で桶狭間だったのだけど、意識するのならこっちの方だったのではないですか?このキングオブジパングも、トレンディドラマを意識した様な配役や、信秀や市等信長の近親者の脚色とか「?」と思った点もいくつかはあるのですが、最近の駄作大河と比べると名作に見えてしまいます。緒形氏の演技も、凡庸ではなかったですし・・・・・・・・・・・まああとは放送終了したらまた詳しく酷評させていただきますが、本能寺の解釈も本当にこうなるのだったら、まだ直虎の方が全然マシですね。直虎はまた、見ていた時は不満点もいくつもあったけど、ミスキャストは殆どいなくてそういう面では安心して見れましたものね。

|

2020/10/25

戦国武将が大河ドラマの主人公になる条件(修正有り)

https://ameblo.jp/eiichi-k/entry-12177689291.html

このブログでは、特に戦国武将が大河ドラマの主人公になる条件について述べられてますが、以下の6つの条件が必要らしい。

1.歴史上の有名人物(特に戦国三英傑)がレギュラーで出てくる
2.教科書にも書かれる大イベントが何度も起きる事
3.主人公が1年かけて成長していく様子が描ける事
4.主人公が死んだ時に志を受け継ぐ人が出てくる事
5.日本と言う国の歴史が始まりから進歩していると思える事
6.子孫が国持大名として明治維新まで生き残った事

内6については、国持はちょっと厳しいだろうと言うか、国持レベルじゃなくても大名として生き残れたかにちょっと勝手に修正するけど、今まで大河で主役を張った戦国武将達(直虎以外は男のみ。直虎も男説もあるらしいけど)が1~6の条件を満たしたか否か検証しました。(信長・秀吉・家康より下は主人公になった順。左から1、2、3、4、5、6)


信長 〇、〇、〇、〇、〇、×
秀吉 〇、〇、〇、〇、〇、×
家康 〇、〇、〇、〇、〇、〇
謙信(輝虎) △、〇、〇、〇、〇、〇-
道三 〇、〇、〇、〇、〇、△-
政宗 〇、〇、〇、〇、〇、〇
信玄(晴信) 〇、〇、〇、×、〇、×
元就 ×、△、〇、〇、×、〇
秀忠 〇、〇、〇、〇、〇、〇

利家 〇、〇、〇、〇、〇、〇
一豊 〇、〇、〇、〇、〇、〇-
勘助 ×、〇、〇、△、△、×

兼続 〇、〇、〇、×、〇、×
官兵衛(孝高) 〇、〇、〇、〇、〇、〇
幸村(信繁) 〇、〇、〇、×、〇、×
直虎 〇、〇、×、〇-、〇、〇-
光秀 〇、〇、〇、×、〇、×

全部条件を満たしているのは家康・政宗・秀忠・利家・一豊・官兵衛のわずか6人(〇-でも満たしている事にする)しかいないですが、ここで各人物ごとに補足を。

秀吉は後継者とはちょっと違うかもしれないけど、4はもう一人の戦国三英傑である家康が本当に麒麟を呼んだので〇としました。勘助も、そうだけど、主君の信玄がさらに領土を広げていったので同じ様にしました。謙信は、1は信長が絡んだのはもう晩年になって以降なので△としました。6も直系子孫じゃないけど、甥で養子の景勝の子孫が米沢藩藩主として続いたので〇-としました。山内一豊も比較的近い血縁者がそうなったので△としました。道三(彼の場合、2についてはもう一人の主人公だった信長とのセット故にで〇)については6は娘が稲葉に嫁いだので△-としました。信玄は息子の勝頼が信長・家康に滅ぼされて、別の息子の系統が高家としては残っても近世大名にはなれなかったので4と6は×ですね。元就は、実際は信長とは文書のやり取りもしていて、援軍も要請、秀吉も毛利との外交も担当していた様ですが、戦国でも三英傑が全く登場しなかったのは異例でしたね。2はちょっと微妙だったけど、大寧寺の変と厳島合戦がそうだという事で〇としました。天下の趨勢に影響を及ぼしたわけではないので5は×ですが、大内・尼子という大勢力に挟まれ、苦労しながらも50を過ぎて漸く戦国大名として独り立ちし、あっという間に中国地方の大部分を制圧した大器晩成ぶりや、三本の矢等有名な逸話故に主人公になれたと言えるでしょう。利家は条件自体は全部満たしている人物の1人ですが、後から家臣になった秀吉・(滝川)一益・光秀に遅れを取ってしまったのが単独では主人公になれなかった大きな理由でしたか。勘助はセリフもなかった信長がやっと戦国の主役の一人になった直後に退場なので当然1は×ですね。直虎はそもそも何をやったかも前半生の光秀以上にハッキリしないし、後半は直政に実質主人公交代となったので、3は×で、4・6を△としました。

元就と勘助は例外だけど、やはり最低4つ(内2は絶対に〇で)は条件を満たしていないと大河主人公になるのは難しそうですね。北条氏康も主人公になれば良いなあともちょっと思っていたのですが、1から×、×、〇、〇、×、×ですね。難しそうですね。他の実際誘致活動がある武将も三好長慶は×、△、〇、×、〇、×で、石田三成は〇、〇、△、×、〇、×、ウィリアム・アダムスは〇、〇、〇、×、〇、×、本多忠勝&忠朝親子は〇、〇、〇、〇、〇、〇ですね。本多親子については、他の主な家康の家臣達にも4つ以上〇がつく人何人もいるかもしれないけど、本多親子が一番可能性高いかもしれないですね。クライマックス(大坂の陣)で真田丸と被ってしまいますが、アダムスも、もし実現した場合は家康も準主人公的な位置づけになるらしいから、4と6も△-ぐらいにはなるかもしれないですね。2023年は戦国が時代設定でキムタク氏が主演だとの話もありますが、本当にキムタク氏が忠勝を演じるのでしょうか。でも、大イベントの1つである桶狭間の時はまだ忠勝12歳だし、その時は50台に突入しているキムタク氏をそこから使うのは厳しいでしょう。忠勝を演じる可能性は低いでしょうね。条件は微妙だけど、石田三成を演じるのか?いずれにせよ、キムタク氏の件もどうなるか注目ですね。

|

2020/08/03

自分達に都合の良い嘘やデマばかり拡散するサイゾーに「真実の歴史」を語る資格なんか無いだろ(呆)

https://www.cyzo.com/2020/08/post_248439_entry.html

明智光秀は足軽だった? 斎藤道三との本当の仲…etc. 『麒麟がくる』が描かない不都合な歴史


文=堀江宏樹(ほりえ・ひろき)


大河ドラマ『麒麟がくる』(NHK)の放送が、新型コロナウイルスの影響で中断を余儀なくされている。放送再開が待ち遠しいが、この空白の時期を使って主人公「明智光秀」についてより理解を深めてみるというのはいかがだろうか? 今回は、歴史エッセイストの堀江宏樹氏が大河ドラマが描かない「不都合」な史実を紐解く──。前回はコチラ


『麒麟がくる』で斎藤道三を熱演した本木雅弘(Getty Images)

 NHKの「大河ドラマ」は、史実をベースにしたフィクションです。

麒麟がくる』で長谷川博己さんが演じる、誰に対しても誠実で、心やさしい明智光秀が、身内にはやさしいけれど、金にはシビアな史実の明智光秀の像と「多少」ズレていても、それはそれで構わないのです。歴史ドラマですから。

 しかし、謎の多い明智光秀という男を中心に、人間関係を作っていくのは視聴者が考える以上に大変なはずで、「うまいこと演出するなぁ」などと感心するシーンもありました。

 たとえば……『麒麟~』のホームページでは“(明智)光秀の生涯の朋友”として、細川藤孝(後の細川幽斎)が紹介されています。眞島秀和さんが好演なさっておられますね。ただ、残された史料からいうと、細川藤孝は明智の“朋友”どころか、当初は明智を“部下”として使っていた“上司”ではなかったかとさえいわれているのです。

 そもそも、残された史料を見る限り、明智光秀が最初にお仕えできた相手は、なんと将軍・足利義昭なんですね(これについては後で詳しく語ります)。『麒麟~』も放送再開後には、明智の人生のキーパーソンである足利義昭(滝藤賢一さん)との絡みが色濃く描かれるのでは、と思っています。

 しかし……それなら、『麒麟~』前半戦で描かれた斎藤道三(本木雅弘さん)や斎藤高政(伊藤英明さん)など、美濃(現在の岐阜)の「斎藤ファミリー」と明智の濃い絡みって、全部フィクションだったの? と拍子ぬけしてしまいますよね。

 でも、これも「YES」といわざるを得ないのです……。

 斎藤父子の戦に巻き込まれた明智一家は美濃を脱出、越前(現在の福井)に向かった……という放送休止までのストーリーは、江戸中期の歴史小説『明智軍記』がベースなんですね。

 明智光秀が美濃出身者であることは確かなようですが、美濃の明智家は応永6年(1399)に、将軍直臣となっています。つまり、明智光秀が生まれたとされる1528年から遡ること約130年も前に、美濃の斎藤家、それから土岐家とも主従関係を解消してしまっていた……というのが、記録で見る限りの「真実」なのでした。

 また、この美濃の明智家と、明智光秀本人の血縁関係があやふやだとすら一部の学者からは言われているのですが、それについては推論にすぎない印象もあります。この問題は、ここらへんで置いておきましょうかね。

 足利将軍家の直属の家臣になってからの明智光秀の祖先の働きは……? というと、これまたよくわかりません。ただ、注目すべきことはあります。足利将軍家とは祖先以来の「ご縁」があったからでしょうか、記録に残る明智光秀の最初の“就職先”は、ときの将軍・足利義昭の家中でした。

 しかし、「足軽衆」のひとりとして、なのですね(『群書類従』、『永禄六年諸役人附』など)。「え、明智光秀が足軽?」と、歴史に詳しい方はびっくりするでしょう。足軽って歩兵のはず。『麒麟~』の明智って、最初から馬に乗って戦ってなかった?

 そうなんです。騎馬で戦えるのは上流武士だけ。実際の明智は、そんな騎馬姿の上流武士の「進めー!」の号令で走り出す足軽だったのかもしれない、ということなんですね(ちなみに同史料の中で、細川藤孝は、将軍の側近である「御供衆」の一人として記載されています)。

 実際のところ、明智と細川の真の関係は“朋友”どころか、細川藤孝に明智光秀がお仕えしていたが、織田信長が明智の才能を見出し、自分の家臣としてスカウトしたとする史料もあります(『多聞院日記』)。

 イエズス会の宣教師のフロイスなどは、明智のことを一貫して「実家の身分が低い」などと書いていることで有名です。

 つまり……後の豊臣秀吉などと同じように、史実の明智光秀も苦労して底辺から這い上がった存在なのでは? というのが、最近の歴史研究をふまえた明智の実像なのでした。

 ただ、これには一考の余地はあるかな、というのが筆者の見解です。

今回は「記録で見る限り」などという表現を多用してきましたが、明智に関する仕官記録の類については、未来の子孫たちに残しておくべき記録として(とくに下級武士の記録については)取り扱われなかったことを指摘せねばなりません。

 そもそも当時、紙は上流階級の間で贈答品に使われるほど、非常に高価な代物でしたから、大したことのない記録は、裏紙として再利用されたりしました。そしてそのうち廃棄されてしまうのです。仕官記録も、すべてがすべて残されているというものでもないのですね。

 だから記録に残ってはいなくとも、別にどこかで明智はそれなりに仕官経験を積んで、足利家にも仕えるようになったと考えることもできます(足軽だった事実は消えませんが)。

 しかし、です。明智光秀は、おのれを源氏の名門・土岐一族につらなる家の出身だと、一貫して自己紹介していたようです。嘘ならもっと系図を盛るはずだし、折に触れて適当に先祖の名前を変えるのでは?

 本当にフロイスがいうように明智の身分が低いのであれば、いくら「足軽」としてにせよ、将軍・足利義昭に仕官することができるのかな……という疑問も残りますね。

 とすると、明智の実家は血筋をたどれば名門にいきつくが、彼が生まれるころには見る影もなく没落しており、ほとんどゼロベースでのスタートを切っていたのではないか、ということを考えたりもします。

 それにしても、秀吉とほぼ“同類”の明智となると、『麒麟~』はもちろん、これまでの大河で描かれたことのないキャラ設定になってしまいますよね。

 8月末からの『麒麟~』放送再開に向けて、これまでの総集編が放送開始です。大河が描こうとしない “不都合な真実”を頭の片隅にいれてドラマを見直すこともまた一興かもしれません。


まず強調したい事ですが、この人の見解を頭ごなしに否定するつもりはないです。この人が光秀についてそう思うのなら、そう思えば良いです。私自身の見解を押し付けるつもりはないです。しかし、「不都合な歴史」っていつから大河ドラマって歴史ドキュメンタリー番組になったのですか?大河ドラマって、いだてんではついにハッキリそうアナウンスしたらしいけど、史実を基にしたフィクションでしょ?

https://blog.goo.ne.jp/kafuka1955/e/0a057e7bb2f2b9749465750a9661c5b8

確かに光秀が道三に仕えていたかは微妙かもしれませんが、そもそもこの堀江宏樹の見解も100パーそうだと証明できるのですかね?上記ブログでは、「大河ドラマは史実に忠実になる必要はないけど、越えてはいけない一線はある(ような気がする。)」と言ってた人がいたけど、足軽説は麒麟がくる美濃編での脚色がその一線を越えてしまうレベルなほどの確かな事実なのですかね?足軽説は後世の追記に過ぎないとか、永禄の変で死んだ奉公衆の息子が改名したとかの異説もあるとかとも聞いたけど、「不都合な歴史」って、堀江宏樹だって自分に都合の良い情報だけ拾って、そういう異説は無視して、それらとの妥当性の比較もしていないではないですか。仮に光秀と道三らとの関係が全くのフィクションだとしても、そういう異説もあるという事は結局かなり確実な証拠とは言い難いけど、この程度で美濃編での脚色が都合の良い虚構だとしたら、他の大河ドラマだってアウトな脚色いくらでもあるよね。1980年代後半~90年代にかけて製作・放送されていたTBS大型時代劇だって、渡辺謙氏の織田信長なんか、こんなの装着してないだろな鎧を身に着けていたし、松方弘樹氏の徳川家康は桶狭間時点で生まれてすらいなかった井伊直政が家康(この時点ではまだ松平元康)と行動を共にしていたし、松平健氏の平清盛も、保元の乱の前に死んだ親父の忠盛がそれ以後も生きていたとかもっとアウトな脚色いくつもあったよ。でも、そんな事で一々文句を言うバカなんか聞いた事ない、せいぜいごく一部の史実厨だけでしょう。

https://ameblo.jp/eiichi-k/entry-12267639591.html

https://sengoku-his.com/497#link2

下のURの戦国ヒストリーの記事(1565年時点では近江にいたのは確かな様である)と違って異説を尤もらしく全くの事実であるかの様にミスリード(足軽説を主張する事自体は問題ない)している等サイゾー本来の得意分野(嘲笑)な芸能関係の嘘やデマ(例えば最近では川口春奈独立話とか)よりも悪質な記事、ちびまる子ちゃんの藤木よりも全然卑怯だと言うか、要するにこいつや、他人を貶める事だけが生き甲斐なサイゾーは上の方のURのブログの主が言う通り「脚本家の歴史解釈が気に食わない」だけ(サイゾーは前から麒麟がくるを叩いている様だけど、関係者に親でも殺されたのだろうか?)だろですが、もっと根本的にサイゾー自体が、9割方嘘やデマばかり拡散して、叶姉妹にも喧嘩を売って謝罪を余儀なくされた「前科」もあった等信頼度は底辺レベル、正確とか真実とかと最もほど遠いゴシップではないですか。本日一番の「お前が言うな!」ですよ。いや、サイゾーも全否定するわけでは無いですよ。大手マスコミと違ってジャニーズのスキャンダルも、見識は全く置いといてもスルーしないし、声優の滝本富士子氏が、声優で食っていく事の厳しさ等を語ったインタビュー記事も、魔法陣グルグルも毎週見ていた(ちなみに最初のシリーズの方ね)し、興味深く読ませてもらったけど、サイゾーに記事が載ったなんて、ツイートで公にアナウンスすべきではない、全く恥ずかしい、愚かな事です。これではフライデー元編集長の雅子皇后ヨイショ記事を載せたプレジデントや、サイゾーよりはいくらかはマシな程度に過ぎない日刊ゲンダイの安倍政権叩きツイートをリツイートしている反安倍・反自民な和製左翼・リベラルツイッター(こういう人達も、自分達が一番賢い、事の本質を知っている!!な顔をするんだからな・・・・・・・何のギャグだよ?だけど)の事も笑えない。知らない人だったけど、今後この堀江宏樹の発言を目にしても、私は絶対に信用したりはしないですね。ホントに堀江宏樹が歴史エッセイリストとして高い見識を持っているのなら、サイゾーなんか相手にしない、もっとマトモな媒体で発言できるはずなのだから。

|

2020/07/24

百人一首の歌人達93番右大臣実朝

「世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも 」

久々のこのシリーズですが、右大臣実朝こと源実朝ですね。波打ち際をこぐ漁師の小船が網で引かれている姿も見える世の中の様子が変わらない事を願う意味の歌ですが、鎌倉幕府も開かれてまだそれほどは年月が経っておらず、創業の功臣もまだ何人も存命だったのに武家の棟梁らしかぬ歌です。

武家じゃなくて公家に生まれていれば、彼はもっとその歌の才能も活かせていたかもしれませんが・・・・・・・・・再来年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」も誰が実朝を演じる事になるのやらですが、思ったよりも早く父・頼朝が死んでしまって、兄の頼家も正式に征夷大将軍に任命された(頼朝も2年で辞職した説もあるが、真偽は不明)のがその3年後と若年だった事もあって、独自色を出せないまま御家人達の勢力争いに巻き込まれて命を落としてしまった中でもっと若い年齢で将軍になってしまったのです。

実朝について注目したいのがやはり急激な昇進です。頼朝がごく短期で辞任したとは言え、権大納言と右近衛大将となり、さらに実現はしませんでしたが、姉の大姫を入台させようとしたのだから源氏将軍はかっての平家同様清華家の家格を得ていたのでしょう。実際1209年に従三位となってすぐに右近衛中将となり、その後1216年に参議を経ないで権中納言となった(摂家・清華家は原則参議を経ないが、この時代の清華家は参議を経た者もいた)のですが、特に1218年は凄まじく、官位こそ正二位(1213年に叙任)のままでしたが、年初から年末にかけて一気に権中納言から右大臣に登ってしまったのです。おそらく短期間で3段階も昇進した人はいなかったでしょう。この時実朝は26歳でしたが、他の同時代の清華家当主の大臣昇進時の年齢は・・・・

三条公房 36歳
西園寺実氏 37歳
徳大寺実基 45歳
久我通光 32歳
花山院忠経 33歳
大炊御門家嗣 41歳
堀川具実 47歳

だったのだから、かなり早かったのが改めて分かります。昇進の速さを大江広元に諫められたのに対し、「私には子供もいないし、昇進して名をあげる事が生き甲斐なのだ。」と反論したエピソードも有名ですが、まだ20代と若く、子供もこれから儲けられる可能性もあったのに彼は果たしてそんな覇気のない将軍だったのでしょうか?

暗殺事件については後鳥羽上皇黒幕説(まあ三浦氏黒幕説が最も有力であろう)も実際ありますが、朝廷から見たら本来の身分不相応に高位・高官を与えて身を崩す位討ちを狙っていたのは確かでしょう。実際黒幕が誰であれ、実朝が暗殺されて源氏将軍が絶えたのは事実だったのですが、武家で初の右大臣となった実朝のその様な末路は鎌倉幕府滅亡後の日本の歴史にも大きな影響を及ぼしたのです。

https://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10871628425.html


このブログでも指摘されていましたが、室町幕府に義満が出てきて、足利将軍が摂家に準ずる家格(過去エントリーでも指摘した通り、参議は経ても権中納言は経なかった事も注目すべきである)を得ても、義満や義政に限らず右大臣となった足利将軍は一人も出ませんでした。義持も、特に若年期は義満の働きかけで昇進し、在任期間が長かった割には内大臣が極位で、他の公卿にも越されたままで終わったし、義尚も早死にしなくても右大臣になる事は無かったでしょう。

その後の足利将軍は明応の政変で傀儡と化し、京都にいる事すら出来なくなったのも珍しくなったので大臣にすらなれないまま最後の義昭も信長に追放されてしまいましたが、その信長も右大臣は短期間で辞職した。後任が二条昭実だったのも信長の養女と結婚して、信長と義理の親子になっていたのがおそらく原因で、信長が右大臣を辞職したのは天下統一(ただし、当時の感覚では畿内及びその周辺がその天下の範囲だったので、信長は既に天下を取ったと見る事も出来なくもない)した後に改めて武家の棟梁に就きたかったかららしいですが、最後どうなったかはもう周知のとおり。

どうやら短期で辞めても横死してしまったし、武家の右大臣は不吉という事で、信長を何年も間近で見てきた秀吉も内大臣から左大臣への昇進を望んで、結局は関白・太政大臣となったし、秀吉から関白を譲られた秀次もやはり内大臣から右大臣を経ないで左大臣となったのですが、彼も切腹に追い込まれてしまった。

最初は豊臣家の関白って、特例として秀吉一代限りなつもりだったらしいですが、秀次も切腹に追い込んだほどですから、やはり秀頼も関白にもしたかった様だ。摂関は大臣経験者のみが任命される(藤原兼通も一旦内覧・内大臣となってから任命)のですが、五摂家から摂関を出さない為に、秀次事件で秀次と連座した今出川晴季(右大臣)を辞めさせた後は後任を充てさせず、自分以外の大臣は家康を内大臣にしたのみでしたが、結果的に下手に右大臣になるよりも全然良かったのでしょうね。家康にとっては。

何せ、秀頼がまだ幼い内に秀吉自身や前田利家が死んだだけでなく、源氏長者と淳和奨学両院別当を輩出する資格があった久我家が女性スキャンダルを起こしたのも、征夷大将軍就任への追い風になったし、関ヶ原も実際は小早川秀秋ももう最初から東軍についていたらしいけど、兵力的にもう最初から東軍優勢で勝って、官位も従一位になって、秀頼を上回った上で実際征夷大将軍になれたのですからね。右大臣もごく短期ながらも任命されていたのですが、辞職したのは形式的にはこの時点で家康はまだ秀頼の家臣だから、配慮せざるを得ない所もあったのでしょう。

https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-11453493728.html

その秀頼も右大臣は短期で辞任して、上洛しなかった(家康と会見した1611年までその記録が無い)から辞めさせられたのだと指摘したブログもありますが、後任には九条幸家が就任したのは秀次の兄弟、秀勝の娘、宗子と結婚しただけでなく、岳母・江が秀忠と結婚していて、豊臣・徳川両家とも親戚になっていたからでしょう。朝廷では秀頼の左大臣昇進を推薦する動きも一部ありながらも、結局秀頼は果たせないまま「元右大臣」として大坂の陣で死に追い込まれる事になった一方で、家康と、武家官位としての右大臣となった秀忠はこのジンクスを破ったと思いきやです。

次の家光もやはり何人かの足利将軍同様右大臣を経ないで左大臣になったのは、家康・秀忠が太政大臣になった事と同様に豊臣政権下で高位高官となっていた諸大名とのバランスを取ったつもりだったのかもしれませんが、家綱も政権自体は安定しながらも跡継ぎを作れないまま亡くなって、左大臣昇進の話もあったらしいですが、ここで早くも徳川将軍家嫡流は途絶えてしまった。

もし左大臣に昇進していたら家綱は跡継ぎも作れたのかでもありましたが、綱吉以降の徳川将軍は、もう原則的に20年程度務めないと右大臣に任命されなくなってしまった様です。将軍家に限らず、御三家も権大納言の尾張・紀伊は光友も光貞も37年も権中納言のままだったし、水戸黄門こと光國も権中納言になったのは藩主となってから30年近くも経った後の事。(晩年の10年程度に過ぎなかった)

どうやら霊元天皇が幕府嫌いだった事も影響していた様で、実際光友・光貞・光國が極官に昇進したのは親幕派だった近衛基煕が朝廷における実権を握った直後でした。参議を極官としていた前田家も半世紀近く前に藩主になっていた綱紀がやっとその数年後に参議になれたのですが、その後もそうした原則は変わらなかった様で、それは異例の長期政権となった家斉も例外ではありませんでしたが、父の長期政権のおかげで将軍継嗣時点で内大臣となっていた家慶は将軍宣下と同時に左大臣となったし、家茂は短期で右大臣となりましたが、これは和宮と結婚して孝明天皇と義兄弟となった事が大きかったのでしょう。しかし、家茂も数年で早世した。その早世は勝海舟にも「これで徳川宗家は終わった。」と嘆かれたほどでしたが、実際次の慶喜は内大臣のまま大政奉還し、戊辰戦争も起こりこましたが、長く続いた武家の時代そのものが終わる事となったのです。

実朝その人とは直接関係ない話になってしまいましたが、他にも綱吉・吉宗・家治も跡継ぎに先立たれてその代わりを作れなかった、または健康を害してしまって、自然災害も起きてしまったし、結局武家右大臣=不吉な悪いジンクスは江戸(徳川)時代となって、泰平の世となっても完全には無くならなかった様です。「鎌倉殿の十三人」では実朝もどの様な描かれ方をされるかですが、やはり改めてその人物像とか注目されてほしい所ですね。

|

2020/06/20

大石泰史著「今川氏滅亡」の感想

放送休止中だけど、麒麟がくるで今川義元も登場したという事で、桶狭間直前の三河・尾張両国の情勢がどうだったのか、桶狭間後どうして今川氏は10年もたたない内に領土を失ってしまったのかとかに疑問を持ったので、大石泰史氏著作の「今川氏滅亡」を読んでみました。

本書でよく使われていた用語が「家中」と言って、今川氏の内政・外交に関する問題を取り扱い対処していたらしいですが、義元の片腕だった雪斎や朝比奈泰能が亡くなる前も結構頻繁に入れ替わっていたらしいですね。弘治年間にこの2人が亡くなった際にも義元はちゃんと代わりも起用していた様で、三河で起こっていた反乱も抑える事が出来た様ですが、甲陽軍艦で家康が「義元は雪斎和尚とだけ政治について話し合って、家老をないがしろにしていたから、死後は政治は安定しなかった。」という様な事を言っていたのも的外れなのも分かりますね。

義元に否定的な人って、ほぼ必ずこの甲陽軍鑑も根拠にしていて、近年は史料的価値が低いとされていた評価も見直されている様ですが、やはり義元に限らず甲陽軍鑑での武将達の否定的な評価を信じるのは、サイゾーや東スポとかでの芸能人の記事を信じる様なものだと認識せざるを得ないです。桶狭間については、そこまで深くはツッコまれてはいなかったですが、もし直前に品野城が陥落されてなかったら、雪斎がいなくても義元の戦死はなかったのでしょうか。いや、義元が戦死していても今川家中の武将達は生き残っていたら、また三河で反乱起きていたかもしれないですが、何とか抑えられたかもしれない。

20年近く勢力拡大の為には倒さなければいけなかった敵と認識して争ってきた織田家であの信長が出てきてしまったのも今川氏にとっては不運でしたが、優勢だったはずの尾張出兵(上洛説は近年はほぼ否定されている)で、桶狭間で義元だけでなく、有力武将達も何人も戦死して、ただでさえ雪斎や泰能がいなくなってまだそこまで年数が経っていなかった所を「家中」が経験乏しい若手に強制交代となっただけでなく、武田信玄や北条氏康と同盟関係を結んでいた為に直後の上杉謙信の関東出兵にも援軍を派遣して、三河の維持よりも優先せざるを得なかった(と氏真はそう判断していた様だけど、祖父の氏親は氏康の祖父の早雲のおかげで当主になれたのだからその判断も無理は無かった)事や信玄の信濃侵攻も、既に謙信との勢力境界線は殆ど変動せず、北辺を除いて完了していた事とか氏親及び今川氏にとって悪い状況が重なっていた事が本作を呼んで改めて分かりました。

政治だけでなく、軍事でも氏真は自ら三河に出陣してもいて、1561年の信長による3度の西三河侵攻はいずれも負け戦(同年の4月に家康が今川氏に対して独立の意思を示したのを見ての軍事行動だったのだろうが、信長はこの西三河侵攻で同地の一部を得るもまもなく家康と和睦し、翌1562年に正式に同盟する事となる)でしたが、家康との戦いは局地的な勝ち戦もあったらしい。氏真は軍事指揮官としても全く無能ではなかった事も改めて分かりましたが、最終的には周知の通り1565年もしくは1566年頃には三河一向一揆も乗り越えた家康の三河統一を許し、駆逐されてしまった。

家康を岡崎城に置いたのも、信長に対する牽制役を期待しての事だったとの説も近年出ている様で、実際家康って狸親父とか良くないイメージがあるけど、信長との同盟も「その時歴史が動いた」でも武田勝頼に高天神城を攻められてもちゃんと信長の援軍が来るまで待っていた(結局陥落し、7年後の1581年に奪還する)エピソードが紹介されていたけど、信長が本能寺で倒れても次男の信雄と組んで秀吉と小牧・長久手の戦いで戦った等長く保ったし、関ヶ原も、加藤清正や福島正則等自分に味方してくれた豊臣恩顧の大名には大幅な石高増等結構配慮していて、彼らの目が黒い内はどんなに秀頼と淀君が自分に従う気はなくても、形式的には秀頼の執政代行者であり続けて手を出さなかった等律義者だったし、この判断も間違っていたとは言い切れなかったでしょう。しかし、最終的には領土を失ってしまったのは否定しようのない事実ですから、やはり戦国武将として平均点以上の評価をするのは難しいですが、繰り返し言う通り氏真は名実ともに今川氏の当主となってしまった時の状況が悪すぎた、運が無かった(最終的には高家としては存続できたのだから勝頼や北条氏政・氏直親子とかよりは全然マシだっただろう。大名に復帰できた丹羽長重や立花宗茂はもっと凄かったけど)、100年生まれてきたのが早かったのだろうと言うか、ほぼ毎日がギャンブルな戦国の過酷さを痛感させられましたね。本多忠勝&忠朝親子も大河ドラマ誘致活動が進められているらしいですが、もしホントに実現したら義元・氏真親子もどういう描写がなされるのかでもありますが・・・・・・・・・・・・

|

より以前の記事一覧