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2021/02/27

室町幕府は実力主義だった?

https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/5912

麒麟がくるで、改めて室町幕府にも興味を持って、この亀田俊和氏の見解が述べられた記事も目にしましたが・・・・・・・

戦国時代の時は幕末と違って外圧があったわけではなかったのだから、同じ末期でも江戸幕府より室町幕府の方がしぶとかったと見做すのは必ずしも適切ではないとは思いますが、室町幕府の実力主義はある程度再評価すべきの見解には同意です。

https://hajimete-sangokushi.com/2020/10/24/muromatimeritism/

また、このはじめての三国志でも、室町幕府が弱いのは実力主義のせいだったと指摘してましたが、その一方で、九州攻略に多大な功績があった筈の今川了俊に代わって九州探題を世襲する事になった渋川氏(足利将軍家や斯波氏とも親戚関係だった)は、満頼はまだ無難にこなしていたけど、病気を患っていたわけでもなかっただろうに早々とまだ20前(この時代の感覚ではもう大人だったけど)の息子、義俊の代で早くも舐められる様になって、大内氏らの方が少弐氏や菊池氏等反幕府勢力対策を主導的にやってましたものね。それでも、渋川氏は満頼系から弟の満行系に移りはしたけど、渋川氏の探題職世襲は続いた。

満行系では2代目の教直は就任時点ではまだ12歳だったけど、なかなかの手腕を発揮した。歴代の九州探題渋川氏では一番有能だったでしょう。しかし、この時代の感覚では満頼ほどではなかったにせよ長命だったながらも、息子の政実が先に死んで、代わりに後継ぎ候補となった万寿丸がまだ少年だった内に死んでしまったのは不運でした。万寿丸も殺されて、その弟のただ繁(変換できず)も生年は分からないけど、万寿丸が死んだ時点で19歳(とっくに元服を済ませてもおかしくなかったけど、敵対勢力対策でそんな暇も無かったのか)だったから若年だったのは確かだったでしょう。ガタが来ていた所を立て直した有能な親が死んで、若い後継ぎが続いてしまい、再び動揺してしまったのは嘉吉の変以降の幕府と重なり合うものも感じられます。

結局次の義長の代で九州探題は途絶えてしまったけど、他に探題がつく職は羽州探題を世襲した最上氏は一定の勢力は維持(江戸時代に改易されたが)したけど、幕府との関係が微妙だった筈の鎌倉公方側について伊達氏・大崎氏と戦う有様だったし、大崎氏は大崎氏で同じく斯波氏支流で、奥州探題を世襲していたけど、幕府が鎌倉公方に対抗する為に伊達氏(元々は南朝側)や蘆名氏を京都扶持衆にしたのも却って足を引っ張ってしまった様で最上氏と比べて振るわなかった様だ。

各探題の実態を見ても、どうも特に地方統治がグダグダ、不安定と言うか、やはり室町幕府は亀田氏の言う通り江戸幕府と比較するのは酷ながらも弱い幕府だったと認識せざるを得ないけど、実力主義と言っても、足利将軍家御一門、特にその中でも家格が高いのはまだそこまで徹底されていたわけでも無かった様に思えます。実力主義と言うと、聞こえは良いですが、室町幕府の場合はその実力への見返りが大きすぎ、何せ、著作「信長と天皇」でも足利義満について「大内義弘を滅ぼした後の義満には光秀の様な存在などあり得なかった」なんて、的外れな信長との比較をした今谷明氏は当然スルーしていたけど、明徳の乱で勢力を削減した筈の山名氏が早くもまた6か国も所有する様になったものね。亀田氏はまた、将軍は力の強すぎる守護を望んでいなかっただけで守護そのものを否定してわけではなかったとも言っていたけど、6か国も領有している山名氏は普通に再び力を持ち過ぎた守護大名になってしまったと思うのですが。但馬・伯耆・因幡に加えて備後・安芸・石見の守護になったけど、時代は200年近く後ながらも1598年の検地時の換算で30.4万石から69.6万石と約2.3倍も増えたんだぜ?江戸時代の大名でこれよりもっと多い石高を有していたのは前田と島津だけです。しかも、江戸時代の外様大名は幕末を除いて政治に参加する事なんか出来なかったし。

http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/murotai.html

大内氏だって、確かに義弘その人を滅ぼすのには成功したけど、大内氏恒例の代替わり時の後継ぎ争いで勝った、幕府が望んでいなかった盛見の家督を認めざるを得ず、これも1598年検地の換算だけど、義弘の時は周防・長門・石見・豊前・紀伊・和泉の計93.6万石だったのが、結局周防・長門・豊前・筑前の77.5万石とある程度は勢力が回復してしまった。結局義満が本当に勢力削減に成功したのは土岐氏だけ。だから、尚更強きを助け弱きを挫く政治スタイルを貫かざるを得なかったのであり、それでも義満が有能な政治家だったのは否定し様の無い事実ですが、九州以西と関東以東の統治は不安定で、有力守護大名を抑制しきれなくなるリスクを抱えていたのは変わりありません。今ではもう見れない様である、あるHPで見れた論文の要約として、「尊氏は何とか相対的優位を保ったまま義詮にバトンタッチして、義詮は苦戦しながらもそれをより確実にし、義満は相対的安定まで持っていった」と評されてましたが、絶対的安定までは築けなかったのは、南北朝という時代の情勢もありましたが、室町幕府及び義満の限界だったという事でしょう。だから、上記HPでも、実際の太平記の終盤(同じ脚本家の麒麟がくる同様、終盤は駆け足じみていたのでその補完な面もある)とも重なっている、細川頼之と義満を主人公とした室町太平記という「勝手に大河ドラマ」コーナーも見られるけど、義満期でさえ実態は前述した通りだし、やはり厳しいでしょう。失礼だけど、門脇麦氏程度の女優(さすがにさあ、岡田茉莉子氏みたいに今の人気があるとされている女優なんか女優じゃなくてタレントだとまで言うつもりはないけど)を、あたかも余人をもって代えがたいほどの人材だと思ってしまっているプロデューサーもいる今のNHKでは尚更の事です。取り上げやすい戦国物だって、利家とまつ以降も江も麒麟も駄作、直虎だって良い点もいくつかあったけど、所詮1年も引っ張れる様な題材じゃなかった(脚本担当も、同じ戦国時代の花戦さでも秀吉や三成とかステレオタイプな脚色が目立ったし、現代ものドラマでは実績あるけど、時代劇は畑違いだった感が否めない)のに今のNHKに作れる筈が無いです。

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