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2021/01/17

酒井忠次・家次親子ってそんなに冷遇されてたのか?

https://www.sankei.com/life/news/141117/lif1411170023-n1.html

これ、産経新聞で本郷和人氏が連載している「日本史ナナメ読み」のページで、家康が存命中は重臣の一人だった酒井忠次とその息子・家次は一貫して冷遇されていたと主張していたけど、ホントにそうなのかな疑問がわきました。なので、家康が1590年に関東に入ってから1616年に亡くなるまで、関東内で領土を3万石以上与えられた武将達の石高の推移を調べてみました。

井伊直政・直克・直孝 12→18(関ヶ原後)→20(大坂の陣後)
榊原康政・康勝・忠次 10
本多忠勝・忠政・忠刻 10(→15、1617年)
大久保忠世・忠隣 4.5→6.5(1594年に羽生2万石加増)→改易
鳥居元忠・忠政 4→10(関ヶ原後)
平岩親吉 3.3→6.3(関ヶ原後)→12.3(1607年)
本多康重・康紀 3.3→5(関ヶ原後)
奥平信昌 3→10(関ヶ原後)
酒井家次 3.7→5(1604年)
小笠原秀政 3→5(関ヶ原)→8(1603年)
大須賀忠政・忠次 3→6(関ヶ原)→榊原家を継ぐ

家次は3万石以上与えられた徳川家家臣の中では若い方だったし、他のそういう家臣達は多くは関ヶ原(と大坂の陣)での戦功を評価されて加増を受けていますが、家次は関ヶ原は秀忠に付いていた為に本戦には間に合わなかったし、大坂の陣でも天王寺・岡山の戦いでは敗走する有様でした。これではいくら忠次が家康の父、広忠の代から仕えていた重臣で、家次も家康の従弟(母親が家康の祖父、松平清康の娘)だったからと言っても優遇されなかったのも無理もなかったでしょう。秀忠には気に入られていたのか、戦では目立った活躍が無かったのに松平忠輝改易後に高田藩10万石に加増されましたが、案外本人は驚いていたもかもしれません。そもそも信康と築山殿が粛清されたのも、信長の意向ではなく、信康も決してバカでも無能でも無かっただけに家康派と信康派に別れて、徳川家そのものが空中分解するのを防ぐ為の措置だった説も出てきているのですが、信長のせいにしようとしたのもまあ有り得なくはないでしょう。

そう言えばまた、あるブログでも、35話時点でだったのですが、真田丸がカビの生えた徳川史観に先祖返りしてしまったと批判していた人がいた。確かにその人がまた言っていた通り、徳川幕府が1867年に大政奉還しても私達はその時代までに世に現れた資料を徳川史観というフィルターを通してみるのはどうしても避けられないかもしれない。しかし、その人はどうも江戸時代の資料は全て徳川史観故の嘘や歪曲にまみれている、多くの人達はバカだから徳川幕府が大政奉還してから150年経っても依然それに騙されていると言わんばかりの言い様でしたが、韓国じゃあるまいし、徳川史観が全て嘘や歪曲にまみれているとかなんて思っている自分の単純で浅はかな歴史観がかなり偏っており、多くの人達の賛同なんか得られないという事に全く気付いていないのも全く愚かな事だと思いました。

三谷幸喜氏の作品も「?」だと思ったのもいくつかありますが、自分こそが一番この世の真実を知っているな顔をして三谷氏を批判する前に自分のそういう歴史観の誤りを自覚するのが先だろうと思いましたね。別に江戸時代がユートピアだったなんて言うつもりも無ければ、徳川の信者でも何でも無いですが、徳川史観批判こそが全くカビが生えていると言うかつまらないです。だって、頭が30年以上前で止まってもいる様な批判だもの。そういうのは真面目に聞くに値しないです。

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