« 今もなお、タリバンとの戦いに身を投じる少女もいる現実 | トップページ | 長瀬智也の裏方転向も意外だったが・・・・・・・・・・・・・ »

2020/07/24

百人一首の歌人達93番右大臣実朝

「世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも 」

久々のこのシリーズですが、右大臣実朝こと源実朝ですね。波打ち際をこぐ漁師の小船が網で引かれている姿も見える世の中の様子が変わらない事を願う意味の歌ですが、鎌倉幕府も開かれてまだそれほどは年月が経っておらず、創業の功臣もまだ何人も存命だったのに武家の棟梁らしかぬ歌です。

武家じゃなくて公家に生まれていれば、彼はもっとその歌の才能も活かせていたかもしれませんが・・・・・・・・・再来年放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」も誰が実朝を演じる事になるのやらですが、思ったよりも早く父・頼朝が死んでしまって、兄の頼家も正式に征夷大将軍に任命された(頼朝も2年で辞職した説もあるが、真偽は不明)のがその3年後と若年だった事もあって、独自色を出せないまま御家人達の勢力争いに巻き込まれて命を落としてしまった中でもっと若い年齢で将軍になってしまったのです。

実朝について注目したいのがやはり急激な昇進です。頼朝がごく短期で辞任したとは言え、権大納言と右近衛大将となり、さらに実現はしませんでしたが、姉の大姫を入台させようとしたのだから源氏将軍はかっての平家同様清華家の家格を得ていたのでしょう。実際1209年に従三位となってすぐに右近衛中将となり、その後1216年に参議を経ないで権中納言となった(摂家・清華家は原則参議を経ないが、この時代の清華家は参議を経た者もいた)のですが、特に1218年は凄まじく、官位こそ正二位(1213年に叙任)のままでしたが、年初から年末にかけて一気に権中納言から右大臣に登ってしまったのです。おそらく短期間で3段階も昇進した人はいなかったでしょう。この時実朝は26歳でしたが、他の同時代の清華家当主の大臣昇進時の年齢は・・・・

三条公房 36歳
西園寺実氏 37歳
徳大寺実基 45歳
久我通光 32歳
花山院忠経 33歳
大炊御門家嗣 41歳
堀川具実 47歳

だったのだから、かなり早かったのが改めて分かります。昇進の速さを大江広元に諫められたのに対し、「私には子供もいないし、昇進して名をあげる事が生き甲斐なのだ。」と反論したエピソードも有名ですが、まだ20代と若く、子供もこれから儲けられる可能性もあったのに彼は果たしてそんな覇気のない将軍だったのでしょうか?

暗殺事件については後鳥羽上皇黒幕説(まあ三浦氏黒幕説が最も有力であろう)も実際ありますが、朝廷から見たら本来の身分不相応に高位・高官を与えて身を崩す位討ちを狙っていたのは確かでしょう。実際黒幕が誰であれ、実朝が暗殺されて源氏将軍が絶えたのは事実だったのですが、武家で初の右大臣となった実朝のその様な末路は鎌倉幕府滅亡後の日本の歴史にも大きな影響を及ぼしたのです。

https://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10871628425.html


このブログでも指摘されていましたが、室町幕府に義満が出てきて、足利将軍が摂家に準ずる家格(過去エントリーでも指摘した通り、参議は経ても権中納言は経なかった事も注目すべきである)を得ても、義満や義政に限らず右大臣となった足利将軍は一人も出ませんでした。義持も、特に若年期は義満の働きかけで昇進し、在任期間が長かった割には内大臣が極位で、他の公卿にも越されたままで終わったし、義尚も早死にしなくても右大臣になる事は無かったでしょう。

その後の足利将軍は明応の政変で傀儡と化し、京都にいる事すら出来なくなったのも珍しくなったので大臣にすらなれないまま最後の義昭も信長に追放されてしまいましたが、その信長も右大臣は短期間で辞職した。後任が二条昭実だったのも信長の養女と結婚して、信長と義理の親子になっていたのがおそらく原因で、信長が右大臣を辞職したのは天下統一(ただし、当時の感覚では畿内及びその周辺がその天下の範囲だったので、信長は既に天下を取ったと見る事も出来なくもない)した後に改めて武家の棟梁に就きたかったかららしいですが、最後どうなったかはもう周知のとおり。

どうやら短期で辞めても横死してしまったし、武家の右大臣は不吉という事で、信長を何年も間近で見てきた秀吉も内大臣から左大臣への昇進を望んで、結局は関白・太政大臣となったし、秀吉から関白を譲られた秀次もやはり内大臣から右大臣を経ないで左大臣となったのですが、彼も切腹に追い込まれてしまった。

最初は豊臣家の関白って、特例として秀吉一代限りなつもりだったらしいですが、秀次も切腹に追い込んだほどですから、やはり秀頼も関白にもしたかった様だ。摂関は大臣経験者のみが任命される(藤原兼通も一旦内覧・内大臣となってから任命)のですが、五摂家から摂関を出さない為に、秀次事件で秀次と連座した今出川晴季(右大臣)を辞めさせた後は後任を充てさせず、自分以外の大臣は家康を内大臣にしたのみでしたが、結果的に下手に右大臣になるよりも全然良かったのでしょうね。家康にとっては。

何せ、秀頼がまだ幼い内に秀吉自身や前田利家が死んだだけでなく、源氏長者と淳和奨学両院別当を輩出する資格があった久我家が女性スキャンダルを起こしたのも、征夷大将軍就任への追い風になったし、関ヶ原も実際は小早川秀秋ももう最初から東軍についていたらしいけど、兵力的にもう最初から東軍優勢で勝って、官位も従一位になって、秀頼を上回った上で実際征夷大将軍になれたのですからね。右大臣もごく短期ながらも任命されていたのですが、辞職したのは形式的にはこの時点で家康はまだ秀頼の家臣だから、配慮せざるを得ない所もあったのでしょう。

https://ameblo.jp/hosoyatakaragi/entry-11453493728.html

その秀頼も右大臣は短期で辞任して、上洛しなかった(家康と会見した1611年までその記録が無い)から辞めさせられたのだと指摘したブログもありますが、後任には九条幸家が就任したのは秀次の兄弟、秀勝の娘、宗子と結婚しただけでなく、岳母・江が秀忠と結婚していて、豊臣・徳川両家とも親戚になっていたからでしょう。朝廷では秀頼の左大臣昇進を推薦する動きも一部ありながらも、結局秀頼は果たせないまま「元右大臣」として大坂の陣で死に追い込まれる事になった一方で、家康と、武家官位としての右大臣となった秀忠はこのジンクスを破ったと思いきやです。

次の家光もやはり何人かの足利将軍同様右大臣を経ないで左大臣になったのは、家康・秀忠が太政大臣になった事と同様に豊臣政権下で高位高官となっていた諸大名とのバランスを取ったつもりだったのかもしれませんが、家綱も政権自体は安定しながらも跡継ぎを作れないまま亡くなって、左大臣昇進の話もあったらしいですが、ここで早くも徳川将軍家嫡流は途絶えてしまった。

もし左大臣に昇進していたら家綱は跡継ぎも作れたのかでもありましたが、綱吉以降の徳川将軍は、もう原則的に20年程度務めないと右大臣に任命されなくなってしまった様です。将軍家に限らず、御三家も権大納言の尾張・紀伊は光友も光貞も37年も権中納言のままだったし、水戸黄門こと光國も権中納言になったのは藩主となってから30年近くも経った後の事。(晩年の10年程度に過ぎなかった)

どうやら霊元天皇が幕府嫌いだった事も影響していた様で、実際光友・光貞・光國が極官に昇進したのは親幕派だった近衛基煕が朝廷における実権を握った直後でした。参議を極官としていた前田家も半世紀近く前に藩主になっていた綱紀がやっとその数年後に参議になれたのですが、その後もそうした原則は変わらなかった様で、それは異例の長期政権となった家斉も例外ではありませんでしたが、父の長期政権のおかげで将軍継嗣時点で内大臣となっていた家慶は将軍宣下と同時に左大臣となったし、家茂は短期で右大臣となりましたが、これは和宮と結婚して孝明天皇と義兄弟となった事が大きかったのでしょう。しかし、家茂も数年で早世した。その早世は勝海舟にも「これで徳川宗家は終わった。」と嘆かれたほどでしたが、実際次の慶喜は内大臣のまま大政奉還し、戊辰戦争も起こりこましたが、長く続いた武家の時代そのものが終わる事となったのです。

実朝その人とは直接関係ない話になってしまいましたが、他にも綱吉・吉宗・家治も跡継ぎに先立たれてその代わりを作れなかった、または健康を害してしまって、自然災害も起きてしまったし、結局武家右大臣=不吉な悪いジンクスは江戸(徳川)時代となって、泰平の世となっても完全には無くならなかった様です。「鎌倉殿の十三人」では実朝もどの様な描かれ方をされるかですが、やはり改めてその人物像とか注目されてほしい所ですね。

|

« 今もなお、タリバンとの戦いに身を投じる少女もいる現実 | トップページ | 長瀬智也の裏方転向も意外だったが・・・・・・・・・・・・・ »

歴史」カテゴリの記事