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2020/06/07

麒麟がくるもついに桶狭間まで来たが・・・・・・・・・

https://news.yahoo.co.jp/articles/ff7798a5261d2cd0f76ebd05bb4ea427bdcafddf

染谷将太、「練習を重ねた」『麒麟がくる』バージョンの「敦盛」披露



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大河ドラマ『麒麟がくる』第21回「決戦!桶狭間」より。唐突に「敦盛」を口ずさみはじめる織田信長(染谷将太) (C)NHK

 NHKで放送中の大河ドラマ『麒麟がくる』(毎週日曜 後8:00 総合ほか)は、放送一時休止前、最後となる第21回「決戦!桶狭間」が7日に放送された。今川義元(片岡愛之助)が尾張に攻め込んでくる中、織田信長染谷将太)は清須城で戦況報告を受け、「籠城する」と家臣に告げた後、、帰蝶(川口春奈)の前で思案しながらうたったのは、幸若舞「敦盛」の一節だった。

 

【場面写真】桶狭間の戦いのシークエンスをたっぷりと

 

 織田信長の一代記である史料「信長公記(しんちょうこうき)」にも、桶狭間へ出陣する前に信長が「幸若舞」の一節を舞ったと記されているという。信長は「人間五十年、化天のうちを比ぶれば…」という節を特に好んだそう。演出を担当した一色隆司氏は次のように語っている。

 

 「八方塞がりの状況の中で死をも覚悟した信長の口から無意識にこぼれ出てきたのがこの『敦盛』です。自分の立場を認識しながらもどこかに光明が差さないか集中する信長に、ある種の悟りの境地が訪れるような意味合いにしたくて染谷さんとは、うたい方だけではなく、うたい出すまでの気持ちの流れ、そして、思わず口ずさみ始める時の表情、そして、うたいながら命の全てをかけて打開策を模索する思い、そしてひらめき…一つ一つの思いを意識して演じていただきました。このシーンは、この回の信長にとってはターニングポイントになるシーンだったので、いかにドラマチックに『敦盛』を表現できるのか…ということに注力しました」

 

 また、染谷は公式ホームページのインタビューに「信長は、自分という存在をかけ、自らを試すように死をも覚悟して出陣します。でも、その前に『敦盛』をうたうとは思ってもいませんでした(笑)。芸能指導の先生(友吉鶴心氏)と練習を重ね、『麒麟がくる』バージョンの『敦盛』を謡っているので楽しみにしていただけたらうれしいです」と答えている。




http://koukorekisikikou.a.la9.jp/nobunaga/okahazamasuiri.htm

https://note.com/dadamail/n/ne9b52f43be12

桶狭間の戦いについても今改めて興味を持っていて、上記URのページでも考察されてますが、桶狭間は戦いの場所は田楽狭間ではなく、桶狭間山で、奇襲でもなく、兵力を分断させたのが一番の信長の勝因だったらしいです。季節的にも、太陽暦換算では6月12日だから梅雨時でしたが、突然の豪雨で、義元の本隊に接近しやすくなったのも大きかった様ですね。

丸根と鷲津を落としながら敗れてしまった義元、駿河・遠江・三河を合わせても70万石弱でしたが、既に小和田哲男氏も指摘した通り、氏親の代から今川氏は安倍金山とか金山開発にも力を入れていたし、桶狭間直前時点で尾張も知多郡と海西郡の多くを勢力下においていたのだから100万石相当の国力は確かにあったのでしょう。(実際また、後に尾張の一部を除いた今川の旧領に加えて甲斐と北信を除いた信濃を領有した時点での家康の石高も表高は119万石だったが、実際は150万石あったという)1万石ごと250人動員できるらしいから、兵力もいくつも説もありますが、2万5千動員できてもおかしくなかったかと思われます。

大将本人が討ち取られてしまった他の例は龍造寺隆信しかなく、結果的に戦国大名としての今川氏の滅亡につながってしまったのだから、桶狭間での敗死はどうしても客観的に見てマイナス点と認定せざるを得ません。しかし、名指ししたり、URを張り付けたりはしませんが、義元に否定的な人って、十分でない根拠も基にしている様に見えます。

http://imagawayakata.blog92.fc2.com/blog-entry-123.html

例えば、山本勘助と豊臣秀吉をみすみす他家(それぞれ武田家・織田家)に渡してしまったのだから人を見る目がないという意見で、勘助については、上記HPでも指摘されていますが、そもそもその根拠となる甲陽軍鑑は史料的信用性に乏しく、実際義元との絡みでもいくつも矛盾が見られるし、秀吉についてはまた、「今川は譜代ばかり重用して、秀吉みたいに能力があっても身分が低い人物はそれ相応の起用をせず、家臣達も『出る杭は打つ』で秀吉をいじめていたから見切りをつけたのだ。」と言っていた別の某ブロガーも目にしましたが、秀吉だって義元の家臣の家臣に短期間仕えていたに過ぎなかったではないですか。(現代で言えば、東海地方で一番有力な大企業の孫会社にいた事になるけど、孫会社と祖父会社の社風が同じとは限らないでしょ?短期間で祖父会社の社風なんて分かる人なんかいるのですか?)しかも出仕を止めた理由も確かに小和田氏監修の小学館「少年少女人物日本の歴史 豊臣秀吉」とかでは金が無くなっているのを同僚達が秀吉のせいにしていじめた説が採られていましたが、これだって真偽は不明、そもそも秀吉が信用するに足る史料に初めて現れたのは桶狭間よりももっと後の事、信長が反抗的だった一族の信清を追放してやっとこさ尾張を統一した頃です。

また雪斎におんぶにだっこで、戦国武将としての実績は雪斎がいてこそという意見も目にしましたが、確かに片腕だった雪斎の功績も大きかったでしょう。しかし、どんなに彼が優れていて、戦国武将が専制君主ではなかった(信長は例外だったが)としても最終的に判断を下したのは義元だっただろうし、雪斎が死んだ後もまだ統治が不安定だった様である三河での反乱は抑えていたし、尾張への蚕食も、桶狭間直前に品野城を信長に落とされてしまいましたが、前述通りある程度の勢力は維持しています。

やはり結論としては今川義元も名将だったという事です。(凡将ならば、川中島の戦いで武田信玄と上杉謙信の調停も出来る筈がない)義元に限らず、武田勝頼、朝倉義景、浅井長政と戦国三英傑に敵対した人物は、多くは最終的に滅んでいる。武田氏滅亡時点では武田氏の武将で、家康には度々苦杯を飲ませた真田昌幸だって、最終的には関ヶ原では長男の信之は家康に味方したけど、西軍についた自身と信繁は負けて九度山に流されて、大坂の陣に出陣した信繁も最終的には討ち取られてしまった(浅井は、三女の江が秀忠と結婚して、摂関家や皇室にもその血を伝えたし、武田遺臣も多くは家康が自身の家臣として採用してもいたけど)のですが、運も確かにモノにしていった信長の戦術がもっと上を行っていた、信長がもっと凄かったのです。信長がいなければ、群雄割拠はあと100年以上は続いていたかもしれないけど、信長はやはり戦国乱世に現れるべくして現れた風雲児、不世出の英雄なのです。勝頼については外交の失敗、義景は軍事を一族の宗滴に丸投げして自身は平和ボケして、義昭という神輿も信長に渡してしまった等信長とは直接関係ない滅亡の原因もありましたが、信長(と家康が出た松平氏)と早くから領国を接していたのが不運だったのです。

それでも、父と有力武将を亡くした悪い状況で名実ともに跡を継ぐ(家督は既に1558年に譲られていた)事になった氏真も、戦国武将としての能力は平均未満でも領国を失った後の立ち回りは悪くなく、勝頼や北条氏政・氏直親子、義景とかと比べれば全然マシな人生だったとも思いますが、コロナの所為で麒麟が放送休止になってしまうのはやはり残念です。今月下旬から撮影再開、8月下旬から放送再開となるらしく、越年になっても全44話放送する方向で話が進んでいる(そう言えば、ナレーター担当でもある海老蔵氏主演の桶狭間はどうなったんだ?竹中直人、北村一輝、中尾明慶各氏新キャスト様の発表以来2か月も新情報を聞かないけど)ですが、光秀はまだ信長の家臣にすらなっておらず、本格的な活躍はこれからなのですから、最後までしっかり麒麟の到来を求めていた戦国武将達のドラマを描いていただきたいです。

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