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2020/05/16

歴代足利将軍の官位・官職昇進の傾向

麒麟がくるでも、向井理氏演ずる義輝に光秀が今川と織田の停戦を調停させる様頼んだ話がありましたが、歴代足利将軍の官位・官職の昇進について興味を持って調べたら傾向が分かったので、以下に記します。

①参議と左近衛中将任命はセット。(義政とかは例外)
②義満以降、官位は正官の任命例は少なく、従官の任命例が大半。
③権中納言・右大臣の任命例は皆無。
④従三位になって、すぐまた権大納言に昇進。
⑤権大納言になってから大臣に昇進するまでの間に右近衛大将も兼務。
⑥義満~義尚までは従一位になってから大臣に昇進。義満・義教以外の昇進者は従一位~内大臣の昇進に5年前後要した。
⑦戦国時代突入後は大臣・右近衛大将の任命例が皆無で、官位も多くは従三位止まり。

①は義量は元服してすぐ右近衛中将に任官していますが、父・義持の後押しだったのでしょう。義政も右近衛中将との兼務でしたが、他任命者がいたのでしょうか。②は尊氏と義詮は最終的に正二位でしたが、義持と義尚が例外で、義持は父・義満の後押しだったのでしょうが、義尚は当時まだ異常事態だった応仁の乱が終わっていなかった事とも関係があったのでしょう。③は、権中納言については尊氏が征夷大将軍任命時には既に権大納言だった事も理由だったのかもしれませんが、参議を経ない摂関・清華家と権中納言を経ない足利将軍家の対照にも注目です。右大臣も、源実朝が任命直後にすぐ暗殺されてしまったから(後に秀吉が、かっての主君だった信長が右大臣が最高職のまま本能寺で横死した事が理由で内大臣から左大臣の昇進を望んだ事と似ているとも言える。秀吉の場合はそれで摂関職交代するかしないかで揉めて、ついに自身が関白となったわけだけど)だったのでしょう。秀吉からさらに時代が下って、武家官位としてでしたが、徳川将軍が基本的に右大臣を最高職にしたのとも対照的です。(ただ、徳川将軍の場合は綱吉以降は、長く将軍を経験しないと任命されず、内大臣のまま亡くなった将軍もいた)④は義詮以降先例となり、平安中期以降は権大納言に昇進した時点で大抵官位も正二位か従二位になっていると思われますが、前述通り権中納言は経ない為に一時的ながらも官位と官職のバランスの悪さが感じられた様に見えます。⑤は、清華家も安土桃山期以前は左近衛大将に任命された例はありましたが、足利将軍はその例はありませんでした。あの義満ですら経験していませんが、そんな事は彼にとってはどーでも良かったのかもしれません。⑥は、摂関家は従一位になった時点で官職も既に大臣を経験していて清華家も殆どがそう、中にはそうでない人もいながらもそういう人は従一位昇進と同時に権大納言は辞職したらしいですが、足利将軍にとっての従一位は近い将来の大臣昇進の約束となっていた様です。

一番残念だったのが⑦ですね。義教は任命時既に壮年期だったからか参議・左近衛中将~内大臣まで僅か3年で昇進したのですが、基本的に官位は従三位・官職は権大納言が最高で、義稙は大内義興の軍事的支援を得て返り咲いた時に従二位まで登りましたが、官職は再び辞めるまで10年以上も権大納言のまま。義澄にいたっては参議止まり。義晴も何度か京から逃げたり、一時引退をほのめかしたりした事もあってか、16年も従三位・権大納言のままで将軍をやめてから右近衛大将になったのですが、それが殆ど意味をなさなかったのは最期を見ても分かる事でしょう。義輝も暗殺されるまで10年以上従三位・参議止まり、義栄はそもそも京都に入れなかったので四位にすらなれず、義昭も信長に追放された時点で従三位・権大納言。最終的には、足利将軍家では義視(彼自身は将軍にならなかったが)以来の准三后宣下を受けましたが、この時点で既に秀吉による天下統一は時間の問題であり、それに貢献したわけでもありませんでした。

https://r-kiyose.hatenablog.com/entry/20060316/p1

大臣も大将もそれぞれ拝賀・節会に金がかかるので出来なかったという経済的な事情もあったらしいですが、それにしても・・・・・・・・このはてなブログでは足利将軍家が摂関家に准ずる地位を獲得したとの説が紹介されてましたが、義尚が早世してから義昭が信長に追放されるまでついに80年以上も大臣にも大将(厳密には、前述通り義晴は将軍職をまだ義藤と名乗っていた義輝に譲って以降久々に右近衛大将になったが、大きな意味はなかった)も出せず、従二位・兵部卿になった大内義隆みたいに足利将軍よりも高位の戦国大名も出てきた事からもです。

このはてなブログでも言及されていた今谷明氏「信長と天皇」という著書でも「信長が光秀に裏切られて本能寺で死んで、織田政権はたちまち瓦解したのに対し、足利義満が応永の乱で大内義弘を滅ぼして以降は光秀の様な存在等皆無となり、その後15代まで続いた。」と、比較していましたが、足利将軍が15代約240年続いたのをどや顔で強調するのなんか的外れなのが改めて分かります。そもそもまた、信長と朝廷の関係も近年は今谷氏らが言う様な対立説よりも調和・友好説の方が有力になってきていて、確かに応永の乱は義弘その人を滅ぼす事には成功しましたが、義弘の跡継ぎを義満や幕府が望む人物にする事に失敗して、そうでなかった盛見の継承を認めざるを得ず、その後もなかなか幕府の言う事を聞かなかった九州の諸大名対策だって、義満本人が今川貞世(了俊)に代わって起用した、九州探題だった筈の渋川氏よりも大内氏をアテにせざるを得なかったではないですか。

今谷氏ってどうも足利政権、特に義満を過大評価しているきらいがあって、結局は守護大名に領土を与え過ぎた体制そのものまで変える事が出来なかったのは義満の限界点(家康は関東移封時、家臣に領土を与えた際も井伊直政と榊原康政、本多忠勝以外は石高一桁で、蒲生氏郷は「ケチだから天下が取れない。」と評したらしいが、足利政権の失敗点も反面教師にしたとも言える)でしたが、これでは映画では日本アカデミー賞で優秀主演女優賞と、優秀助演女優賞のダブル受賞も果たしたのをスルーして、民衆の敵(これだって、私も決して支持者ではないけど、甥もテレビ局社員なのに某総理の持病を揶揄する脚色も見せたのだからマトモな人がそっぽを向くのは当然の事)とかたまたま近年の出演ドラマが低視聴率だったのを蒸し返して、「今度のハケンの品格続編の視聴率が取れなかったから彼女はもうオワコンだ。」という様な、ちびまる子ちゃんの藤木よりも全然「卑怯」なネガキャンした東スポやアサ芸の事も批判する資格もありません。東スポは最近もまた、「最初はオファーを受ける気はなかったが、レッスンで綺麗になって体重も10キロ落ちて30代前半の美貌に戻った」なんてセクハラまがいのクソ記事書いていて、元々歳相応より若々しい美人だろで、いい加減廃業してくれないかね~ですが・・・・・・・・・・・・

まあそれはともかく、麒麟も桶狭間で放送休止という事は、その直前の信長上洛(同時期には上杉謙信も上洛している)の話も描かれて、また向井義輝も登場するのかな?ですが、義輝も義昭もどういう人物に描かれるのか。話数削減しないで越年になっても全44回放送してほしいけど、史実の足利将軍がじり貧になってもそれも要注目であります。

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