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2018/09/17

百人一首の歌人達(24)-15番光孝天皇後編

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
(15番光孝天皇)

さて、前編では時康親王(光孝天皇)その人よりも彼が就いていた式部卿の話が中心となってしまいましたが、後編です。

式部卿は基本的に皇族の最長老格が任じられる「上がりポスト」で、時康親王任命時はもう一人の叔父の秀良親王もまだ存命でしたが、前編でも話した通り、どうも祖父の嵯峨上皇が亡くなった途端パッとしなくなってしまいました。単に凡庸な人物だった事以外にも直後の承和の変で主導権を確立した藤原良房との関係とか考えられる理由はいくつかあるのでしょうが、ともかく忠良親王の後任として876年(貞観18)末に任命されました。

この直前、天皇は清和天皇から陽成天皇に代替わりしましたが、陽成天皇は兄の文徳天皇の孫ですから、2世代後の幼君です。天皇が幼君という事で、外伯父の藤原基経が摂政になりましたが、同母弟の貞保親王もいたし、その上基経は清和上皇に娘の頼子と佳珠子も入台させていて、上皇と佳珠子との間にも貞辰親王が産まれていました。皇室と藤原北家嫡流の外戚関係は当分安泰かと思われました。

ところが、伊勢物語等での在原業平との関係もどこまでが本当だか分かりませんが、天皇実母の高子は兄・基経と仲が悪かったのです。陽成天皇自身も暴君ぶりが伝えられるエピソードが残ってしまって、わずか16歳で退位させられてしまいましたが、実際は兄妹の確執のとばっちりを受けてしまったに過ぎなかったのでしょう。そして、その後の天皇が誰になるのかですが、当時の感覚では既に老人な時康親王に白羽の矢が立ってしまったのです。

しかし、前述通り他に次期天皇候補がいなかったわけでもなかったのですが、貞保親王はまあ、母親(高子)の悪い影響をおそらく受けていたからまあ分かります。しかし、貞辰親王が即位できなかったのはいささか解せないです。養父(叔父)の良房同様天皇の外祖父になれたのにです。加納重文氏は権勢者への道を開いてくれた感謝の念もあった一方、権謀術数の行使があまりに露骨だった事への反感もあって、良房が敷いたレールに頼らない自己流の権勢を築こうとしたのではないかとの見解を述べていました。(ソースは「歴史と旅」1990年12月号)

実際基経はまた、これも加納氏は指摘していましたが、40年以上前に承和の変で皇太子を廃されていた恒貞親王も天皇候補にしようとしていた様で、これは本人が断ったため実現しませんでしたが、恒貞は既に60近い老齢(もし即位していたら現在でも生没年のハッキリしている歴代天皇では61歳の光仁天皇に次ぐ2位の即位時高齢天皇となった)な上に、若くして出家した事もあったのか記録に残る子女はいなくて陽成天皇廃位7か月後に亡くなっています。つまり、即位してもほんの一時的な中継ぎにしかなれなかったのですが、基経は天皇の首も思う様に挿げ替えられた様に見えて、かなり焦っていた事が伺えます。

貞辰親王はどうして即位できなかったのか?生母の佳珠子は母親が誰なのか分からず、879年(元慶3)に夫、清和上皇が出家したために恩給を止められて以降どうしていたのか分かりませんでしたが、陽成廃位時には既に亡くなっていたのでしょうか。

この頃また、高子は既に皇太后の尊称を得ています。いくら清和法皇の別の妃腹の子(貞辰)が天皇になっても高子は継母でもあるからそれ相応の配慮や待遇などはしなければいけません。結局基経は何かそこまで弱みを握られていたわけでもないにしても、もう一人の妹で、夫(藤原氏宗)死後は宮廷につかえていて、一定の発言力もあった淑子と連携する道を選んだのでしょう。時康親王に白羽の矢が立ったのは息子の一人であった定省王が淑子の猶子だった事も大きかったのでしょうが、基経とは母親同士が姉妹だったのも決め手になったと思われます。実際また、時康親王即位後すぐに淑子は天皇の傍に仕える尚侍に任じられましたが、これも高子への牽制の意味合いも多分にあったかと思われます。

さて、そうして即位した時康親王もとい光孝天皇でしたが、当然政治にはそんな関心などなかったと思われたので、既に太政大臣にもなっていた基経に国政委任する旨の詔を出しました。この時点では関白という日本特有でもあった正式な官職が作られたわけではなかったのですが、実質的な関白だったと見ても差し支えありません。前述した通り、光孝天皇が誕生したのは貞保・貞辰どちらが天皇になっても基経は不仲な高子とも強調して政権運営しなければいけない事に変わりなかったからですが、光孝天皇はホント良い人で、貞保が次の天皇になるにあたって面倒なもめ事を起こさない為に皇子達を臣籍降下させたのです。嫡男の時平が元服する際にも自ら加冠しました。

しかし、天皇の治世は長くは続かず、887年(仁和3)に重態となってしまったのですが、基経も天皇の配慮を一方的に受け続けていたわけでもなく、まあ前述通り淑子の猶子となっていた事が大きかったのでしょうが、臣籍降下していた源定省を推薦したのです。愚管抄によれば、天皇は両手で基経・定省それぞれの手を取り、「大臣の恩を忘れる事なかれ」と繰り返し定省に説いたとされています。間もなく天皇は崩御しました。

そして宇多新天皇が誕生して、ここで正式に基経を関白に任命しますが、辞退されます。これはあくまで形式的なもので、「俺って慎み深いから一旦断ったけど、それでも『是非やってくれ』と言われるほど信頼されているんだぜ~」と示す為のものでしたが、橘広相が改めて出す詔勅を起草しました。しかし、その中に明言されていた役職が阿衡という具体的な権限がないとされているものだったから大問題となり、しばらく政務をボイコットしてしまったのです。

表向きは菅原道真の諫言で機嫌を直したという事になっていますが、基経の真の目的は広相潰しだったのでしょう。そもそも繰り返し言う通り、他にも天皇候補がいたのに光孝天皇や宇多天皇(さらに醍醐天皇)が登場したのはそれ相応の配慮や待遇をしなければいけない高子との不仲故に断念しなければいけなくなったからで、しかも宇多天皇はまだ源定省(または定省王?)だった頃からこの広相の娘とも結婚していたから、なおさら誰のおかげで天皇になれたか分からせてやらなければならないとも思ったのでしょう。実際また、この後基経のもう一人の娘、温子も入台しましたが、皇女一人しか生まれなかったばかりか基経が死んだ後はもう果たす義理なんてないと思ったのかどうか知らないけど、もう皇子女は生まれませんでした。

もうここからはなるべくあまり突っ込んで言及したりはしないけど、宇多天皇が基経に色々配慮していた父と違って、彼の死後、時平がまだ若い事も言い訳にして菅原道真らを起用して藤原氏を抑えながら親政したのは良いのです。しかし、実際やった事は却って道真の立場を悪くしたものも目立ちました。

臣下からの即位という前代未聞の例となり、実際陽成上皇(源定省だった時に仕えていた)とか快く思っていなかった面々もいて、温子との間に皇子が生まれない内にもという事で893年(寛平5)に実施した敦仁親王の立太子を道真だけに相談したまではまだかろうじてセーフだったでしょう。第一皇子だったし、生母は主流ではないとは言え、藤原北家勧修寺流の出身であり、一方で時平にとっては妹である温子との間には前述通り基経死去以降皇子女は生まれなかったからです。しかし、譲位までその時点で中納言から太政官の首班となっていた時平にも相談しないで、これまた道真と2人で進めた事は実際ボイコットした公卿も数人出たほど反感買うのは当然だったし、トドメを刺したのは時平の妹、穏子を醍醐天皇に入台させるのは反対していた一方で、天皇のすぐ下の弟、斉世親王(厳密には斉中親王という天皇と同じ生年の弟もいたが、既にこの時点では早世していた)と道真の娘を結婚させた事です。しかもこの斉世親王の母は阿衡事件で基経の標的にされた広相の娘、美子です。阿衡事件で基経の機嫌を取る為に自分の誤りを認めてまでしたからこそ、藤原氏を抑制しようとしていたはずなのですが、そんな事までしたらなおさら藤原氏が黙っているわけがないとか想像できなかったのでしょうか?過去の苦い経験自体もう忘れてしまったのでしょうか?

その結果、実際陽成上皇を警戒していたにしても、「天皇の直系尊属である」と付け加えるの忘れていたんじゃないの?でしたが、「上皇または法皇と言えども天皇の許可なくして内裏に入る事は出来ない。」なんてルールも作ってしまったから道真を見殺しにしてしまいました。その後は「もう済んでしまった事はしょうがないや、てへっ」と思っていたのかどうかは知らないけど、遊興を楽しんでいた様で、温子が亡くなった907年(延喜7)には小倉山にハイキングに行った際、紅葉に感動して、「天皇にもこの紅葉をみせてあげたいものだ。」とうそぶいたほどだった(これを見た時平の弟、忠平の歌も百人一首に選ばれている)のだから遅くともこの頃までには醍醐天皇と和解していたのでしょう。時平も無視していたわけでは決してなかったらしいですしね。

それでも、時平も亡くなって、忠平が平将門も自分の手足として使いながら藤原北家の主流たる地位を確立していくにつれて宇多法皇も一定の政治的影響力も取り戻していった様で、正直君主として高い点数は付けられないのですが、道真の怨霊も含む数々の事件も有りながらも2018年現在に至るまで光孝天皇直系の子孫のみが皇位を継承しています。光孝天皇の即位はその後も注目された事があった様で、特に室町時代です。以前過去エントリーで光孝天皇の即位から500年下った北朝(もっと正確には後光厳系)の天皇達も自らの正当性の弱さにコンプレックスを持っており、ついにそれを克服する事が出来ないまま本来の嫡流だった崇光系に皇位が戻ってしまったと指摘しましたが、それは北朝最後の天皇である後小松天皇も例外ではなかった様です。

yahoo知恵袋でもベストアンサーに選ばれた回答していた人がいましたが、南北朝の動乱は初期と観応の擾乱期を除けば勢力的には北朝が優勢でしたが、合一が成ったのは南朝が正当なのを認めたからで、そこまでして三種の神器を後亀山天皇から譲ってもらったのですが、確かに「南朝の判定勝ち」とも見れなくもなかったでしょう。

勿論古今東西、約束事なんて当事者間の力関係次第で変えられるものですが、足利義満もタヌキでしたから両統徹立は反故にされて、自らの次は皇子の實仁親王(称光天皇)が他天皇になる事が出来ました。しかし、本来臣下である筈の義持に名前も変えさせられてしまったけど、病弱で子女に恵まれず、もう一人の皇子の小川宮も奇行が目立っていて、自身も義持の事を「室町殿様」と呼ぶほどだったらしいです。

その義持が死んだらたちまち報復行為を取ったのも、石ノ森章太郎氏の「マンガ日本の歴史」にも描かれていて、その裏返しと言えたのでしょうし、これも知っている人は知っていますが、「小松」は光孝天皇の異称なのです。結局称光天皇も小川宮も子女が出来ないまま早世し、落胤と言われている一休宗純も既に出家していたから自身の直系子孫に皇位を継承する事は出来ませんでしたが、後小松の遺詔は自身だけでなく、祖父の後光厳や父の後円融(円融天皇も、上の兄弟には冷泉天皇の他にも将来を期待されていた為平親王がいたが、即位100年後に冷泉系を女系として皇統が融合される事となった)も含んだ後光厳系の正当性を示す強い意志の表れな想像は難くないです。しかしまた、少子高齢化が進んでいる現代ではもうこの光孝天皇の様な皇位継承例は発生しないでしょうけどね。その次の宇多天皇の例だったら、もう70年以上もブランクあるけど、まあ存命中の皇籍離脱された旧皇族の方々もまだ何人かはいる(ただし、後陽成天皇や東山天皇の男系子孫の方々の方もいる)し、まだほんの少しは可能性あるかもしれませんが・・・・・・・・・・不謹慎なのは重々承知しているけど、秋篠宮も眞子さまダメだったものね。佳子さまだって祖母の悪い影響受けてそうだし、これで悠仁さままでダメだったらな悪い予感もせずにいられないもの。正直な話・・・・・・・・・・

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