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2018/09/09

百人一首の歌人達(23)-15番光孝天皇前編

君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ
(15番光孝天皇)

約4か月ぶりのこのシリーズですが、第23弾は光孝天皇です。誰なのかは分かりませんが、この歌の意味は想いの人の長寿を願って春の野草を積みに行ったら、服の袖にもう季節外れな筈の雪が降り積もってきましたというもので、実際光孝天皇って他にもいくつかぐう聖エピソードがあって、晩年に深く関わる事になる藤原基経も感心したほどだったらしいですが、優しい人柄が偲ばれる様な名歌でしょう。

実際光孝天皇こと時康親王は将来の即位が望まれる様な人では全然ありませんでした。生母は兄の文徳天皇と同じ藤原氏でも四条流で、高祖父の藤原魚名は桓武朝初期に失脚してしまい、死後名誉回復がなされるも曽祖父の末茂と祖父の総継は従五位で終わっています。生母の沢子は、810年(弘仁1)生まれの夫・仁明天皇と同じぐらいの歳だったでしょうが、少年期に死別しています。

承和の変直後に元服して以降、権力の中枢とは関係ない、親王が就く事が慣例となっている官職ほぼ全て歴任しました。同母兄弟の宗康・人康両親王は比較的若くして亡くなりましたが、時康親王は最長老的皇族が就く慣例となっている式部卿まで昇進しました。八省卿は他にも中務卿と兵部卿が親王ポストとなっていた様で、いずれも嵯峨朝以降の慣例となっていた様ですが、歴代人物を見ると、必ずしも厳密にそうだったわけもなかった様です。

舅の仲野親王(大叔父でもある)が863年(貞観5)に辞任して、その次は2歳年下だった賀陽親王かと思われましたが、彼も既に70近く、引退を願い出ていたほどだった事もあってか実現しませんでした。結局一世代下って、嵯峨天皇の皇子だった忠良親王が任命されましたが、彼も当時存命で、親王だった嵯峨天皇の皇子達の中で最年長だったわけでもなかったのです。

業良親王は、薬子の変等どうやら将来の皇位継承をめぐる権力争いに巻き込まれてしまった様ですが、生母の高津内親王(嵯峨天皇とは異母兄妹で、この時代は片親が違う兄妹または姉弟同士の結婚は珍しくなかった)が妃をやめさせられ、自身も精神疾患を抱えていた(ただ、無品でもあったが、当時の感覚では短命ではなく、享年は50代後半と思われる)からまあしょうがないとして、もう一人の兄の秀良親王も、以前取り上げた源融共々宇多朝時まで存命していたのですが、父上皇(嵯峨の事)が亡くなった途端パッとしなくなり、左大臣まで出世した融やその他兄弟達と違い、影の薄い存在なまま生涯を終えてしまった様です。父から気に入られてはいたが、能力は特に秀でていたわけでもない凡庸な人物だったのでしょう。

取りあえずそこから90年近く下って、時康親王からは孫にあたる敦実親王が950年(天暦4)に出家した後は、他の兄弟で存命者はいなかった(姉妹だったら数人いた)ので、また一世代下って、当時存命の、村上天皇の兄親王面々では最年長だった重明親王が任命されました。ところが、重明親王も4年で亡くなってしまい、その次は式明親王か有明親王が・・・・・と思いきや、嫡流ではなくなって既に半世紀以上経っていた文徳系(陽成上皇皇子)の元平親王が任じられ、彼も数年で亡くなったら今度は元長親王が任じられたのです。

元平・元長両兄弟の方が重明親王らよりも年長で、元長親王任命時には既に有明親王(なお、最初に取り上げた藤原定家も彼の子孫でもある。有明親王-源守清-源高雅-源ヨシ子-藤原忠家-藤原俊忠-藤原俊成-藤原定家・・・・)は亡くなっていたのですが、元長親王はまだ分かります。時康親王の息子で、後述しますが、天皇になる可能性もゼロではなかった是忠親王の娘が生母(つまり時康親王にとっては曽孫)だったからです。

元長親王には同母弟の元利親王もいて、彼は兄より先に亡くなってしまった様ですが、元平親王の外祖父は藤原遠長という、公卿にすらなれなかった傍流に過ぎません。ましてや、時康親王もその後に即位した宇多天皇も陽成上皇を警戒していた様で、宇多天皇が結果的に菅原道真を見殺しにしてしまったのも、「上皇といえども天皇の許可なく内裏に入ってはいけない」なルールを作ってしまったからなのですが、長生きだった陽成上皇も既に亡くなっていて、彼に配慮する必要もなかった筈です。何故そんな人物が名誉職とは言え式部卿になれたかですが、この元平親王、実は清和源氏の祖とされる源経基と同一人物だったのではな説もあるのです。

経基は生没年共にハッキリしませんが、生年は893年か914年で没年は958年か961年です。元平親王は890年(寛平2)生まれの元良親王のすぐ下の弟ですから、2、3歳程度しか離れていなかったでしょう。没年は958年(天徳2)で、経基の推定生没年とほぼ重なります。今回はホントにそうだったのか深い考察をする余裕はありませんが、もしホントに同一人物だったとしたら、平将門の反乱を告発(しかし、その時点では偽証だった)し、藤原純友の乱を鎮圧(ただし、実際純友を破ったのは小野好古)した功績も称えられての任命という事になりますが、それならそれで敦実親王のすぐ後に任命されていただろうし、経基が元平親王の息子だったという説の方がまだしっくりきます。(その場合、源頼朝や足利尊氏ら後世の子孫達も清和源氏ではなく陽成源氏という事になるが、経基は914年生まれと見た方が正しく、一方で今度は満仲が先に生まれた事になってしまうが、満仲は919~928年の間に生まれた説もあるから、920年代後半生まれならばまあ元平親王の孫で経基の子なのもありえなくはない)

ホントはどうだったのかは分かりませんが、元長親王も父ほどではないにせよ、70代半ばまで長生きして亡くなった時には既に円融天皇の御代となっていました。この時点で皇族の最長老格は章明親王でしたが、後任は天皇の兄である為平親王でした。彼の場合は理由は明白です。後ろ盾となるはずだった外祖父の源高明が安和の変で藤原氏に排除されてしまい、即位への道が完全に閉ざされてしまった事への配慮です。(これで藤原氏の権勢を脅かす存在が完全にいなくなったと思いきや、今度は天皇の伯父・叔父である兼通・兼家両兄弟の確執が始まり、そのあおりを受けて源兼明も皇族復帰させられ、彼が弟の章明親王に代わって最年長皇族となる)

為平親王の後も藤原氏嫡流の都合で天皇になり損ねた面々の任命が続く事になりました。外戚の中関白家が没落してしまった敦康親王はわずか16歳2か月で任命され、葛原親王が200年以上保持していた任命時最年少記録(23歳10か月)を更新してしまいましたが、亡くなるのも早く、僅か19歳1か月の生涯でした。(娘がいて、従兄でもある後朱雀天皇に入台したが、皇女しか生まれなかった)その後の敦儀・敦平両親王道長との確執の末、内裏の火事や眼病もあって退位を余儀なくされた三条天皇の皇子、皇位継承権を辞退させられた敦明親王(彼も式部卿経験あり)の弟で、次の敦貞・敦賢両親王はその敦明親王の息子です。

「親王の息子も親王?」とツッコまれる方もいるかもしれませんが、敦明親王は皇太子辞退と引き換えに准太上天皇の待遇も得たので、本来三世王なこの両親王も親王待遇となったのです。ところが、長く続いた藤原氏の全盛期もこの間に陰りが見られる様になりました。敦賢親王が亡くなった時には既に白河天皇の御代、時代は摂関政治から院政への移行期となっていましたが、白河天皇には存命のおじや大おじはいなくて、彼の後に即位するはずだった弟達(実仁・輔仁両親王)もまだ幼く、法親王達も登場する(以前から入道親王は存在してはいたが)様になり、さらに院政から武士の時代となった為か式部卿はこの後200年以上も途絶えてしまった様です。

復活した時は既に百人一首の歌人達は全員故人となっていて、式部卿の話に随分深入りしてしまいましたが、実際また、皇族が就くのが慣例になってから白河朝で長く途絶えるまでは基本的に「上がりポスト」にもなっていました。時康親王も本来式部卿として生涯を終える筈でした。しかし、運命のいたずらが起こります。長くなってしまったので前編・後編に区切ります。続きは後編で。

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