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2018/07/11

春秋後期~戦国期における東周の面積はどれぐらいだったか

http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/C027.htm

最近中国史は周代~春秋戦国期に興味を持っていて、故・横山光輝先生の史記も何巻か買いましたが、その中でも特にその周ですね。

別のサイトでは、最大領域は現在の中国の6分の1ぐらいだったのではと考察(ちなみに秦は統一後に征服した華南とベトナム北部の一部を含めて2.5分の1ぐらいだろうとの事)されていましたが、その周も建国後200年を過ぎると衰えが目立つ様になった様です。イソップ童話のオオカミ少年に似ている幽王の末路は正直私はあまり信じていませんが、その当時は統一王朝とされていた西周のラストキングだった事は事実であり、彼の治世を境に、都も現在の洛陽市に遷都(東周)、春秋戦国時代に入ったわけですが、いつの間にその洛陽周辺を支配するに過ぎない地方政権に転落していった様です。

殷・周代は邑という都市国家の集まりだったらしい(夏は実在した王朝だったかは微妙だが、証拠も全く皆無ではない様である)ですが、その洛陽周辺だけが実際直接的に支配していた地域だったのでしょう。実際これも他のサイトでも指摘されている様ですが、周の王って日本の室町幕府の将軍に似てるよね。血縁者も珍しくなかった諸侯達との連合政権で、一諸侯に転落してもしょーこりもなく跡継ぎ争いを繰り返していた所とか。周の王はその室町幕府将軍に宗教的権威をプラスした様でもあったけど、末期でも積極的に戦国大名間の調停等していて、織田信長や上杉謙信も直接会いにやってきた足利義輝の様な将軍もいた室町幕府(だからと言って、今谷明氏が「信長と天皇」で足利義満と信長の権力基盤の強弱も比較して、信長をやたら過小評価したのには「足利将軍が15代続いたのなんてドヤ顔で強調すべきことじゃないだろーーー!!」とか「全盛だった義満期だって、鎌倉公方を牽制する為に元々南朝方だった伊達氏に協力してもらわざるを得なかったし、応永の乱も大内義弘その人を滅ぼす事は成功しても、その後幕府が望む跡継ぎを擁立できなかったじゃないか!!」とか色々ツッコミどころ有りでしたが)と比べると特に戦国期の周および周王の空気ぶりには独特の強い哀愁を感じるのです。

そもそも周が地方政権に転落したのも、褒ジ(変換できず)の存在有無に関わらず、後継者問題が大きな原因の一つだったのに彼らはつくづく歴史から学ぶ事が出来なかった様ですが、この上記サイトでも東周がさらに本家と西周公、本家と西周公・東周公に分裂した話が分かりやすく紹介されています。この東周の分裂は春秋末期の事で、直前に王が1年で3人も代わる異常事態も間違いなくその引き金となっていたのだろうけど、東周の面積はこのサイトによれば「東京都と同じぐらい」らしい。ソースは吉川弘文館「世界史地図」だけど、実際はどれぐらいだったのか考察してみました。

まずこのサイトでそのソースとされていた地図中の周の東端と西端は現在のどこの市区に相当するかです。東端のケイ陽は河南省鄭州市ケイ陽市(中国では地級市の中に県級市という自治体があり、ケイ陽市は鄭州市の一部なのである)で、西端は西北部の周との国境に近い街に垣曲がありますが、これは現在の山西省運城市垣曲県(日本では県の方が上位の自治体だが、中国では地級市の下位自治体な様である)の事な様で、その位置から鑑みるに、河南省三門峡市東部かと思われます。両市の距離は190キロぐらい、約120キロな檜原村(国道411号の山梨県との境)~葛飾区(国道6号の千葉県との境)までよりは遠いです。次に北端と南端の距離です。嵩山と陽城(現在の鄭州市登封市)のほぼ中間にある、当時の韓との国境から魏との国境である黄河(現在の河南省焦作市辺り)までの距離は55キロほどです。東京都の場合、清瀬市から稲城市までの距離は25キロほどですが、国内どこでも南北55~65キロほどの距離があったかと思われます。

東周の面積は東西で東京都の1.6倍ほど、南北で同都の2.4倍ほどだけど、東京都よりは明らかに広く、3.5~4倍はあったかと思われます。しかし、それでも7600~8500㎢ほどで、約6100㎢の茨城県よりも広いけど、現在の河南省でも北西部の一部を治めていた過ぎなかったのですね。東周公は地図中のキョウ(またまた変換できず)は現在の鄭州市キョウ義市で、ケイ陽市までの距離は45キロ程度だから、面積は東周全体の4分の1、2000㎢前後で東京都とほぼ同じ、神奈川県等よりはやや狭く、外国と比べればミニ君主国家のモナコやリヒテンシュタインよりは広いけど、同じくそうであるルクセンブルクの8割程度に過ぎません。確かに、時のまにまにとして中国のラストエンペラー達等HPで歴史エッセイも公開しているMIC's Convenienceの管理人、猪間道明氏が言う通り、東周以降の王はプリンス(大公)相当だと見るのが妥当でしょうね。

BC(紀元前)256年に先に本家周と西周公が滅んだけど、これら合わせておそらく面積は茨城県と同じぐらい、しかし、人口は西周は3万人しかいなかったという。下妻市や高萩市、旧笠間市(友部町、岩間町との合併直前時点)等と同じぐらいじゃない。周が殷に代わって統一王朝となったのはBC1046年頃で、東周公もとうとう秦に滅ぼされたのが同249年だから約800年続いた事になります。(殷周革命前から国自体は存在していたけど)秦以降の各王朝と比べて、領域範囲は狭くとも、存続した期間はダントツのナンバー1かと思われますが、滅亡後王族達もどうなったかハッキリ分からない(劉姓を名乗る様になり、魏晋南北朝時代に活躍した末裔もいたらしいが・・・・・・・)し、後からならば何とでも言えると言うか、アウラングゼーブ死後のムガル帝国もそうだけど、狂いだした歯車を止めて、もっと一定以上の勢力を維持する事は出来なかったのか?周の歴史を改めてざっと俯瞰するとそうも思いますね。最近また、佐藤信弥氏著作「周-理想化された古代王朝」も買ったので、完読したらその感想も述べてみたいとも思います。

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