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2018/06/30

歴代衆議院副議長(日本国憲法下)の顔ぶれ前編

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(過去エントリー「歴代衆議院副議長(日本国憲法下)の顔ぶれ」)

他にも言いたい事は皆無ではないけど、約5か月前に述べた話の続編です。今度は日本国憲法下での、衆議院副議長についての話ですが、延べ31人(1人が退任後再就任)の当選回数、閣僚経験の有無、所属政党を複数の時期ごとに区切って見てみます。

Ⅰ・・・・戦後再出発~高度経済成長現出まで(1947~61年)

田中萬逸 11、○、民主
岩本信行 3・4、○、民主自由→自由
原彪    5、×、左派社会
高津正道 3、×、左派社会
杉山元治郎 7、×、右派社会
椎熊三郎 7、×、自民
正木清 7、×、社会
中村高一 6、×、社会
久保田鶴松 7、×、社会


日本国憲法下最初の政権は日本社会党・民主党・国民協同党の連立政権で、議長は当然比較第1党の社会党からで、副議長も与党第2党の民主党からの擁立となるのが自然ですが田中萬はこの時点で当選回数は尾崎行雄、斎藤隆夫に次ぐ3位ながらも、尾崎は無所属、斎藤は国務大臣待遇の行政調査部総裁(後の行政管理庁長官)に直後就任したので、無難な選任と言った所だったのでしょうか。

しかし、この社民国連立政権も1年5ヶ月で終わり、第2次吉田内閣成立直後の第24回総選挙では斎藤も移籍した民主自由党(民自党、間もなく自由党に改称)が単独過半数の議席を獲得、正副議長共に民自議員が占める事になりましたが、その吉田も公職追放から復帰した鳩山一郎と対立するようになり、26回総選挙では吉田派と鳩山派に事実上分裂し、吉田派だけでは過半数を取れなかったのが響いたのか、社会党も同じく右派と左派に分裂して、その再統一、保守合同もありながらもしばらくは原則として社会党議員が副議長に就任する事になった様です。

当選回数も「日本国憲法下での初代副議長」、田中萬を除けば6回程度だった様ですが、例外は椎熊三郎で、保守合同後初の28回総選挙(1958年5月実施)で単独過半数した余波で選任されたのでしょう。総理・総裁の岸信介、議長の星島二郎と共に保守傍流の系譜に属した(ただし、椎熊は改進党系だが、岸と星島は自由党員歴もある)ので、この頃が保守傍流最初の黄金期だったと言えたのかもしれません。(ただし、参議院正副議長は保守本流)

しかし、警職法改正をめぐる混乱により星島と椎熊は半年で辞職、翌1959年の総裁選では岸は再選されたものの、対立候補だったハト派の松村謙三も170弱も票を得たと保守合同から主導権を握り続けていた保守傍流も早くも陰りが見えてきた様です。椎熊も残念ながら大臣にはなれないまま議員在職中に死去してしまった様ですが、次の正木清も日米新安保条約をめぐる採決に反発して辞職、しかし、それは日米新安保成立には影響せず、岸はこれをきっかけとした解散も考えていた様ですが、幹事長だった川島正次郎に反対されて辞職となりました。そしてその岸辞職4か月後に実施された29回総選挙では解散直前に浅沼稲次郎が刺殺された同情票も見込まれたと思いきや、右派が民主社会党(民社党)として分裂し、擁立候補も約1/3減、正木も残念ながら落選してしまいました(間もなく死去)が、自民296議席に対し、145議席と自民の半分近く取るのがやっとでした。(全員当選しても過半数には遠く及ばなかった)

この総選挙後に選任された久保田鶴松もどうやらその浅沼の刺殺等がきっかけとなった政治的暴力行為防止法案への是非が原因で、不信任決議まで可決された上での辞職となってしまった(ただし、参議院では自民は過半数をわずかに超えていた程度だった為か法案は成立しなかった)様ですが、自民が自主憲法・再軍備等を主張する保守傍流から、防衛はアメリカに依存する、軽武装・経済成長を優先する保守本流が21世紀に入るまで大部分の時期主流派(福田政権は短命で、田中政権の親中路線を受け継いでもいたし、幹事長は田中角栄の盟友だった大平正芳を起用、中曽根政権は新自由主義色も強かったが、暴走ストッパー役だった後藤田正晴をはじめとしたその田中派からの閣僚起用が目立ち、特に角栄が脳梗塞に倒れるまでは田中曽根内閣と揶揄されたほどだった)となって、高度経済成長が長く続いていった中で社会党は早くも万年野党化する事になります。

Ⅱ・・・・保守本流の黄金期からオイルショック・ロッキードまで(1961~76年)

原健三郎・・・・8、×(退任後〇)、自民
田中伊三次・・・・8、〇、自民
園田直・・・・8、×(退任後〇)、自民
小平久雄・・・・9、〇、自民
藤枝泉介・・・・8、〇、自民
荒船清十郎・・・・9、〇、自民
長谷川四郎・・・・9、〇、自民
秋田大助・・・・10、〇、自民


当初は政権交代も期待されていた社会党が日米新安保等でも現実的な対案が示せなかったり、内部闘争したりする中で万年野党化し、それと表裏一体な自民の万年与党が固定していった中で副議長も自民出身者が占める状態がこの時期続きました。議長もこの時期、退任後さらに党の最高幹部(幹事長等)や閣僚を目指すのではなく、それ自体が最高職な「上がりポスト」となっていきましたが、副議長も前半は退任後閣僚入りする「登竜門」(?)だったのが、当選回数8・9回程度の閣僚経験者がさらに箔をつける半名誉職ポスト(?)となっていった様です。閣僚経験があった小平以降も、退任後も衆議院の常任委員会院長や閣僚に就任する例がしばらく続きましたが、この時期最後の副議長だった秋田大助はロッキードや三木おろし等自民への逆風の中で、初めて任期丸々務めましたが、戦後初で唯一の任期満了に伴う34回総選挙では落選してしました。

自民党自体も、追加公認でやっと単独過半数確保な敗北でした。秋田は次の1979年に実施された35回総選挙では返り咲きを果たしましたが、選挙はあまり強くなかったのかこれ以前にも2回落選歴もあったのも響いたのか、以後は大した活躍は見られないまま1983年に引退、政局も保革伯仲に移り変わる事になります。と、ここまで書いてきましたが、長くなってきたのでここらで区切って、続きは後編として・・・・・・・・

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