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2018/06/30

歴代衆議院副議長(日本国憲法下)の顔ぶれ後編

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(過去エントリー「歴代衆議院議長(日本国憲法下)の顔ぶれ」)

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(前エントリー「歴代衆議院副議長(日本国憲法下)の顔ぶれ前編」)


さて、前編では保守本流が自民党の主流派となり、池田・佐藤長期政権下で高度経済成長を遂げたと思いきや、オイルショックとロッキードで保革伯仲国会となった所までの歴代衆議員副議長達やその政治的背景について語りましたが、後半はそれ以降の話です。(歴代就任者名の右表記は当選回数、閣僚経験の有無、所属政党の順)

Ⅲ・・・・保革伯仲からバブル崩壊、55年体制終了へ(1976~93年)

三宅正一・・・・13、×、社会
岡田春夫・・・・13・14、×、社会
勝間田清一・・・・14、×、社会
多賀谷真稔・・・・12、×、社会
安井吉典・・・・11、×、社会
村山喜一・・・・10、×、社会


保革伯仲と言っても、この時期既に社会党から分裂した民社党の他にも公明党も結党されていて、他にも新自由クラブ共産党(戦前からあったが)等多党化の傾向も顕著となっていた。34回総選挙でも社会党は前回の118→123と微増にとどまり、衆議員ではせいぜい自民の半分弱しか議席を取れない状況は変わらなかったのですが、この時期は社会党出身の副議長が続きました。

解散が乱発されていた1950年代以前から当選を重ねていた世代の議員が政府または党の最高幹部に登りつめていった時期だったので、前編と併せて見れば当選回数も多くなっている事が分かると思います。既に秋田大助が1972年末に就任した時点で、「日本国憲法下では」初代副議長の田中萬逸以来24年ぶりの当選回数2ケタの衆議院副議長でしたが、三宅以降の6人は彼以上に多いです。尤も、社会党も片山・芦田両政権が短期で終わり、下野して万年野党化してから久しかったので、委員長や書記長、副委員長等党務では最高幹部となっても閣僚経験があった人は一人もいませんでした。この時期、漸く1986年に革命路線を否定した新宣言を発表するも、左派への配慮な付帯決議も付加される玉虫色だったものであり、また江田三郎の離党や馬場おろし等相変わらず内紛も収まらなかった事もあって、1989年の15回参議院選挙を中心とした土井ブームも所詮一過性のブームに過ぎませんでした。

Ⅳ・・・・2度の非自民政権誕生・挫折から安倍自民一強体制へ(1993年~現在)

鯨岡兵輔・・・・11、〇、自民
渡部恒三・・・・10・11、〇、新進→無所属の会
中野寛成・・・・10、×、民主
横路孝弘・・・・9(途中北海道知事を3期務める)、×、民主
衛藤征士郎・・・・10(参1・衆9)、〇、自民
赤松広隆・・・・8、〇、民主
川端達夫・・・・10、〇、民主
赤松広隆(再任)・・・・10、〇、立憲民主


党の最高幹部級を次々衆参両議院副議長に据える事は出来ても、党勢は政権交代どころか、参議院では自民を過半数割れに追い込んでも衆議院では自民の半分弱の議席数確保が精一杯だった社会党でしたが、1993年、ついに久々の政権交代が実現しました。

と言っても、社会党が一党で成し遂げたわけでは決してありません。その大きな原動力になったのは小沢郎や羽田孜ら、党内での権力闘争に敗れた元自民組です。小沢が宇野、海部、宮澤に続く第4の神輿として担ぎ上げた日本新党の細川護熙も、新党さきがけの武村正義も元自民だし、ワンワンライス繋がりだった民社党(沢隆)公明党(市川雄)との人脈もあって、選挙直前の党勢は維持した自民をついに下野させたのです。

あくまで比較第一党は自民だったから、非自民連立政権では最大勢力でも、この40回総選挙では議席を半分近く減らす惨敗(136→70)を喫した社会党の土井たか子が衆議院議長になるのには反対の声も少なくなかった様ですが、副議長には自民議員が据えられたのは当然だったでしょう。その中でも鯨岡兵輔に白羽の矢が立ったのは、「自民党の徳川慶喜」宮澤喜一に代わって総裁となった河野洋平の後ろ盾になっていた事が大きかったからだな想像は難くありません。

しかし、細川政権は、所詮結果的には政治劣化を加速させた政治改革ならぬ政治改悪以外確固たるビジョンもなかった数合わせ、烏合の衆だったので綻びるのも早かった。政権の主導権を巡って小沢と武村が対立しただけでなく、社会党を「排除」(この時参議院から衆議員に鞍替えしたが、決して小池百合子の専売特許ではないのである)した統一会派、改新を結成したのが決定打となって次の羽田政権は少数与党、連立から離脱した社会党とさきがけが自民と組む自社さ連立政権が成立して、河野が自身の総理就任をあきらめる代わりに竹下登ら共々社会党の村山富市を総理に担ぎ上げたので結局自民が僅か1年弱で与党に返り咲き、それに伴い当然鯨岡も与党議員に復帰したので衆議員の正副議長は1976年以来18年ぶりに共に与党議員となりました。

そう言えばまた、余談ながら・・・・・・ですが、この時三木政権で、三木武夫の愛弟子だった海部俊樹はこの連立政権に反対して、小沢や羽田と行動を共にする(新進党の結党)事になりましたが、鯨岡も三木→河本派出身だった(1992年に退会)し、次の第41回総選挙後に衆議院議長に就任した伊藤宗一郎も三木→河本派でした。しかし、1993年に自民が下野していなければ議長に就任予定だったと言われていたらしい派閥ボスの河本敏夫はどちらにも縁がないままだった。総理も三光汽船の倒産が無ければなれた可能性もあったらしいけど、派閥の部下達が正副いずれかの議長になったのを見届けながら(正確には語弊ある言い方だけど)引退って、ツイてなかったよね、この人って。息子(顔も父に似ている)も後述する民主党旋風で落選したら早々と引退してしまったし・・・・・・・・

まあ三木→河本派に深入りしてしまったけど、社会党も数か月で与党に返り咲いた。しかし、閣僚人数自体は与党内最多でも重要じゃないポストばかりだった細川政権の時とは違う。今回は社会党員が総理だから、野党時代はそれでも良かったのかもしれなかったけど、反対ばかり言って、自民に一定の妥協を呑ませるわけには猶更いかなかった。

だから自衛隊や日米安保も認める現実的な政策に転換せざるを得なくなって、それは私から見ても「当たり前」の話(でも、何度も言う通り、緊急事態条項にも反対だし、必然性に乏しい徴兵制の復活も含む対米追従の為の改憲ならば、憲法改正なんて止めた方が良いと信じて疑わないのである)だし、それはまた、保守強硬派だった筈の石原慎太郎(だから「もうやってられるか!!」な感じで議員辞職しちゃったんだろうね)や亀井静香(但し、彼は経済的には左派)も政権を支持して村山談話を認めるのとギブアンドテイクでもあったのだろうけど、どんなに社会党が55年体制時は政権交代の意欲すらなかった(単独で憲法改正の発議を阻止できれば良かった)万年野党であっても一定以上の支持者は常にいたわけです。

もうこういう話も他所でも散々言われている事で、長期的な視野に欠けた数合わせして、でもちょっと都合が悪くなったら排除しようとした小沢や大内啓吾らにも責任はあったけど、(表向きには)長年の宿敵だった筈の自民と組んだ代償は決して小さくなかった。村山談話は日本にもそういう選択に追い込まれた情状酌量の余地もあったながらもやはり太平洋戦争は侵略戦争だったのだから、多少配慮が過ぎる面もあっても見直すべきではないし、阪神淡路大震災での対応も、後の東日本大震災でのそれよりはまだマシだったけど、村山がついに総理を辞めて、消費増税路線も引き継いだ橋本龍太郎(既に前年1995年に河野の後任として自民党総裁に就任)が後を継ぎ、社会党も社会民主党(社民党)に改称したけど、多くの党員が要領よく民主党に逃げて、余計支持を失ってしまった。

副議長とは直接関係ない話が長くなってしまっているけど、社民党への改称後の41回総選挙(1996年10月実施)、初めての小選挙区比例代表並立制が採用された選挙でもあったけど、社民党は議席数は前回実施直後時点の70から15に大きく減らし、以降現在まで少数政党に転落したまま、自民の宿敵は、細川政権の失敗を反省したとは言い難かった小沢がまたまた数合わせして作った新進党になるかと思われた。

だから、その後羽田らと共に自民党時代から小沢と行動を共にしていた渡部恒三が副議長になったのも当然だったけど、案の定小沢はまた羽田ら仲間達と仲が悪くなって、新進党自体が無くなってしまった。次の42回総選挙(2000年6月実施)後も、色々「大人の事情」があって、本来敵である筈の自民の野中広務から再任を要請されて、果たして在任日数は歴代最多となったけど、大半は無所属の会所属などうも変な副議長となってしまった。

渡部在任中に自民主流は佐藤→田中→竹下→小渕→橋本派の流れ(ただし、橋本が平成研究会会長だった時に実権を握っていたのは野中と青木幹雄)で大半政界を支配していた平成研究会から角福戦争等因縁があった清和会に移り変わっていきましたが、郵政解散で一時は勢いをくじかれてもこの時自由党から合流していた小沢らが政治改革の一端として採用させた小選挙区比例代表並立制の効果は大きかったのです。

渡部も再び小沢と同僚となったけど、45回総選挙(2009年8月実施)で民主党は圧勝、本格的な政権交代となった。しかし、そんな多大な期待を背負って誕生した民主党政権のダメぶりは今更ここで突っ込んで語るつもりはないですが・・・・・・・・・・中野や横路についても、彼らも唱えている在日外国人参政権の付与には絶対反対だし、民社党出身だった川端達夫も、政治資金をキャバクラ代に使ったスキャンダルが発覚した事もあったけど、民主下野後も政権与党時代には口蹄疫問題で適切な対応が出来なかった赤松広隆が二度も副議長に就任した事からも改めて野党議員の劣化ぶり(もっと根本的には政治そのものの劣化か)が伺える様です。

民主党は旧民社党員、旧社会党員、旧自由党員とか他党党員を色々取り込んで、民進党に名前を変えてもそれは変わらず、小池氏が失敗したのも排除の論理をかざしたのではなく、かっての上司の一人だった小沢氏の失敗からも学ばず、そんなアメーバみたいな民進党の本質を全く見抜いていなかったからだと改めて思いますが、今度は最右派を排除した希望の党と一緒になって国民民主党となった。もし計算通り事が運んだら立憲民主をしのぐ最大野党となって、赤松氏が途中辞任した時にはその中での大物級が副議長に選ばれるのだろうけど、結果は周知の通り(衆参合わせて107人となるはずが、62人しか集まらなかった)で支持率も惨憺たる有様です。まあ参議院では今の所最大野党ですが、来夏の参議院選挙では絶対藤田幸久氏には票入れないですね、私は。社会党・民主党からの視点中心でここまで長々と述べてきましたが、このままではどんなに安倍政権が長期政権の宿命で腐敗しても、1960~70年代半ば(参議院は保守合同~1977年まで)みたいに衆参正副両議長も自民議員が独占する事態にもなりかねないでしょう。

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