« ダーリンインザフランキス5/13(第18話)感想-ミツル達の奮闘!!そしてゼロツーと別れたヒロの決断!! | トップページ | イチローから大谷翔平へ・・・・・・MLB日本人選手の過剰な礼賛にはただただ違和感 »

2018/05/13

百人一首の歌人達(22)-18番藤原敏行朝臣

「すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ
(18番藤原敏行朝臣)


1年弱ぶりのこのシリーズ、今日外出しようと思ったらあいにくの雨だったので久々に更新しますが、第22弾は18番藤原敏行朝臣です。


「すみの江」とは今の大阪府大阪市住吉区にあった海岸の事で、今でこそ埋め立て地になっていますが、当時は砂浜だった様です。夢も平安貴族にとっては単なる縁起の良さだけでなく、想いの人との恋の深さを占うバロメーターでもあったらしいですが、なかなか会う事が出来ないもどかしさを感傷的に歌った名歌だと言えるでしょう。

https://news.nifty.com/topics/mdpr/180513241649/

なぜ今回そんな歌を歌った彼を取り上げたのかと言うと、これは小野妹子の子孫と称する某タレントについての記事で、織田信成氏同様正直ホントに子孫なのか疑っているし、この記事ではまた一言コメントも残しましたが・・・・・・・・小野氏と言えば、小野篁も著名な出身者ですが、敏行は在原業平の妻の姉妹だけでなく、この篁の妹も妻にしていたのです。業平の妻の姉妹は紀有常の娘で、紀貫之とも縁戚という事になるから、何気に(?)他の百人一首歌人何人とも縁戚になっているという事ですが、そもそも彼の出自はと言うと・・・・・・・・・

名前通り藤原氏ではあるけど、主流の北家ではなく、南家巨勢麻呂流です。巨勢麻呂は敏行の高祖父に当たる人物ですが、兄だった藤原仲麻呂の乱で、兄に味方してしまった為に殺されてしまった。一方で、その直前に死んだ異説もあるのですが、いずれにせよ、兄の権勢のおこぼれに預かっていた事は確かだったので、子供達の立場が良くなるはずは無かった。

巨勢麻呂は子沢山で、男の子だけでも13人いたけど、その様に野球だけでなく、サッカーも出来るほどいながら公卿になったのは貞嗣だけでしたが、彼にしても60過ぎまで生きたからこそとも言えます。

叙爵し、貴族(五位以上)となったのは35歳の時で、同年代で北家嫡流だった藤原内麻呂の25歳と比べると10年も遅かったけど、他の兄弟達も30代後半から40代前半で漸く叙爵し、河主に至っては、叙爵の時期はハッキリ分からず、豊前守に任ぜられた799年(延暦18)直前だとすれば生年は760年前後と思われますが、従五位上に上がったのはそれから約四半世紀後の823年(弘仁14)の事。少なくとも正五位下に上がった829年(天長6)までの生存は確認でき、この時70歳前後だったかと思われますが、貞嗣以上に長生きしてもそこまでが精いっぱいだった様です。

敏行の曽祖父は真作で、貞嗣・河主らの兄にあたり、彼も生年は不明ですが、784年(延暦3)に叙爵された事から745年前後だと推定できます。娘の美都子が内麻呂の次男で、嵯峨朝以降朝廷の実力者となった冬嗣に嫁ぎましたが、長良・良房らの外祖父、清和天皇の高祖父でもあります。しかし、三守は嵯峨天皇の側近、冬嗣の義弟として右大臣まで出世(同母弟の三成もあと10年生きていたら公卿になれたかもしれない)しましたが、真作自身は娘婿の出世を見る事無く、桓武朝期に亡くなったと思われます。享年は50代半ば前後でしょう。祖父は村田で、816年(弘仁7)に叙爵されたので、生年は780年前後と推定できますが、三守と同じ冬嗣の義弟(義兄?)だったのに正五位下止まりとパッとしませんでした。父は富士麻呂でしたが、最終官位は従四位下で、祖父や曽祖父よりは出世しています。

そして敏行ですが・・・・・・・・・・・・・父もスタートは皇太子の家政一般をつかさどる職員の一角な春宮小進だった様で、この役職は従六位下相当だったらしいですが、敏行は866年(貞観8)に少内記となっており、これは平城朝以降は正七位上相当だったらしいのでさらに低い官位からのキャリアスタートとなった様です。生年は845年頃だろうと、在原行平の回で軽く触れたけど、実際はもっと前でしょう。と言うのも、舅の一人である小野岑守は830年(天長7)に亡くなっているので、妻となった娘は遅くともその前後には生まれている筈です。敏行の生年は835~840年頃と思われますが、それでも岑守の娘は彼より10歳程度も年上な「姉さん女房」だったし、義兄の篁とは親子ほどの年齢差で父の富士麻呂とも同年代です。

キャリア前半は文官職を歴任していたのが、後半は武官職を歴任する様になって、宇多朝期の895年(寛平7)には蔵人頭となった。公卿昇進も目前かと思われましたが、残念ながら間もなく病により辞職を余儀なくされた様です。運が悪かったけど、この時点で50代後半から60代前半となっていたと思われるのでまあしょうがなかったのでしょう。直後、醍醐天皇が即位した祝いという事で、従四位上・右兵衛督に昇進したけど、右兵衛督は本来五位相当職であり、これが彼のキャリアハイとなった様です。没年もハッキリせず、901年(昌泰4)説と907年(延喜7)説がありますが、前者の方が可能性高いでしょう。もしホントにそうならば享年は60代で当時としては決して短命ではないですが、菅原道真が左遷された昌泰の変前後に没した事になります。晩年に従四位上に昇進したのも、春宮坊の中・上級職員として皇太子時代の醍醐天皇に仕えた功績を評価されての事でしたが、その醍醐天皇を藤原時平共々支える筈だった道真の左遷を見て何を思ったか・・・・・・・・醍醐天皇の立太子・即位を進言したのも道真だったし、共に宇多・醍醐両天皇を支えた同志として何か複雑な感情があったかもしれません。(一方で友人だった筈の紀長谷雄は内裏に駆け込もうとした宇多法皇を敏行と同じ南家巨勢麻呂流の菅根らと共に阻止していたのだけど、三善清行の事も落第させたり、酷評したりと天才肌にありがちと言うか、道真は他人を見下していた悪癖もいくらかはあったのだろう)敏行にはまた、奇妙な逸話があり、死んだはずがやり残したことがあったと言わんばかりに一時的に生き返って自分のお経を書いて今度こそホントに死んだのそれとかです。義兄の孫でもある小野道風からも一流の能書家とも評価されていたけど、自分の特技に病的にまでこだわるとかの一面もあったのか。

残念ながら公卿昇進は果たせなかった敏行でしたが、醍醐天皇も自分に仕えてくれた事を後々まで忘れていなかった様で、父と共に仕えてもいた息子の伊衝も醍醐朝で要職を歴任し、皇太子時代の朱雀天皇にも仕え、最終的には父が果たせなかった公卿昇進を果たし、娘も更衣として天皇に入台しました。残念ながら間に生まれた第17皇子の源為明は祖父や曽祖父ほど長命ではなく、30代半ばで亡くなってしまった様ですが・・・・・・・・・・この伊衝にも歌人としての才能も有った様ですが、いずれにせよ、業平らと並ぶ平安前期を代表する歌人である事は少なくとも間違いないでしょう。

|

« ダーリンインザフランキス5/13(第18話)感想-ミツル達の奮闘!!そしてゼロツーと別れたヒロの決断!! | トップページ | イチローから大谷翔平へ・・・・・・MLB日本人選手の過剰な礼賛にはただただ違和感 »

歴史」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1159637/73478829

この記事へのトラックバック一覧です: 百人一首の歌人達(22)-18番藤原敏行朝臣:

« ダーリンインザフランキス5/13(第18話)感想-ミツル達の奮闘!!そしてゼロツーと別れたヒロの決断!! | トップページ | イチローから大谷翔平へ・・・・・・MLB日本人選手の過剰な礼賛にはただただ違和感 »