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2017/12/31

棚倉城跡小旅行記(後編)

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今度こそホントに今年最後のブログですが、途中降雨はありながらも福島県棚倉町にある棚倉城跡、亀ケ城公園に3時間少しで着きました。先週12月24日のクリスマスイブの日の事でしたが、まずは城跡の堀ですね。

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城についての歴史的経緯についての説明も勿論見る事が出来た。棚倉藩は藩主家交代が頻繁で、初代藩主が立花宗茂だったのも意外でしたが、最も長く支配した内藤家ですら3代78年に過ぎませんでした。藩主歴が最も長かったのが内藤家としては初代だった内藤信照の38年で、家光~家綱前半期に相当します。最後の藩主家は阿部家でしたが、正静が戊辰戦争で旧幕府側についてしまったので攻撃を受け、残念ながら城そのものは消失してしまったらしい。最後の藩主が義理の叔父の正功で、子爵となったけど、娘しかいなかったので島津家から婿養子を迎えた。しかし、この婿養子、正寛も義65歳まで生きた義父の後を追う様に亡くなり、長男の正一が跡を継いだけど、正一も18歳で早世して、弟の正友が養子という形で跡を継いだらしい。70過ぎまで生きた正一は相馬家から奥さんを迎えて、正靖氏と正英氏の2男を得たらしいけど、そうした確かにあった歴史のある場所に来て、改めて感慨深いものがありました。


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写真には見えないけど、上の還暦記念樹は平成17年(2005年)に建てられたものらしいです。来年で73歳という事ですね。下のオオシマザクラは桜シーズンだったらなお見ごろだったという事なのだろうけど、名前通り伊豆諸島に多く見られる桜らしい。茨城県にもあるかな?

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城跡の公園だけあってトイレもそれらしい建物になっている。

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東白川農商高等学校は前編で話した県立修明高等学校の前身校の一つです。県立棚倉高等学校と合併したから今は存在しないけど、所在地は修明高等学校と同じだった様です。

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上2枚目の写真は見ての通り忠霊塔ですが、何でこれまで建っているのかと言うと、3枚目のそれが大きく関係しているらしい。そう、旧日本軍の元帥大将、畑俊六がこの棚倉町の出身者なのです。人柄は良かったらしいですが、軍部の暴走を止める事は出来ず、他にも色々な大人の事情がありながら結果的に米内内閣を倒閣に追いやってしまった。これが仇となり、戦後はA級戦犯に指定、死刑になりそうになって、日中戦争でも高級指揮官として指揮を執ってはいたけど、そこまで重大な戦争責任があったとは思えないです。実際死刑から減じられて終身禁固となったけど、結局6年で仮出所したのは妥当な処置だったでしょう。

東京裁判の正当性についてはここで深く突っ込むつもりはない(そういう歴史認識とか憲法改正とか今年も何度もこのブログで口酸っぱくして主張してきましたし)と言うか、その是非に関わらず、歴史を個人の都合の良い様に歪曲せず、これからも平和と幸福を守り続ける事こそが何よりも大事ですが、この碑を建てたらしい鈴木孝雄も畑の後を追う様に94歳で亡くなったらしい。共に今の日本を見てどう思っているのやらですが、そんな内に午後4時近くなって、「もうすぐ4時ですから暗くならない内にお家に帰りましょう。」な旨の町内アナウンスが。日曜日だったけど、毎日流しているのか?良く言えば家族的で親切、悪く言えばお節介かもしれないけど、130キロ以上離れた所から来た私などなおさら時間に余裕ないし、一回りした所で帰る事としました。


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118号旧道残りルート(途中から棚倉町道から県道25号となる)を通って、118号とぶつかった所で左に曲がって南進しましたが、棚倉市街地を避けるために作られたバイパスだけあって、二車線ながらも流れが良かったです。県道60号とも途中交差して、右に曲がるのですが、118号~旧道の区間も指定はされてないながらもかってはここも県道60号だったと思われます。ただそのまま国道通って帰っても面白くないんで、国道289号とぶつかってからは水郡線の西に並走する町道を通りました。上の写真はその町道を通った時に撮影した、棚倉・塙両町境に設置してあるカントリーサインだけど、両町とも町章&ローマ字表記入りタイプのものを見た事ないです。茨城県でも土浦市や旧谷和原村(県道3号には村章&ローマ字表記入りのが設置されていた)、旧伊奈町とかそうだけど、どちらもない昭和46年式ばかりですね。

進んでいく内に水郡線磐城塙駅にたどり着き、国道118号に戻りましたが、118号は矢祭町内は市街地も通過して、やまっぴーというゆるイメージキャラがイラストしてあった旗もそこらかしらに見られました。市街地を過ぎて国道349号に入ると、住宅もまばらとなり、茨城県に入っていくのですが、棚倉城跡から県境まで進むのに30分はかかりました。

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茨城県に入ったら、今度は349号の旧里美村(現常陸太田市)内旧道を通りました。やはり生活道路の域を出なかったですが、上3枚目の写真から見える通りバス停留所があるのはかって国道だった名残を感じさせられるものがあります。ちなみに写真からは見えないけど、工事標識からすぐ近くの建物には地元出身の有力政治家、梶山弘志氏のポスターも見えました。

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途中また雨に降られてしまったけど、上1枚目の写真は里美中入口交差点で撮影したのもので、いったん現道と合流するけど、まもなくまた旧道とぶつかりました。撮影はしなかったけど、途中の国道461号との交差点では距離ポストも残っていて、これもまたかって国道だった名残を感じさせるものがあります。

また現道と合流した地点の近くには不動滝もあるけど、もうそんな時間なかったのであとは少し山道通って、県道36号とぶつかった所で右に曲がって県道33号を真っすぐ進んだ後、左に曲がって県道29号に入ったけど、その直後に見えた某コンビニ(この時点で午後5時15分頃)で夕食買って、運転しながら食べ終えたところで丁度常磐道那珂インターが見えたので、あとは家に近いインターまで常磐道通って帰りました。

往復6時間少しかかったけど、そこまで遠い所なんてなかなか行けないんで、今年終盤の思い出にはなりましたね。富津岬にも2011年5月6日(平日だったが、4月29日の振替休日だった)に行った事あったけど、次にまた機会あったら、日光の細尾峠(旧国道122号)か千葉の九十九里浜沿線を走りたいですね。後者は圏央道、大栄~松尾横芝区間が早く開通してほしいものですが、少なくともあと6年強はかかるらしい。それはともあれ、年始も1月8日までならほぼ毎日更新できると思います。色々ありましたが、皆様良いお年を!!

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