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2017/05/20

ソ連の副首相達その3

ブランクはあったけど、このシリーズ最終回です。

1986年10月 第一副首相4人・副首相8人
1991年1月 第一副首相3人・副首相3人


1986年10月、周知の通りゴルバチョフ時代に入り、チェルノブイリ原発事故が起きた半年後時点の事です。この時点で政治局員はグロムイコ、クナーエフ、ソロメンツェフと70代の長老達もまだ何人かはいて、特にソロメンツェフは70年代前半から長きにわたってロシアソビエト首相を務めていましたが、10年以上局員候補に据え置かれ、政治局員に昇格したのは70歳だった1983年末だったのも硬直化した老人支配の現れだったとも言えましたが、ブレジネフ時代末期から既に長く国を支配してきた長老達が姿を消し始めてきました。

ロシア史に詳しいある人のHPではブレジネフ死去直前に亡くなったミハイル・スースロフが最後のオールド・ボリシェヴィキと評されていました。「べリヤ スターリンに仕えた死刑執行人 ある出世主義者の末路」でもリトアニア党委員会第一書記時代、現地でマトモに仕事せず、モスクワにも告発された有様だったのも描かれていて、それにもかかわらず要領よく出世して第二書記にまで登りつめ、灰色の枢機卿の異名をほしいままにしていたのですが、ロシア革命前に入党して、かつ最後まで政治局員であり続けたという意味ではアルビド・ぺーリシェが最後のオールド・ボリシェビキだったでしょう。共に国家元首である最高会議幹部会議長に在職した経験もあったシュヴェルニクとミコヤンがブレジネフ時代初期に引退した時点で現役オールド・ボリシェヴィキはほぼ絶滅状態(ミコヤンはヴォロシーロフ共々最晩年には中央委員には返り咲いたらしけど、もはや特段影響力とかも無かっただろうし)だったと思われ、最後の19世紀生まれの政治局員でもあったぺーリシェは改めて異例の存在に映りますが、ソロメンツェフは1982~83年にかけてスースロフ、ブレジネフ、ぺーリシェらが亡くなって漸く政治局員に昇格したのです。ゴルバチョフ時代に入っても党統制委員会議長としてアルマアタ暴動の鎮圧を指揮した等しばらくは重用されていた様である。

話は反れてしまっているけど、そうした老人達もまだ残っていながらも政治局員の平均年齢は1986年10月時点で64.7歳で、アフガン侵攻が起きた1979年12月の69.6歳よりはいくらか若返った。副首相も67.2歳から58.7歳と政治局員以上に若返って、話は先走りするけど、アリエフやシュワルナゼ等ソ連崩壊後の独立国家でも最高首脳となった面々も見られる様になったのです。(シュワルナゼは外相も兼ねていた)第一副首相の一人だったタルイジンはニコライ・バイバコフの後任のゴスプラン議長も兼ねていて、余談だけど、「スターリン 赤い皇帝と延臣たち」でも「このような人物が40年以上も経済に関わっていた事もソ連の停滞を象徴している。」と評されてしまったバイバコフはスターリン時代からの大臣経験者としてはおそらく最後の生き残りだったでしょうね。もうソ連末期も良い所な1991年には大きく副首相の人数が減っていますが、ゴルバチョフが既にボケてもいたらしいグロムイコを引退させて最高会議幹部会議長も兼ねても保守派と急進改革派の板挟みにあって、思う様に改革が進まなかったから今度は前年の1990年3月に大統領職を新設して、自ら就任した事とも関係していたのか。

周知の通りソ連は結局崩壊してしまいましたが、それまでに第一副首相は27人、ヒラの副首相は第一への昇格者を含めて91人出ました。その内1934年に新設された第一副首相は・・・・・・・・・・

中国の国務院常務副総理は万里(在任中に昇格)の例を除いて基本的に政治局常務委員ポストな様ですが、フルシチョフ時代初期までの20余年間は空席の時期もありながらも政治局員ポストだった様です。残念ながら「出る杭は打たれる」を地で行ってしまったヴォズネセンスキーは例外的に就任時は局員候補(戦後1947年に第二書記だった上司、ジダーノフの引き立てもあってか局員に昇格するも・・・・・・)でしたが、大抜擢だったと言えたでしょう。ところが、その後はコズロフ、コスイギン、ポリャンスキーの例もありながらもそうとは限らず、クズミンやスースロフ共々キングメーカーとして君臨したウスチノフの様に就任時は局員候補どころかヒラの中央委員な例も珍しくなくなっていた。彼らも多くは就任後は局員候補または局員に昇格していったのですが、クズミンはフルシチョフと対立してしまったのか、1960年にはスイス大使に左遷させられ、在任中に中央監査委員会のメンバーから外され、その後も閑職に回され、ブレジネフ時代に入って年金生活入りしてしまった様である。

結局彼は中央委員会においては中央委員のままキャリアを終えてしまった様ですが、その後もアルヒーポフや今年亡くなったムラホフスキーの様にそうなってしまった例もいくつか見られた様です。最後の政治局員第一副首相は結局外相も兼ねていて、既に70過ぎていたグロムイコとなってしまい、政治的重要性が薄れてしまっていた事が伺えますが、1957年に起きた反党グループ事件がそのターニングポイントだったと思われます。

実際、スターリンの死直後はベリヤが一時期ながらもマレンコフに代わって行政を取り仕切っていたし、案外(?)マトモな政策も見られながらも東ドイツ問題等スタンドプレーが過ぎたベリヤの処刑後も筆頭書記(後に第一書記に改称され、1966年にスターリン時代の書記長に戻る)をマレンコフから譲られ、首相も盟友のブルガーニンに譲らせた1955年3月時点で第一副首相はモロトフ(首相経験者でもあり、その就任も「君がやれ」なスターリン直々の命令だったという)、カガノーヴィチ、ミコヤン、ぺルヴ―ヒン、サブーロフの5人で史上最多(マレンコフもヒラの副首相にはとどまる)だったと思われますが、フルシチョフに味方したミコヤン以外は全員失脚しました。翌1958年にはブルガーニンも首相を解任されただけでなく、元帥階級も大将に二階級降格(現在もべリヤ共々復されていない)させられ、首相もスターリンに倣って自身が兼任する等集団指導体制は結局5年少しで事実上否定されてしまった。彭徳懐と共に金日成の行き過ぎた独裁に干渉した事もあったミコヤンが最高会議幹部会議長に棚上げされてからさらにそれは顕著となり、間もなくブレジネフ時代になって、「書記長と首相は同一人物が兼任しない」事が事実上のルールとなったらしいけど、書記長は社会主義国の実質的な最高権力者と言っても、あくまで国家や政府ではなく、党の役職である。ブレジネフは就任前に最高会議幹部会議長になってもいた(フルシチョフの後継者とされていたコズロフが健康を害した事により、第二書記も兼ねる事となったが、まもなくミコヤンに譲らされ、第二書記に専念する事となったのもフルシチョフ失脚の伏線となってしまったのであろう)からか、ジョンソンやニクソン等アメリカ大統領との首脳会談でも外交儀礼の序列1位じゃなかったのも我慢できず、今度は最高会議幹部会議長と兼任する事になったのだから、ソ連崩壊まで・・・・・・・だったのも必然的だったでしょう。

結局ロシアはソ連時代も含めて独裁者じゃないとなかなか国がまとまらず、しかしその一方でプーチン大統領が来年の大統領選挙に出馬しない事を求めたデモも起きた等いくらかは変わっている様ですが、そのプーチンも大統領になるまでは一週間だけ第一副首相を務め、エリツィンが次々と首を挿げ替えていた首相、そして間もなく大統領となった。その後については周知の通りで、現在のロシアでも副首相は5~9人程度いるらしいけど、さあ彼ら在職経験者の中からも果たしてポストプーチンは出てくるのか?統一ロシアのロシア民族主義も特に2014年クリミア危機以降行き詰まり甚だしい様に見えて、ホントにロシア国民は今まで通りの選択で良いのか?でもありますが・・・・・・・・

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