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2017/04/01

ソ連の副首相達その2

その1からの続きです。

1955年3月 第一5人、ヒラ7人

首相がマレンコフからフルシチョフの盟友、ブルガーニンに交代した時です。(マレンコフも副首相兼発電所相にはとどまる)ついに第一が5人になってしまいましたけど、もしブルガーニンが外遊とかで不在の場合は、先任者、この場合はモロトフが閣議を取り仕切ったのか。彼ら第一首相達はあとでもっと詳細に触れるけど、5人全員幹部会会員でもありました。

1958年3月 第一2人、ヒラ4人
1962年11月 第一2人、ヒラ9人


ところが、ガチガチのスターリン主義者(モロトフ、カガノーヴィチら)と反経済分権主義者(マレンコフ、ぺルヴ―ヒン、サブーロフら)がフルシチョフ追い落しを狙った反党グループ事件で失脚してしまった影響で、副首相の人数は半減してしまいました。この頃、駐日ソビエト大使になっていたテヴォシアンも残念ながらガンで亡くなってしまったらしいですが、集団指導の筈が結局フルシチョフが衛星国(東欧、モンゴル、北朝鮮等)の指導者たち同様スターリンに倣って第一書記と首相を兼ねる事になってしまった。第一副首相は盟友のミコヤンフロル・コズロフの2人で、既にジダーノフ派が粛清されたレニングラード事件でレニングラード州党第一書記という要職に就いていたコズロフでしたが、中央委員から幹部会員への2階級昇格(1957年2月に会員候補、同年6月に正会員)、ロシアソビエト首相、そして第一副首相と急激な昇進ぶりでしたね。

コズロフの第一副首相就任はフルシチョフの首相就任の4日後の1958年3月31日の事でしたが、入れ替わりにヨシフ・クズミンがヒラの副首相に降格されています。しばらく兼任していたゴスプラン議長共々その地位を保っていたのが、その後スイスの全権大使を3年務めた後、外務省での専門コンサルタント職を経て年金生活入りとなってしまった様ですが、経済政策で意見の不一致等フルシチョフの不興を買って、左遷されてしまったのか。コズロフはその後クズミンの副首相及びゴスプラン議長解任とほぼ同時に中央委員会第二書記に新たに任じられて(後任の第一副首相はコスイギンが就任)、フルシチョフの後継者とされていた様ですが・・・・・・・・・1961年には社会主義労働英雄にもなった等この頃がコズロフの絶頂期だったでしょう。幹部会員と書記局書記を兼ねてもいたのなんて他にはフルシチョフ等数えるほどしかいなかったのだし、マレンコフ以降のソ連指導者では実際フルシチョフ以外は最高指導者になる前に第二書記となっていたのです。

この頃最高会議幹部会議長となっていたブレジネフの、wikiでのページではどうやら事実誤認な記述が見られる様ですが、1964年7月に書記局書記も兼ねていたブレジネフを解任させて、長くスターリン時代から貿易相等兼務しながら副首相を務めてきたミコヤンをその後釜に据えたのですが、何故この盟友を国家元首ながらも儀礼的なポストに棚上げさせたのですかね。コズロフが前年4月頃から健康を損ねる事になった(第二書記もブレジネフに譲る事となる)のも背景にあったのか。しかしまた、2か月前の5月17日にオットー・クーシネン(フィンランドでは売国奴扱いなのだろうと思いきや、2004年に発表された偉大なフィンランド人ランキングでは38位だったのは意外)の病死以外は政治局も書記局も特に目立ったメンバーの交代とかは直近なかった様です。ロシア史に詳しいある人のHPでも指摘された通り、ブレジネフを書記局での党務に専念させて、かつ既に70近い老人となっていたミコヤンにもこれまで女房役を務めてくれた見返りとして箔をつけるつもりだったのですかね。

1966年1月 第一2人、ヒラ11人
1979年12月 第一1人、ヒラ10人


しかし、ブレジネフはその直後の8月、ヤルタで急死したイタリア共産党書記長、パルミーロ・トリアッティ(wikiでも彼のページもあるけど、この時点ではフルシチョフはまだ・・・・・・である)の葬儀参列やアルド・モーロ首相との会談の為にイタリアに行ったらしい(しかし、この際関係がギクシャクしてしまい、以降ブレジネフは死ぬまでイタリアを訪問する事は無かったというし、モーロも赤い旅団事件で誘拐・殺害される)ですが、10月についにフルシチョフは失脚、コズロフも書記局・政治局から追放されてしまい、間もなく亡くなった。ミコヤンも1965年12月に最高会議幹部会議長を解任されながらも、その直前に開催された中央委員会総会では後任が決まっていなかったのか幹部会員はまだ解任されず、翌1966年4月まで留まった(この時、幹部会は政治局に名称が戻され、第一書記も書記長に名称が戻される。なお余談ながら、1965年のメーデーについての動画でミコヤンがブレジネフら他の最高幹部達と壇上に登った姿を見た事があるが、ブレジネフのそれが173センチだった事等から推測するに、彼の身長は164、5センチぐらいだったであろう。スターリンも163弱だったらしいけど、1949年12月の誕生日で並んでいた、172あったらしい毛沢東とは大きい身長差は感じられなかった事からもシークレットブーツを履いていた様だし、側近達も当時としても小柄な人達が多く、カリーニンやヴォロシーロフなど160もなかったっぽいけど、170を超えていたのはせいぜいモロトフとカガノーヴィチぐらいだったんじゃなかっただろうか?当時の平均よりは高かったけど、周りの王族や将軍たちは180以上がゴロゴロいたから、結局後世でもネタにされるほど小さく見えてしまったナポレオンとは対照的である)様ですが、ブレジネフ時代以降終末期を除いて副首相は第一とヒラ合わせて10数人前後で定着した様です。

ところが、中国ですら江沢民の世代以降は10年で指導者が交代するのが慣例(ただし、習近平はそれ自体は儀礼的な権限しか持たない国家主席の再選制限撤廃策等終身的な権力掌握を目指している様だが)なのに対し、ソ連はついに病死か失脚以外指導者の交代は起きなかった様ですが、ソ連の黄金期だった事もまた確かであろうブレジネフ時代も末期は指導者層が高齢化して、国内外の諸問題はますます深刻なものになっていった。

1979年12月の、アフガニスタン侵攻直前時点で政治局局員14人の平均年齢は69.6歳。50代は後に直前11月27日に開催されたの中央委員会総会で局員候補となったゴルバチョフのライバルだったグリゴリー・ロマノフ(56歳)だけで、70歳以上が8人もいて、特に最後のオールド・ボルシェビキであろうアルビド・ペリシェにいたっては既に80歳になっていた。(最後の19世紀生まれの共産党最高幹部でもあっただろうが、スースロフやブレジネフとほぼ同時期に死去)大粛清が漸く収まるか収まらないかの1939年3月に開催された中央委員会総会時点ではアンドレーエフ、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、カリーニン、ミコヤン、モロトフ、スターリン、フルシチョフ8人の平均年齢が50.6歳だったからいかに高齢化が進んでいたか分かるものでしょう。

副首相も、フルシチョフ時代以前は70過ぎでの在任者はヴォロシーロフぐらいだったでしょうが、同時期の11人の彼ら、政治局員でもある第一副首相のチーホノフなど既に75歳(翌年コスイギンの後任の首相に昇格)で、50代はコンスタンチン・カチュシェーフ(52歳)だけで平均年齢は67.2歳でした。当時の男性国民の平均寿命(ソ連時代最も高かった1986年当時で64.8歳)をも上回っていました。と、ここでまた長くなりすぎてしまったので一旦区切ります。

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