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2017/03/25

ソ連の副首相達その1

http://rossia.web.fc2.com/sp/vozhd/premier.html

このHPでも首相(正確には1946年3月以前は人民委員会議議長、それ以後は閣僚会議議長)共々一覧表が載ってますが、旧ソ連の副首相達ですね。ソ連崩壊までに第一副首相は27人、副首相は91人就任したらしいから、前者は約5年で2人、後者は約3年で4人就任した事になります。ここで各時期ごとの在職者人数を見てみます。

1923年7月 5人
1924年2月 4人(レーニン死去直後、アレクセイ・ルイコフが昇格)
1926年1月 3人
1930年12月 3人

モロトフが、スターリンと対立したルイコフに代わって首相となったのですが、ここで特筆すべきは約9か月の在任ながらも、過去エントリーで取り上げたアンドレイ・アンドレーエフがこの3人の副首相の1人となった事です。しかも、彼は1926年7月に政治局局員候補に昇格したのが、解任された翌日に就任したのです。しかし、この時点ではまた、彼は労農人民委員(現在の日本でなら農林水産大臣に相当か)も兼ねていましたが、このポストも就任した直後だった様だし、農業集団化でスターリンの不興を買ったわけではなく、単に得票数が足りなかったから再選されなかったのでしょう。(実際後の1934年2月の党大会でも、スターリンは真っ先に中央委員を決める投票で選出されたかと思いきや、真っ先に選出されたのが書記長就任も打診されていたらしいセルゲイ・キーロフで、続けて選出されたのはカリーニン、ヴォロシーロフらで、スターリンは反対票も300票近くあり、選出されたのは10番目だったという。この反対票をカガノーヴィチによる不正で3票にしたのも過去エントリーで話した通りだけど、ヴォロシーロフも無能ながらも人望はあったのでしょうか?スターリンとは必ずしも関係良好ではなかったフルンゼの遺児達も引き取って育てていたらしいし)寧ろ局員候補に再選されなかったからこそ、一時的に慰めのつもりではなかったのでしょうが、兼任させられたのでしょう。労農人民委員の在任も短期で終わり、しばらく鉄道人民委員を務める事になりましたが、アンドレーエフの昇進は続きます。

1934年5月 第一1人、ヒラ3人

ヴァレリアン・クイビシェフが初代第一副首相だった様ですが、間もなく急死、ヒラの3人も全員直後の大粛清で粛清された様です。

1939年6月 6人

ヴォロシーロフ(国防人民委員)、カガノーヴィチ(交通人民委員)、ミコヤン(貿易人民委員、なお彼の後任者は出されたバナナが熟れてなかった事為にスターリンの怒りを買って解任されたが、命までは取られず74歳まで生きたらしい)、ヴィシンスキー(科学アカデミー国家法研究所所長)、ヴォズネセンスキー(ゴスプラン議長)と他の要職も兼ねた人達ばかりでしたが、ロザリヤ・ゼムリャーチカも大粛清という棚から牡丹餅でソ連では女性唯一であろう副首相のポストを手にした様です。彼女も短期間ながら国家監督委員会議長も兼ねていたのですが、19世紀から革命活動を始め、ロシア内戦でも軍の政治委員を務める等某東京都都知事も全く小者に見えてしまうほどのオールド・ボリシェヴィキだった様ですね。

1941年5月 第一1人、ヒラ13人

ご存知の通り、成立初期においても民族人民委員を務めた事があったスターリンが首相に就任した時期です。モロトフから譲ってもらった直前にクイビシェフの急死で空席になったヴォズネセンスキーが第一副首相となったのですが、この時点でまだ38歳。モロトフは形式上は副首相(兼外相、外務人民委員)に降格となりましたが、まもなく第一副首相となり、ブルガーニン以外にもコスイギン、ぺルヴ―ヒンやサブーロフとポストスターリン時代でも活躍する(後の2人は反党グループ事件で失脚したが)人も就任し、一気に14人に。

1946年3月 第一1人、ヒラ7人


人民委員会議から閣僚会議に改編された時期です。ヒラの副首相は減りましたが、ヴォロシーロフ、カガノーヴィチ、ミコヤン、コスイギン、ヴォズネセンスキーに直後政治局員に昇格したべリヤ(ただしNKVD長官は解任される)と前述通り政治局委員候補解任直後に短期間務めた(1932年に局員に昇格する)アンドレーエフとスターリンの側近ばっかです。しかし、ヴォズネセンスキーはジダーノフの部下だった事が災いして彼の急死直後に・・・・・・・・スターリン時代、30代の人民委員(大臣)は特段珍しくはなかったけど、出世するのが早すぎて「出る杭は打たれる」となってしまったのかもね。

1950年4月 第一2人、ヒラ11人


中国と友好同盟相互援助条約を結んだ直後の時期です。モロトフだけでなく、ブルガーニンも専任の第一副首相に就任して、「第一」な筈なのにおそらく初めて2人併存する事となってしまいましたが、既に兼任していた外相も解任されてしまったらしいし、モロトフはますます干されてしまっていた様です。ユダヤ人だった奥さんまで刑務所送りにされて、それでも晩年も、「あなたは彼が背負っていた重荷が分かっていない!」とかスターリン及び大粛清や農業集団化等を擁護していた様ですが、まあスターリンのやった事を否定したら、実質的なナンバー2だった自分自身も否定する事になってしまいますからね。大学時代はロシア語を専攻していて、業界ではおそらく屈指のソ連・ロシア好きであろう声優の上坂すみれ氏は彼のファンで、そういう良くも悪くも最後まで信念を貫き通した、ブレないキャラに惹かれている様ですが。(ハッキリ「時勢を見ながら自分の意見をコロコロ変えるミコヤンより好きだ。」とか言っていた)

ヴォズネセンスキーがレニングラード事件で失脚した翌日にはアレクサンドル・エフレーモフが副首相に就任したのですが、彼は工作機械とかエンジニア畑を歩みながら着実に出世していったらしい。スターリンの首相就任時に新設された工作機械人民委員に就任したかと思えば、廃止となって、戦車産業副人民委員(次官級か)に降格されていたらしいですが、緒戦での大祖国戦争敗北が影響していたのか。しかし、間もなく再設置されたポストに返り咲いて、組織改編後も引き続き務めていた様ですが、残念ながら1951年に47歳の若さで亡くなった。

この直後にはイワン・テヴォシヤンも副首相となったのですが、彼はミコヤンと同郷のアルメニア人です。アルメニアは元々冶金業が発達していたらしいですが、テヴォシヤンも冶金畑を歩んだエンジニアだった様で、1952年10月に13年ぶりに開催された党大会では政治局から改編された幹部会の会員候補となった等スターリンのお気に入りだった事が伺えますが、そんな彼も大粛清の際には義兄(姉の夫)が粛清されて、自身も逮捕されそうだったのがべリヤとミコヤンに庇ってもらって何とか免れたという。一時お役御免になった冶金相も、翌1950年末に非鉄冶金相に改称した上で兼ねた様です。前述の党大会では、ミコヤンはモロトフ共々批判され、「非公式の幹部会」と言うか、幹部会常務会員と言った方が正確であろうメンバーから外されてしまった(アンドレーエフもどうやらこの頃聴覚障害を抱える事になってしまった様で、副首相のポストは保つも幹部会会員からは解任される)のは皮肉でしたが・・・・・・

1953年3月 第一4人、ヒラ1人
1953年12月 第一3人、ヒラ6人


30年近く最高指導者として世界の半分の支配者にまで至ったスターリンが亡くなった直後の時期です。前述の党大会で、世代交代を強く意識したであろう幹部会会員が多数解任された一方、テヴォシアンは幹部会委員候補は解任されるも、副首相兼非鉄冶金相のポストは一時的な解任を経て再び得た等世渡り上手だった様です。

党大会でスターリンを教師と称える演説をしたのも、葬儀で人民服姿で参列した(スターリンはどうやら元帥になった1943年以降は大事な行事とかでは軍服姿でも参加する様にもなった様だが)のも、その表れだったのでしょう。政治局員昇格とほぼ同時に副首相にもなっていたマレンコフが後継者として書記長から改称された筆頭書記と首相を兼ねたのですが、10日足らずで前者はフルシチョフに譲ってしまった。政務に専念という事で、その翌日には副首相が7人も解任されます。尤も、ヴォロシーロフは形式的には国家元首である最高会議幹部会議長に栄転となり、幹部会会員のポストも保った(政治局員歴34年6か月はスターリンの35年5か月に次ぐ在職期間だが、ソ連成立後ではナンバー1であろう)し、その他多くの面々も1953年中には復帰した様ですが、一時は第一副首相がモロトフ、カガノーヴィチ、べリヤ、ブルガーニンの4人に対して、ヒラの副首相はミコヤン1人だけとなってしまった。

この第一副首相の並立も、今度は集団指導体制を意識したものだったのだろうけど、内相も兼ねていたべリヤが実質的な政府の最高権力者みたいになってしまった様です。彼と比べればヒムラーですらマトモに見えてしまう、キ〇ガイ(特に若い女性絡みで)エピソードに溢れていて、だからこそそうした権力の絶頂にまで登れたのでしょうが、どうやら思ったほどリーダーシップがなかった様であるマレンコフに代わって打ち出した諸政策は案外マトモでした。しかし、結果論ですが、ドイツを統一させてアメリカに恩を売ろうとまで考えていたのはやり過ぎでしたね。マレンコフが首相の方をフルシチョフに譲っていたとしても、遅かれ早かれ破滅は免れなかったのだろうなあでもあり、その最期も異説もいくつもある様ですが、べリヤが処刑されたとされる同年の12月にはヒラの副首相は復帰組も含んで6人となりました。ヴャチェスラフ・マルイシェフもその1人で、彼は鉄道や戦車等軍事技術畑で活躍し、ソ連史上26人しかいない技術奉仕大将(この訳が適切か甚だ不安であるが)の階級も有していたのです。さあ、今度こそマレンコフを中心とした集団指導体制が再スタートすると思いきや・・・・・・長くなりすぎたので一旦ここで区切ります。

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