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2017/03/12

百人一首の歌人達(20)-16番中納言行平

「立ちわかれ いなばの山の 峯におふる まつかし聞かば 今かへりこむ」

(16番中納言行平)

約9か月ぶりのこのシリーズですが、中納言行平こと在原行平です。某アニメでも跡部様が声優だった弟の方が有名人ですが、今さら私が何か特別な事言うまでもないだろうという事で今回は兄貴な彼について取り上げます。

この歌は855年(斉衡2)に因幡守に任じられた時に歌ったという説と、源氏物語の舞台にもなった、蟄居していた須磨から帰京する時に歌ったという説がある様で、後者の場合、いなばの山は須磨離宮公園付近にある稲葉山の事を指すようです。帰京の際に烏帽子と狩衣に添えたとも言われていて、業平も狩衣姿の銅像とか残されている様ですが、彼ら在原兄弟存命時はまだ貴族の服装は奈良時代と同じだったでしょう。

何故行平が須磨にいたのかと言うと・・・・・・・話は長くなりますが、彼ら兄弟の父は阿保親王と言って、平城天皇の第一皇子でした。阿保親王は本来天皇になってもおかしくなかったのですが、天武天皇には他にも皇子が何人もいたのに、木本好信氏が指摘した(歴史読本2005年12月号「歴代皇后全伝」等を参照の事)通り持統・草壁皇統にこだわり、数々の権力闘争を引き起こしてきた事への反面教師の意味合いがあったのでしょう。平城の皇太子には弟の神野親王(嵯峨天皇)が立てられ、平城退位・嵯峨即位時の皇太子は阿保親王ではなく、異母弟の高岳親王が立てられました。高岳も外祖父の伊勢老人も桓武天皇の即位に不満を持っていた連中の期待を受けていた氷上川継の乱(川継は天武皇子の新田部親王の孫でれっきとした天武の男系子孫だったが、失敗に終わる)に連座した過去がありましたが、阿保親王外祖父の葛井高依が正五位下だったのに対し、老人はその後許されて最終的には正四位下だったのも影響したのですかね?高依は790年(延暦9)に皇太子(この場合はのちの平城)の家政一般をつかさどる春宮坊で二番目に偉い春宮亮となり、翌791年(延暦10)には宿禰性となったらしいですが、この直後に亡くなったのでしょう。もっと長生きしていればもしかしたら阿保が皇太子になっていたかもしれません。

ところが、のちの菅原道真等つくづく政争に敗れた左遷者の姥捨て山だったのか、薬子の変で阿保が太宰権帥に左遷されてしまいました。京に戻れたのが平城が崩御した824年(弘仁15)の事でしたが、818年(弘仁9)生まれの行平は大宰府で生まれていた可能性が高いです。そして帰京直後には異母弟の業平が生まれ、さらに間もなくして従兄弟の善淵(高岳の王子)らに倣って、臣籍降下していますが、これも晩年の承和の変での密告共々自己保身を図った行為だったのでしょう。直後に亡くなったらしいですが、ストレスの多い人生だった事は想像に難くありません。

ところが、今度は結果的にその承和の変で誕生した文徳天皇の皇太子を巡ってです。第一皇子は惟喬親王でしたが、生後間もない赤子の惟仁親王(清和天皇)が、生母が藤原氏(良房娘の明子)という事で半ば強引に皇太子に立てられてしまいました。行平はしばしば政争に巻き込まれた、または巻き込まれそうになり自己保身を繰り返した父の姿も見ていたからこそ、自らも「自主的に休職」して、須磨にほとぼりが冷めるまで引きこもったのでしょう。父の帰京後に生まれ、赤子の内に臣籍降下した業平の方がもっと惟喬とズブズブの関係だった様で、惟喬の伯父だった有常の娘を妻にしただけでなく、その縁で義理の従弟にもなった惟喬その人とも個人的な親交が深かった様です。実際彼も文徳朝期には六位まで下げられていたのではな説もあるようですが、舅の有常も文徳崩御直前には肥後権守等度々地方官に任じられていたあたり、軽い左遷を受けていたかと思われます。(なお、同じく百人一首歌人に選ばれている藤原敏行も業平とは妻同士が姉妹の義兄弟だったけど、父・富士麻呂の没年が850年で、少内記となったのが866年だったから生年は845~850年の間ごろ、没年が901年または907年だったから享年は50代~60代前半かと思われる)

行平が須磨から戻ったのは852年(仁寿2)末頃かと思われます。滞在期間は2年強ほどです。惟仁生母の明子が翌年の853年(仁寿3)に従三位となり、何月何日かは分かりませんでしたが、行平は正月7日に正五位下に昇叙したので、ほぼ同日の事だったでしょう。その後も弟・業平や惟喬、そして紀氏とは一定の距離を置いていたかと思われますが、応天門の変後、失脚した伴善男だけでなく、源信(左大臣)、藤原良相(右大臣)、平高棟(大納言)、藤原良縄(参議)と公卿達が何人か死んだ事もあってか、870年(貞観12)正月に参議となり、公卿に列せられた。

大抵は公卿への登竜門とされている蔵人頭を経て、参議になるのですが、行平の場合は参議となってから、872年(貞観14)に蔵人頭を兼ねたのです。そして翌873年(貞観15)12月に従三位に昇叙したのと同時に兼任していた蔵人頭や検非違使別当の職を解かれたのですが、娘の文子が清和天皇に更衣として入台したのはこの参議と蔵人頭等を兼任していた時期だったでしょう。非藤原氏の行平のこの兼任は後の兼家の中納言と蔵人頭の兼任以上に異例に感じられた人事でしたが、清和と、業平との関係も有名な高子との間には既に貞明(陽成天皇)、貞保の2皇子が生まれていた事や良房と彼の義理の甥(養子で甥の基経の妹、淑子と結婚していた)だった氏宗の死、基経のライバル、藤原常行(良相の子で、基経とは従兄弟にあたる)の大納言昇進、惟喬の出家等いくつかの政治的要因が重なったからこそ文子の入台も可能だったかと思われます。

しかし、それと同時にまた、太宰権帥も兼ねる様になります。同職が遥任化したのは250年後に藤原俊忠(俊成の父、定家の祖父だが、間もなく没する)が任命されて以降の事だったらしいので、行平は49年ぶりに大宰府に実際行ったと思われます。貞明、貞保の次期天皇候補が2人いたとは言え、やはり基経に警戒されて、軽い左遷となってしまったのでしょうか。大宰府から戻ってきたのは878年(元慶2)2月の事だったらしいですが、この間常行は結局基経の官位を越せないまま亡くなり、天皇は清和から陽成に交代、基経は新天皇の摂政となり、女御として清和に入台させていた佳珠子も貞辰親王を産んでおり、その権力はますます盤石なものとなっていました。一方で文子も貞数親王を産んでいて、この親王は実は父親は清和ではなく、業平だと噂されていたと伊勢物語にも書かれていたという。確かに小説のネタとしては面白いかもしれませんが、行平も業平も貞数誕生後も昇進を続けていたし、業平はまた、貞数誕生前後には意味深ながらも基経四十の賀で歌を献上してもいます。最晩年には蔵人頭となっていて、残念ながら兄より先に亡くなって、あと5年生きていたら参議になれたとも思いますが、三国志演義での曹操悪役設定もそうだけど、伊勢物語での業平=プレイボーイは話半分程度に聞くのが妥当かと思われます。

881年(元慶5)の貞数親王による、高子四十の賀を祝った陵王の舞(wikiでは882年とあるが、高子は842年生まれなので数え歳では881年に40歳となる)も陽成退位の遠因となったとは考えにくいです。この前後に行平は中納言・正三位に昇進しているからです。その後民部卿及び陸奥出羽按察使も兼ねていて、後者は約100年前に陸奥按察使となった大伴家持も遥任だった説があるし、行平もそうだったと思われますが、一方でまた基経の嫡男、時平元服時にも舞を踊っていたらしい。これも行平の関与もあったかとも思われますが、外孫の晴れ姿も見て、何か思う所があったのでしょう。この間、天皇は陽成から光孝天皇に交代しており、文子も従四位上に昇叙していましたが、数え年70歳となった887年(仁和3)に引退しました。そしてその直後、長男遠瞻の落雷死という不幸にも直面してしまったらしいですが、光孝崩御、宇多即位、阿衡の紛議、基経の死、弟と親交が深かった道真の参議昇進を見届けて、893年(寛平5)に満75歳で亡くなった。当時としては異例の長寿です。

行平は、生まれた時点からして祖父失脚のあおりを受け、京から遠く離れた地で過ごしましたが、帰京後も晩年まで政争で失脚していった数多くの貴族たちを目の当たりにし、自身も軽い左遷等で数度京を離れた事はあっても巧みに世渡りし、失脚を避けながら弟と共に朝廷で一定以上の地位を築く事に成功した辣腕政治家だったと言えます。

行平死後も昇進をつづけた道真はやがて他の貴族達の反感を買う様になり、その末路は周知の通りですが、彼の最晩年に従四位下となっていて、道真全盛期に参議に昇進していた次男の友干も、その失脚した道真の後任として太宰権帥兼任(太宰大弐からの昇格)となり、そのまま亡くなったのも皮肉な話ですね。つくづく大宰府に縁があるとも言うか、同時期には道真を失脚に追い込んだ時平や高子も亡くなっていて、その後在原氏から公卿が出る事は無かったながらも、兄弟とされる大江音人の子孫が毛利氏(ただし、途中の大江広元の父が誰なのかは異説もあり、ハッキリしない)ならば、行平の子孫は大谷氏、さらにこれも真偽は不明ながらも上野氏家康が出た松平氏は業平の子孫で、その後も特に戦国時代に活躍した様ですが・・・・・・・・・

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