« 6股騒動でもまだ全然懲りていなかったのであろう | トップページ | おんな城主直虎第三回感想 »

2017/01/22

スターリン時代のソ連共産党政治局員達の変遷とアンドレイ・アンドレーエフについて

ソ連時代、書記局が人事等党の日常的な運営担当ならば、政治局は党の政策決定担当で、共産党の一党独裁が正当化されているから、共産党の書記長(時代によって名称は変わったが)が最高権力者ながらも、政治局の局員達も書記長に次ぐ最高幹部達という事だったのでしょう。

wikiでのソ連共産党政治局のページでは、日本語版では時系列で誰が政治局員または局員候補に選出されたか、誰が死んだかとか詳細に記されているのに対し、ロシア語版では局員経験者ごとにいつの期間在任していたかが記されていましたが、レーニン死去~第二次世界大戦終戦直後までの政治局員メンバーの移り変わりをざっと述べます。

出会った直後から彼の事を嫌っていたスターリンは、レーニンが死んでまだ1年も経たなかった1924年11月には既にトロツキーを厳しく批判して、軍事人民委員(人民委員は他国の大臣に相当した)から電気産業特許委員会委員長に左遷しながらもまだしばらく政治局員にはとどまっていた様です。この共産党政治局は話はさかのぼりますが、1919年3月25日に改編され、1925年11月の時点では政治局員はスターリン、トロツキー、レフ・カーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフ、アレクセイ・ルイコフ、ミハイル・トムツキー、ニコライ・ブハーリンの7人だった様です。

ところが、直後の同年12月の共産党大会で、カーメネフとジノヴィエフはレーニンの奥さんで、スターリンから「ウラジーミル・イリイチ(レーニンのこと)と政治の話はするな!!」と強い叱責をされた事もあったクルプスカヤと組んで、スターリンに対抗、一国社会主義の是非が論点となった様ですが、翌1926年1月にまずカーメネフが局員候補に降格となって、革命家時代から仲が良かったクリメント・ヴォロシーロフ、ヴァチェスラフ・モロトフ、それに革命家としてもスターリンの先輩だったミハイル・カリーニンの3人が局員に昇格したのですが、カリーニンは局員候補ですら昇格したのはレーニン死後の1924年6月の事で、名誉職でスターリンに害を及ぼす様な人でもなかったにも関わらず、既に1919年から国家元首ポジである全ロシアまたは全連邦中央執行委員会議長(つまり、名目上はカリーニンも首相に相当する人民委員会議議長だったルイコフもスターリンより偉かったのである)を務めていただけに遅すぎた昇格だった気がしないでもなかったです。

wikiにも書いてあるんで、あまり詳細には突っ込まないですが、話はさらに飛んで、農業集団化や重工業化が強行されて、その副作用としてウクライナを中心に大飢饉が起きた後の1934年1月~2月に開催された第17回共産党大会では10人が局員に選出された様ですが、スターリンの有力な後継者とされたセルゲイ・キーロフの同年12月の暗殺事件及び大粛清で、キーロフ、ヴァレリヤン・クイビシェフ、スターリンとは同郷の友人でもあったグリゴリー・オルジョニキーゼ、スタ二スラフ・コシオール、ヤン・ルズタークが脱落して、モロトフ、ヴォロシーロフ、ラーザリ・カガノーヴィチ、アンドレイ・アンドレーエフに加えて、アナスタス・ミコヤン、アンドレイ・ジダーノフ、カガノーヴィチに取り立ててもらったフルシチョフ、秘密警察の長、ラヴレンチ―・べリヤ、自身も危うく粛清されそうになったゲオルギー・マレンコフの9人がスターリンの最重要な側近メンバーとして固定された感じですね。

もっとも、前任者のニコライ・エジョフですら昇格できなかったのだけど、べリヤとマレンコフが局員に昇格したのは戦後の1946年の事ですが、第18回共産党大会が開催されていた1939年3月22日時点での彼ら側近の役職をここで挙げてみます。(()内コメントは各々の主な有名エピソード等について)

モロトフ(パン籠、外交畑で辣腕を)・・・・人民委員会議議長(前述通り首相に相当)
ヴォロシーロフ(無能、最初の五大ソ連邦元帥の一人)・・・・国防人民委員(国防相に相当)
カガノーヴィチ(ウクライナ大飢饉に深く関与)・・・・人民委員会議副議長兼輸送人民委員(副首相兼運輸大臣に相当か)
アンドレーエフ(?)・・・・書記局書記、ソ連最高会議議長、共産党中央統制委員会委員長
ミコヤン(来日2度、商業畑で活躍)・・・・人民委員会議副議長兼貿易人民委員
ジダーノフ(前衛芸術批判、息子がスターリンの娘、スヴェトラーナと結婚)・・・・レニングラード党委員会第一書記、党中央委員会秘書長、同中央委員会宣伝扇動局長、ロシアソビエト最高会議議長
フルシチョフ(スターリン批判、平和共存)・・・・ウクライナ共産党第一書記
べリヤ(ソ連のヒムラー、病的なロリコン)・・・・内務人民委員部長官 ※局員候補
マレンコフ(スターリン死後、短期間だけ筆頭書記及び首相に相当する閣僚会議議長を兼任)・・・・党中央委員会書記


他にも人民委員会議副議長にはニコライ・ブルガーニンがいて、さらに議長と副議長の間に第一副議長のポストもあったのですが、大粛清の影響で、キーロフが暗殺された1934年12月時点では第一副議長がクイビシェフ、副議長がワレリー・メズダレク、ルズターク、チュバーリの合わせて4人いたのが、クイビシェフは急死してしまったけど、第一副議長は空席、副議長がいずれもスターリンの側近なカガノーヴィチ、ミコヤン、ブルガーニンの3人となって、党大会閉幕直後、アンドレイ・ヴィシンスキー、ロザリア・ゼムリヤンツカ等が就任と乱発気味となり、スターリンがモロトフから譲られて、第二次世界大戦、人民委員会の改編を経て改めて創設された閣僚会議議長にスターリンが引き続き就任した直後の1946年3月19日時点で第一副議長がモロトフ、副議長がべリヤら7人の計8人と倍増した様です。

彼ら当然ながら国家や党の重職を担っていたわけですが、その中で興味を持ったのはアンドレイ・アンドレ―エヴィチ・アンドレーエフです。親父の名前もアンドレイと言ったから、この様なフルネームだったのであり、略してanan(アンアン)ならぬananan(アンアンアン)と何ともエロい(?)響きですが、彼も結構いくつも要職を兼ねていました。

最高会議は閉会期間は短く、確かに1936年のスターリン憲法制定以降はロシア史に詳しいある人のHPでも指摘されていた通り骨抜きされていたのですが、特に党の運営面で重責を担っていた事が分かります。他のスターリンの側近達と違い、未だ日本語版wikiでは彼のページが作成されてなくて、その明確な人物像が掴めていないから却って興味を持ったのですが、スモレンスク県の農民の家の生まれだった彼は既に第一次世界大戦以前から革命活動を始めていた様で、サンクトペテルブルク(当時レニングラード)やウクライナで活動した後、1920年に25歳で党中央委員会委員(政治局員および局員候補は彼らの中から選出される)となり、その後組織局局員(のち1952年に書記局に吸収される)となり、前述のカーメネフ降格、モロトフら昇格と同時に30歳で局員候補に昇格、一緒に昇格したミコヤンと並んで最年少の局員候補でもありました。その後北カフカ―ス党委員会第一書記として地方に転勤させられた様ですが、数年でモスクワに呼び戻され、1930年に党中央統制委員会委員長、32年に政治局員に昇格、キーロフが暗殺された直後の1935年2月に書記局書記と順調に要職を歴任してきた様です。

ここで書記に選任された時の背景についてです。スターリンは一時絶対権力を確立したと思ったら農業集団化、重工業化がいかんせん強行的過ぎて、世界大恐慌に苦しむ他の列国を尻目に高度成長を遂げた一方、ウクライナでは大飢饉が発生したりと求心力が低下気味だった様です。一時は失脚したカーメネフやジノヴィエフ等に寛容な態度を示したのも、他の某HPでも何かとんでもない事をしでかす前の「フェイント」だったと指摘されていましたが、そうせざるを得なかった面もあったのでしょう。しかし、それでも不満は収まらなかった様で、17回共産党大会では投票でキーロフのそれが3票に対し、スターリンは292票も反対票が出てしまった様です。結局亡命したガンビアの某大統領もビックリな(?)カガノーヴィチによる不正行為(反対票の改竄で2票とする。このくだりはミコヤンも後に回顧録で触れていたと言う)とキーロフの辞退でキーロフ新書記長就任はならなかった様ですが、この時期が最高権力者となったスターリンにとって最も危機的状況に立たされた時だったでしょう。

この年、同じ独裁者のヒトラーも長いナイフの夜事件でレーム等の政敵を粛清しましたが、スターリンにも大きな影響を与えた事でしょう。「一番得した奴を犯人だと疑え」というのが、事件捜査の鉄則だと言われている様で、ナポレオンの毒殺(ヒ素も決定的な証拠にはならないという)等共々確実な証拠はない様ですが、やはりキーロフはスターリンの指示で暗殺されたのでしょう。その直後にアンドレーエフは書記局書記にもなり、頼朝が実は征夷大将軍は2年で辞任したのではな説があるように、スターリンも1934年以降は署名の際、必ずしも書記長を名乗らなくなった様ですが、スターリンの側近で書記局書記と政治局局員を同時に兼ねていたのはアンドレーエフ以外にはキーロフ、カガノーヴィチ、ジダーノフ、マレンコフ、フルシチョフぐらいしかいなかったのだからいかにアンドレーエフもスターリンから信頼されていたかが分かります。

その後も農業人民委員等を経て、戦後の人民委員から閣僚会議への改編の際副首相に相当する7人いた閣僚会議副議長の1人となった様ですが・・・・・・・・赤軍粛清もやり過ぎたせいで、フィンランド相手にも手こずっただけでなく、ヒトラーに裏切られた独ソ戦序盤でも敗北を重ねたトラウマで、スターリンは1930年代の大粛清を生き延びた側近達にも強い猜疑心を抱くようになった様です。明の洪武帝ともダブるものがあって、カリーニンも大腸癌で死ななかったらあのまま無事に寿命全うできたのかなあですが、まず首相経験者だったモロトフが、ユダヤ人だった奥さんが逮捕された等事あるごとに標的にされた様です。となると、スターリンだって既にこの時点で70近い老人で、べリヤとマレンコフは政治局局員に昇格したばかりでしたが、前述した現役の書記局書記と政治局局員を兼ねた面々がモロトフに代わるスターリンの有力後継者となり得ます。

その一人なフルシチョフも、ウクライナソ連(ベラルーシソ連と共にソ連と別枠で国連にも加盟)共産党第一書記の他にも大戦末期の1944年からスターリンの不興を買っていたレオニード・コルニェツからウクライナ人民会議議長(1946年以降はウクライナ閣僚会議議長か)を譲られたのが、1947年3月~12月にかけて第一書記をかっての上司で閣僚会議副議長も兼ねていたカガノーヴィチに譲らされ、ウクライナ人民会議議長専任となり、デミュヤン・コロトチェンコに人民会議議長を譲った後またウクライナソ連共産党第一書記に返り咲いたのですが、ウクライナソ連での権力集中を間違いなくスターリンに警戒されたのでしょう。

となると、次の有力後継者はジダーノフです。なるほど、レニングラード共産党第一書記はお役御免となって、1946年3月に就任したソ連最高会議議長は名誉職な面も多分にあったのでしょうが、政治局局員と書記局書記の地位は保っているし、前述のジダーノフ批判とコミンフォルム組織でしっかり点数稼ぎしたし、博士号を取った息子のユーリーもスターリンの娘、スヴェトラーナと結婚しそうだ。(実際結婚して、間にスターリンの母と同じ名前のエカテリーナが生まれて、「有名人の子供はつらい」という本でも書かれていたけど、マザコンでもあったスターリンから祝福の手紙ももらったらしい。結局数年で離婚したらしいが)

ところが彼もユーリーとスヴェトラーナとの結婚を待たないで急死してしまった。you tubeでモロトフらが葬儀で弔辞を述べた動画も目にしたけど、これもキーロフ同様怪しいぞ?じゃあ次はマレンコフか?閣僚評議会副議長にもなったし、べリヤと組んで同じ副議長のニコライ・ヴォズネセンスキーらをレニングラード事件としてでっちあげて粛清した。そうかと思えばまた、今度はそのべリヤが同胞のミングレル人達が標的にされて、横っ腹を殴られたみたいだ。そしたら今度はまた、フルシチョフがモスクワに呼び戻されて中央委員会書記とモスクワ党委員会第一書記に栄転したぞ。あれっ?アンドレーエフはどうしたの?いつの間に影薄くなってない?

どうやらミコヤンの息子、セルゴが受けたインタビューによれば、アンドレーエフは聴覚障害を抱えて、補聴器が必要となり、スターリンからもロクに議論が出来ない奴なんて政治局には必要ないとこの頃には信頼を失ってしまっていた様です。この間起きた、外務人民委員を務めた事もあったけど、ユダヤ人という事で独ソ不可侵条約を結ぶ際解任されてしまったマクシム・リトヴィノフ(スターリンがそんな事で気を遣うタマには見えないだけに意外にも感じられたけど、彼もユダヤ人にはあまり好印象を抱いていたかった様だし)の事故死もそれに見せかけたスターリンによる陰謀じゃないかとか言われていた様ですが、1952年10月に久しぶりに開催された第19回共産党大会ではモロトフだけでなく、ミコヤンもスターリンから標的にされてしまって、政治局員とは別に組織された幹部会のメンバーからも外されてしまったけど、アンドレーエフもアレクセイ・コスイギン共々とうとう政治局員にすら再選されなかった様です。

既に1948年には新たにブルガーニンと後にブレジネフ時代に閣僚会議議長を務める事になるコスイギンが政治局局員に加わったけど、クビになったのはアンドレーエフとコスイギンの2人だけだったのに16人も新たに局員への昇格者が出た。周知の通り、この大会が開催された後、5か月足らずでスターリンは死ぬ事になって、医師団事件をきっかけに次なる粛清を考えていたのを察知したべリヤに毒殺された説(モロトフに自慢していたらしい)も知っている人は知っていますが、この党大会での大量昇格も間違いなくその伏線だったのでしょうね。ヴォルコゴーノフという歴史学者によれば、1953年2月28日の会議では朝鮮戦争や前述の医師団事件についてフルシチョフら側近と話し合うもほぼ終始不機嫌で、「昔の功績さえあれば生きていけると思うのはとんでもない間違いだ。」とまで言っていた様ですが、逆にフルシチョフの回顧録ではしばしば開かれていたパーティーで楽しんでいて機嫌が良かったという。どっちが本当なんだ?まあ前者の方が可能性としては高いでしょうが、モロトフ、フルシチョフ、ジダーノフ、ミコヤン、べリヤ、そしてアンドレーエフ等長く仕えてきた側近達を次々とチクリと標的にして、突出したNO.2を作らない様にしながら、彼らを粛清して一気に世代交代を実現させ、彼らよりもっと若い幹部を自分の後継者候補にしたいと考えていた様です。

ミハイル・スースロフがその有力候補(と言っても、マレンコフとは同い年だが)だったらしいですが、実際昇格者16人中、そのスースロフも含む14人がスターリンが死んだ1953年3月5日に早くも解任されています。(人員削減を提案したのは、当日スターリンが死ぬ直前にフルシチョフらと会議したマレンコフである)スターリンの世代交代策は明らかに否定されたわけです。

その後マレンコフが書記長から改称された筆頭書記と閣僚会議議長を兼ねるも10日足らずで筆頭書記はフルシチョフに譲り、第一閣僚評議会副議長となったべリヤが実質的な最高権力者になったかに見えました。ヒムラーが全然マトモに見えるほどのキ〇〇イエピソードであふれているべリヤも、諸政策は案外(?)マトモでしたが、ドイツ問題でアメリカに恩を売ろうとしたのが命取りとなってしまった様です。中華思想の中国もそうだけど、ロシアも、タタールのくびきというトラウマを経験して、その後も大きな混乱が度々続いてきた歴史を歩んできたからかあれだけ国がバカ広いくせに自分達の縄張りを広げ、守る事にかけては他のどの国よりも貪欲です。だからスターリンだって功罪の罪の面も目立つのに今のロシアでも肯定的な評価の方が多い反面、ソ連を結果的に解体させてしまったゴルバチョフは売国奴認定されているし、北方領土問題もウクライナ・クリミア併合問題もこうしたトラウマによる貪欲さを認識しないと理解できないのですが、「こいつをいい加減何とかしないとヤバいぞ」なムードになってしまったのは当然だったでしょう。

べリヤ処刑、スターリン批判、反党グループ事件等を経て集団指導体制をうたった筈が結局フルシチョフ独裁体制となってしまいましたが、もしアンドレーエフが政治局局員だったならば反党グループ事件でのフルシチョフ解任決議にはダー、ニェットどちらを選択していたのでしょうかね?この時彼は中央委員会委員(だから、委員としては実際解任決議におそらく投票している)やソ連最高会議議員の職は保持していて、この事件が起きた1957年には中ソ友好協会会長にもなっています。この頃はまた、中ソ対立も起こり始めましたが、勿論アンドレーエフに中ソ両国のパイプ役を望んだ上での抜擢ではなかったでしょう。そもそも彼の経歴から見ても中国と特別パイプのある人には見えない。国共内戦中に訪中して毛沢東と会談したり、逆に中華人民共和国建国後の毛沢東らの訪ソの際に中ソ友好同盟相互援助条約締結の交渉をしたり、スターリン批判直後の金日成のソ連派への粛清を彭徳懐と共に止めさせようとしたりとミコヤンの方が全然そうした強いパイプがあったはずです。フルシチョフにとっては特に危険な人物とかではなかったのでしょうが、政治局員として先輩だった等元々格上だったのだから、あまり大きな顔をされても困る存在だったのも確かと言うか、中ソ友好協会会長もそんな彼に据えた名誉職だったのでしょう。1962年までには前述の公職いずれも退いて、最高会議の顧問に転じた様ですが、既に1952年10月に政治局員を解任された時点で半引退、最高会議議員等を退いた時点で実質完全引退したと言って良いでしょう。

アンドレーエフらの代わりに大量昇格されるも、スターリンの死で解任となった14人の内、スースロフは1955年に再昇格しましたが、反党グループ事件後に昇格したメンバーの一人だったブレジネフ共々フルシチョフに引導を渡す形となって、特にまた、前者がブレジネフやアンドレーエフと同じ1952年10月にいったん解任されたコスイギン(1960年に再昇格、コスイギン改革も行うが・・・・・・)共々影の最高権力者として長く続いた「停滞の時代」の象徴になったのも皮肉な話ですが、アンドレーエフもフルシチョフの後を追う様にその死の約3か月後に亡くなり、共に失脚したという事でクレムリンにも埋葬されなかったのもまた然りかもしれません。ジョジョの吉良吉影みたいに目立ち過ぎない、突出しすぎない程度に立ち回り、そつなく実務をこなして出世していったのが、戦後はそれ故に点数稼ぎで他の側近達に後れを取り、聴覚障害(?)という不幸もあって失脚し、政治的には先細りにフェードアウトしていった印象もある彼の人生でしたが、スターリンという赤いツァーリには仕える事自体が命がけだったし、ミコヤン共々その側近としては比較的したたかかつ平穏に生き抜いた方だったでしょう。

|

« 6股騒動でもまだ全然懲りていなかったのであろう | トップページ | おんな城主直虎第三回感想 »

歴史」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1159637/69335099

この記事へのトラックバック一覧です: スターリン時代のソ連共産党政治局員達の変遷とアンドレイ・アンドレーエフについて:

« 6股騒動でもまだ全然懲りていなかったのであろう | トップページ | おんな城主直虎第三回感想 »