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2016/11/06

ステンゲル政権期を中心としたホワイティー・フォードの登板記録についての一考

http://www.baseball-reference.com/players/f/fordwh01.shtml

カブスがついにビリー・ゴートの呪いを解いた今年はアメリカンリーグ東地区4位と奮わなかった(ただし、勝ち越してはいる)ながらも田中マー君はあわや最優秀防御率のタイトルを・・・・・・・と明るい話題も皆無ではなかったヤンキース、前にも言った通り黄金期はルース・ゲーリッグらの第1期(1920~30年代前半)、ディマジオ・ディッキーらの第2期(1930年代後半~40年代前半)、第3期(1940年代末~60年代前半)、マンソン・ジャクソン・ギドリーらの第4期(1970年代後半~80年代初頭)、ウィリアムス・ジーター・ペティットらの第5期(1990年代後半~2000年代)ですが、単純にリーグ優勝・世界一の回数を見れば、その中でも最盛期は第3期でしょう。

なんせ、主にセネタース(現ミネソタツインズ)で指揮を執っていたバッキー・ハリス監督期の1947年にも世界一になったけど、1949~64年にかけて14回のリーグ優勝、1949~53年の5年連続を含む9回の世界一となった。1947年も含めればそれぞれ15回、10回となって、1948年にも3位ながらも勝率6割台で、終盤までリーグ優勝の可能性を残していたのにすぐクビになってしまったなんてついてなかったかなあとも改めて思ったけど、チャンピオンリング保有数最多でそれはポストシーズンが多段階化されている今後も半永久的に更新されないであろうヨギ・ベラや史上最高のスイッチヒッターであろうミッキー・マントル、そして今回のテーマの主人公であるホワイティー・フォードがそのヤンキース第3期黄金期の主な中心選手でした。

フォード氏についてはメジャーリーグスーパースター年鑑という本では、「(ハリスの後任監督の)ケーシー・ステンゲルが監督だった時は弱いチーム相手には温存されて、強いチーム相手中心のローテーションを組まれていたから、勝ち星は思ったほどは伸びず、ステンゲルの後のラルフ・ホークが監督になって、いっそう登板機会が増えた」、ベースボールマガジン社のメジャーリーグワールドシリーズ伝説では「年俸の高騰化を防ぐ為にわざと20勝させなかった説(実際ステンゲル政権時までは1956年の19勝が最高)もあるが、強豪ヤンキースに所属しても星が伸びなかったという逆説的な見方もある」と書かれてありましたが、上記baseball referenceというサイトでホントにそうだったのかちょっと検証してみました。1950年はまだフル活動したわけではなく、1951・52年は朝鮮戦争で従軍していたので、1953年からステンゲル監督が解任された1960年まで勝敗の責任がついた登板試合を中心にですが、第3期黄金期のヤ軍のライバルは一番手はホワイトソックス(殆どのシーズンでAクラス)で、二番手はインディアンス(1959年頃まで)である事を留意していただきたい。

1953年

6月12日まで無傷の7連勝。18勝6敗32先発登板の内、ホ軍とイ軍相手に11試合登板して9勝2敗、ワールドシリーズでも現在まで破られていない(しかし、後の1998~2000年の3連覇は同等の価値があるとも言われている)空前絶後の5連覇を達成しました。

1954年

5月までは負けが先行していましたが、16勝8敗28先発登板の内、ホ軍&イ軍、それにこの時は優勝戦線にいた5月14日のタイガース戦も含めれば8勝3敗で、100勝以上しながら、イ軍が今年の日本ハム以上の強さを誇った為にリーグ6連覇はなりませんでしたが、イ軍にも3勝2敗と勝ち越してはいました。

1955年

18勝7敗33先発登板の内、ホ軍&イ軍、それにレッドソックス戦での登板も含めれば5勝5敗で、8月中旬~9月上旬にかけて5連勝し、チームもNPBの巨人もそうだった様に去年の雪辱を晴らしました。

1956年

ステンゲル政権期では前述通り勝ち星最高のシーズンで、19勝6敗30先発登板の内、ホ軍&イ軍、それに春までは優勝戦線にいた対レド軍、2試合(4月20日、5月28日)も含んで9勝3敗でした。春に6連勝、終盤に5連勝しています。

1957年

4月に2勝、しかし、怪我してしまったのかその後は7月1日のオリオールズ戦まで2か月強も勝ち星に恵まれず、何とか2ケタ勝利はしましたが、規定投球回数には達しませんでした。しかし、この年からアル・ロペスがホ軍監督に転じて、イ軍が弱体化(そして1995年まで40年近くも優勝に縁がない状態が続く)し始めた事もありましたが、フォード以外の4人の先発ローテ投手が合わせて50勝21敗と42の最終的な貯金の7割も稼ぎ、フォードの不振をカバーしました。この年のライバルは強いて言えばそのホ軍しかおらず、11勝5敗17先発登板の内、ホ軍相手には2勝2敗でした。ハンク・アーロンやエディ・マシューズらがいたブレーブスとのワールドシリーズでは1戦で勝利投手となりましたが、5戦では0-1の惜敗となり、連続世界一はなりませんでした。

1958年

5月から6月にかけて7連勝、しかし、8月8日のレド軍戦では14勝目をマークしましたが、この年はこれが最後の白星でした。この年はまた、終盤はそのレド軍も一時2位に立っていましたが、6月までは万年Bクラス球団だったセ軍やアスレチックスも優勝争いに絡み、これらのチームとホ軍相手の成績は14勝7敗29先発登板の内、7勝3敗でした。前年同様ブ軍との対戦となったワールドシリーズでは4戦でウォーレン・スパーンに投げ負けて、白星はつかなかったですが、チームは勝ち、雪辱を晴らしています。マシューズはその後移籍したタ軍でもワールドシリーズに出場していますが、アーロン等はこれが最後の出場となりました。

1959年

この第3期黄金期の中では「突然変異」と評すべきほど投打ともに振るわなかったシーズン。特に投手陣は前年もボブ・ターリーの21勝、フォードの14勝に続く3番手が9勝6敗のドン・ラーセン(しかし、ワールドシリーズでの完全試合は今も燦然と輝く)ではやや頼りなかったですが、この年もフォード、13勝したアート・ディトマーの後が・・・・・・・デューク・マースは14勝はともかく、防御率4.43はあまり褒められた内容ではありません。前年セーブ王のライン・デュレンは逆に防御率は1.88でセーブ数はやや減らしながらも14でしたが、負けも6つもあった。結局以降は成績を落とし、1961年シーズン途中に放出され、その後も5球団を渡り歩くジャニーマンとなったのですが、ベラやマントル等主軸打者も目立って成績を落とし、得点は759点から687点と70点以上も減らし、リーグ4位でした。前半戦はオ軍やセ軍も優勝争いしていた一方で下位低迷していた事もあり、最終的に79勝75敗の3位でしたが、フォード自身は16勝10敗29先発登板の内、ホ軍と一時的に復活したイ軍、それに前半戦でのオ軍・セ軍戦での登板記録は6勝5敗でした。初めての2桁敗戦したシーズンでもありました。

1960年

川上政権時の巨人も、5番打者探しに躍起になっていたけど、高倉照幸が1967年に1年だけまあまあ働いた程度、結局森(昌彦)、柴田、高田、黒江、末次の脇役生え抜き陣の中で調子が良かった人を起用して、末期にやっと末次が定着(しかし、1974年には打率.316、76年にも阪神戦でのサヨナラホームラン等活躍したと思ったら・・・・・・・)したのですが、ベラに衰えが見えてきた(エルストン・ハワードに正捕手の座を取られる。と言うか、正捕手レベルの選手も2人もいたのもヤ軍が強かった大きな理由の一つであろう。実際、後輩のサーマン・マンソンももし事故死していなければ・・・・・・・・・)ヤ軍も1958年には28本塁打打った事があったロジャー・マリスを獲得、マリスは39本塁打112打点とMVPとなり、マントルや1955年から1塁のレギュラーを獲得していたビル・スコウロンも数字を伸ばし、得点数も1958年の数字に近いものとなりました。フォードは勝ち星は伸びず、防御率も前年とほぼ同じでしたが、12勝9敗29先発登板の内、ホ軍とイ軍、それにオ軍相手に8勝5敗でした。6月中旬までは2勝5敗と苦戦していて、同月上旬にはオ軍との直接対決で3タテ食らって、貯金がなくなってしまい、6ゲーム差つけられてしまいましたが、その後は抜きつ抜かれつで最後で15連勝のラストスパートをかけて、リーグVを奪還しました。しかし、パイレーツとのワールドシリーズでは打線も投手力もパ軍を圧倒していたにもかかわらず、采配ミスも目立ち、ビル・マゼロスキーに史上初のサヨナラ本塁打を喫して、2年ぶりの世界一はなりませんでした。歳を取ると判断力が衰えるのか、監督も高齢化すると成績を落とす傾向が見られる様です。一方で最近では73歳で世界一監督となったジャック・マキ―オン、オリックスでも指揮を執った事があるけど、66歳で初めてリーグ優勝監督となったテリー・コリンズの様な例もある。またNPBでも北京五輪で過去の人となったかに思われた星野仙一が66歳で、ドラフトでフラれた巨人を倒して三原・西本に続く3人目の3球団で優勝した監督に(マー君が神懸かり的な大活躍をした2013年以外はBクラスだったが)なった例もありますが、この時のステンゲル監督は70歳。キャリアの初期と末期で彼の下でプレーしたスパーン氏には「私は天才になる前と天才でなくなった後のステンゲルを知っている。」とも言われてしまった様ですが、将来はベラを監督にしたい思惑もあってか、解任され、「ナショナルリーグでも移転したドジャースやジャイアンツに代わるニューヨークの球団が欲しい。」という事で設立されたメッツでも残念ながら手腕を発揮する事は出来ませんでした。1969年の世界一と、結局ヤ軍監督は1年限り(後に返り咲くも・・・・・)で、再び自分の下でプレーする事になったベラ氏が1973年に監督としてリーグ優勝に導いたのを見れたのは救いと言った所ですか。


実はまた、フォードはデビュー戦は1950年6月1日のレド軍戦でしたが、これも繰り返し言う様に第3期黄金期ヤ軍最大のライバルだったホ軍はそれから半月後の6月17日のメジャー初勝利の相手でもありました。1953~60年にかけては124勝58敗で、1950年の9勝も含めれば32歳で133勝していた事になる。ちなみに同じ年齢時での現代の主な日本人投手の勝ち星は日米通算した人も含みますが、工藤公康が125勝、山本昌が106勝、黒田博樹が103勝、松坂大輔が158勝、岩隈久志が130勝、石川雅規が115勝で、石川氏はおそらくNPBだけでプレーしている2000年代以降の投手では最多勝投手ですが、工藤氏や岩隈氏とほぼ同じ勝利数ですね。内この期間の対ホ軍勝敗は23勝17敗と1割以上も勝率が違っていた。勝ち星のついた試合の内大体4割はそういう優勝争いしていたチーム相手に登板していた事も分かりましたが、、もっと特筆すべきは、フォードはキャリア前期はホ軍に普通に強く、中期で殆ど勝てなくなった事もありながらも、その後は力の衰えた末期においても再び勝てるようになった点です。

1958年8月から60年にかけて1勝9敗、ホ軍は打線はそれほど強力だったわけではなく、イ軍でもロペスの下で活躍したアーリー・ウィン等の投手力やネリー・フォックスとデビューから9年連続盗塁王となったルイス・アパリシオの二遊間コンビを中心とした守備力・機動力で勝つ野球をしていたのですが、レド軍の様な強打のチームよりもそういうチームの方がある意味手ごわいのかもしれない。しかし、フォックス氏もアパリシオ氏もフォード、そしてヤ軍の凋落とほぼ同時期に他球団に移籍してしまって、それでもフォード現役時まではAクラスは維持していたのですが、その後はまた14勝4敗とカモにしていて、全キャリアでは39勝21敗だったのです。イ軍に対しても相性は悪くはなく、1953~60年にかけて18勝9敗で全キャリアでは28勝14敗でしたが、勝敗のついた試合数はホ軍よりも少なく、ホ軍のその割合は通算236勝106敗でしたから、約17.5%で別にライバルチーム相手への登板が多いのはフォード氏に限った事では全然ないでしょうすが、やはり比較的多かった事が改めて分かります。

と言うかまた、ざっと主な項目を見ただけでも・・・・・・・フォード氏って、レジェンド級の野手チームメートにも恵まれた点は堀内恒夫氏(勿論、ON等打線の援護に恵まれたからあれだけ勝てたんだと過小評価するのは早計である)に似ているけど、斎藤雅氏をもっと優秀にした感じの成績ですよね。生涯防御率2.75は歴代では88位ですが、不正投球やライフボール使用がなされていた1940年代初頭以前に出てきた投手を除けば、ドジャースのクレイトン・カーショウの2.37に次ぐ数字らしい。カーショウ氏も凄いよね。ロッキーズとか打者に超有利な球場を本拠地にしている他球団に移籍しない限り、戦後最強投手の一人にホントになれるかなあですが、確かにベラ氏も天国に旅立たれた今、その第3期黄金期選手の数少ない存命者の一人でもあるフォード氏がニューヨークタイムズでも「今生きているもっとも偉大なヤンキー」と評されたのもうなづけます。不正投球やっていた事を差し引いても。さあ、ジーター氏も引退して、過渡期にあるヤ軍ですが、第6期黄金期を築くべく生え抜きの新たなるスターは現れるのか?過去の成功も事例として今こそ・・・・・・ですね。

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