日本プロ野球81年間のリーグ平均打率について
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今年も日本シリーズ終わりましたね。2003年とかみたいなパターンになるのかと思いきや、日本ハムが札幌に戻って、完全に勢いを取り戻して・・・・・と終わってみればあっけない結末でした。黒田投手も今年いっぱいで引退するつもりらしいし、広島も来年以降尾を引かなければいいが・・・・・・・・・・さて、上記サイト等を基に1936年から今年までのリーグ平均打率を調べてみました。
1リーグ時代 | ||
1936 | 0.216 | |
1937春 | 0.226 | |
1937秋 | 0.233 | |
1938春 | 0.229 | |
1938秋 | 0.219 | |
1939 | 0.224 | |
1940 | 0.206 | |
1941 | 0.201 | |
1942 | 0.197 | |
1943 | 0.196 | |
1944 | 0.191 | |
1946 | 0.253 | |
1947 | 0.232 | |
1948 | 0.242 | |
1949 | 0.267 | |
2リーグ制以降 | ||
セリーグ | パリーグ | |
1950 | 0.265 | 0.26 |
1951 | 0.264 | 0.247 |
1952 | 0.253 | 0.254 |
1953 | 0.255 | 0.247 |
1954 | 0.254 | 0.242 |
1955 | 0.236 | 0.246 |
1956 | 0.225 | 0.232 |
1957 | 0.228 | 0.235 |
1958 | 0.231 | 0.236 |
1959 | 0.23 | 0.241 |
1960 | 0.232 | 0.246 |
1961 | 0.236 | 0.248 |
1962 | 0.231 | 0.25 |
1963 | 0.244 | 0.244 |
1964 | 0.245 | 0.25 |
1965 | 0.235 | 0.24 |
1966 | 0.237 | 0.238 |
1967 | 0.245 | 0.243 |
1968 | 0.24 | 0.244 |
1969 | 0.237 | 0.246 |
1970 | 0.234 | 0.246 |
1971 | 0.23 | 0.253 |
1972 | 0.245 | 0.256 |
1973 | 0.237 | 0.254 |
1974 | 0.249 | 0.247 |
1975 | 0.252 | 0.254 |
1976 | 0.265 | 0.256 |
1977 | 0.271 | 0.255 |
1978 | 0.269 | 0.265 |
1979 | 0.262 | 0.274 |
1980 | 0.26 | 0.273 |
1981 | 0.265 | 0.269 |
1982 | 0.255 | 0.259 |
1983 | 0.27 | 0.27 |
1984 | 0.269 | 0.265 |
1985 | 0.272 | 0.272 |
1986 | 0.259 | 0.27 |
1987 | 0.263 | 0.263 |
1988 | 0.256 | 0.26 |
1989 | 0.26 | 0.266 |
1990 | 0.262 | 0.264 |
1991 | 0.256 | 0.259 |
1992 | 0.256 | 0.259 |
1993 | 0.252 | 0.254 |
1994 | 0.26 | 0.271 |
1995 | 0.255 | 0.248 |
1996 | 0.265 | 0.258 |
1997 | 0.258 | 0.266 |
1998 | 0.259 | 0.265 |
1999 | 0.268 | 0.259 |
2000 | 0.262 | 0.264 |
2001 | 0.263 | 0.265 |
2002 | 0.257 | 0.255 |
2003 | 0.269 | 0.276 |
2004 | 0.275 | 0.278 |
2005 | 0.27 | 0.267 |
2006 | 0.263 | 0.261 |
2007 | 0.265 | 0.262 |
2008 | 0.265 | 0.265 |
2009 | 0.256 | 0.267 |
2010 | 0.267 | 0.27 |
2011 | 0.242 | 0.251 |
2012 | 0.244 | 0.252 |
2013 | 0.254 | 0.262 |
2014 | 0.264 | 0.257 |
2015 | 0.249 | 0.256 |
2016 | 0.253 | 0.259 |
ざっと見て改めて分かった点は以下の通りです。
①1リーグ時代は総じてかなり投高打低だが、特に日中戦争が泥沼化して、アメリカらとの太平洋戦争に追い込まれた1940~44年はボールの質の悪化も助長して、極端な傾向となっていた。(実際打率2割台の首位打者も登場した)
②1949・50年にはラビットボールが使用されたが、2リーグ制スタートによる球団増の影響等もあって、1950年代前半までは特にセリーグはしばらく平均打率.250台をキープしていた。
③戦前または1リーグ時代からの代表選手だった川上・藤村・小鶴・西沢・大下らが衰え始めた1950年代後半から、巨人第三期黄金期(所謂V9)が続いていた1970年代前半まで(1955~73年)長く再び顕著な投高打低現象が見られた。特にパリーグよりもセリーグが顕著で、1956・57年は.220台、高かった1964・67・72年においても.245で.250を超えた年は一つもなかった。
④1970年代後半以降は圧縮バットの使用禁止も途中見られたが、ストライクゾーンが改正された1986年頃まで逆に顕著な投高打低傾向が続いた。1978年までは特にセリーグの方がこれまた顕著で、ヤクルトはしばらく該当チームの最小得失点差記録となったほどの打ち勝つ野球で同年初めてのリーグ優勝、日本一(それなのにマニエル放出の失敗トレードをしてしまったわけだけど、広岡達朗監督は理想が高すぎて先を見過ぎてしまったのであろうと言うか、自軍の戦力を過大評価してしまったのが翌年の途中退任及び自身以上の実績を残した野村克也に対する異常なヘイトの伏線となった)を成し遂げたほどだった。
⑤その一方で、指名打者制度を導入した筈のパリーグはまだそこまででもなかった。張本や長池は守備につかなくなった事で却って打撃のリズムを狂わせてしまった様だし、選手兼監督だった江藤も既に全盛期は過ぎていた。(張本は大杉と共にセリーグの球団に移籍して、④の恩恵を受けたが、長池は結局4年後の1979年に引退する).239→.259に大きく平均打率が上がり、西地区所属のアスレチックスも連続世界一となった1973年のMLB・アメリカンリーグとは大きく結果は異なった。
⑥江藤同様選手兼監督を務めていて、その後は金田監督にロッテで拾われたのも同じだった野村解任等による南海の弱体化とほぼ同時にパリーグでも④の傾向が見られる様になり、1979・80年の飛ぶボール採用でより顕著となった。近鉄もヤクルトからマニエルをもらったからこそリーグ連覇出来たのだろうけど、西本幸雄監督=悲運の名将なのも一面的な見方に過ぎないとも言える。(あまり深入りはしないけど、例えば阪急時代、米田・梶本・足立・石井の先発カルテットを築いたのをあたかも西本一人の貢献であるような事を言っていた人もいたが、少なくとも米田・梶本については西本が指導者としてはまだ阪急と縁もゆかりもなかった頃に監督を務めていた藤本定義が一定間隔の休みを与えて、必要以上の酷使をしなかった事も決して無視してはならない。これは「週刊プロ野球セ・パ誕生60年 1962年」8ページにも書いてある事である)
⑦1981年以降はそれ以前ほどは極端な傾向にはならなくなったが、1981年はセリーグでは藤田・篠塚・大杉・掛布と打率.340以上の打者が4人も登場して、パリーグでも門田博光が当時の記録となる月刊本塁打16本をマークした。そしてこの時期はまた、落合・バース・ブーマーと三冠王が3人も登場した。
⑧1980年代後半以降はストライクゾーンのルール改正や東京ドーム誕生、甲子園球場のラッキーゾーン撤廃等の球場の大型化等でこの傾向はいっそう落ち着いていった。彼と同世代以降の日本人選手で彼ほど本塁打を打った選手はいないが、清原和博が登場したのもこの頃であり、一年目で高卒新人として記録的な成績を残したはずがその後は思ったほどは突出したシーズン成績を残さなかったのも、堤オーナーに甘やかされて、森監督以下コーチ陣も厳しい指導ができなかった(十代の四番としても先輩だった土井正博も不祥事で途中退団を余儀なくされたし、事実上のGMだった根本陸夫も福岡ダイエーに行ってしまった)とかの事情もあったのだろうけど、そういう意味でも必然的だったのかもしれない。
⑨特に1991年はパリーグの首位打者は.314と久々に低い数字となったが、そうかと思えば、西宮から神戸、川崎から千葉マリン、平和台から福岡ドームといくつかのチームの本拠地も続々と変わっていった1994年にはパリーグの平均打率は.271と突然変異的に(?)跳ね上がった。前後の年と一分五厘以上も違っていたのである。当時20歳の若武者、イチローが衝撃的な覚醒を遂げたのもこの年であるが、シーズン200本安打のみならず、打率もこの90年代では一時的に打高投低だったこの年においても.385と平均よりも一割以上も上回っていた。
⑩イチローは2000年に大リーグ(MLB)挑戦するまで、松井秀喜と共にパリーグのみならず、日本プロ野球界の代表的なレジェンドとしてあり続けたが、彼が当然の様に毎年首位打者等のタイトルを取り続けていた1990年代末期よりまた打高投低が顕著となっていった。マシンガン打線、ミレニアム打線、いてまえ打線、ダイナマイト打線といずれも一時的であったが、愛称もしっかり付けられたチームの打ち勝つ野球がしばしば見られた。特に2003~05年のダイエー・ソフトバンクのダイハード打線の破壊力はすさまじく、松中信彦は当時MLBでも長く途絶えていた(その後2012年にタイガースのミゲル・カブレラが45年ぶりに三冠王となり、チームもリーグ優勝する)久々の三冠王となる。セ・パ両リーグを見ても、特に2004年はいずれも平均打率.275以上だった。巨人の史上最強打線も本塁打・打点・長打率・出塁率いずれもセリーグ記録を塗り替えたが、優勝したのは中日だった。
⑪しかし、どんなに打線が強力でも好投手相手にはそうは打てない。この頃からまた、CS制度等プレーオフが採用され、しばらく打高投低の傾向は続きながらも、ソフトバンクはプレーオフでの苦戦が目立つ様になった。2010年はセ・パ両リーグ共にシーズン200本安打達成者が登場し、特に阪神のマートンは試合数が14多いながらも、1994年のイチローの記録を更新したが、この年はまた、ソフトバンクはリーグ優勝はしてもロッテの下剋上を許し、オール本拠地&1勝アドバンテージの条件を得ながらも日本シリーズには出場できなかった。
⑫そして運命の2011年、その後も変更問題等ゴダゴダは続いたが、統一球採用でセリーグは37年ぶりに平均打率が.240台となり、パリーグも1975年以来では最も低い記録となった。おかわりこと中村剛也が自分一人で他の特定の球団全体よりも多くの本塁打を打つ、57年ぶりの珍事が発生したのもこうした変革を象徴した出来事だったと言える。2013年以降は統一球に慣れてきたのか、前2年ほどではなくなってきており、バレンティンのシーズン60本塁打や秋山翔吾のシーズン216本安打(マートンの記録を更新)等の快挙も見られる様になったが、2010年代の平均打率はセは.253、パは.258とそれぞれ2000年代の.265、.266に比べ低下しており、しばらくは大きな傾向の変化は見られないと思われる。
何だか傾向を通してこれまでの歴史も要所要所触れた感じになってしまったけど、まあこんな感じです。さらに通算打率で上位に位置している面々の突出度(その人が現役だった頃の平均打率とその人自身の通算打率はどれほど離れているのかとか)も調べるつもりでいたけど、長くなりすぎたので今回はとりあえずここでやめておきます。
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