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2016/07/03

一昔前のMLB日程消化の一例

http://www.baseball-reference.com/teams/CHW/1959.shtml

かってMLBはアメリカンリーグは1960年、ナショナルリーグは1961年まで長く8球団・22回総当たりの154試合制が採られていました。1956年のNPBのパシフィックリーグもこの体制でしたが、ホーム・ロード各4カード・11試合だったので、4月の開幕から9月末または10月初旬の閉幕まで4×2×7=56カード消化されなければいけません。

ところが、この年のアメリカンリーグは4月10日開幕9月27日閉幕だった様なので、オールスター休みが週半分あるとして、週2カードずつでは48カードしか消化されません。なので、この年のシカゴホワイトソックスは40年ぶりにリーグ優勝したのですが、日本ではGWにあたる4月末~5月初旬、5月中旬、5月末~6月初旬、6月末~7月初旬、7月中旬、8月下旬、9月上・中旬と3カード消化した週が8週もありました。それならそれで、もう1週間は開幕早めても良かったような気もしますが・・・・・・・1940年代末~60年代前半(1949~64年)はニューヨークヤンキースの最盛期で、この間アメリカンリーグ優勝したヤンキース以外のチームは1954年のクリーブランドインディアンスと59年のこのホワイトソックスだけだったのですが、ホ軍は打線はリーグ得点が8チーム中6位に過ぎなかったのに対し、アーリー・ウィン等3人の先発投手で34の貯金のうち23稼ぎ、防御率はリーグ唯一の3点台だった投手力と、大リーグ版吉田義男だったと言え、ボルティモアオリオールズに移籍していた1964年まで9年連続盗塁王にも輝いたルイス・アパリシオ(1966年にはロサンゼルスドジャースを破り、生涯唯一の世界一も経験している)を中心とした守備・走塁力でもぎ取った栄光でした。監督はアル・ロペスでしたが、彼は前述の1954年のインディアンズの監督でもありました。(この年はNPBでも巨人が勝率6割台ながら、中日にリーグ優勝をさらわれてしまっている)1951~57年にイ軍、58~65年にホ軍を率いていて、ヤンキースの全盛期中の全盛期とほぼ被っていたので監督としてのリーグ優勝は2回だけでした。しかし、後に1968・69年にも短期間だけホ軍の指揮を執っていましたが、1965年までの15年間オールAクラスで、勝率6割台以上6回、2位以上12回とかなり安定した成績を残したのは流石だったでしょう。特にイ軍では全シーズン2位以上だったので、ヤ軍の陰に隠れてしまいましたが、ロべス監督時代が1990年代~2000年代初頭期(この時期地区優勝6回・リーグ優勝2回)に次ぐイ軍の黄金期と評しても良いかもしれません。NPBの仰木彬をもっと優秀にした感じの監督でしたね。1985~98年のパリーグもリーグ優勝したのは西武と仰木が指揮を執ったチームだけでしたが、この時期のMLB・アリーグも繰り返し言うようにリーグ優勝したのはヤ軍とロペスが指揮を執ったチームだけでした。(しかし、仰木はこの期間全てのシーズンで指揮を執ったわけではない)

http://www.baseball-reference.com/leagues/AL/1961.shtml

そのヤ軍はこの年は79勝75敗の3位ながらも僅か4つしか勝ち越せず、69勝85敗だった1925年以来の悪い成績に終わってしまって、翌1960年にはペナントは奪還するも、ワールドシリーズでピッツバーグパイレーツにサヨナラ負けを喫し、監督もケーシー・ステンゲルからラルフ・ホークに交代となりました。そして球団数も、ワシントンセネタースがミネソタ州に移転してミネソタツインズとなって、紛らわしいのですが、別組織としてのワシントンセネタース(現・テキサスレンジャーズ)とロサンゼルスエンゼルス(現・ロサンゼルスエンゼルスオブアナハイム)が加盟して10球団となり、1962年にはナリーグもそうなったので以降試合数は現在まで162試合で定着していますが、球団数が増えるという事は本来マイナーレベルだった選手も昇格出来た人もいたという事ですから、当然レベルは下がります。

映画「61*」も見た事ありますが、ご存知の通りこの年はロジャー・マリスが61本塁打を記録して、ペースでは劣りながらもベーブ・ルースのシーズン本塁打記録を更新した年でもありましたが、1959年のホ軍とは違い、ミッキー・マントルとマリスのMM砲によるものが大きかったリーグ優勝でした。試合方式は22回総当たりから18回総当たりとなり、1カード3試合が原則だった様ですから、3×2×9=54カード消化されなければいけません。

この年のヤ軍は4月11日開幕10月1日閉幕だった様ですが、4月中・下旬、6月上旬、7月上旬に計4回週3カード消化し、オールスター明け直後も木金土と日(月)でいずれも敵地でのホ軍とのカードとオ軍とのカードを消化しています。(その後火水でワシントンでのセ軍とのカードを消化し、水曜日の7月19日はダブルヘッダーだった)

http://www.baseball-reference.com/teams/NYY/1978-schedule-scores.shtml

フランク・ロビンソンが主砲で、ピート・ローズはまだマイナー暮らしだったシンシナティレッズとのワールドシリーズでも勝利し、ホーク監督は新人ながらも世界一監督となりました。翌1962年のサンフランシスコジャイアンツとのワールドシリーズでも勝利し、連続世界一となり、1963年もマントルとマリスが共に不調ながらもリーグ3連覇を果たしたのだから、凡庸な指揮官ではなかったのでしょう。

しかし、ホークはどうもヨギ・ベラへの中繋ぎ的な起用だった様で、ド軍とのワールドシリーズには敗退して、一旦勇退し、GMに転身します。ところが、ベラ監督もセントルイスカーディナルスとのワールドシリーズに敗退すると、1962年に創設され、ステンゲルが指揮を執っていたニューヨーク・メッツに移籍してしまったのですが、翌1965年にはNPBでは巨人が空前絶後のV9を始めていったのと対照的に77勝85敗の6位に沈み、1966年にはホークが途中復帰しましたが、10球団制では初の最下位にまで落ちてしまいました。ホークは1973年まで指揮を執って、68年以降(1969年に2地区制となり、ヤ軍は東地区所属となる)は勝率こそ5割前後を保ちながらも、Aクラスですら1968年と70年の2回だけでした。ホークはその後デトロイトタイガースとボストンレッドソックスでそれぞれ5年ずつ指揮を執りましたが、Aクラスはレド軍監督だった1981・82年(81年はストにより、2シーズン制が採用された)だけで、タ軍監督だった1974・75年は地区最下位でした。タ軍では、投球時にボールに話しかける不思議な兄ちゃんだったマーク・フィドリッチの新人王受賞等明るい話題も皆無ではなかったのですが、残念ながら故障で一発屋(残念ながら事故死されてしまったらしいですが、フィドリッチ氏のご冥福をこの場でもお祈りします)に終わってしまい、最終年の1978年も5月上旬までは首位を保ちながらも、86勝76敗の5位でしたが、借金80と大きく負け越し、レ軍では貯金30と勝ち越しはしましたが・・・・・・・ロペスは仰木彬をさらに優秀にした感じだったと言ったけど、ホークは上田利治をもっと尻すぼみにした感じな監督でしたね。上田は西武監督に決まりかけていた(結局広岡達朗が就任)のが、阪急監督に復帰して以降15年でリーグ優勝は1回だけながらも2位も7回あったし、2シーズン制だった1981年は前期優勝のロッテよりも勝率が高く、もし通年2位(または1位)VS通年3位以下の半期優勝チームの準プレーオフ開催ルールも存在していたら、日本シリーズも巨人VS阪急の顔合わせになっていたかもしれなかったし、1987・96・98年は後半戦の失速に泣き、1989年が特に惜しかったのですが・・・・・・・

そのホークがタ軍でもなかなか勝てなかったのを尻目に、ヤ軍はヤンキースタジアムも改修、キャットフィッシュハンター等FA制度も追い風として好選手も補強して1976年に12年ぶりのリーグ優勝、ワールドシリーズは既にロビンソンはいなかったながらもローズやジョニー・ベンチ、ジョー・モーガン、デーブ・コンセプシオン等生え抜きと移籍選手がバランスよく揃っていたレ軍にストレート負けを喫してしまった。もっと打つ選手が必要だと当時のスタインブレナーオーナーが思ったかは知りませんが、ついに翌1977年はミスターオクトーバー、レジー・ジャクソンの伝説の3連発もあって、15年ぶりに世界一を奪還した。

この年、アリーグはさらにシアトルマリナーズとカナダを本拠地とするトロントブルージェイズが加入して14球団制となったのですが、翌年の1978年まで同地区は15回総当たり、他地区は10回または11回総当たり(10回は5チームと、11回は2チームと)で、15×6+10×5+11×2で、162試合制は変わりありませんでしたが、他地区は4カードが組まれていて、カンザスシティロイヤルズがホーム6試合・ロード5試合、マ軍がホーム5試合・ロード6試合と11試合組まれていて、他の5チームが10試合組まれていました。しかし、同地区の6チームとは、他の4チームは6カード組まれていましたが、タ軍とは4連戦3カード、3連戦1カードの計4カード、ブ軍とは5カードとカード数に違いがありました。この年、ヤ軍はレド軍につけられていた最大14ゲーム差を跳ね返し、ニューヨークでの天王山2戦目が戦われた9月16日には逆に3.5ゲーム差つけましたが、レド軍も粘り強く食らいつき、最終戦のイ軍戦で負けて追いつかれてしまい、レド軍との1ゲームプレーオフに持ち込まれてしまいましたが、5-4で辛くも勝ち、同じくド軍との顔合わせになったワールドシリーズでもジャクソンは前年ほどは強烈な印象を残さなかったながらも活躍して、2年連続世界一となったわけです。巨人の1996・2008年のメークドラマ(またはメークレジェンド)以上に劇的でしたね。

翌1979年からはアリーグは同地区13回、他地区12回総当たりとKBOのドリームリーグ・マジックリーグみたいに他地区との対戦試合数(1999・2000年のみ存在したが、こちらは同地区20回、他地区18回総当たりの計132試合制)が寧ろ若干多くなり、3地区制になった後も1996年までしばらく変わりませんでした。その後1997年には交流戦が導入され、2013年にはヒューストンアストロズがナリーグからアリーグに移籍して両リーグ奇数の15球団ずつとなったので、毎週交流戦が組まれるようになり、同地区19回総当たりの76試合、他地区6または7回総当たりの66試合で交流戦は20試合とやはり162試合制は変わりないのですが、このBaseball Referenceとかで探していけば、もっと違った日程消化の例が見つかるかもしれません。しかし、いい加減長くなりすぎたので、今回は取りあえずここで区切ります。

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