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2016/06/05

百人一首の歌人達(19)-52番藤原道信朝臣

「明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな」

(52番藤原道信朝臣)


もうすぐで夏至ですが、この歌は夜明けが来るのが恨めしいと思えるほど、恋人とのひと時等強い恋心をストレートに歌った歌ですね。

この歌を歌った、藤原道信は名前は道長らと似ているけど、藤原北家でも傍流で、道長らとは従兄弟関係にあたります。(父の為信が道長らの父の兼家の弟)何で似ているのかと言うと、兼家の養子になったからです。兼家の養子にはもう一人いて、兼家長男で、道長長兄の道隆の長男、道頼で、彼が六男扱いだったから、道信が七男だったのでしょうが、いつ頃養子になったのでしょうね。彼らは。

寛和の変で、最高権力者になれそうでなれなかった兼家がやっと摂政になった時の、wikiにも書いてある為信の立ち回りからして、道信がこの伯父の養子になったのは986年7月の兼家摂政就任・右大臣辞任~同10月の元服の間ですか。次は道頼の方ですが、彼は早くて984年の兼家外孫の懐仁親王立太子した頃ですか。この時点で既に兼家は将来の青写真(花山天皇退位、懐仁親王即位、そして定子の入台)を描いていたのでしょう。道隆は愛妻・高階貴子との間に生まれた伊周・定子・隆家と比べて、守仁女との間に生まれた道頼には冷淡に接していたらしいですが、既に祖父の忠平の時から、摂関とは別に太政官の公事等を仕切って、蔵人別当も兼ねて蔵人所も把握する一上が制度化してきた。

詳しくは大津透氏著作「道長と宮廷生活」を読んでくださいですが、忠平以降も摂関は実頼はそもそも天皇とは外祖父でも外伯父(外叔父)でもなかったし、伊尹は自分が太政大臣になった直後に寿命切れ、兼通は従兄弟で右大臣だった頼忠を一上にして、左大臣だった兼明親王はかなり強引に皇族復帰させたのは良かったけど、息子の顕光・正光らを昇進させきれないまま寿命切れとなってしまった。頼忠についてもwikiで書かれている通りだけど、直接太政官を指導できたわけではなかった(兼家の摂政就任後の右大臣兼任解除以降それが一層明確となった様である)から、それならば、2人の兄(伊尹・兼通)も反面教師として、息子達をどんどん昇進させて、太政官での自分の味方を増やさなければいけない。単純な孫への愛情だけでない、いればいるほど良い子孫の栄達を願う兼家と、伊周を嫡子として定子入台の布石にもしたい道隆のそれぞれの政治的思惑がかなり絡んでいたのでしょうね。

しかし、摂家は頼通以降、正五位下または従五位上に初叙されるのが先例となった様ですが、道頼・伊周が従五位下でスタートしたのに対し、道信はその後の摂家に準ずる従五位上と一段階高かった。しかしまた、道頼・伊周の場合はまだ花山天皇在位時だったから、一条天皇在位時には彼らも同じ従五位上スタートになっていただろう・・・・・と思いきや、989年に元服した隆家も従五位下スタートだったんですね。まあこれは一時はやはり天皇の外戚になる野望もあった為光に恩を売るつもりだったのでしょうね。ところが、平安貴族って繁田信一氏の著書とかからも分かる通り乱暴だった様で、988年には道綱と道長が乗っていた牛車が為光のそれを通過したのにいじやけた従者達が石を投げつける凶行をやらかしてしまった。同年の、兄の誠信の参議昇進とどっちが先かは分からないけど、いくら摂関が前述した様な事情故(左大臣で道長の義父でもあった源雅信は摂関を止めて太政大臣には留まっていた頼忠共々まだ存命だった)に為光を兼家が厚遇しなければいけない面もあったとは言え、実際その参議昇進も泣いて懇願してやっと実現したほどだったらしいから、「一体何て事してくれたんだ!!」な気分だったのだろうと言うか、この投石事件の方が先だったのでしょうね。為信はまたそれが叶うなら右大臣を止めても良いとも言っていた様で、流石にそうはならなかったのですが、そうすると雅信の弟だった重信を後任の右大臣にしなければならない(実際、兼家死後の991年に太政大臣に表向きは昇進、悪く言えば干された為光の後任として昇進)し、最初からそこまでする意思は兼家にはなかったでしょう。その代り、話は前後するけど、987年にはまだ権大納言だった道隆を従一位にしようとして、これは辞退されたけど、989年に内大臣として次期摂関就任の資格を半ば強引に与えた様です。

そういう色々な「大人の事情」もあった様で、道信メインの話ではなくなってきているけど、スタートは道頼・伊周以上に順調で、侍従、兵衛左等を歴任する等典型的な昇進コースを辿って行った様ですが、従四位下・左近衛少将だった時点で兼家が亡くなってしまった。あとは当然伊周とはどんどん昇進差は広がっていったし、年下だった隆家にも越されそうになっていた。しかし、道信も994年正月には従四位上に昇進し、この時点ではまた、左近衛中将でもあったから・・・・・・しかし、乱暴者も多い平安貴族の中でも奥ゆかしい性格だったらしく、同じく性格はよかった道頼共々良い人ほど早く・・・・・・だったのでしょう。この年から流行し始め、翌年には中納言以上の公卿が8人も命を落とした天然痘により、彼の人生は終わってしまったのです。長兄の誠信よりも有能だった次兄の斉信が991年に24歳で従四位上、994年に27歳で蔵人頭、996年に29歳で参議になった事を考えると、彼の政治能力は分からないけど、もっと政治でも歌でも能力を発揮できていたかもしれないですね。ただ、妻にもう一人の伯父だった藤原遠量の女(つまり従兄妹同士の結婚)がいたらしいですが、これは昇進への追い風とかにはなったか。遠量は他の兄弟達の昇進速度とかから推測するに、935年前後頃の生まれかと思われますが、伊尹が従五位上昇進から昇殿許されたのに7年、兼家が8年かかったのに対し、遠量は13年かかった(ちなみに兼通が17年だった)様で、少なくとも973年までは生きていた様ですが、従四位上どまりで公卿にはなれなかった様なのであまり有能とは言えず、大きな影響はなかったかもですね。

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