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2015/09/20

百人一首の歌人達(18)-55番大納言公任

滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ(55番大納言公任)

久々のこのシリーズですが、今回は大納言公任こと、藤原公任です。

彼が生まれたのは966年(康保3)、又従兄弟の道長と同い年です。当時は村上朝末期で、皇太子は憲平親王(冷泉天皇)、その母の藤原安子は2年前の964年(応和4)に亡くなっていましたが、父・頼忠の従兄弟だった、兼通、兼家らが外伯父または外叔父となっていたのですから、祖父の実頼及び父の頼忠は皇室との外戚関係においては不利だったのですが、親王の外祖父だった師輔が亡くなった時点で既に30を超えていた彼らはいずれも公卿にすらなっていませんでした。天暦の治と後世称された村上朝はまだ藤原氏以外の氏族にもある程度は昇進できるチャンスもあった様ですが、さすがに以前過去ログで取り上げた事もあるはその師輔の長男で、皇太子の外伯父なのに従四位上・左近衛中将のままでおかしいと思ったのか、師輔の死から3か月後の960年(天徳4)8月に参議に昇進しています。そして公任が生まれた次の年の967年(康保4)1月には従三位・権中納言に昇進し、これが村上朝における極位極官となったのですが、兼通は漸く公卿への最短距離にあった蔵人頭にのぼったばかりで、兼家共々まだ公卿にはなっていませんでした。

一方で、実頼系(小野宮流)である頼忠は話は前後しますが、事務方の官職を地道に歴任しながら、既に963年(応和3)には参議として公卿の仲間入りを果たし、弟の斉敏も公任が生まれた年に春宮(皇太子)権亮と言う、皇太子に奉仕する官司の高級幹部(兼家も翌967年2月に春宮亮となっている。最終的には従三位・参議)となる等師輔系の面々とは昇進でさほどの差は無かったのは救いだったでしょうか。村上天皇崩御~頼忠の関白就任までの詳細な話は割愛しますが、安和の変及びその直後の公卿達の世代交代(9世紀末~10世紀初頭生まれの、実頼・師輔世代の公卿たちの相次ぐ死等)や兼通・兼家の有名な確執もあって、現代なら小学校五年生あたりになった頃には父はいつの間に少なくとも形式的には最高権力者となっていたのです。

だから殿上で元服できたし、官位も正五位下からのスタート。982年(天元5)には早くも従四位上と父が36歳で漸く昇った官位に、若干16歳で昇りました。この年はまた、姉の遵子が兄の冷泉から譲位された円融天皇の中宮となり、公任は大鏡によれば兼家の娘、道長の姉で天皇の女御だった詮子サイドに「こちらの女御はいつ立后されるのかな?」と嫌味を言ったと言われています。後の三舟の才でのエピソードからも伺える様に、確かに自惚れてしまう所もあったかもしれませんが、この話が事実だったかどうかは甚だ疑問です。確かに中宮にはなりましたが、遵子が未だ天皇との間に皇子を産んでなかったのに対し、詮子は懐仁親王(一条天皇)を産んでいたし、さらに兼家は伊尹存命時には既にもう一人の娘な超子を冷泉に嫁がせ、居貞(三条天皇)・為尊・敦道各親王が生まれていました。内為尊親王は和泉式部との恋愛が有名で、流石に兼家は失望のあまり、超子の死も拍車をかけたのか、詮子や懐仁親王共々東三条邸に引きこもってしまった様ですが、さらに2年後の984年(永観2)には状況が悪化します。

円融天皇が冷泉上皇の皇子で皇太子だった師貞親王(花山天皇)に譲位したのですが、花山天皇は伊尹の娘、懐子が生母で彼女は既に故人でしたが、弟で天皇にとっては外叔父にあたる義懐が、前年までは正五位下に過ぎなかったのがこの年の10月にはあっという間に正三位・右近衛中将まで昇進しました。この時点で従四位上・讃岐守だった公任はあっという間に官位・官職を抜かれてしまいました。さらに次の皇太子は兼家が外祖父の懐仁親王で、長男の道隆が従三位・春宮権大夫となりました。その他いくつかエピソードがあって、まあそれも割愛しますが、決して頼忠一族にはバラ色の未来が待っていた様な状況ではなかったのです。そんな時に姉が中宮になった程度で浮かれてこんな皮肉を言うなんてハッキリ言ってバカです。若気の至りとか言えば聞こえは良いのでしょうが、道長が「あいつの影どころか面を踏んづけてやりますよ。」と言ったとされるほどの人で、まあこの話も本当なのかどうかは疑わしいですが、話半分聞く程度にとどめるのが妥当でしょう。

さて、どうしても懐仁親王を自分が生きている内に即位させたかった兼家は息子達をフル動員させて、花山天皇を退位させて、それも詳しい経緯は割愛しますが、それは成功し、頼忠は摂関を辞めざるを得ませんでした。流石に晴れて一条天皇の摂政になった兼家は、太政大臣の位まで頼忠から奪おうとまでは思わなかった様で、右大臣を辞めて従一位・准三后となり、自らを臣下の一人から皇族に準ずる立場に引き上げる事で頼忠や、左大臣だった源雅信の下位者の立場を脱したのですが、ほぼ同時に公任が昇殿を許されたのも前関白・頼忠に対する配慮だったのでしょうか。以降昇進は道隆や道長等兼家の息子達には遅れを取りましたが、父が亡くなった989年(永延3)には蔵人頭となって、直後兼家が亡くなって、道隆の時代になってもです。この頃、公任が結婚した昭平親王(冷泉・円融天皇の兄弟)の娘が道隆・道長らの兄弟で、自分が一番花山の退位に貢献したのに道隆が摂関職を継いだにの不満を持っていた道兼の養女でもあった事から、道兼と連携して道隆に対抗する意図もあったのではとの意見もある様ですが、道隆関白期においても992年(正歴3)に参議に昇進して、26歳での公卿の仲間入りは決して遅い昇進スピードではなかったし、誰ともバランスを取ってある程度以上仲良くしていたのでしょう。実際また、995年(長徳1)には皇后宮大夫にもなり、この時の皇后は道隆の娘の藤原定子だったのですが、この2日前の9月19日に公卿達の疫病等による相次ぐ死で既に内覧(関白に準ずる)となっていた道長が右大臣・藤原氏長者となり、まだ道隆の息子達である伊周や隆家という政敵はいましたが、やがて法皇となっていた花山を襲って自滅した等道長の時代となります。

冒頭の歌は999年(長徳5)に道長の嵯峨遊覧に同行した時に歌った歌ですが、道長の政権獲得直後は皇后宮大夫等必ずしも彼にすり寄っていたわけでは無かった公任も、遅くともこの頃以降は道長に追従しながらも、自らの才能を発揮していく道を選んだ様です。この年まで官位はずっと正四位下だったのが、1月7日に従三位に昇進し、翌1000年(長保2)には中納言・正三位、1005年(寛弘2)には従二位、1009年(寛弘6)には権大納言となりました。この間また、皇太后宮大夫となっており、皇太后は姉の遵子の事でしたが、とうとう円融との間に子は生まれなかったので、もはや公任の出世とかには何の影響もありませんでした。その後は道長だけでなく、閑院流の祖だった公季や無能な事で有名だった顕光(兼通長男)、従兄の実資等長生きな先輩公卿が目立った事や、皇室との血縁関係も活かした摂関職の世襲化が進み始めた(ほぼ完全に確立したのは院政期だが)事もあって、結局正二位・権大納言が極位極官となったのですが、娘が道長の五男・教通と結婚し、彼からも舅としてそれ相応以上の敬意も受けていたと言います。また孫娘も教通の息子、信長と結婚した等教通一族のかかわりはしばらく続きました。

小野宮流は公任の子孫は公卿となったのは曽孫の公定まででしたが、彼の弟の定綱の娘が道長・頼通の御堂流でも傍流な家忠と結婚し、忠宗等を産んでいます。政治的にはついに兼家・道隆・道長の風下に立ち続けてしまったままだった公任でしたが、以降頼忠・公任の血筋は女系も介しながらも現在まで血筋は受け継がれています。その系図は以下の通りですが、康親の子には他にも有名なあの岩倉具視がいます。さらに具視の曽孫だった故・小桜葉子氏は俳優の故・上原謙氏と結婚して加山雄三氏や池端亮子氏を儲けました。さらにまた、加山・池端両氏兄妹の従兄弟が喜多嶋舞氏の実父の喜多嶋修氏なので、加山・池端両氏兄妹や喜多嶋氏等も藤氏小野宮流の末裔であるとも言えるのです。

藤原実頼-頼忠-公任-定頼-定綱-女子-忠宗-花山院忠雅・・・師継-女子-今出川実尹・・・・女子-庭田重保-正親町季秀-持明院基久-女子-持明院基定-高野保春-四辻実長-裏松謙光-堀河親実-堀河康親-堀河親賀-堀河康隆-花山院親家・・・花山院弘ただ(変換できず)-花山院悠生(次期当主)

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