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2015/01/15

舒明天皇陵はお引越しされていた?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150115-00000126-jij-soci

舒明天皇の初葬地か=国内最大級の方墳発見―石積み、堀出土・奈良

時事通信 1月15日(木)17時3分配信    

 

 奈良県立橿原考古学研究所は15日、同県明日香村で、天皇か大豪族クラスの古墳の一部とみられる石積みと堀が見つかったと発表した。7世紀中頃の方墳と推定され、墳丘は一辺50メートル以上。石舞台古墳(7世紀前半、同村)を超える国内最大級の方墳とみられる。同研究所は規模などから、中大兄皇子(天智天皇)の父、舒明天皇が最初に葬られた墓の可能性が高いとしている。
 舒明天皇は没後、最初に葬られた場所から同県桜井市の段ノ塚古墳に改葬されたとされる。同研究所の菅谷文則所長は「(改葬後に)元の場所がどうなったか、解明の端緒になる」と話している。
 同研究所によると、見つかった古墳は四角形と推定され、墳丘下部とみられる石積みが10段(高さ計約60センチ)と、堀の跡が確認された。堀は幅が約3メートル90センチで、底部に石が敷かれていた。
 墳丘の反対側の堀の斜面には多数の石が貼り付けられ、発掘された分だけで高さが11個分(約1メートル)あった。墳丘と堀は、場所によって異なる種類の石材が丁寧に使い分けられていた。石室は見つかっていない。 

そう言えば今日、去年末に20歳になられたばかりの佳子内親王が曽祖父・昭和天皇の武蔵野陵に参拝されたらしいですが、実にタイムリーなニュースですね。

実際比定されている押坂内陵も規模のでかい古墳らしいですが、これもですね。故・手塚治虫先生の火の鳥でも題材(ヤマト編で、死に際に「バカは死ななきゃ治らない」な名言wwも遺した大王が急死した為に、主人公・ヤマトオグナが作った墓の代わりに急造で作られたという設定)にされていて、蘇我馬子が有力な被葬者とされている石舞台古墳よりもでかいらしいですが、まあ舒明天皇その人の権力よりも、当時の蘇我氏の権勢の大きさを示したものだったのでしょう。

と言うか、この天皇の近親者達って生年不明な人達が多い様である。特に大海人皇子(天武天皇)は・・・・・ですが、生没年560年頃~600年代前半頃で享年は40代前半だったかと思われる父の押坂彦人大兄皇子は蘇我氏の血を引いてなかったから王位につけなかったし、山岸凉子先生の日出処の天子でも病弱設定されてましたけど、やはりその一族は無視できない存在だったのでしょう。以降基本的にこれで統一しますが、田村皇子その人は593年(推古天皇1)前後生まれでほぼ間違いないでしょうが、馬子との娘との間に生まれた古人大兄皇子は娘の倭姫を自分の弟であった、626年(推古天皇34)生まれとされている中大兄皇子(天智天皇)と結婚させていたのだから大兄皇子の生年は609~612年頃でしょう。当時まだ田村皇子と名乗っていた天皇と馬子娘との結婚はその直前だったのでしょうが、日本書紀で、厩戸皇子(聖徳太子)の目立った政治的活動が見られなくなった時と重なっていたのはやはり偶然とかではなかったのでしょうね。実際の厩戸皇子の推古朝での活躍っぷりはどれほどのものだったのかはもう推測の域を出ないのだろうけど、既に605年(推古天皇13)には明日香村にあったとされる豊浦宮や小墾田宮より離れた斑鳩宮に移っていたあたり、この頃にはまた彦人大兄皇子が亡くなったと思われますが、厩戸皇子の半引退&田村皇子の次期王位候補者認定は既定路線となっていたのでしょうね。(政治に参加していたとしても、東京都都知事在任後期の石原慎太郎氏みたいに週数日しか小墾田宮に来ていなかったのかも?)

そして厩戸皇子も、馬子も、推古天皇も亡くなった後の田村皇子がどうなったかはもう周知の通りで、田村皇子が擁立された理由もyahoo知恵袋でも回答していた人がいました。ここで今更詳しく述べたりはせず、これは個人的な拙劣な推測に過ぎませんが、この明日香村の方墳から押坂内陵に移されたのは642年9月~643年11月の間頃だったのでしょう。背景にあったのは、①ホントなら田村皇子の後にすぐ蘇我氏としては古人大兄皇子に王位を継がせたかったのでしょうが、母親が皇族だった中大兄皇子がいたから取り敢えず中継ぎとしてその母親、宝女王を王位につかせた(皇極天皇)事②しかし、却ってそれ故に両親とも王位継承経験者となってしまった中大兄皇子の血統値がさらに上昇してしまった事③父の厩戸皇子自体、その実態は政治に重きをなした存在ではなかった(親子関係を疑う説もある)ながらも蝦夷の外甥として無視できない存在だった山背大兄皇子が依然健在だった事④外征等でイケイケムードだった貞観の治・唐を中心とした国際情勢⑤そして実はこれが一番大きかったのでは?ですが、皇極天皇が、蝦夷が失敗した雨乞いに成功して5日間に渡る大雨を降らせた事・・・・・・これらが挙げられるのではと思います。

⑤についても、岡田准一氏主演のドラマ「大化改新」でも描かれていて、まあ日本書紀自体蘇我氏に否定的だからホントに実話だったのかですが、まあそうだったのでしょうね。科学的根拠とかがあったわけではなかったのですが、蝦夷の面目丸つぶれだったのは確かだったでしょう。ここで蝦夷は父・馬子をも超える自分独自の新たな権威・権力の確立を迫られたと思われます。息子の入鹿に独断で大臣を譲ったのも、彼が日本書紀で描かれたような悪人ではなくて、父にも引けを取らない、現実に即した有能な政治家という事もあったのでしょうが、自己をヤマト王権をも超越した存在に位置づけようとしていたのでしょう。つまり後の太閤とか上皇とか大御所とかの元祖みたいなものだったのでしょうね。中大兄皇子と倭姫の結婚(しかし、子供はできなかった)もこの頃かと思われますが、その一環で、仕上げは山背大兄皇子の強制退場です。これを聞いた蝦夷が、「お前は何という事をしでかしたのだ!!これではお前の身もどうなるか分かったものじゃないぞ!!」と怒ったのもフィクションでしょう。さらに甘樫丘に邸宅を築き、上の宮門・谷の宮門と名付けたのも入鹿と話し合ってやった事だったでしょう。ただ、中大兄皇子について言えばまた、実はどちらかと言えば、大海人皇子と同父兄弟ではなかったとすれば、中大兄皇子の方が宝女王(皇極天皇)が田村皇子との結婚前に出産した漢王と同一人物だったのではとも思います(しかし、いずれにせよこの異父兄弟説についてはそういう可能性あるかもな程度で、積極的に支持するほどではないです)が、まあ別の検証とかが今後も必要でしょう。

蝦夷ってまた、大臣蘇我氏としては3代目だったのですが、「大化改新」で描かれたような頼りない人ではなく、だからと言って、池田理代子先生「聖徳太子」で描かれたような悪人でもない、実は同じ3代目な足利義満や徳川家光みたいな英明な政治家・・・・・だったかもしれないとふと思いましたね。しかし、後の足利義教とかもそうで、あとは古人大兄皇子を王位につける環境をもっと整えていくだけだったのですが、これも周知の通り、蝦夷・入鹿親子の絶頂期はそう長くは続かなかったのです。その後蘇我氏(後石川朝臣)は蝦夷の弟の倉麻呂の子孫達が平安初期の桓武朝まで断続的(実質80年近く公卿輩出が途絶えた事もあった)ながらも高位高官として歴史に関わっていくのですが、時代の波に乗り切れず、衰退からの中興を繰り返してついに・・・・・・だったのですが、この舒明天皇(田村皇子)別陵発見か?のニュースも、そんな蘇我氏、特に蝦夷個人の再評価とかにも果たしてつながるのでしょうか。それこそ、副主人公待遇だったけど、日出処の天子の解釈をもぶっとばすぐらいの。

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