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2014/10/18

百人一首の歌人達(17)-51番藤原実方朝臣その3

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(51番藤原実方朝臣)

その3だけど、どうやら師尹は、外孫の永平親王即位に必ずしも固執していなかったみたいで、それぞれ皇太子師貞親王(花山天皇)の外祖父・生母である藤原伊尹&懐子親娘に独占させない様、自身は皇太子傅に、次男の済時は春宮亮(春宮坊では2番目に偉い次官)になる等寧ろまだ赤子だった師貞にも取り入ろうとしたフシがあります。中納言・蔵人頭・春宮大夫(蔵人頭は安和の変で源高明を追放した約半月後に漸く止めている)を一気に兼ねていた兼家とも従者同士の乱闘騒ぎを起こしてますが、これでは伊尹、折角「楊名関白」と化していた(とは言っても、全く指導力を発揮できなかったわけでもなかったようである)実頼が死んで、その後の摂関となっても、権力を一元化出来なかった可能性があります。師氏はもう20年以上も師尹の官職を抜き返せなかったあたり、そんな危険人物にはなり得なかったでしょうが、師尹と伊尹(と兼家)は高明という共通の敵がいなくなって、もっとドロドロの権力闘争を繰り広げていたかもしれません。

しかし、自分達も師貞に近い職も兼ね、さらに済時が従四位から従三位に一気に昇進してから僅か1ヶ月後の事でした。969年(安和2)10月15日の事でしたが、49歳で師尹が急死したのです。これで取り敢えず伊尹にとっては、邪魔な叔父との本格対立を避ける事が出来た格好となりましたが、実頼・在衡(師尹後任の左大臣になるも、まもなく引退)・師氏、橘好古も相次いで亡くなり、忠平の子世代、または9世紀生まれの公卿は全員姿を消しました。最年長の公卿は長良流(かって昌泰の変直前に忠平から参議を譲られた清経の孫)であり、紫式部母方の曽祖父でもある藤原文範(彼は道長が太政官首班になった所まで見届け、87歳まで長生きし、子孫は高倉家として現在も続いているが、愛親覚羅溥傑と結婚した嵯峨浩もこの文範の子孫である)となりましたが、972年(天禄3)正月の好古死亡時点で63歳でした。伊尹の天下も長続きせず、兼通・頼忠・兼家と摂関は代わって行って、少し戻って970年(天禄1)には済時も参議に登りましたが、それもこうした年寄りたちの相次ぐ死による所もあり、小一条流はもはや脇役でした。

今回の主人公・実方は野望半ばにして(?)倒れた祖父の姿も見ながら育っていったわけですが、973年(天禄4)に従五位下となりました。親戚達はだいたい13~19歳ぐらいでこの官位を貰えたらしいですから、やはり実方の生年は958年(天徳2)頃と見た方がよさそうです。その後、養父となった叔父の済時も、975年(天延3)には中納言、977年(貞元2)には、兼通はよほどこの弟が憎かったのでしょうね。死ぬ前に兼家が兼ねていた右近衛大将を止めさせる事までやったのだけど、自分がその後任に就任して、関白・藤原頼忠、一上左大臣・源雅信の体制となった円融朝後期の983年(永観1)には権大納言に昇進しています。しかし、その権大納言昇進はそれまで最大でも権官含めて定員3人だったのが、4人に増員されたのを受けてです。(その後正官は、南北朝時代以降は三条西実枝等僅かな例外を除いて任じられなくなったが、定員は中世以降10人前後で明治維新を迎えるまで固定される事となる)990年(正暦1)には左近衛大将となり、翌991年(正暦2)には大納言となりましたが、一条天皇の摂政となった兼家の強引な身内昇進人事の所為で、道隆と道兼には官職を抜かされてしまったし、左近衛大将となったのも「初の親から子への摂関職継承成功」を実現した道隆の摂関就任による辞任で譲ってもらったからです。道隆とはまた、兼通息子の朝光共々飲み仲間だったようですが、摂政・関白・太政大臣・准三后忠平の孫で、左大臣師尹の子でも結局左近衛大将・大納言までが精一杯でした。それまでの左近衛大将は皆最終的には大臣まで昇進していたのに、共に権力を固める前に父が死んでしまった朝光とこの済時は、勝ち組になったかと思われた道隆と同時期に、あの995年(正暦6)の大疫病で死んでしまったので「大臣になれなかった左大将のそれぞれ1号・2号」となってしまったのです。

済時と永平親王、またはこの実方については一方でいくつかの逸話も残っています。実方と済時長男(相任か)が永平を無理やり馬に乗せようとした話、朱雀天皇皇女で従兄弟の冷泉天皇中宮になった永平養母の昌子内親王が病気の時に済時から教えられた事を、元日の拝礼でも言ってしまった話、済時が永平を大饗(この時代の宴会の事で、主催者の料理の品目は一番少ない数とされた)の主催者にするも、大事な儀式が重なってしまったので、そこそこに退出しようとした貴族達の衣服を掴んで話そうとせず、失笑を買ってしまった話等です。元日の拝礼の話は972年(天禄3)の事ですが、大饗の話はこの時殿上人となったばかりの道長も同席していたと言うから、それより10年後の982年(天元5)頃の話かと思われます。この時彼が最高権力者としてこの世の春を謳歌し、子孫達も明治維新まで摂関職をほぼ独占(鷹司家は江戸期には閑院宮の血筋になっていたが、現当主の方も女系ながらも道長の血も引いている)する事になろうとは誰が予想していただろうか?しかし、実方もそこそこの要職を歴任していたみたいで、残念ながらその道長が権中納言に昇進し、議政官の仲間入りを果たした988年(永延2)に永平親王は23歳の若さで早世してしまいましたが、その後兼家から道隆に摂関職が移っていった中で左近衛中将まで昇進しています。この時官位は従四位上でしたが、近衛中将は蔵人頭等と共に四位で参議になれる資格を有する官職だったので、公卿の仲間入りを果たす可能性も見えたかと思われました。養父の済時は前述した通り道隆とは良い飲み仲間でもあった。一方で女性関係も豊富だったようで、冒頭であげた歌も、恋にも生きたそんな彼の激しい情熱が伝わるようでもありました。しかし、ここで彼に思わぬ落とし穴が待っていたのです。

祖父の政敵だった伊尹の孫、藤原行成との確執です。彼も祖父や父の義孝が相次いで死んだ為に傍流に甘んじてしまいましたが、皮肉にも祖父が追放した高明の子・源俊賢(彼は道長の義兄でもある)と仲が良かった。しかし、実方とは残念ながら祖父同士の因縁を払拭する事が出来なかったようです。経緯についてはwikiとかでも書いてあるので今更詳しくは述べませんが、実方が実は正四位下に昇進していた説や、彼の言動(行成の冠を奪って捨てる。この時代無帽姿を晒すのは恥とされた)に怒った筈の一条天皇が選別を施した事等「実は左遷じゃなくて栄転じゃね?」な解釈もあるようです。しかし、行成が蔵人頭になったのは前述の道隆ら等中納言以上の公卿14人中8人の命を奪った大疫病(もっとも、道隆の死因は道長等同様糖尿病とされている)が平安京を直撃した後の事で、しかも直後の長徳の変で道長との権力争いに敗れた伊周・隆家兄弟の左遷もあって余計公卿面々の入れ替わりがあったのに、参議になったのはそれからさらに6年も後の事です。と言うか、実方にとって行成は一世代下の若造だったし、「何を生意気抜かしやがる」とか余計腹に据えかねていた所もあったのでしょうね。口論自体があったのは事実だったのでしょうが、ある程度の脚色が施されており、たとえ一条天皇がその時は「歌枕を見て参れ」と言っても、実方に対しては「ちょっと言い過ぎだったかな?まあ気分転換のつもりで頑張ってこいや。」、行成に対しては「確かに恥をかかされてもやり返さなかったのは立派だけど、お前もちょっと言い過ぎやろ」なニュアンスだったのでしょうね。実際また、行成は実方が養父・済時の喪が明けてから赴任した様子も詳細に日記「権記」に記していたらしいけど、気になる所があったのでしょう。しかし、たとえそのような期待をかけられたとしても、みちのくは遠すぎたと感じたのか。どうやらそれに応えた働きをしていたかどうかは微妙だったようです。そして最期は馬の下敷きになって、結局忠平の曾孫世代としては公卿に昇進できず、比較的低い官位・官職に終わってしまいましたが、前述の永平親王を無理やり馬に乗せたエピソードを見ると余計皮肉めいたものにも感じられます。もし本当に958年(天徳2)生まれだったとすれば、数え年で42歳の厄年での死でもありました。

その後実方の子孫はしばらく続き、九鬼氏や鳥居氏等実方の後裔を称する家もあるようですが、信憑性には疑問でしょう。公卿は結局出なかったようで、小一条流は済時の三男・通任の系統が主流となったようで、せい子も三条天皇との間に敦明親王を儲けましたが、この親王も実方の行成への仕打ちが全然可愛く感じられるぐらい乱暴者な面もあり、乱闘が多かったこの時代では彼ですらも特別異常というわけでもなかったけど、結局天皇にはなれなかった。通任の子孫達も朝廷では中納言まで出世するのが精一杯で、戦国時代には飛騨国司から戦国大名に転ずるも、三木氏に乗っ取られてしまった。その三木氏も、武田晴信(信玄)、上杉輝虎(謙信)、そして学研からも新伝記の主人公1号として取り上げられた織田信長等最強クラスの大名たちの狭間で難しい立ち回りを余儀なくされ、信長の跡を継いだ秀吉に降伏する事を余儀なくされたけど、要するに師尹を祖とする小一条流は最後まで時代の波に乗れそうなチャンスもいくつかはあったけど、乗れなくてそこそこ以上のドラマを提供する程度に留まる脇役のまま歴史の表舞台から退場させられてしまった感じです。この実方も、行成との確執等どこまでが本当でどこからが脚色がハッキリしない所もありますが、そんな小一条流の立ち回りを象徴した晩年を送ったと言えたのでしょう。昨今では、自身は特に政治家としての能力があるわけではないけど、親父が首相としての激務やNTTドコモ株疑惑等で急死してたまたま後援者連中から後継として担がれ、今度の安倍晋三改造内閣でも女性・地方票狙いという「見えすぎた思惑」もあってまた閣僚として登用されるも、政治資金問題が浮上してしまい、辞任の危機にまで追い込まれてしまっている小渕優子氏ともある程度重なり合うものがあるのではとも思います。これについてはまた・・・・・・・ですが、次回は実方とも仲良かったけど、やはり傍流に甘んじてしまった大納言公任&権中納言定頼親子について機会あらば取り上げてみたいと。

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