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2014/10/17

百人一首の歌人達(16)-51番藤原実方朝臣その2

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(51番藤原実方朝臣)



実方の「おば」な藤原芳子は生年は935~939年頃、今回の主人公、実方の父・定時や済時の歳の近い姉かと思われます。彼女ら姉弟はまた、母が25番三条右大臣こと藤原定方の娘です。26番貞信公こと藤原忠平は、他にも長男・実頼とも定方の別の娘を嫁がせていました。長兄・時平と源光死後に政権の首班となった忠平は、同じ政治的ライバルだった時平長男の保忠にも子供がいない事に付け込んで孫の頼忠(実頼次男で公任の父)を養子に送り込んでます。大津透氏著作「道長と宮廷社会」という本によると、忠平政権期は同一人物が天皇の成人に伴い摂政から関白に転じる先例が出来ただけでなく、天皇代行・補佐業務と太政官の重要日常業務が分権し始めた時期で、姪であると同時に息子の嫁(実頼の別の妻)でもあった時平娘がおそらく30歳代前半で早世した934年(承平4)に政治的にさほど危険人物ではなかった次兄の仲平と、もう次期天皇の外戚の可能性が消滅(彼にとっては保忠は外叔父または外伯父だったけど、既に9年前の925年に姉妹の仁善子が保明親王との間に生まれた康頼王は夭折していた。)していた保忠に一上業務を2人共同という形で委任したらしい。頼忠が保忠の養子になり、元服したのもこの頃だったでしょう。養父死亡時点でまだ12歳だったからちょっと早いかなあな気もしますが。

この年はまた、従兄弟の平伊望(母親同士が姉妹)と妻を亡くす事となった息子の実頼を中納言に昇進させてますが、忠平自身はと言うと・・・・・・摂政は人事権があるから、太政大臣に既に昇進してもおかしくなかったのですが、そうなると仲平が左大臣、保忠が右大臣に昇格する事になります。大鏡のあのエピソードが本当なのかどうかは分かりませんが、保忠が死んで1ヶ月後に漸く太政大臣に昇進したのは依然彼に対する警戒もあったからなのか。彼以上の政治的ライバルだった定方(醍醐天皇外叔父である)はこの一上制度の始まり直前に亡くなりましたが、いくつも子女同士を結婚させる等少なくとも表向きはお互い協調していたようで、残念ながら実頼の方に嫁いだ娘は子女を儲ける事は出来なかったようですが、要するに実方にとって定方は曽祖父であり、実方という名前自体、この曽祖父を意識したものだったのでしょう。小一条流本来の嫡流として。しかし・・・・・・・

芳子は村上天皇に嫁いだのはおそらく955年(天暦9)頃、翌年には昌平親王が生まれています。師尹自身も既に従三位中納言だったのが、正三位に昇格しています。この頃既に、実方にとっては大伯父にあたる師輔外孫の憲平親王(冷泉天皇)の精神に異常をきたしていたかどうかまではハッキリ分かりませんが、もしそうだとすればたとえ既に立太子されていたとしてもこれで後宮政策レースに兄に一歩近づいたと思ったのでしょう。さらに957年(天徳1)には左大臣・実頼から譲られる形で左近衛大将に昇格した顕忠の後任(表向きは実頼病気が理由とされているようだが、2年前に右近衛大将を師輔から譲られた事共々、傍流となったとは言え、時平一族の重鎮たる顕忠に対する配慮だったのであろう。特に実頼にとっては顕忠は従兄であり、義兄でもあるのだから)として右近衛大将を兼ねる事となり、さらに958年(天徳2)には芳子が天皇の女御となりました。実方が生まれたのはこの頃だったでしょう。この時同時に師輔娘の安子も皇后になりましたが、嫉妬と絶望で席に戻る事すら出来なかったとか。そして960年(天徳4)には兄・師輔が亡くなり、上位者が1人欠員になったのに乗じ権大納言に昇進しています。ところが、間もなく961年(応和1)には昌平親王が5歳で夭折してしまった。実方の弟・実光が生まれたのも、父の定時が亡くなったのもこの時期ならば、師尹一族は好事と不幸同時にいくつも見舞われてしまったという事になります。(また内裏も、盛大な歌合が行われた一方、焼亡してしまった大惨事にも見舞われている)特に親王の夭折は師尹と、師輔娘で憲平親王だけでなく、為平親王や守平親王(円融天皇)等も設けていた安子に嫉妬されていたらしい芳子にとっては痛恨の極みだったでしょう。この時点で済時にはまだ相任らは生まれていない(生没年がハッキリしない子女も何人かいるが)し、実方に対する祖父や伯母(または叔母)の期待はさらに高まったかもしれません。

それでも、安子も死んだ直後も965年(康保2)には芳子はまた天皇との間に男子を産みました。広平親王です。この年はまた、顕忠が生没年のハッキリしている時平子女としては異例の長寿な67歳で亡くなった事もあって、道長や公任が生まれた年でもあった翌966年(康保3)には権大納言のままながらも従二位。「ままながらも」と言うのは、平安遷都後から村上朝頃までの約170年間は過去ログでも述べましたが、官位デフレの時代だったのです。大臣も就任時は正三位、2年程度経って従二位(24番菅家こと菅原道真はこの位に登った直後に左遷された)、7・8年程度経ってやっと正二位(28歳で左大臣となった時平もこの位に登って2年で死んでいる)に昇る例が実頼あたりまで見られました。大納言でさえ、中世以降は二位者の方が多数派(足利将軍等は従三位権大納言の例もあったが、短期で昇進している。大抵)となりましたが、この時期は就任時は従三位で、2年程度経ってやっと正三位に昇る例も珍しくなかったのです。大納言以下の二位は権中納言藤原長良(856年。これは基経を権力者だった弟の良房の養子にした事も大きかったのであろう)や大納言源多(最終的に右大臣。積極的に上卿を務めたらしく、その政治的能力を評価されたからなのであろう)とか数えるほどしか例がありません。それが師輔が946年(天慶9)に、1月に正三位となったばかりだったのが村上天皇即位直後の4月に大納言のまま従二位に昇ったのを皮切りに、二位の大納言の例も次第に増加していく事となります。師尹の966年1月7日のこの昇進も、そうした「官位デフレ終了」への流れの一環だったわけですが、直後9月には大納言に昇進したかと思えば、翌967年(康保4)7月には村上天皇の後を追うように芳子が亡くなった。享年は30歳前後だったと思われますが、直後即位した憲平親王、後の冷泉天皇の皇太弟である守平親王の皇太弟傅(東宮=次期天皇の教育官)を務める事になりました。師輔の息子達で天皇・皇太弟両者の外伯父または外叔父となった、45番謙徳公こと伊尹・兼通・兼家らを、「名ばかりの関白」と自嘲するほど快く思っていなかった実頼がお互い牽制させる為の人事だったのでしょうか。実際伊尹はこの年権大納言に昇進しているし、兼通も村上天皇崩御日に蔵人頭を辞め、従四位下から正四位・参議となっている。

しかし、出色だったのは何といっても兼家だったでしょう。「道長と宮廷社会」でも言及されてましたが、蔵人頭を辞めないで約70年ぶりの非参議(三位以上で参議を経験した事がない人の事。実際はこの間忠平三兄の兼平も従三位・宮内卿に昇ったとされているが、公卿補任には記載されていない。当時宇多法皇の義弟・摂政左大臣だった忠平の兄という事で没後追贈されたのであろう)となったかと思えば、969年(安和2)2月7日には参議を経ないでいきなり中納言(後の摂関家当主達も、議政官は権中納言からのスタートとなったのもこの兼家・道長が先例となったのであろう)となり、春宮大夫(東宮の家政総監)も兼ねる事となった。しかも、この時点で蔵人頭もまだ辞めてない。

師尹も、少し時が戻って967年10月には正二位、12月には実頼が関白太政大臣に昇進したのを受けて右大臣に昇進したけど、この直後何度も上表を出しているのは、まあ実頼も右大臣に任じられた時とかやはり何度もやっている。通常は「俺は辞退しますと言われてもやってくれと頼まれるほど信頼されているんだぞ。」な事を示す為なのですが、それだけでなく、伊尹らと、天皇・守平皇太弟同様彼らとも外戚関係にはあったけど、もう1人の有力皇位継承者候補だった為平親王に娘を嫁がせていた、一上左大臣・源高明に対する示威行為のつもりでもあったのでしょう。

師尹は兼家に対しても強い警戒感を抱いていたようで、彼が中納言・春宮大夫に就任した日には師尹・兼家の家人同士が乱闘していたのです。「実頼の兄貴が老い先短いのもいい事に伊尹に取り入って羽振りが良い様だけど、あまり調子こくんじゃねーぞ!!コラァ!!」・・・・とまで思っていたかどうかは知りませんが、師尹と伊尹・兼家が「今は取り敢えずいがみ合っている場合じゃない」とも一方で思っていたようである。wikiとかでも書かれているし、もう詳しい経緯は態々ここでは述べませんが、後に安和の変と呼ばれる陰謀を持って「共通の敵」である高明を追放したのです。ここに気になった点は、前回でも「もし時平が他の弟たち並みに長生きしていればどうなっていたか?」少し触れましたが、「もし師尹も、伊尹ももう少し長生きし、永平親王が為平にも負けないほど英明だったらどうなっていたか?」です。

次期天皇が守平で次期皇太子が師貞親王(花山天皇)なのは既に既定路線だったらしく、師貞は藤原伊尹の娘・懐子と冷泉天皇の間の皇子(つまり伊尹にとっては外孫)だったけど、師尹も、(実方にとっては叔父である)息子の済時は冷泉天皇退位まで蔵人頭及び春宮権亮を務めていたのが、守平践祚・師貞立太子に伴って春宮亮(春宮坊では大夫に次いで偉い次官、師尹は改めて師貞皇太子傅となっている)になっていて、その1ヶ月後には従四位上から正四位を飛ばして従三位となり、公卿に列せられている。師尹の威光も相まって。上皇となった冷泉は精神病だから余計頼りにならない事もあってか、「伊尹・懐子だけに皇太子・師貞を独占させないぞ!!」な師尹による牽制の意図が伺えるような済時の人事ですが、どうやらこの時点で既に4歳だった永平の暗愚っぷりは周知の通りだったのでしょう。永平の事を完全に諦めたわけでもなかったのだろうけど、前述した通り既に忠平期には摂関の天皇代行・補佐業務と太政官の重要日常業務は分離し始めています。しかし、忠平は部下の公卿達の中でも側近の藤原扶幹従兄弟の平時望・行望兄弟(特にまた、時望は娘が兼通の妻となっている)を、特に息子達が出世するまで重用していたようですが、もし師尹が、短期で円融天皇を退位、永平即位を実現させ、その外祖父として摂関になった場合は義兄弟である源重光・保光・延光(内保光はまだ公卿にはなってなかったが、事務方である弁官や蔵人頭を経験している。延光は済時の上司な春宮大夫となっていた)や藤原朝成(彼は974年に死んだが)、そして娘が実方の母である源雅信及び彼の弟である重信あたりをもっと積極的に昇進させて、伊尹・兼家、そして源兼明(元政敵・高明の弟)への牽制役としたのでしょうか。兼通も、どうやら彼は息子の正光を高明の別の娘と結婚させるなど高明よりだったようですが、彼も味方に組み入れていたかもしれません。しかし、永平の即位が実現せず、実頼が死んで、在衡が引退して摂関となっても伊尹はまだ太政官の官職としては右大臣です。基経みたいに普通に上位者(この場合は師尹)を飛び越えて右大臣から太政大臣に昇進していたか。それとも後の兼家みたいに、右大臣を辞めてすぐ次席の人に譲って摂関専任のみで律令官職の在任者達を超越した存在として自らを位置づけていたか。でもどちらも状況的にちょっと難しそうですよね。兼家の場合は弟・為光に右大臣を譲って、息子の誠信も、為光の従者が道綱・道長が乗った牛車に投石したのも目をつぶって参議に昇進させる(しかし、残念ながら能力は弟の斉信の方が優っていた)等恩を売り、彼ら息子達を強引に昇進させたけど、伊尹の場合はすぐ下位の人は兼明という彼にとっても元政敵の弟で微妙ですよね。息子達も義孝等早世者が多かったし、彼もまた為光とは仲良かったらしいですが、結局永平即位が実現しようがしまいが、権力が分散して兼通VS兼家以上のドロドロとした権力闘争が発生していた可能性が強そうです。実方が叔父・済時の養子となったのも、彼が従三位・春宮亮となった前後の、そうした爆弾が爆発しかねない時期の頃だったかと思われますが、直後に・・・・・・・・何だか実方その人よりはもう小一条流の話になってますが、また長くなったので次回はその3でという事で。

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