« 百田尚樹の「土井たか子=売国奴」認定は間違いではないけれど | トップページ | 百人一首の歌人達(16)-51番藤原実方朝臣その2 »

2014/10/13

百人一首の歌人達(15)-51番藤原実方朝臣その1

かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(51番藤原実方朝臣)

最初は大納言公任&権中納言定頼親子を取り上げようかなあと思っていましたが、彼らよりもまずやはり某アニメにも出ていたらしいこの藤原実方の方を取り上げた方が良いかなあという事で、今回は彼です。

この実方は、道長や公任達とは再従兄弟(はとこ)にあたりますが、26番貞信公こと藤原忠平の男子曾孫世代では生年がはっきりわからない数少ない1人でもあります。999年(長徳4)の死亡時点では40歳程度だったらしいですが、これを信じると生年は960年(天徳4)ですから、道長・公任より5・6歳程度年上、道兼や詮子(共に道長の兄姉)とほぼ同年齢という事になります。

彼は本来祖父・藤原師尹を祖とする小一条流の嫡流なのです。最近もし、藤原時平が弟の仲平や忠平・穏子ら並みに長生きしていたら、公卿の顔ぶれはどうなっていたのか(没年を940年頃と仮定して)少し考えてみました。源光死後の右大臣には源昇が就任、彼が918年(延喜18)に死去した後は25番三条右大臣こと藤原定方が醍醐天皇の外叔父として就任(実際の就任は924年の事)していたでしょう。定方の次には藤原清貫(清涼殿落雷事故で事故死したが)と仲平が続き、保明親王・康頼王の死去も超えて930年(延長8)の朱雀天皇即位時には満を持して摂政に就任(太政大臣も兼ねるのはその数年後となっていたか)していたでしょう。この時点でも忠平は大納言就任が精一杯、下手すれば長子の保忠にも官職または序列(この時期、権官を含めても大納言は3人、中納言は4人程度が最大定員だった。中世以後はいずれも10人超えるか超えないかまで増員される事となったが)を越されていたかもしれません。

それでも、時平が940年(天慶3)に70歳近くまで長生きしたとしても、忠平の寿命はあと9年は残っています。(しかし、この時点で仲平はまだ存命)朱雀天皇の元服は既に済んでいたから、摂関に任じられたかもちょっと微妙だったし、息子達も当然実頼・師輔よりもそれぞれ時平次男・三男である顕忠・敦忠の方が出世していたでしょうから、晩年息子達をもっと出世させる迄に寿命切れとなっていたでしょうが、最終的には遅かれ早かれ忠平の系統が嫡流となっていく事自体は変わらなかったかも。

しかし、史実は藤原時平はたとえ24番菅家こと菅原道真を左遷に追い込んだ悪人ではなかった(と言うか、この下りは大蔵善行が一番の悪役であろう。)としても909年(延喜9)4月4日に38歳の生涯を閉じており、あまりクローズアップされてないようだけど、敦忠などだけでなく、清涼殿落雷事故直後は長男の保忠だけでなく、彼と同時期に実頼と結婚した娘(934年没)や正室の廉子女王(935年没)も亡くなっているのです。この2人も生年は分かりませんが、娘の方は長男の敦敏が生まれたのが918年(延喜18)頃だから、900年(昌泰3)生まれの実頼と同じぐらいの年だから享年が30代半ばと短命だったか。廉子女王は70賀が開催された記録が残っているから遅くとも866年(貞観8)までには生まれている。時平より5歳以上歳上の姉さん女房だったわけですが、残念ながら、時平の血を現在まで伝えているのは宇多天皇皇子で醍醐天皇弟である敦実親王に嫁いだ娘(時平娘-源雅信-源倫子-藤原頼通や藤原彰子等・・・・・・・)なのですが、彼女の母親が誰なのかはわからないのです。

948年(天暦2)時点で実頼・師輔以外にも師尹・師氏と4人も忠平の息子達が公卿となっており、時平の息子はこの年大納言となった顕忠だけ(最終的には師輔後任としての右大臣に)でした。彼には時平男孫では最年長な元輔という息子がいましたが、正四位・参議が精一杯で時平流では最後の公卿となってしまいました。男系では敦忠の系統はしばらく続いたらしいですけどね。「お前、またさっきから関係ない話しているじゃん。」と思われるかもしれないけど、実方の祖父・師尹もこの年には権中納言に昇進しています。まだ28歳だったのだから順調な出世です。師氏の方が兄だったのですが、結局最後まで彼の官職を超える事が出来ませんでした。

翌年949年(天暦3)に忠平がなくなり、一応形式的には摂関も太政大臣も置かない天暦の治という村上天皇の親政が始まったのですが、ここで印象深かったのが故・石ノ森章太郎先生の「マンガ日本の歴史」第10巻での実頼と師尹のやり取りですね。確か天皇第2皇子である、師輔外孫の憲平親王(冷泉天皇)立太子を聞いて、自分はますます穏やかでないのに実頼が「めでたい事だ」など言っていたのに対し「兄上は悔しくないのですか?」「兄上は左大臣だから慰め様もあるだろうけど、私は参議に過ぎないから・・・・」「芳子(娘で、実方にとっては叔母または伯母)は情けない娘だ。どうして男の子を産まないのだ」とかというような事を言ってましたが、まず実頼は大鏡でも言われているほど頼りない人ではなく、政治的能力は師輔にも劣らなかったようですが、これを既に後宮政策で完敗した事に対する諦めと見るか、それとも内心穏やかでなかったけど、表向きは北家嫡流として一族をまとめようとしていたのか等解釈は分かれますね。それに前述した通り師尹は既に権中納言だったけど、この時点でまだ30歳です。芳子も生年不明で、どんなに早くとも935年(承平5)頃の生まれと思われますが、天皇に嫁いだのはまだ少し先の事です。まあこれは師尹が能力だけでなく、隙あらば兄達に取って変わってやろうな野心も十分あったんだという事を示す「演出」だったのでしょうね。

不明といえば、いい加減ここらでもっと主人公・実方にもう少し焦点を当てないといけませんね。彼の父の定時も生年は分かりませんが、叔父の済時は941年(天慶4)生まれだから、彼より1・2歳程度歳上だったのでしょう。芳子よりは歳上だったのか歳下だったのかは分かりません。ただ、彼は従五位上侍従で生涯を終えています。この侍従って、元服を済まして貴族としてのキャリアを積み始める時に経験する官職です。祖父の師尹も15歳で任じられましたが、実頼・師輔もやはり10代後半時にこれを経験しています。という事は、定時はやはり再従兄弟である50番藤原義孝同様20歳になるかならないかの若さで早世したのだから、実方の没時年齢もほぼ信用していいという事でしょう。さて、ここで少し長くなったので、実方の小一条流、芳子が村上天皇の女御として嫁いだ以降の話はまた続きという事にしたいと思います。

|

« 百田尚樹の「土井たか子=売国奴」認定は間違いではないけれど | トップページ | 百人一首の歌人達(16)-51番藤原実方朝臣その2 »

歴史」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1159637/57669165

この記事へのトラックバック一覧です: 百人一首の歌人達(15)-51番藤原実方朝臣その1:

« 百田尚樹の「土井たか子=売国奴」認定は間違いではないけれど | トップページ | 百人一首の歌人達(16)-51番藤原実方朝臣その2 »