百人一首の歌人達(14)-63番左京大夫道雅後編
飛鳥・奈良時代(793年以前) | ||||
名前 | 任命日 | 辞任日 | 辞任理由 | 備考 |
長屋王 | 709/11/1 | 718/3/3 | 大納言昇進 | 最終的には正二位左大臣 |
巨勢麻呂 | 713/1/7 | 715/5/7 | 中納言昇進 | |
石川宮麻呂 | 713/1/7 | 713/12 | 死去 | 655年(斉明天皇1)生まれ。蘇我 |
連子の子 | ||||
多治比池守 | 714/1/7 | 718/3/3 | 中納言昇進 | 左大臣多治比嶋の子 |
藤原武智麻呂 | 718/1/7 | 721/1/11 | 中納言昇進 | |
藤原宇合 | 725/1 | 731/8 | 参議昇進 | |
藤原麻呂 | 729/3 | 731/8 | 参議昇進 | |
百済王南典 | 737/9/13 | 758 | 死去 | 667年(天智天皇5)生まれ |
竹野王 | 744/2 | 758 | 死去 | 672年(天武天皇1)生まれ |
智努王 | 747/1/7 | 758/6 | 参議昇進 | 後名文室浄三。長親王の子。天武天皇孫 |
三原王 | 748/2/1 | 752/10 | 死去 | 舎人親王の子、天武天皇孫 |
石上乙麻呂 | 748/2/1 | 749/7/2 | 中納言昇進 | 左大臣石上麻呂の子 |
百済王敬福 | 749/4/1 | 766/8/8 | 死去 | 大仏建立の為の黄金献上による昇進 |
南典の甥 | ||||
藤原乙麻呂 | 750/11/1 | 760/6/17 | 死去 | 武智麻呂4男 |
栗栖王 | 752/7/8 | 753/10/7 | 死去 | 長親王の子。天武天皇孫 |
682年(天武天皇11)生まれ | ||||
一説に758年(天平宝字5)没 | ||||
藤原永手 | 754/1/13 | 756/5/19 | 権中納言昇進 | 房前2男。最終的に正一位左大臣 |
藤原弟貞 | 757/7/5 | 762/12/1 | 参議昇進 | 長屋王の子、不比等が母方の祖父 |
初名山背王 | ||||
塩焼王 | 757/8/3 | 763/1 | 参議昇進 | 新田部親王の子、天武天皇孫 |
藤原仲麻呂の乱で処刑される | ||||
後名氷上塩焼 | ||||
池田王 | 758/8/1 | 759/6/16 | 親王宣下 | 舎人親王4男 |
河内女王 | 758/8/1 | 769/5? | 官位剥奪 | 760/5/3 正三位。長屋王妹 |
773/1 | 779/12/23 | 死去 | ||
白壁王 | 759/6/1 | 762/12/1 | 中納言昇進 | 志貴親王子、天智天皇孫。後の光仁天皇 |
藤原巨勢麻呂 | 760/1/7 | 764/9/11? | 処刑 | 武智麻呂3男 |
藤原仲麻呂の乱で処刑される | ||||
一説に763年(天平宝字7)死去 | ||||
藤原蔵下麻呂 | 764/9/11 | 774/5/5 | 参議昇進 | |
高倉福神 | 765/1/7 | 789/10/8 | 死去 | 高麗氏。785年(延暦4)に致仕 |
文室大市 | 765/7/7 | 766/7/11 | 参議昇進 | |
藤原宿奈麻呂 | 766/11/5 | 770/7/13 | 参議昇進 | 後名良継 |
大伴古慈悲 | 775/1/5 | 777/8/4 | 死去 | |
飯高諸高 | 776/4 | 777/5/28 | 死去 | 豪族出身の采女 |
佐伯今毛人 | 782/6/15 | 789/2 | 致仕 | |
坂上苅田麻呂 | 785/2/8 | 786/1/7 | 死去 | 田村麻呂父 |
多治比長野 | 787/1/7 | 789/1/7 | 参議昇進 | 嶋の孫、池守の子。葛原親王等の外祖父 |
706年(慶雲3)生まれ | ||||
平安時代初期・前期(794~810年・810~930年) | ||||
名前 | 任命日 | 辞任日 | 辞任理由 | 備考 |
大伴乙麻呂 | 795/2 | 809/5/4 | 死去 | 初の征夷大将軍 |
和気清麻呂 | 796 | 799/2/21 | 死去 | |
坂上田村麻呂 | 801/11/7 | 805/6/23 | 参議昇進 | |
藤原葛野麻呂 | 805/7/15 | 806/4/18 | 権参議昇進 | 房前曾孫。鳥養流 |
春原五百枝 | 812/1/17 | 819/3/1 | 参議昇進 | 志貴親王玄孫 |
紀百継 | 822/12/24 | 835/7 | 参議昇進 | |
藤原継彦 | 826/1/7 | 828/2/26 | 死去 | 年齢57とあり、逆算すると770年(宝亀1) |
生まれとなり、浜成が47歳の時に生まれた | ||||
子となってしまう。また日本後紀では | ||||
822年(弘仁13)11月とする | ||||
佐伯永継 | 826 | 828/11/12 | 死去 | |
藤原継業 | 826/1/7 | 842/7/5 | 死去 | 宇合孫、緒嗣弟 |
藤原浄本 | 830/5 | 830/7/21 | 死去 | 蔵下麻呂子 |
源常 | 831/1/7 | 832/11 | 中納言昇進 | 嵯峨天皇皇子 |
源定 | 832/1/7 | 833/8/15 | ||
橘氏公 | 833/1/7 | 833/6 | 参議昇進 | 嵯峨天皇皇后嘉智子の弟、奈良麻呂孫 |
菅原清公 | 839/1/7 | 842/10/17 | 死去 | 道真祖父 |
百済勝義 | 839/2/15 | 855/7 | ||
平高棟 | 843/4/14 | 851/12 | 参議昇進 | 桓武天皇孫。 |
源融 | 850/1/7 | 856/9 | 参議昇進 | 嵯峨天皇皇子 |
高枝王 | 854/1/7 | 858/5/15 | 死去 | 桓武天皇孫。伊予親王子 |
橘永名 | 860或861 | 866/5/10 | 死去 | 奈良麻呂孫 |
基棟王 | 884/2/23 | 887? | 死去? | 葛井親王子。桓武天皇孫 |
藤原時平 | 890/11/28 | 891/3/19 | 参議昇進 | |
藤原高藤 | 894/1/3 | 895/10/26 | 参議昇進 | 皇太子・敦仁親王(後の醍醐天皇)外祖父 |
子孫は勧修寺流として繁栄 | ||||
平安時代中期(930~1068年) | ||||
名前 | 任命日 | 辞任日 | 辞任理由 | 備考 |
藤原兼家 | 967/11/23 | 969/2/7 | 中納言昇進 | |
藤原済時 | 969/9/13 | 970/8/5 | 参議昇進 | |
源博雅 | 974/11/18 | 980/9/28 | 死去 | |
藤原国章 | 977/1/7 | 985/6/23 | 死去 | 長良流。長良曾孫 |
藤原季平 | 977/8/2 | 983/6/11 | 死去 | 長良流。 |
菅原文時 | 981/1/7 | 981/9/8 | 死去 | 道真孫 |
藤原公季 | 981/1/7 | 983/12/16 | 参議昇進 | 閑院流の祖 |
藤原道隆 | 984/1/7 | 986/7/5 | 参議昇進 | |
藤原義懐 | 984/10/10 | 985/9/14 | 権中納言昇進 | 花山天皇外叔父 |
源時中 | 986/7/23 | 986/10/15 | 参議昇進 | 宇多天皇曾孫 |
藤原尹忠 | 986/7/23 | 989/8/2 | 死去 | 貞嗣流 |
高階成忠 | 986/7/23 | 998/7/7 | 死去 | 道隆舅。今回の主人公、道雅の曽祖父 |
藤原懐平 | 986/12/22 | 998/10/23 | 参議昇進 | |
藤原遠度 | 987/7/12 | 989 | 死去 | 師輔7男。 |
藤原道長 | 987/9/20 | 988/1/19 | 権中納言昇進 | |
藤原道綱 | 987/11/27 | 991/9/7 | 参議昇進 | 990/1/7に正三位。 |
源泰清 | 988/1/29 | 999/4/11 | 死去 | 醍醐天皇孫 |
藤原高遠 | 990/1/11 | 1013/5/16 | 死去 | 1005正三位 |
源清延 | 990/8/29 | 996/1/12 | 死去 | 光孝天皇曾孫 |
藤原有国 | 990/8/2 | 1000/10/3 | 参議昇進 | 996正三位。真夏流 |
菅原輔正 | 992/2/15 | 996/4/24 | 参議昇進 | 道真曾孫 |
藤原忠信 | 993/12/10 | 994/12/11 | 死去 | 魚名流 |
藤原隆家 | 994/8/20 | 995/4/6 | 権中納言昇進 | |
源憲定 | 996 | 1017/6/2 | 死去 | 村上天皇孫、醍醐天皇は父母両方の |
曽祖父(母方祖父が源高明) | ||||
平親信 | 1001/10/10 | 1015/10/28 | 参議昇進 | |
藤原兼隆 | 1002/1/20 | 1008/1/28 | 参議昇進 | 道兼の子 |
藤原頼通 | 1006/3/4 | 1009/3/4 | 権中納言昇進 | 同年9月に正三位、1008/10/16に従二位 |
藤原教通 | 1010/11/28 | 1013/6/23 | 権中納言昇進 | 1011/8/11正二位 |
藤原頼宗 | 1011/8/11 | 1014/3/28 | 権中納言昇進 | |
藤原能信 | 1014/5/16 | 1017/8/29 | 権中納言昇進 | |
藤原道雅 | 1016 | 1054/7 | 出家 | |
藤原兼経 | 1018/10/23 | 1023/12/15 | 参議昇進 | 道綱の子 |
藤原長家 | 1022/1/6 | 1023/2/12 | 権中納言昇進 | 俊成・定家は彼の子孫 |
藤原惟憲 | 1023/12/26 | 1033/3/26 | 死去 | 勧修寺流 |
源師房 | 1024/9/21 | 1026/11/6 | 参議昇進 | 村上源氏祖 |
藤原兼頼 | 1030/3/8 | 1031/12/26 | 参議昇進 | 頼宗の子 |
藤原信家 | 1033 | 1036/12/8 | 権中納言昇進 | 教通の子 |
大中臣輔親 | 1035 | 1038/6/2 | 死去 | 大中臣能宣の子。954年(天暦8)生まれ |
藤原資業 | 1045/4/26 | 1051/2/16 | 出家 | 真夏流 |
藤原師経 | 1045 | 1066 | 死去 | 生年は10世紀末~11世紀初頭頃 |
源基平 | 1046/11/3 | 1050/11/25 | 参議昇進 | 敦明親王子。三条天皇孫 |
源俊房 | 1049/10/13 | 1057/3 | 参議昇進 | 師房子 |
藤原忠家 | 1051/6/13 | 1060/12/16 | 参議昇進 | 長家子。俊成は孫で定家は曾孫 |
藤原祐家 | 1052/11/3 | 1064/10/26 | 参議昇進 | 長家の子。忠家の弟 |
高階成章 | 1055/7/19 | 1058 | 死去 | |
藤原師実 | 1056/2/3 | 1056/10/29 | 権中納言昇進 | |
藤原経家 | 1056/1/7 | 1062 | 参議昇進 | 定頼子。公任孫 |
藤原隆佐 | 1059/1/7 | 1074 | 死去 | 勧修寺流。藤原賢子(紫式部娘)の異母兄 |
藤原師成 | 1063/2/27 | 1075/12/15 | 参議昇進 | 済時孫 |
藤原長房 | 1063/4/2 | 1083/1/16 | 参議昇進 | 隆家孫。道隆曾孫 |
兼通・頼忠政権時も、6人誕生し、その中にはあの映画「陰陽師」シリーズでもおなじみな源博雅もいましたが、その後の、特に摂関になれそうでなれなかった藤原兼家政権だった986年(寛和2)6月~990年(永祚2)5月の約4年間ですね。道隆が従三位・春宮権大夫→正二位・内大臣・左近衛大将、道兼が正五位下・左少弁→正二位・権大納言・皇太后宮大夫、道長が従五位下・右兵衛権佐→正三位・権中納言・右衛門督、道綱が正五位下→正三位と息子達も早世したであろう道義以外皆急速な昇進を遂げてますが、非参議も、道長・道綱を除いても7人出ています。中には道隆舅の高階成忠もいます。また兼家にとっては弟の遠度もいて、彼は蜻蛉日記の登場人物として有名(?)ですが、共に最終的には太政大臣となった弟の為光や公季よりも昇進が遅れたあまり、それほど有能ではなかったのでしょう。3人いた息子達も2人は出家し、残った高頼も公卿には列せられないまま人生を終えています。
中関白家の没落も、兼家死後跡を継いだ道隆が父に倣って、調子に乗って道頼・伊周・隆家の息子達を急速に昇進させたのもその大きな理由だったようですが、兼家・道隆のそうした身内昇進人事がさらに官位インフレ化に拍車をかけた様です。最終的な勝利者となった道長を中心とした御堂流嫡流が、若年で高位高官に昇っていったのですが、頼通だけでなく、教通も14歳、頼宗は18歳、能信も19歳、長家は17歳で非参議になっていて、彼らもそこから参議を経ないで権中納言に昇進したし、嫡流を外れた一族も、道兼の子・兼隆は17歳で、道綱の子、兼経は18歳で非参議となり、また道長の五女・尊子と結婚した源師房も16歳で非参議となっています。道長の孫世代ではやはり頼宗の子・兼頼と教通の子・信家がそれぞれ16・14歳で非参議となっています。
ここまで道雅その人とはあまり関係ない話をしていますが、そういう意味では彼も、父や叔父が長徳の変で左遷された後もなお、逆風が吹きながらも頑張っていれば兼隆や兼経、小野宮流の資平や定頼みたいに中級以上の公家として生き残る事は可能だったのです。19歳の時に亡くなった父・伊周が、「他人に追従するぐらいなら出家しろ」との遺言を残しましたが、そうした遺言を聞きながらも、本来だったら叔母の定子が産んだ敦康親王が同時期に崩御した一条天皇の後の、三条天皇の皇太子となるはずだったのが幸運の女神は道長の方に完全に微笑んでいた。9歳年下の弟・敦成親王(後一条天皇)の春宮権亮を努め、さらに後の羽林家格の貴族が兼任する近衛中将を経て、公卿への登竜門と言われた蔵人頭になる等途中までは悪くはない出世コースをたどっていたかに見えました。
ところが、この平安中期の貴族達は、繁田信一氏著作「殴り合う貴族たち」も少し目にする機会があったのですが、貴族が直接、または従者を使って気に入らない他の貴族達等を暴行する事が多かったのです。中央公論新社の「王朝の貴族」では、酒飲んで酔っ払うあまり人前でも恥とされた無帽姿を晒していた道隆や、花山天皇を退位させたのに父から摂関を譲られなかったのにいじやけ、その死も悲しまないで宴会などを催し、道隆を妬んでいた道兼に比べて道長はまだ行儀が良い方だなんて書いてありましたが、とんでもない。
やけに駄洒落も多様していた(苦笑)、人見倫平先生が漫画担当だった学研まんが人物日本史「藤原道長」では「きまりにしたがわなかったから」と、巻末の年表でぼかされてましたが、自分の気に入りの官人を登用試験に合格させる為に試験官を連行させて、父・兼家に一時勘当されています。このシリーズの主人公達は、オリジナルの登場人物を使って、金閣を「これが美しいものだとは到底思えない。お前の目は節穴か?」等と批判させた足利義満は例外的に異端だったとも言えましたが、他には天智天皇・源頼朝・大石良雄(ちなみに自分は忠臣蔵はあまり好きではない)・伊藤博文等美化される傾向が強く、一方で隆家の従者が道長の従者に喧嘩売って乱闘となったシーンも描かれてました。まあ1000年前の、ガチガチの身分社会だった平安日本の貴族達の言動を、あまり現代的な感覚で捉えるのも表面的な見方というものなのでしょうが、残念ながらこの道雅は永井豪氏じゃないけど、そんなバイオレンスな平安貴族たちの中でも最悪な代表例となってしまったのです。
道長が父や叔父を失脚させ、娘・彰子を中宮として強引に天皇の「もう一人の皇后」として入台させ、天皇との間に敦成親王が生まれたら、(通雅にとっては)従弟でもある敦康親王にも一転冷たい態度を取るようになり、親王を皇太子にしたと思ったら今度はさっさと三条天皇を退位させたくてしょうがないと来ている。余計鬱憤とかが溜まっていたのは想像に難くないですが、どうやらその三条天皇の皇子・敦明親王の雑色長だった小野為明を暴行したのも天皇が敦成親王に譲位する直前の事と思われます。この敦明親王もやはり前々から度々暴行に及ぶ等問題行動が目立つ人だったようですが、道雅とも既に前々から何らかのトラブルを抱えていたのでしょう。その敦明親王が敦成こと後一条天皇の皇太子(後に道長の圧力で辞退)になったから、余計問題行動として発覚してしまい、しかし皇太子時代の天皇に仕えた功績も考慮しての、妥協の産物だった従三位昇進だったのでしょう。この時点でまだ24歳だったからまだまだ巻き返しのチャンスもありましたが、wikiにも書かれている通り、敦明にとっては妹にあたる当子内親王との密通や花山法皇の皇女だった上東門院女房の殺害関与疑惑と、特に冷泉上皇系皇族とのトラブルが目立ったようですが、流石に乱暴な平安貴族たちにも「殺しはまずい」な分別はあったようで、ダーティーな悪行を重ねてしまったようでは、従三位より上に昇進できなかったのもしょうがなかったでしょう。彼が生きている間に、遅れて非参議となった13人(藤原忠家まで)の公卿は、その内2人が権中納言に、7人が参議に昇進しています。(非参議を経た直後)
道雅は、平等院鳳凰堂が創建された直後に62歳の生涯を終える事となり、伊周の子女たちは頼宗の室となった娘のみが後世にその血を伝えた(頼宗流の園家が江戸時代に霊元天皇の外戚となったので、現在の皇室等にも伝わっている)ようですが、彼の人生を一言で評すると、「割り切る事ができなかった『もどかしさ』」だったのかもしれません。彼は前述の父の遺言を聞いても、直ぐ出家せず、そうした貴族たちの暴行も横行していた平安京という俗世に身を置いて、余計荒んでしまったようですが、6番の中納言家持(大伴家持)等みたいに時の権力者に安易に追従したりしない気骨があったわけでもなく、だからと言って、55番の大納言公任(藤原公任)みたいに真面目に仕えてその権勢に与るほどの世渡りの巧さがあったわけでもなく、97番の権中納言定家みたいに息子達の昇進にも力を注ぐ事も出来なかった。(定家の場合は丁度ほぼ貴族の家格が固定化されてきたというのもあったのでしょうが)右大臣まで昇った先祖もかってはいた、49番の大中臣能宣朝臣や73番の権中納言匡房(大江匡房)みたいに特定の確立された家業で生き残りを模索したわけでもなく、だからと言ってまた、17番の在原業平朝臣みたいにプレイボーイとして他の数々の女性とも浮名を流せたわけでもなく、48番の源重之みたいに地方で心機一転する事も出来ず、もっと長生きしていれば大臣になっていたであろう父に早く死別した12番の僧正遍昭や歌の願い通りその地で亡くなった86番の西行法師みたいにいっそ出家する事もなかなかせず、それはもう死の直前の事だった。何と言うか、一見イメージに合わない「今はただ~」の歌と暴行・殺害疑惑等の悪行にもそうしたもどかしさから来る心の迷い・弱さが現れているようです。息子の覚助はそんな父の姿を見た事もあってか、早く出家したようで、僧侶としてそれなり以上の出世も果たしたらしいですが、彼の方はまだ幸福な人生を送れたと言えたのかもしれません。
【以下9月14日追記】
非参議の一覧ですが、藤原基経の3男で、忠平の兄だった兼平も尊卑分脈等に拠れば従三位・宮内卿だったらしいですが、公卿補任には記載がなかったので、忘れてましたね。5男だった良平はおそらく882年(元慶6)頃生まれで、元服するかしないか、寛平末年から昌泰年間頃に早世したと思われますが、彼は60歳まで生きていて本来なら「藤原の四平」(一般的には時平・仲平・忠平の三平と呼ばれている)なのが、全く影の薄い存在ですよね。もし父がもう少し長生きして、同母姉だった温子が宇多天皇との間に皇子を儲けていれば、次は敦仁親王(醍醐天皇)ではなく、彼が清和天皇や陽成天皇みたいに幼少で即位して長兄・時平が摂政に就任。この兼平も天皇生母とは唯一同腹の外叔父としてもっと出世していたのではと思われますが、琵琶等芸術には長けていても、政治的能力はそれほどではなかったのでしょう。従三位も生前昇進による位階ではなく、摂政太政大臣たる忠平の異母兄故の没後追贈によるものだったかと思われます。まあ死んだ時点では忠平はまだ左大臣でしたが。なお、温子・兼平の生母は嵯峨天皇皇子、忠良親王の娘なのでこの2人は嵯峨天皇の曾孫という事にもありますが、温子は一人娘の均子内親王が異母兄の敦慶親王(伊勢も彼の妃である)と結婚するも、子供はできなかったようで、兼平も記録に残る子女はやはりおらずと残念ながら忠良親王は子孫を残せなかったようです。
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