百人一首の歌人達(13)-63番左京大夫道雅前編
いまはただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな(63番左京大夫道雅)
このシリーズ第13弾ですが、今回は左京大夫道雅ですね。本名は藤原道雅と言って、中関白家の第三代摂政または関白・・・・・・になるはずの人でした。しかし、彼はちゃんと62歳まで生きて、決してこの時代としては短命ではなかったのですが、従三位・左京大夫で終わっています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991099
先日公卿補任年表を入手したのですが、残念ながらこれは非参議と言って、従三位以上の位だけど、閣議に参加できる参議(さらに中納言・大納言・大臣といて、彼らは国政に携わる最高幹部達で、中納言・大納言は権官もいるのだけど、14世紀後半以降はほぼ専ら権官しか置かれなくなってしまった)以上に任命された事のない人達は載っていないのです。その最高幹部達である太政官のメンバーですが、道雅が2歳の時の、994年(正暦5)8月28日時点では以下のメンバーでした。
(994年8月28日時、太政官メンバー)
先日公卿補任年表を入手したのですが、残念ながらこれは非参議と言って、従三位以上の位だけど、閣議に参加できる参議(さらに中納言・大納言・大臣といて、彼らは国政に携わる最高幹部達で、中納言・大納言は権官もいるのだけど、14世紀後半以降はほぼ専ら権官しか置かれなくなってしまった)以上に任命された事のない人達は載っていないのです。その最高幹部達である太政官のメンバーですが、道雅が2歳の時の、994年(正暦5)8月28日時点では以下のメンバーでした。
(994年8月28日時、太政官メンバー)
役職 | 官位 | 名前 | 年齢 |
関白 | 正二位 | 藤原道隆 | 41 |
左大臣 | 正二位 | 源重信 | 72 |
右大臣 | 正二位 | 藤原道兼 | 33 |
内大臣 | 正三位 | 藤原伊周 | 20 |
大納言 | 正二位 | 藤原朝光 | 43 |
大納言 | 正二位 | 藤原済時 | 53 |
権大納言 | 従二位 | 藤原道長 | 28 |
権大納言 | 正三位 | 藤原道頼 | 23 |
中納言 | 従二位 | 藤原顕光 | 50 |
中納言 | 正三位 | 源保光 | 70 |
中納言 | 正三位 | 藤原公季 | 38 |
権中納言 | 正三位 | 源時中 | 51 |
権中納言 | 正三位 | 源伊ただ | 56 |
(変換できず) | |||
権中納言 | 正三位 | 藤原懐忠 | 59 |
参議 | 正三位 | 藤原道綱 | 39 |
参議 | 正三位 | 藤原安親 | 72 |
参議 | 従三位 | 藤原時光 | 46 |
参議 | 従三位 | 藤原実資 | 37 |
参議 | 従三位 | 平惟仲 | 50 |
参議 | 正四位下 | 藤原公任 | 28 |
参議 | 正四位下 | 藤原誠信 | 30 |
参議 | 正四位下 | 源扶義 | 43 |
大臣はずっと定員1人だったのが、中世以降権大納言・権中納言・参議はいずれも10人超えるか超えないかの定員まで増加する事となりますが、それはまた別のお話です。道長が6年前の988年(永延2)に非参議からいきなり議政官は権中納言からスタートとなったのも、893年(寛平5)に22歳で中納言となった藤原時平(「女房」の源倫子の祖母は時平の娘なので、道長にとって時平は義理の曽祖父でもある)に迫る好スタートでしたが、道雅の父・伊周はさらにスピード出世を遂げたわけです。官位の方はまだ正三位で、中納言~大納言の公卿たちには彼よりも官位の高い人も何人かいましたが、その後の中関白家の没落はもはやここで態々述べる事ではないです。ここでちょっと古いですが、折角「国史体系公卿補任」を目にする事が出来たので、平安中期までの非参議になった人達は誰か調べてみました。
飛鳥・奈良時代(793年以前) | ||||
名前 | 任命日 | 辞任日 | 辞任理由 | 備考 |
長屋王 | 709/11/1 | 718/3/3 | 大納言昇進 | 最終的には正二位左大臣 |
巨勢麻呂 | 713/1/7 | 715/5/7 | 中納言昇進 | |
石川宮麻呂 | 713/1/7 | 713/12 | 死去 | 655年(斉明天皇1)生まれ。蘇我 |
連子の子 | ||||
多治比池守 | 714/1/7 | 718/3/3 | 中納言昇進 | 左大臣多治比嶋の子 |
藤原武智麻呂 | 718/1/7 | 721/1/11 | 中納言昇進 | |
藤原宇合 | 725/1 | 731/8 | 参議昇進 | |
藤原麻呂 | 729/3 | 731/8 | 参議昇進 | |
百済王南典 | 737/9/13 | 758以降 | 死去 | 667年(天智天皇5)生まれ |
竹野王 | 744/2 | 758 | 死去 | 672年(天武天皇1)生まれ |
智努王 | 747/1/7 | 758/6 | 参議昇進 | 後名文室浄三。長親王の子。天武天皇孫 |
三原王 | 748/2/1 | 752/10 | 死去 | 舎人親王の子、天武天皇孫 |
石上乙麻呂 | 748/2/1 | 749/7/2 | 中納言昇進 | 左大臣石上麻呂の子 |
百済王敬福 | 749/4/1 | 大仏建立の為の黄金献上による昇進 | ||
南典の甥 | ||||
藤原乙麻呂 | 750/11/1 | 760/6/17 | 死去 | 武智麻呂4男 |
栗栖王 | 752/7/8 | 753/10/7 | 死去 | 長親王の子。天武天皇孫 |
682年(天武天皇11)生まれ | ||||
一説に758年(天平宝字5)没 | ||||
藤原永手 | 754/1/13 | 756/5/19 | 権中納言昇進 | 房前2男。最終的に正一位左大臣 |
藤原弟貞 | 757/7/5 | 762/12/1 | 参議昇進 | 長屋王の子、不比等が母方の祖父 |
初名山背王 | ||||
塩焼王 | 757/8/3 | 763/1 | 参議昇進 | 新田部親王の子、天武天皇孫 |
藤原仲麻呂の乱で処刑される | ||||
後名氷上塩焼 | ||||
池田王 | 758/8/1 | 759/6/16 | 親王宣下 | 舎人親王4男 |
河内女王 | 758/8/1 | 769/5? | 官位剥奪 | 760/5/3 正三位。長屋王妹 |
773/1 | 779/12/23 | 死去 | ||
白壁王 | 759/6/1 | 762/12/1 | 中納言昇進 | 志貴親王子、天智天皇孫。後の光仁天皇 |
藤原巨勢麻呂 | 760/1/7 | 764/9/11? | 処刑 | 武智麻呂3男 |
藤原仲麻呂の乱で処刑される | ||||
一説に763年(天平宝字7)死去 | ||||
藤原蔵下麻呂 | 764/9/11 | 774/5/5 | 参議昇進 | |
高倉福神 | 765/1/7 | 789/10/8 | 死去 | 高麗氏。 |
文室大市 | 765/7/7 | 766/7/11 | 参議昇進 | |
藤原宿奈麻呂 | 766/11/5 | 770/7/13 | 参議昇進 | 後名良継 |
大伴古慈悲 | 775/1/5 | 777/8/4 | 死去 | |
飯高諸高 | 776/4 | 777/5/28 | 死去 | 豪族出身の采女 |
佐伯今毛人 | 782/6/15 | 789/2 | 致仕 | |
坂上苅田麻呂 | 785/2/8 | 786/1/7 | 死去 | 田村麻呂父 |
多治比長野 | 787/1/7 | 789/1/7 | 参議昇進 | 嶋の孫、池守の子。葛原親王等の外祖父 |
706年(慶雲3)生まれ | ||||
平安時代初期・前期(794~810年・810~930年) | ||||
名前 | 任命日 | 辞任日 | 辞任理由 | 備考 |
大伴乙麻呂 | 795/2 | 809/5/4 | 死去 | 初の征夷大将軍 |
和気清麻呂 | 796 | 799/2/21 | 死去 | |
坂上田村麻呂 | 801/11/7 | 805/6/23 | 参議昇進 | |
藤原葛野麻呂 | 805/7/15 | 806/4/18 | 権参議昇進 | 房前曾孫。鳥養流 |
春原五百枝 | 812/1/17 | 819/3/1 | 参議昇進 | 志貴親王玄孫 |
紀百継 | 822/12/24 | 835/7 | 参議昇進 | |
藤原継彦 | 826/1/7 | 828/2/26 | 死去 | 年齢57とあり、逆算すると770年(宝亀1) |
生まれとなり、浜成が46歳の時に生まれた | ||||
子となってしまう。また日本後紀では | ||||
822年(弘仁13)11月とする | ||||
佐伯永継 | 826 | 828/11/12 | 死去 | |
藤原継業 | 826/1/7 | 842/7/5 | 死去 | 宇合孫、緒嗣弟 |
藤原浄本 | 830/5 | 830/7/21 | 死去 | 蔵下麻呂子 |
源常 | 831/1/7 | 832/11 | 中納言昇進 | 嵯峨天皇皇子 |
源定 | 832/1/7 | 833/8/15 | ||
橘氏公 | 833/1/7 | 833/6 | 参議昇進 | 嵯峨天皇皇后嘉智子の弟、奈良麻呂孫 |
菅原清公 | 839/1/7 | 842/10/17 | 死去 | 道真祖父 |
百済勝義 | 839/2/15 | 855/7 | ||
平高棟 | 843/4/14 | 851/12 | 参議昇進 | 桓武天皇孫。 |
源融 | 850/1/7 | 856/9 | 参議昇進 | 嵯峨天皇皇子 |
高枝王 | 854/1/7 | 858/5/15 | 死去 | 桓武天皇孫。伊予親王子 |
橘永名 | 860或861 | 866/5/10 | 死去 | 奈良麻呂孫 |
基棟王 | 884/2/23 | 887? | 死去? | 葛井親王子。桓武天皇孫 |
藤原時平 | 890/11/28 | 891/3/19 | 参議昇進 | |
藤原高藤 | 894/1/3 | 895/10/26 | 参議昇進 | 皇太子・敦仁親王(後の醍醐天皇)外祖父 |
子孫は勧修寺流として繁栄 | ||||
平安時代中期(930~1068年) | ||||
名前 | 任命日 | 辞任日 | 辞任理由 | 備考 |
藤原兼家 | 967/11/23 | 969/2/7 | 中納言昇進 | |
藤原済時 | 969/9/13 | 970/8/5 | 参議昇進 | |
源博雅 | 974/11/18 | 980/9/28 | 死去 | |
藤原国章 | 977/1/7 | 985/6/23 | 死去 | 長良流。長良曾孫 |
藤原季平 | 977/8/2 | 983/6/11 | 死去 | 長良流。 |
菅原文時 | 981/1/7 | 981/9/8 | 死去 | 道真孫 |
藤原公季 | 981/1/7 | 983/12/16 | 参議昇進 | 閑院流の祖 |
藤原道隆 | 984/1/7 | 986/7/5 | 参議昇進 | |
藤原義懐 | 984/10/10 | 985/9/14 | 権中納言昇進 | 花山天皇外叔父 |
源時中 | 986/7/23 | 986/10/15 | 参議昇進 | 宇多天皇曾孫 |
藤原尹忠 | 986/7/23 | 989/8/2 | 死去 | 貞嗣流 |
高階成忠 | 986/7/23 | 998/7/7 | 死去 | 道隆舅。今回の主人公、道雅の曽祖父 |
藤原懐平 | 986/12/22 | 998/10/23 | 参議昇進 | |
藤原遠度 | 987/7/12 | 989 | 死去 | 師輔7男。 |
藤原道長 | 987/9/20 | 988/1/19 | 権中納言昇進 | |
藤原道綱 | 987/11/27 | 991/9/7 | 参議昇進 | 990/1/7に正三位。 |
源泰清 | 988/1/29 | 999/4/11 | 死去 | 醍醐天皇孫 |
藤原高遠 | 990/1/11 | 1013/5/16 | 死去 | 1005正三位 |
源清延 | 990/8/29 | 996/1/12 | 死去 | 光孝天皇曾孫 |
藤原有国 | 990/8/2 | 1000/10/3 | 参議昇進 | 996正三位。真夏流 |
菅原輔正 | 992/2/15 | 996/4/24 | 参議昇進 | 道真曾孫 |
藤原忠信 | 993/12/10 | 994/12/11 | 死去 | 魚名流 |
藤原隆家 | 994/8/20 | 995/4/6 | 権中納言昇進 | |
源憲定 | 996 | 1017/6/2 | 死去 | 村上天皇孫、醍醐天皇は父母両方の |
曽祖父(母方祖父が源高明) | ||||
平親信 | 1001/10/10 | 1015/10/28 | 参議昇進 | |
藤原兼隆 | 1002/1/20 | 1008/1/28 | 参議昇進 | 道兼の子 |
藤原頼通 | 1006/3/4 | 1009/3/4 | 権中納言昇進 | 同年9月に正三位、1008/10/16に従二位 |
藤原教通 | 1010/11/28 | 1013/6/23 | 権中納言昇進 | 1011/8/11正二位 |
藤原頼宗 | 1011/8/11 | 1014/3/28 | 権中納言昇進 | |
藤原能信 | 1014/5/16 | 1017/8/29 | 権中納言昇進 | |
藤原道雅 | 1016 | 1054/7 | 出家 | |
藤原兼経 | 1018/10/23 | 1023/12/15 | 参議昇進 | 道綱の子 |
藤原長家 | 1022/1/6 | 1023/2/12 | 権中納言昇進 | 俊成・定家は彼の子孫 |
藤原惟憲 | 1023/12/26 | 1033/3/26 | 死去 | 勧修寺流 |
源師房 | 1024/9/21 | 1026/11/6 | 参議昇進 | 村上源氏祖 |
藤原兼頼 | 1030/3/8 | 1031/12/26 | 参議昇進 | 頼宗の子 |
藤原信家 | 1033 | 1036/12/8 | 権中納言昇進 | 教通の子 |
大中臣輔親 | 1035 | 1038/6/2 | 死去 | 大中臣能宣の子。954年(天暦8)生まれ |
藤原資業 | 1045/4/26 | 1051/2/16 | 出家 | 真夏流 |
藤原師経 | 1045 | 1066 | 死去 | 生年は10世紀末~11世紀初頭頃 |
源基平 | 1046/11/3 | 1050/11/25 | 参議昇進 | 敦明親王子。三条天皇孫 |
源俊房 | 1049/10/13 | 1057/3 | 参議昇進 | 師房子 |
藤原忠家 | 1051/6/13 | 1060/12/16 | 参議昇進 | 長家子。俊成は孫で定家は曾孫 |
藤原祐家 | 1052/11/3 | 1064/10/26 | 参議昇進 | 長家の子。忠家の弟 |
高階成章 | 1055/7/19 | 1058 | 死去 | |
藤原師実 | 1056/2/3 | 1056/10/29 | 権中納言昇進 | |
藤原経家 | 1056/1/7 | 1062 | 参議昇進 | 定頼子。公任孫 |
藤原隆佐 | 1059/1/7 | 1074 | 死去 | 勧修寺流。藤原賢子(紫式部娘)の異母兄 |
藤原師成 | 1063/2/27 | 1075/12/15 | 参議昇進 | 済時孫 |
藤原長房 | 1063/4/2 | 1083/1/16 | 参議昇進 | 隆家孫。道隆曾孫 |
最初の非参議は長屋王で、彼は父母両方の祖父が天皇(天武・天智)というサラブレッドだった事もあったか、議政官は大納言スタート(さらに実は親王待遇を受けていたのではないかな説もある)したが、浅学ながら、公卿補任では「石上宮麿」と表記されていたけど、石川宮麻呂の存在を初めて知りました。天智朝で右大臣を務めていた蘇我連子の子だったようですが、若年時に父と死別してしまい、叔父の赤兄や果安と違って壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に味方したが、直後に兄の安麻呂とも早世した(と思われる)事もあって、甥の石川石足同様他氏族に比べ昇進に遅れを取ってしまったようです。公卿に列せられたのも束の間で間もなく亡くなってしまったのも甥同様でしたが、壬申の乱以降結局ほぼ実質的に80年近く公卿不在だったのは石川氏にとって不運で、結局非参議としても石川氏最初で最後の該当者となってしまいました。奈良時代はまだ特定の氏族が何人も高官に就くのは憚られていたようで、いち早く参議になった房前以外の藤原四兄弟もまずは非参議を経たようです。そして天皇の三世王も何人か名を連ねているのも特徴的でしたが、竹野王は他の皇族とどういう血縁関係にあったかは分かりませんでした。しかし、長屋王と関係が深かったらしく、86歳まで長生きしています。(百済王南典はもっと凄く、少なくとも91歳までは生きています。)
栗栖王も、後に吉備真備に次期天皇として擁立された文屋浄三・大市より10歳以上歳上の兄ですが、天武天皇の男系男孫ではおそらく最年長(甥の新田部親王とおそらくそんなに歳が違わない)で、父の長親王も663~667年頃の生まれで享年は48~52歳程度だったのでしょう。河内王との表記も見られますが、河内女王の間違いだったようです。彼女も兄の長屋王一族同様政争に巻き込まれてしまったらしいですが、父の高市皇子の生没年から推定するに、遅くとも697年(持統天皇10)までに生まれてないとおかしいので彼女も少なくとも80代半ば以上は生きていた事になります。天武皇統というよりは持統・草壁皇統が続いていた称徳朝までは非参議となった人がそれなり以上に見られました。後の光仁天皇こと白壁王もその1人で、最終的に天皇となったのだから、彼ら面々の中では一番出世した人だったでしょう。それも称徳天皇の異母姉・井上内親王と結婚して、その間に生まれた他戸親王が女系ながらも持統・草壁の血を引いていた事が前述の真備の擁立も退けて皇位に就いた大きな理由だったのでしょうが、結局はこれも周知の通り山部親王(桓武天皇)が藤原氏により皇太子に擁立され、天皇に即位したのです。山部親王の立太子以降は非参議授与者も減ってしまいましたが、その中でも桓武天皇と娘・真宗との間に葛原親王等を儲けさせ、桓武平氏諸一族のご先祖様にもなった多治比長野は出色の存在の一人です。
平安時代を迎えても、特に桓武朝後期は藤原氏の大臣もしばらく途絶えていましたが、非参議もデフレだった傾向はしばらく続きました。その中でもやはり桓武朝の政策に多大な貢献を果たした坂上田村麻呂と和気清麻呂の姿が見られましたが、嵯峨朝末期~淳和朝期において一時的な非参議ラッシュが見られます。嵯峨源氏や橘氏公等皇室の血縁者が何人か見られましたが、皇統の移り変わりの際に拙い立ち回り(氷上川継の変)を見せてしまい、負け組となってしまった京家の藤原継彦も昇進しています。とうとう父・浜成が太宰府から帰れないまま亡くなる前には既に赦されていたようで、桓武天皇との関係は悪くはなかったのでしょう。生年はやはり749年(天平勝宝1)の方が正しいっぽいですが、この時点で既に77歳で四兄弟の孫世代(と言うか、既に曾孫世代も出ている)では大きく遅れを取ってしまい、この時点で既に左大臣となっていた(昇進直後に亡くなるが)冬嗣等北家の優位がほぼ確定しており、それを取り戻す事は出来ませんでした。百人一首では34番の興風も結局正六位上で終わってます。しかし、皇統が嵯峨系に一本化された承和の変以降です。過去ログでも話したように、平安前期は官位が最もデフレだった時期で三位の大臣も珍しくありませんでした。非参議の輩出も激減してしまい、その中では前述の時平が19歳の若さで公卿になっていたのは出色でしたが、直後父・基経だけでなく、源融・藤原良世(時平にとっては大叔父)・源能有と年配の高位高官者が次々に死去または引退した事もあって、またまたしばらく藤原氏の大臣輩出(約700年後の秀吉の死去直後も大臣は内大臣の家康だけとなってしまったけど、この時以来の異常事態だったであろう)が途絶え、非参議も皇太子・敦仁親王(醍醐天皇)の外祖父となった藤原高藤以降間違ってなければ実に70年以上も列せられた人がいない「長い空白」(?)が続きました。続いたのですが、また長くなってしまったので一旦ここで区切ります。
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