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2014/07/21

百人一首の歌人達(12)-14番河原左大臣&39番参議等後編

「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」(14番河原左大臣)

「浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」(39番参議等)

長くなりすぎたのでもう前編と後編に今回は分けましたが、後編です。本当に良相と善男にのちの道長ほどとまではいかなくとも、もっと運があれば、良相が天皇の外祖父として摂政太政大臣に、善男が左大臣に就任となっていたかもしれません。実際良房はこの時点で既に62歳の老人です。いつ死んでもおかしくない。善男が告発しても、良相が「嘘つけ!!」と言って信じなければそれで終わりだったかもしれず、彼は人間性は良かったようですが、良房に根回しもしないで信を逮捕しようとしていたのも拙い立ち回りでした。強い政治的野心もあり、それ故の焦りもあったのでしょうが、結局良房が一番得をする形となってしまった。善男には酷な言い方かもしれませんが、既に以前からそうした強引な言動も見られ、大納言にまで出世したのだって十分すぎたのに今度は信をライバル視して、彼と張り合って、彼をも追い落とそうとしたのは分を超えた野心でした。彼もまた、必要以上に周囲から反感を買わない様にしようと立ち回っていた祖父・不比等を見ていたはずのかっての藤原仲麻呂がそうだったように、野心に血道をあげるあまり、今まで散々政争に巻き込まれ、多くの血を流してきた一族の歴史及びそこから学ぶべき事を忘れていたのです。よく「疑わしきは罰せず」と言いますが、後の大久保長安同様「あいつならやりかねない」な印象も抱かせてしまった感じです。そして最後は彼らと同じ道を歩みました。

良房・良相の暗闘については、wikiでも紹介されているけど、瀧波貞子氏は当初は良房は良相を自分の後継者と考えていて、応天門の変後に養子とした基経にその指名を変えたのではないかと主張されているらしい。確かにこの事件の直後に基経の妹・高子が、8歳も歳下の天皇に入内した事からも、全くありえないとも言い切れないでしょうが、既に実父・長良の存命時には養子になっていたようだし、どちらかと言えば養子の基経の方が良いけど、もう1人の弟、良門(但し、子孫は勧修寺流として大いに栄える)みたいに早死しないとも限らないし、良相(あるいはその息子、常行)か基経かどっちに転んでも良いかなあ?とある程度は柔軟に考えていたのではないでしょうか?実際常行も無能だったわけではなかったようで、基経に官位官職では後手に回るも、大差を付けられたほどではないです。また多美子もついに天皇との間に子は儲けられなかったけど、この頃正三位、天皇の譲位後に従二位、最終的には正二位にまで昇る等一定以上の配慮が伺えますが、基経が早死して、常行が長生きしていれば次の陽成天皇に娘を入内させて、その間に皇子が生まれて、良房みたいに天皇の外祖父となり、名継や輔国も父の引き立てで出世、時平や仲平等は彼らの風下に立っていたかもしれません。しかし、現実はその逆で、基経ばかりか仁明天皇皇子の源多よりも先に亡くなり、良相系は全く振るわなくなりましたが、これでは多美子も自分1人だけ高位に昇っても虚しく感じていたかもしれません。

「お前さっきから融とあんま関係ない話ばっかしてるじゃん!!」と思われるかもしれず、wikiでもこの基経と常行のライバル関係が強調されてますが、融もまた、官位官職の昇進では基経のライバルだったのです。864年(貞観6)に融は中納言、基経は参議に。応天門の変直後には基経も中納言に。870年(貞観12)にはまたまた2人共に大納言に。872年(貞観14)には融は兄・信の死後空位となっていた左大臣に、基経は正三位右大臣となります。平安前期は過去ログでも述べた通り、三位の大臣も珍しくはない、比較的官位がデフレ状態だったのですが、翌873年(貞観15)には2人とも従二位に。しかし、876年(貞観18)に陽成天皇が即位して、基経が摂政となると、いじやけて自宅に引きこもってしまったのです、。その間も877年(元慶1)には融は正二位となり、官位では基経を越したのですが、880年(元慶4)末には清和上皇の遺言、「摂政なのに右大臣では官職が低い」を受けて基経が太政大臣に昇進してしまいます。官位も翌881年(元慶5)に良房以来の従一位となり、越されてしまいます。と言うか、この融と基経の昇進競争って、後の菅原道真と藤原時平のそれに似ています。陽成天皇退位時の「大鏡」でのあのエピソードは確かに本当かどうかは疑わしいですが、それだけ融が大物だったという事だったのでしょう。皇位継承を諦める見返りかどうかは分かりませんが、宇多天皇即位後に従一位となり、官位では基経に並び、阿衡の紛議を経て基経が先に亡くなった後、11年ぶりに太政官の首班にはなりましたが、既に69歳の高齢で、その紛議を収めた学者・道真と、まだ20歳の青年だったけど、有能だった貴公子・時平の時代となっていきます。融や源能有の死、基経の後の藤氏長者となっていた良世の引退後、宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、道真と時平は共に内覧・大臣として醍醐朝を支えていくと思われましたが・・・・・・・・・

一大勢力を築いた嵯峨源氏も、孫(嵯峨天皇から見て)の代となると、もっと男子は大勢いたはずなのに公卿になったのは6人。それも大臣はおらず、融の子だった湛と昇は大納言、弘の6男だった希は中納言まで昇進しましたが、あとの3人は参議です。いくら天皇の子孫だからといっても、世代が下れば下るほど、昇進は限られるようになっていったのです。

ここでもう1人の主人公、等がようやく登場して、彼は弘の孫、希の次男でした。若い頃の昇進は決して悪くはありませんでした。904年(延喜4)に24歳で従五位下です。子世代と比べると遅いですが、孫世代を見ると、舒が15歳、湛が18歳、希が36歳、昇が27歳、悦が36歳でぞれぞれ従五位下となっています。直だけがちょっと分かりませんでしたが・・・・・・・ところが、既に父・希は亡くなっていて、その後ろ盾も無かったのもあってか、地方官や文官を地道に歴任していたらしいですが、従五位上になったのが32歳、正五位下になったのが43歳、従四位下になったのが50歳、従四位上になったのが63歳で昇殿を「許されたのが66歳の時、翌947年(天暦1)に参議となった時はもう67歳になっていました。この時点で源氏公卿(参議以上)は嵯峨源氏の等の他に陽成源氏の大納言・清蔭、醍醐源氏の、後の安和の変の悲劇の主人公、権中納言・高明と参議・兼明兄弟と参議・庶明の5人いましたが、かって融が昇進を競っていた藤原北家嫡流は基経から時平の早世を経て忠平となっており、左右大臣だった実頼と師輔だけでなく、師氏と師尹の4人も列せられていました。また母親が融の孫だった、時平次男、顕忠も中納言となっており、最終的には先に亡くなった従弟の師輔の後任の右大臣となっています。しかし、曾孫世代では公卿となったのは(おそらく)等と光孝天皇の養子となった是茂だけだったのだから、歌の方では実は存命当時はそれほど高い評価はされていなかったらしいですが、頑張った方だったのです。等の子孫は、孫の代までは確認できますが、彼が最後の嵯峨源氏出身の公卿でした。(ただ女系では、定の孫娘、周子が醍醐天皇との間に高明を産み、さらに高明の娘が道長との間に頼宗を産んだので、朝廷では女系ながらも定の系統が最も栄える事となる。頼宗流の園家は時代が下って江戸時代に霊元天皇の外戚となったので、現在の天皇陛下を中心とした皇室も定の子孫という事が出来るし、もし高家のはしりだった大沢基宿も本当に頼宗流ならば、岩倉具視や加山雄三氏、喜多嶋舞氏等も定の子孫である)そして、等の晩年に即位した村上天皇の末裔である村上源氏が、天皇崩御後、摂関期となり、道長が「この世をば~」も歌った藤原氏の全盛期の後の院政期でかっての嵯峨源氏以上の一大勢力を築く事となり、現代では女優・美子氏等を輩出した久我家や中院家(男系では東山天皇の末裔である)は現在も女系ながらも村上天皇の血を受け継ぐ事となったのですが、それはまた別のお話です。

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