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2014/07/20

百人一首の歌人達(11)-14番河原左大臣&39番参議等前編

「陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」(14番河原左大臣)

「浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」(39番参議等)

このシリーズ第11弾ですが、今回は河原左大臣こと源融と、参議等こと源等の嵯峨源氏コンビです。どちらも恋愛を題材とした歌ですが、特に融のそれは光源氏のモデルの1人にもされた彼らしい歌です。

時代が奈良時代から平安時代に移り変わるか変わらないかの時に、皇統は百人一首で言えば正確には天武系というよりは2番目の持統天皇・草壁皇子系皇統から1番目の天智天皇系皇統に戻っていき、やはりこのシリーズではまだ個別に取り上げてはいない6番目の中納言家持(大伴家持)も晩年はそうした変換期にもあって、巻き込まれたりしたのですが、天武皇統がいつの間に持統・草壁皇統に矮小化し、それが道鏡など僧も絡んだ奈良時代の政争の大きな種になった反省点からか。本来皇位を継げる立場になく、一官僚のままで一生を終わっていたであろう(小学館「少年少女日本の歴史」では最初から皇太子であったかのような描かれ方がされていたが)桓武天皇は、中には50歳以上歳の離れた后もいたのだから、やはり塩村文夏氏に言わせれば「キモイ」のかもしれませんが、皇太子時代は男子がはっきり確認できる範囲ではまだ2人(平城天皇と長岡岡成。どっちが年長かは不明)しかいませんでしたが、即位後、50近くなってから76番目の法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)同様次々と子女に恵まれるようになり、その次の次の嵯峨天皇はさらに凄く、50人以上もの子女に恵まれました。

しかし、後に弟の大伴親王(淳和天皇)に譲位しようとした所、「上皇が2人(この時点では平城上皇はまだ存命で、孫で16番目の中納言行平も既に生まれている)もいたら財政負担が重くなる」と藤原冬嗣に反対されたほどだったのですから、全員親王として面倒見る余裕なんてありません。生母の身分が比較的高いメンバーを除いて、源姓を賜り、臣籍降下する事になったのも周知のとおりですが、そうとは言え、れっきとした天皇の息子ですから彼ら嵯峨源氏は朝廷で一大勢力を築く事となります。

(初叙位時の年齢)

信・・・・15(従四位上)

弘・・・・16(従四位下)

常・・・・16(従四位下)

寛・・・・不明(正六位下)だが、23で従四位上

明・・・・18(従四位上)

定・・・・2(従三位)

鎮・・・・不明(従四位上)

生・・・・17(従四位上)

澄・・・・無位

安・・・・23(従四位上)

清・・・・不明(最終的には正四位下)

融・・・・16(正四位下)←今回の主人公の1人

勤・・・・23(従四位上)

勝・・・・不明(従四位上)だが、遅くとも833年(天長10)には生まれている。

啓・・・・不明(正六位上)だが、22で従四位上

賢・・・・無位

継・・・・不明


以上ですが、大抵は10代後半~20代前半で従四位上か従四位下に叙せられています。出色なのはですが、wikiを見てやっぱりと言うか、叔父の淳和天皇の猶子だったからこのような破格の待遇を得たのです。後の摂関家当主達もビックリだったでしょう。

他にも、寛と啓は正六位スタートのようで、この時の年齢はわかりませんでしたが、従四位となった時の年齢は他の多くの息子達とあまり変わりません。生母の身分も大きい差があるとは思えませんが、813年(弘仁4)生まれの寛は元服と同時に叙せられたらしいですから、825~829年頃と推測されます。ただ、出世願望はなかったようで、公卿になる事なく一生を終えています。啓は父上皇(生まれた時点で既に譲位)の寵愛を受けていたらしく、既に同年代の息子(興)が生まれていた兄・常(左大臣)の養子となったらしいですが、正六位上の官位をもらったのはこの時で、父上皇の晩年期、やはり10~13歳頃の事だったのでしょう。従四位上に昇ったのも、前年の850年(嘉祥3)に正二位となっていた常の引き立ても大きかったと思われます。澄と賢は無位に終わり、20歳前後で早世したと思われますが、澄は曾孫まで子孫を確認できます。そういう意味では、やはりwikiでも書かれてますが、平高望の父で平将門の曽祖父とされている高見王(父は桓武天皇皇子・葛原親王)も、架空の人物であるとは言い切れないかもしれません。高望は839年(承和6)頃生まれだとすると、葛原親王は嵯峨天皇(上皇)と同じ786年(延暦5)生まれで53歳の時の子という事になり、ありえないわけではないでしょうが、もし高見王が実在の人物だとすれば生没年は千葉大系図の824-848年が最も有力な説かと思われます。次に公卿になった時の年齢を見てみます。

(公卿になった時の年齢)※()は最終官職。非参議の時は左にその時の官位官職を明記。

信・・・・21(左大臣)

弘・・・・30(大納言)

常・・・・19(従三位兵部卿→左大臣)

明・・・・35(参議)

定・・・・2(従三位非参議→大納言)

生・・・・43(参議)

融・・・・28(従三位右衛門督→左大臣)※※今回の主人公の1人。口説い様だけど。

勤・・・・46(参議)

8人にまで絞られてしまいましたが、左大臣3人・大納言2人・参議3人です。定も前述した通り破格の待遇でしたが、常も昇進はかなり早く、840年(承和7)には28歳で右大臣となっています。おそらく藤原時平と並ぶ大臣就任の最年少記録だったでしょう。(後に994年におそらく藤原伊周が95年ぶりにこの記録を塗り替える)前回取り上げた良岑宗貞(遍昭)の父で、彼らにとっては伯父にあたる良岑安世をも凌ぐ出世の速さです。

融が公卿となったのは850年(嘉祥3)の事で、参議だったは宗貞とほぼ同時に出家(それもやはり仁明天皇の崩御が原因だったという事でしたが、臣下から慕われた賢君だったのでしょう)してしまいましたが、この時点で常が左大臣、信が大納言、弘と定が中納言と兄弟達は既に4人も高位高官にありました。しかし、この年に即位した文徳天皇の外伯父だった右大臣・藤原良房の権勢はさらに強まるばかりで、天皇と彼の娘、明子との間に生まれた惟仁親王(清和天皇)が皇太子となります。天皇は本当は惟喬親王を愛していたようで、成人するまでの中継ぎ(惟喬の方が6歳年長)として先に即位させる事を条件にしようとしたらしいですが、外祖父の紀名虎は既に故人で後ろ盾に乏しかったのもあってか、が反対してその条件は無しとなったようです。この文徳朝期に常が厄年の42歳で亡くなり、良房が左大臣、信が右大臣となるかに思われました。しかし、平安中期までは高官の在職者が死亡しても、しばらくは空位である事は珍しくなく、左大臣は不在のまま融は856年(斉衡3)、34歳で参議となりました。順調な出世です。翌857年(天安1)に良房が太政大臣、信が嵯峨源氏では2人目の左大臣、そして良房弟の良相が右大臣と大臣3人制となりましたが、さらに翌858年(天安2)に惟仁親王が即位(清和天皇)しました。良房は天皇と外祖父となりましたが、もうこの時点で事実上の摂政となっており、初期摂関政治の成立と見て良いです。

しかし、世の中は平和かというとそうとも言い切れず、富士山の噴火も見られましたが、それとほぼ同時期に咳病も流行し、863年(貞観5)1月に定と弘が揃って亡くなってしまいます。定はもし恒貞親王(淳和天皇皇子で廃太子)が即位していたならば、もっと出世できたようですが、のちの摂関家当主達もビックリな好スタートを切りながらついに大臣になれなかったのは皮肉です。そして結果論かもしれませんが、そうした一大勢力を築いていた嵯峨源氏の大物でもあったこの2人の死も応天門の変の伏線そのものだったように思えてなりません。

http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-11.html

翌864年(貞観6)の人事では、融は中納言に昇進しましたが、彼の上位者として、桓武天皇孫である平高練伴善男が大納言に、北家でも嫡流の真楯系ではなく鳥養系だった氏宗が権大納言に昇進したのです。氏宗も、8歳の時に父が亡くなったハンデも乗り越えてここまで出世したのですが、特に善男です。上記HPでも指摘されていますが、確かに大伴氏(淳和天皇の諱と被るのは恐れ多いという事で改称)は何度も政争に巻き込まれ敗北しながらもしぶとく何度も復活してきました。それは蝦夷・入鹿の宗本家の滅亡から衰退と相対的な復活(かっての勢いを取り戻すほどではない)を繰り返し、既に桓武朝で公卿輩出(貴族輩出も文徳朝期が最後か)が途絶えてしまった蘇我氏の姿と比べても、余計そうしたしぶとさが際立ちます。

家持が亡くなった直後に長岡京建設の責任者だった藤原種継暗殺事件が起こり、官籍から除名され、祖父の継人も関与を疑われて死刑となり、父の国道も流罪となりました。一族の潔足も、娘婿で北家の永手系だった雄依も連座し、流罪となりながらも昇進には影響なく、参議にまでなりましたが、この時点で既に74歳。2年後の792年(延暦11)に亡くなります。それでも、平安京遷都直後の795年(延暦14)には乙麻呂が非参議ながらも従三位となり、809年(大同4)まで生きます。そしてついに国道が823年(弘仁14)に55歳で参議となりました。善男が参議となったのは848年(嘉祥1)、37歳の時で、非藤原・非賜姓皇族としては早い方だったでしょう。この時点では先任の参議は4人いて、不仲だった信は既に大納言となっていました。860年(貞観2)には家持以来75年ぶりの中納言、そして前述の864年(貞観6)の大納言昇進は旅人以来実に133年ぶりの快挙です。

確かに祖父と父も他の一族同様政争に巻き込まれて苦杯をなめたハンディを背負っていたにも関わらずここまで出世したという事は実力はあったという事だったのでしょう。しかし、その2年後に応天門の変です。詳しい経緯はもはやこのブログで今更述べる事では全然無いですが、確かにこれは良房の陰謀だったのでしょう。この事件で一番得したのはこいつです。しかし、善男もまあネガティブな面は多少は差し引く必要もあるかとも思いますが、参議昇進も直前の善がい訴訟事件で桓武天皇孫で、融にとっては従兄にあたる正射王を失脚させた(中納言昇進後に還任も間もなく死去)事によるし、直系の子孫ではないのに家持が有していた加賀国の水田返還要求(容れられる)も何だか厚かましいものが感じられます。その上、たとえ自身が犯人ではなかったにせよ、清和天皇だけに対してではなく、前代の文徳天皇にも娘を嫁がせていた、良房にとっては最大の政治的ライバルだったで右大臣・良相とグルになって、天皇の孫である正射王の次は天皇の皇子で左大臣となっていた信を失脚させようとしたのです。信が失脚すれば良相が左大臣となり、善男が右大臣となります。大臣昇進が本当に実現すれば、長徳以来実に215年ぶりの快挙でした。さらに良房が先に死に、清和天皇に入大させていた多美子が皇子を産めば、良相はその外祖父として即位後に良房の先例に倣い、摂政・太政大臣、善男はついに大伴氏(伴氏)史上空前絶後の左大臣に・・・・・・長くなりすぎたので一旦ここで切ります。

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