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2014/07/13

百人一首の歌人達(10)-12番僧正遍昭&21番素性法師

「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」(12番僧正遍昭)
「今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな」(21番素性法師)

今回のこのシリーズ第10弾です。この12番僧正遍昭と21番素性法師は親子ですが、遍昭の歌はそのロマンチストさが良く伺える歌です。遍昭は俗名は良岑宗貞と言って、大和物語では小野小町との恋愛も描かれていた等女好きだったようですが、俗名は玄利と言ったらしい息子の素性の歌にはそうした色好みも受け継がれたかのようです。(※以降彼ら親子は俗名で統一する事とします。)

良岑という氏姓は一般にはあまり馴染みがないと思われますが、彼らもまた高貴な生まれです。宗貞の父、良岑安世桓武天皇の皇子だったのです。安世の生母、百済永継(宗貞にとっては祖母で、玄利にとっては曾祖母)は渡来人系だったのですが、元々は北家出身の藤原内麻呂の妻でした。安世が生まれたのは平城京を捨てて長岡京に移るも、その建設の責任者だった式家の藤原種継が暗殺された785年(延暦4)の事で、栗原弘氏も指摘されていたらしいですが、天皇が即位して半年後の781年(天応1)10月に正六位上から従五位下に出世しましたが、同年の6月には大きな昇進人事が見られました。右大臣・大中臣清麻呂が引退し、大納言・石上宅嗣と参議・藤原乙縄が亡くなり、内大臣・藤原魚名が左大臣に、中納言・藤原田麻呂が後任の大納言、そして天皇即位直後に正三位となっていた参議・藤原是公が式部卿&中衛大将となっています。是公はさらに9月に中納言に昇進し、まだまだこれでは終わりませんでしたが、この6月の昇進人事に大きく触発されたのではと思われます。何せ、北家本来の嫡流は伯父で数少ない生前正一位にもなった永手で、もう一人の叔父だった魚名も前述通り北家ではその永手に続いて左大臣に昇進、永手の嫡男で内麻呂にとっては従兄だった、正四位上・参議だった家依も7月には兵部卿に昇進しています。既に10歳で父・真楯を失っていた内麻呂には大した後ろ盾とかは無かったと思われます。余計自身や、永継との間に既に生まれていた真夏・冬嗣等子女の立身出世を考えていたのでしょう。従五位下への昇進は後宮にとして天皇に差し出した見返りかと思われます。

その後の内麻呂の出世については、wikiにも書いてありますから、ここで詳細を述べる事ではないですが、既に魚名は失脚(息子達も公卿への昇進は果たせないままだったが、三男の末茂の末裔が後の四条家として栄え、養子は入ったものの、現当主の四条隆彦氏も女系で魚名から、平安末期~鎌倉中期に出た四条隆衡までの歴代嫡流の血を引いている)し、また家依も亡くなり、その直後の種継暗殺事件で弟の雄依が連座・失脚した時に安世が生まれたのは単なる偶然とも思えないものもあります。永継はこのように藤原北家の隆盛には多少なりとも貢献したとも言えましたが、肝心の自身は従七位下に終わってしまったのは皮肉です。ただ、同じだった多治比豊継(長岡岡成生母)は少なくとも799年(延暦18)まで生きていて従五位上まで進んでいます。この豊継についても、不明な点が多く、父は多治比広成とされてますが、広成は永継の父だった飛鳥部奈止麻呂が正五位上止まりだったのに対し、従三位・中納言まで昇進しています。は低い身分の女性が多く、同じ多治比一族であり、桓武平氏の祖である葛原親王等を産んだ真宗の父、長野も84歳まで長生きして、親王等孫の顔も見る事が出来たというのもあったのでしょうが、従三位・参議まで昇進していますが、真宗は夫人でした。この時点で広成が豊継の父だったかどうかちょっと怪しいのですが、広成はまた、739年(天平11)に亡くなっていますから、遅くとも翌年の740年(天平12)に生まれてなければおかしい。岡成は本朝皇胤紹運録によれば桓武天皇の皇太子時代(773~781年)に生まれたとされていて、桓武天皇の長男または次男(平城天皇である安殿親王は774年生まれの為)という事になりますが、この時代では桓武天皇の異母弟で皇太子を廃された、他戸親王生母・井上内親王に匹敵する超高齢出産です。

http://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-21.html

このHPでは、豊継は邑刀自と同一人物だったのではないか?等な考察がなされているようですが、邑刀自もこのHP内ページの系図では広成の子とされているので、岡成を超高齢出産した事等は変わらなさそうです。また彼女は789年(延暦8)に無位からいきなり従五位上となり、最終的には従四位下まで進んで、少なくとも岡成が16~24歳の時だった797年(延暦16)までは生きていたようですが、桓武天皇はこれより前の790年(延暦9)2月に「百済王等は朕が外戚なり」との詔を出しています。百済人系への好意がなければ天皇自らこのような詔を出すわけがありません。永継はおそらく安世を出産した785~790年の間に早世したのではと考えられます。夫や真夏・冬嗣の生年から見て、彼女自身の生年は750~760年頃、享年は20代後半~30代前半だったでしょう。もっと長生きしていれば彼女ももっと高位に叙せられたでしょう。

岡成も長男・または次男でありながら、787年(延暦6)には既に臣籍降下し、848年(嘉祥1)まで生きていたので享年は60代後半~70代前半と考えられますが、幼少時に母と死別したと思われる安世も当然後ろ盾は殆どなかったでしょう。802年(延暦22)に臣籍降下して良岑朝臣姓を賜りました。しかし、彼は811年(弘仁2)に26歳で公卿への登竜門と言われている蔵人頭となっています。蔵人頭はその欠員が出た場合参議になる事が出来、奇しくも異父兄だった真夏は直前の薬子の変に連座して失脚してしまいましたが、この時点で参議はもう1人の異父兄・冬嗣や皇太子・大伴親王(淳和天皇)の外叔父だった藤原緒嗣等8人いました。

翌812年(弘仁3)には冬嗣と共に初代蔵人頭を経験した巨勢野足藤原縄主が中納言に昇進していよいよ公卿に列せられるか?と思いきや、参議となったのは藤原藤縄でした。彼は魚名の孫・鷲取の子で、父が祖父の失脚に連座する前に早世した(と思われる)事もあったのでしょうが、縄主共々世渡りが巧い人物だったようです。この後814年(弘仁5)には吉備真備の子だった泉が亡くなり、彼も享年が71歳でしたから父ほどではなかったにせよ、この時代としては長寿でしたが、816年(弘仁7)に10月に冬嗣が権中納言に昇進!!この直後についに藤原三守と共に参議になりました。この時点で右大臣・藤原園人は60歳、中納言ながらも彼に次ぐ太政官ナンバー2だった藤原葛野麻呂も61歳、同じく中納言の藤原縄主は56歳、冬嗣は41歳、他の参議面々は、文室綿麻呂が51歳、緒嗣42歳、藤嗣43歳、秋篠安人64歳、紀広浜57歳、それと元参議の真夏も42歳でしたが、安世はこの時三守と同じ歳の31歳です。緒嗣は28歳で参議となっていたので、スピード記録というわけではなかったですが、安世と三守の若さが際立っています。その後821年(弘仁12)に中納言となり、右大臣・冬嗣と大納言・緒嗣、先任中納言・綿麻呂に次ぐ太政官のナンバー4となりました。この時三守も権中納言となっています。823年(弘仁14)には綿麻呂が亡くなり、ついに太政官のナンバー3に、翌824年(天長1)には冬嗣が左大臣、緒嗣が右大臣とおそらく初の藤原氏出身の大臣2人制となりましたが、直ぐ緒嗣の後任の大納言昇進とはいかず、826年(天長3)に冬嗣が亡くなって太政官ナンバー2となってももうしばらく中納言に留まりました。官位は既に正三位となっていましたが、828年(天長5)についに大納言となりました。しかし、彼の官職はここで終わってしまった。2年後の830年(天長7)7月に亡くなったのです。この4ヶ月後、既に冬嗣や安世に官職で大差を付けられてしまった真夏も亡くなり、享年45歳は当時としては凄い目立つほどの早世ではなかったとも思いますが、あと10年は生きていれば確実に大臣になっていたでしょう。実際彼より後に大納言となっていた三守も、清原夏野も最終的には右大臣となっています。

さて、長生きとは言えなかった安世でしたが、男子には恵まれました。宗貞は彼の8男で、父が亡くなった時はまだ14歳。845年(承和12)に29歳で五位(従五位下・左兵衛佐)となり、8男としては遅い出世スピードではなかったと思います。849年(嘉祥2)には33歳で蔵人頭となり、父の26歳よりは遅いですが、公卿となる見込みが出てきたと思われます。しかし、翌850年(嘉祥3)に34歳の若さで出世してしまいます。従兄で寵愛を受けていた仁明天皇の崩御が原因と言われているようですが、それだけではなく、その後の文徳天皇の外伯父として勢力を強める一方だった、従兄の良房を中心とする藤原氏の権勢や、直前に越前守の任期中でしたが、兄の木蓮が亡くなった事等も背景にあったのでしょう。

29歳で五位となったと言って、同年齢時には長良は従五位上、良相は従五位下・左近衛少将、良仁も従五位下と彼らとはあまり差はなかったですが、良房は既に従四位下・蔵人頭となっていました。そして出家前後時点では良房は従二位・右大臣、長良は従四位上・参議、良相も正四位上・参議と藤原の従兄達は既に3人も公卿になっていました。良仁も正五位上と官位の上では彼にも抜かれています。(宗貞は従五位上)それでも、直後にはやはり従兄(嵯峨天皇皇子)である参議・源明も出家し、また同じ百人一首歌人でもある参議・小野篁もまもなく亡くなったのでもう少し頑張っていれば従四位・参議となれたはずです。実際、彼の出家直後に蔵人頭となった藤原氏宗も、藤原貞守も任命後まもなく参議となっていたのです。しかし、もはやこれ以上頑張る気が失せてしまったと言うか、俗世で藤原氏の風下でその権勢のおこぼれに何とかあずかるよりは仁明天皇も弔う意味でも僧として新たな人生を歩みたくなったのでしょう。この時玄利もはっきりとした生没年は不明なようですが、8歳程度で、兄の由性共々出家させられたようですが、それも彼なりの親子愛だと思いたいです。実際、宗貞と同世代だった伴善男は父の最終官職だった大納言まで出世した所を応天門の変で失脚させられ、「事件で一番得した奴を疑え」な原則に従うならば、この事件は良房の陰謀と見るのが妥当でしょう。しかし、当時まだ21歳の青年で、後の昌泰の変で失脚した菅原道真もそうだったのでしょうが、宗貞の従兄だった正射王等を善がい訴訟事件で失脚させたり、やはり同じく宗貞の従兄だった源信(嵯峨天皇皇子)と張り合っていたりと政治的野心が全く皆無だったのもあり得ず、藤原氏に排斥されたのも本人には酷な言い方かもしれませんが、良房とは役者が違ったと言うか、身の丈不相応に突っ張りすぎた成れの果てだったと言えます。

何だか善男とは対照的にも思えますが、この親子、特に宗貞は僧正まで出世したし、885年(仁和1)には光孝天皇主催による70賀を祝ってもらったのですから、幸福な人生を送ったと見て良いでしょう。宗貞はその光孝天皇を擁立した、良房の養子(実父は長良)で従兄甥の基経が阿衡の紛議で次代の宇多天皇に謝罪までさせて、藤原氏の権勢を改めて知らしめた直後に、玄利は、再従兄甥の時平が道真を太宰府への左遷に追いやり、醍醐天皇と連携して、後世聖代視される延喜の治等社会改革に精力的に取り込んでいたかと思えば、弟妹達よりも明らかに短命な38歳の若さで早世した直後(910年頃)にそれぞれ亡くなったのも何だか運命的なものを感じられますが・・・・・・・・そして時平の弟、忠平が政権の首班となっていた917年(延喜17)に宗貞の甥で玄利の従弟だった衆樹が安世以来実に87年ぶりに良岑氏としての公卿となりましたが、彼も忠平が醍醐天皇外伯父である藤原定方や時平嫡男の保忠という潜在的な政治的ライバルもいながらも、次第に藤原氏嫡流としての地位を固めていた920年(延喜20)に亡くなります。そしてこの後ついに良岑氏から公卿は出る事はありませんでした。時代は忠平が亡くなった後、天暦の治という、実質的には比較的緩い摂関政治体制を経て、村上天皇崩御後についに基本的に摂関が常置となり、周知の通り藤原氏の全盛期に向かっていく事となりますが、この宗貞・玄利親子の生き方はその陰に隠れる事になっていく事になるその他多数の貴族達の生き方の例を良く示しているようにも思えます。

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