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2014/06/29

女系で初期の当主達の血を維持してきた堂上家と絶家となった清華家

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140629-00000006-jij-pol

皇籍離脱後も活動可能に=女性皇族の在り方検討―政府

時事通信 6月29日(日)2時34分配信    

 政府が女性皇族について、結婚して皇籍を離れた後も皇室活動を継続できる方向で位置付けを見直す検討に入ったことが28日、関係者の話で分かった。皇族が減少する中、皇室活動を安定的に維持するのが目的。安倍政権下で議論は停滞気味だったが、高円宮家の次女典子さまの婚約内定が契機になったとみられる。
 野田前政権では「女性宮家」創設に関する論点整理をまとめ、パブリックコメント(意見公募)を実施したが、反対意見が大多数を占めた。安倍晋三首相も昨年2月のBS番組で「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と語るなど批判的な立場だ。
 このため今後の検討では、論点整理で併記された、国家公務員として公的立場から皇室活動に当たる案が軸になりそうだ。この場合、「皇室輔佐(ふさ)」や「皇室特使」などの新たな称号を保持することが想定されている。
 皇室典範12条は、女性皇族が民間人と結婚した場合、皇族の身分を離れることを定めている。桂宮宜仁さまが8日に亡くなられ、現在の皇室は天皇陛下と皇族方の21人となった。このうち8人が未婚女性で、結婚によりさらに人数が減る可能性があり、皇室活動に支障が出るとの懸念が増している。 

最終更新:6月29日(日)6時23分

つい最近、当時まだ22歳だった美子氏が出演されていた、樋口一葉原作の映画「にごりえ」(という題名だったが、実際は複数の話からなるオムニバス形式が採られていた)を見る機会がありましたが、wikiでの「久我家」を見たら、美子氏の兄で現当主の誠通氏までは以下のような系譜で村上天皇や鎌倉時代初期に権勢を誇った源通親(竹宮惠子先生の「吾妻鏡」でも腹黒そうな顔に描かれていた)の血を女系で維持しているらしいです。

村上天皇・・・・源通親─源通宗─源通子─後嵯峨天皇─後深草天皇・・・・後陽成天皇─清子内親王─鷹司教平─鷹司房輔─一条兼香─一条道香─一条輝良─一条忠良─久我建通・・・・久我誠通&久我美子

これを見たのをきっかけに、他の堂上家での養子(婿養子じゃない)が入る前の当主達の血が受け継がれている家があるかどうかちょっと調べてみました。まずは、実はそのwikiに自分が編集したのですが、四条家ですね。

藤原魚名・・・・藤原隆季-藤原隆房-四条隆衡-四条貞子-西園寺きつ子-後深草天皇
・・・後西天皇-益子内親王-九条幸教-二条宗基-二条治孝-二条斉信-二条斉敬-四条隆英・・・四四条隆彦

その次は以下の通りです。

大炊御門家

藤原経宗-女子-姉小路公宣-姉小路実世-女子-中山家親-中山定宗-中山親雅-中山満親-
中山定親-中山親通-中山宣親-中山康親-中山孝親-大炊御門経頼・・・・・大炊御門経昭

花山院家
藤原家忠・・・花山院忠雅・・・師継-女子-西園寺公顕-女子-今出川実尹-今出川実直-
今出川公行-今出川実富-今出川教季-今出川公興-今出川季孝-女子-庭田重保-正親町季秀-
持明院基久-女子-持明院基定-高野保春-四辻実長-裏松謙光-堀河親実-堀河康親-
堀河親賀-堀河康隆-花山院親家・・・・花山院弘匡
西園寺家
藤原通季・・・西園寺公経・・・西園寺公衝-西園寺寧子-光厳天皇・・・・東山天皇-直仁親王-
-鷹司輔平-鷹司政熙-鷹司政通-徳大寺公純-西園寺公望-西園寺新-西園寺不二男
・・・西園寺直行
今出川家(菊亭家)
今出川兼季・・・・今出川教季-女子-伏見宮貞敦親王-位子女王-鷹司信房-鷹司信尚-
鷹司教平-鷹司房輔-一条兼香-一条道香-八代姫-徳川治紀-徳川清子-鷹司輔煕-
菊亭脩季・・・・菊亭直子
徳大寺家
徳大寺実能・・・・徳大寺実淳-徳大寺維子-近衛稙家-近衛前久-近衛前子-後水尾天皇・・・・
東山天皇-直仁親王-鷹司輔平-鷹司政熙-鷹司政通-徳大寺公純・・・・徳大寺実啓
正親町三条家
三条公氏・・・・正親町三条実豊-三条西公保-三条西実隆-女子-高倉永慶-
高倉永敦-滋野井公澄-正親町三条実彦・・・・嵯峨実允
中院家
中院通方・・・・中院通秀-女子(中院通世室)-女子(園基国室)-園基継-園基任-園基音-園国子-
霊元天皇-東山天皇-閑院宮直仁親王-鷹司輔平-鷹司政熙-鷹司政通-徳大寺公純-
中院通規・・・・中院泉
持明院家
藤原頼宗・・・・持明院基家-女子-西園寺公経-西園寺倫子-二条良実-二条兼基-二条道平-
二条良基-二条師嗣-二倏持基-二条持通-二条政嗣-二条尚基-二条尹房-二条晴良-
鷹司信房-鷹司信尚-鷹司教平-鷹司房輔-西園寺実輔-西園寺致季-
飛鳥井雅香(飛鳥井家に婿養子入り)・・・・飛鳥井雅典-持明院基静-持明院基哲
(現当主は基哲から3代後の光彦氏)
水無瀬家
藤原道隆-藤原隆家・・・藤原親信-二条定輔-女子-女子(中山基雅室)-中山家親・・・・中山宣親-
庭田重親-庭田重保-中御門資胤-清閑寺共房-女子-烏丸光雄-烏丸宣定-烏丸光栄-
裏松光世-裏松恭光-裏松勲光-水無瀬忠輔・・・・水無瀬忠成

こうして見ると、他にもあるかもしれないけど、血というものは簡単に絶えるわけではなく、結構(?)ある事が分かります。大炊御門家は、経宗には姉小路家だけではなく、三条実房に嫁いだ女もいましたが、間に生まれた公氏正親町三条家の家祖となり、その直系子孫で室町時代に出た公保が三条西家に養子入りしました。さらにその後の公広が、武田晴信(信玄)の舅でもあった三条公頼が、大内氏の本拠地だった山口滞在中に陶晴賢によるクーデターで殺されたのを受けて三条家を継いだので幕末から明治にかけてでた実美等も経宗の子孫と言えます。


花山院家も、結構色んな他家に血が入っていますが、持明院基定は中御門流を称する(途中の系譜が不明なので、100パーセント信用はできない)、高家の走り的な存在でもあった大沢基宿の次男で、先代の基久が大阪夏の陣で戦死したのを受けて、婿入りという形で基久の女と結婚して持明院家を継ぎました。大阪夏の陣の時は基定は8歳で、高家とは言っても、父の基宿は徳川家臣としていくつか合戦への参加歴もあったから月代剃っていたでしょうが、基定はせいぜい元服前の武士の子みたいに前髪は残して頭頂部だけを剃っていたのでしょうね。どーでもいい事ですが・・・・・・堀河康親からは岩倉具視も出て、さらに加山雄三氏や、よくよく評判悪くなってしまった喜多嶋舞氏等も出たので、現当主の弘匡氏は彼らとも遠い親戚だという事です。ただ、大沢家自体は明治期に没落してしまったのは皮肉ですが・・・・・・・・


ちょっと変わっているのが、信長・秀吉・家康の戦国三英傑に良く絡んだ今出川家(菊亭家)です。鷹司信房は元々二条家の出でしたが、家祖だった兼平の血が絶えてしまった鷹司家を信長の意向で再興し、名前も信長から貰ったらしい。秀次事件が無ければ、秀吉の関白就任のきっかけを作った晴季の女、一の台及び彼女が前に結婚していた三条顕実との間に儲けたお宮の方いずれかは秀次との間に子供を作れて、その子とかが晴季の孫で子に恵まれなかった経季の養子となって今出川家を継いでいたかもしれません。しかし、現実は家康が戦国最後の勝利者となったのは周知の通りで、信房は実に家綱の代まで、92歳まで長生きしましたが、その家康と水戸徳川家家祖である頼房の血も入る事となります。(家康-頼房-松平頼重-松平頼侯-松平頼豊-徳川宗堯-徳川宗翰-徳川治保-治紀)そしてまた鷹司家に血が入り、江戸時代中期・後期の鷹司家は後述もしますが、東山天皇の男系子孫だったなので、しばらくは今出川から号を変えた菊亭家にもそれが続いたのですが、現当主の直子氏は女性です。まあ伏見宮・二条・徳川等勝ち組の血をいくつも介しているので、教季までの歴代当主の血を女系で継いでいる人は結構いるでしょう。その人達の中から養子でも取るのでしょうが、現徳川宗家当主の恒孝氏も直系男系子孫(ただし、その息子の家広氏がベトナム人女性と結婚された上にその間に子供を儲けた事も聞かれない)だし、特に頼房が子孫に恵まれている事を改めて認識させられました。


正親町三条家(嵯峨家)は近代にがラストエンペラー・愛親覚羅溥儀の弟、溥傑と結婚した事で有名ですが、高倉永慶は人身初の摂政となった藤原良房の兄、長良の子孫です。長良は良房やもう1人の弟・良相に官職を越され、生前は権中納言止まりだったながらも良房の権勢に与れた故だったのか、亡くなる直前でしたが大臣でも任命時は正三位も珍しくなかった(この官位と官職の相当については、過去ログでも駄文ながらも述べています)平安前期において官位は従二位まで上がりました。晩年には基経が良房の養子となり、その系統が大いに栄えたのも周知の通りですが、基経だけでなく、昌泰の変直前に甥の忠平から参議を譲られて、54歳で公卿となった清経の系統(ただし時平死後、藤氏長者となった忠平にまた越されてしまったが)もです。子の元名と孫の文範はいずれも長命だった事もあって、それぞれ参議・中納言まで出世し、特に文範は官位も長良に並ぶ従二位まで登っています。その後は公卿輩出はしばらく途絶えたようですが、同じく傍流となった真夏流同様子孫を絶やす事なく、堂上家の家格では最も格下な半家の中では格上な、権大納言を極官とする事に成功したようです。つまり現当主の実允氏はれっきとした長良・清経の男系子孫にあたるわけです。


西園寺・徳大寺・中院各家は、新井白石が大きく絡んでいて、閑院宮は、皇室も徳川将軍家に対する御三家同様血のスペアが必要という事で彼の建言で創設されて、東山天皇の皇子である直仁親王がその祖となりました。近代には西園寺公望と、近衛文麿という2人の天皇の男系子孫が総理大臣として登場(文麿は後陽成天皇の子孫で、天皇と近衛前子との間に生まれた二宮が信尋と名乗り、近衛家を継ぐ。そしてさらに文麿の外孫で、清和天皇の男系子孫でもある熊本のお殿様、細川護煕氏も自民党の55年体制を終わらせて総理大臣となったが・・・・・・)したという事にもなりますが、つまりは西園寺直行氏も、徳大寺実啓氏も、中院泉氏もいずれも東山天皇のれっきとした男系末裔なのです。男系という観念では、最近迷走が目立つ竹田恒泰氏よりも全然皇室と血統が近いのです。(竹田氏と現皇室との共通の男性先祖は、東山天皇より約300年前の南北朝~室町期に出た、伏見宮貞成親王です。)


中院家
について言えばまた、泉氏は久我誠通氏等同様息子さんはおらず、娘さんが2人おられるようですが、園家の血も介しています。この園家は頼宗流持明院家の庶流だったのですが、男系たる当主継承は持明院家や同じく頼宗流である中御門家より安定していました。この園家ですが、家祖の基氏が松殿基房の長男だった藤原隆忠の女と結婚して基顕が産まれたので、園家を介して基房・隆忠の血も入る事となったのです。つまり、隆忠の弟である忠房の系統となった松殿家自体は残念ながら戦国時代に断絶してしまいましたが、女系としてなら基房・隆忠の子孫も現在も多数いるという事です。子孫達の中でも、鷹司輔平・政煕・政通の3代は約600年ぶりに松殿家の血を引くものが摂関を務める事となったと言え、特に政通は南北朝期の二条良基を抜いて、藤原頼通(50年)、藤原忠通(37年)に次ぐ摂関歴3位となりました。3人とも名前に「通」がつきましたが、立ち回りが拙すぎて2度も失脚してしまった基房には救いになったかもしれません。水無瀬家も、その基房同様負け組となってしまった藤原隆家の血を女系で何とか維持している格好です。現当主の忠成氏は男系では、真夏流である日野勝光の子孫にあたります。


そう言えば、通親からはさらに中院家だけでなく、堀川家や土御門家も出ましたが、残念ながらこの2家は断絶してしまったようです。共に閑院流の洞院家同様清華家家格だったようですが、堀川家は16人出た公卿の内、太政大臣となったのは基具1人。内大臣も3人で都合大臣となったのは合わせて4人。土御門家も公卿になった19人中初代の定通(内大臣)と定実(太政大臣)の2人だけでした。洞院家は17人中7人(内太政大臣2人)でしたが、堀川家と土御門家は大臣昇進率が江戸時代以降に創設された広幡家と醍醐家よりも悪かったです。しかも、江戸時代の清華家大臣って、太政大臣就任は摂関経験者に限られ、左大臣以下も任命されても短期な例が多かったから、余計清華家の中でも格下だった印象ですね。

堀川家は基具の時が全盛期だったみたいで、父の具実の内大臣昇進直前に公卿に列せられた(参議)後、准大臣を経て(この経緯についてはwikiで詳しく書かれているので、そっちの方を参照してくだされ)太政大臣となったようですが、どうやら持明院統と大覚寺統の皇統分裂に巻き込まれてしまったようです。基具の次の具守は持明院統の花園朝で短期ながらも内大臣を務めたようですが、具俊がその前の、大覚寺統・後二条朝期に父・具守に先立って早世してしまい、その子の顕基が40歳でやっと公卿に列せられた(従三位)と思ったら、鎌倉幕府滅亡及び光厳天皇廃位(と言うか、この天皇は歴代に数えても良いと思う)に伴い、具親の子だった具雅共々官位を止められた。具俊の養子となった(具守の子)と思われる具親は足利尊氏による光明天皇擁立後やはり短期ながらも内大臣を務めたけど、次男の具貫が足利家の内紛等による正平一統で一時北朝が解体したのにやんなっちゃったのか27歳の若さでもう権中納言となっていたのに出家、その弟の具信も、南朝側からまた京都を奪い返した直後に参議になったと思ったら、直後に早世、その子の具言は、生年は不明ですが父の早世が1356年(延文1)秋でしたから、遅くとも翌年の1357年(延文2)には生まれていたであろう。参議となったのは1379年(康暦1)で、亡くなったのは1418年(応永25)11月だったから、早くて20代前半で上級貴族となり、少なくとも60歳前半までは生きていたという事になります。歴代当主の中では長生きだった方と思われましたが、それでも正二位権大納言が精一杯だった。その子の具世は、遅くとも1419年(応永26)には生まれている事となりますが、消息が途絶える1453年(享徳2)まで14年も参議より上の官職に上がれなかったのだから、南北朝の動乱に翻弄されて、衰退してしまっていた家を盛り返す力量は無かったのでしょう。そしてその子だった具茂の時に、今度は戦国時代に突入してしまい、彼を最後に・・・・・・・・


土御門家は後二条朝の時に定実が太政大臣となったから、少なくともその時までは大覚寺統との関係は悪くなかったのでしょうが、彼の後の雅房(定実の子)・雅長(雅房の子)・顕実(雅長の子)・通房(顕実の子)と実に4代も相次いで早世してしまったのが不運だった感じです。特に通房はまた、前述の堀川具雅・顕基共々鎌倉幕府滅亡・光厳天皇廃位に伴い、後醍醐天皇に官位を止められてしまった。雅房にはまた、親定という弟がいて、正二位権大納言となった。その子の親賢も持明院統・花園朝期の1314年(正和3)に顕実共々17歳で公卿に列せられた(従三位)のだから、嫡流じゃなかったにしては順調な出世だったはずなのですが、50過ぎまで生きながら権中納言止まり。親定系は以降公卿は出ず、雅房系に戻ると、通房の子、定具はまたまた北朝が南朝から京を奪還した直後の1362年(貞治1)に22歳で公卿に列せられ、58歳まで生きました。しかし、彼も堀川具言同様正二位権大納言までだった。そして次の定冬・定守はおそらくいずれもまた早世したのでしょうが、公卿にすらなれず、定守の子、定長は公卿に列せられた(参議)のが28歳の時と、羽林家・名家並みの昇進スピードとなってしまい、しかもまもなく出家してしまいました。その子の有通が最後の当主だったようですが、やはり早世したのでしょう。


まあここまでまたどうでもいい事をダラダラ述べましたが、丁度上記引用記事で言及されてましたが、女性皇族が皇族離脱後も皇室活動可能との案が検討されている事もあって、取り上げてみました。なかなか男系だけでその血を維持していく事って難しいという事なのでしょうが、こうした案を検討するよりは、ヤフコメでも突っ込まれてましたが、こういう堂上家の系譜も良く認識して、男子の跡継ぎの確保及び、万が一いなくなってしまった時の、前述の西園寺・徳大寺・中院各家の当主の方々等天皇の男系子孫及び旧宮家の皇族復帰とかの方を真剣に検討した方が良いのではと思いますが・・・・・・・

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