« 中越の確執も目の当たりにしている日本とその他周辺諸国 | トップページ | 新テニスの王子様第125話-「衝撃!?越前王子様もスタンド使いだった!!」 »

2014/06/02

百人一首の歌人達(9)-71番大納言経信

夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろやに秋風ぞ吹く(大納言経信)

5ヶ月ぶりですが、今度は71番大納言経信です。秋の風流とかがよく伝わる名歌ですが、特に近年は残暑が長期化していると思えば、冬は普通に寒く本当の秋らしい季節が短くなっている、近年の日本をもしこの大納言経信こと源経信が見ているとすればどう思っているのでしょう。今年は早くも本番の夏まっさかりな、狂ったように暑い日が見られるようになりましたが、その分秋も早く来て欲しい・・・・・・改めてそうも思えた歌です。

彼らが凄いのは、彼と息子の源俊頼、そして孫の俊恵3代3人とも百人一首の歌人に選ばれている点です。親子2代なら子安武人氏も演じられた(「天上の虹」CDブック版)事のある天智天皇&持統天皇、陽成上皇&元良親王、藤原顕輔&清輔等いくつも組み合わせはありますが、3代はおそらく彼らだけでしょう。九条兼実も選ばれていれば、前回取り上げた藤原忠通九条良経と並んでそうなっていたのですが、選ばれたのは同母弟の慈円でした。

さてこの経信ですが、源とつくからにはやはりそれ相応以上のサラブレッドでした。経信は両親がそれぞれ宇多源氏・光孝源氏だったのです。男系では宇多天皇の玄孫(宇多天皇-敦実親王-源重信-源道方-経信)で、女系では光孝天皇の昆孫(光孝天皇-源国紀-源公忠-源信明-源国盛-女子-経信)です。光孝天皇も百人一首15番、公忠と信明も三十六歌仙には選ばれており、経信は血筋だけでなく、歌の才能も見事祖先から引き継いだわけです。

ところがいくら天皇の末裔でも、2世までなら、百人一首に選ばれた人なら源融みたいに大臣までなった人も何人かいましたが、それ以降だとしだいに藤原氏の風下に立たされる事となります。経信が生まれたのは、「この世をば~」の歌を歌ったのはもう少し先の事でしたが、道長を中心とする藤原氏全盛期の時代でした。父・道方の従姉妹にあたる源倫子は、かってこのシリーズでも取り上げた藤原定方の曾孫、朝忠の孫でもありましたが、母・ボク子(変換できず)の一押しでまだ左京大夫だった道長と結婚し、その後の道長の幸運児っぷりはもはやここで改めて言及するほどではないですが、兄達も凄い優遇されたほどではありません。時中はこの結婚の少し前に43歳で公卿となっており、最終的には従二位・大納言で、扶義も兄と同じく43歳で公卿となりましたが、その4年後に亡くなり、正四位下・参議で終わっています。もっと長生きしていればまた違ったかもしれませんが・・・・・・

重信系も、その道長が左大臣になったのも、重信も彼の兄弟たち(道隆・道兼)と同時期に亡くなったからでしたが、父・道方も44歳で公卿になった所までは時中・扶義とそう昇進速度は変わらない感じです。ただ過去ログでも述べた通り、どうも兼通政権期だった円融朝ごろから、官位が官職と比べ高くなる傾向を見せ始めました。公卿になってから僅か6年で正四位から従二位に昇り、この間に経信が生まれましたが、50歳で時中の官位に並びました。さらに2年後の1020年(寛仁4)には権中納言となりましたが、wikiにも書かれている通りそこからがちょっとパッとしなくなってしまったようです。この頃道長が表向きは出家・引退したようですが、その後を継いだ頼通から煙たがられる等反りが合わなかったのでしょうか。大宰権帥(1029年任)も、道長の義弟(もう1人の妻・源明子の弟だった源経房)の後任だったのも、もしそうだとすれば意図的に遠ざける為の人事だったのでしょう。しかし、晩年には頼通外甥でもある後朱雀天皇の大嘗祭で装束司長官を務めたあたり、全く邪険に扱われたほどでもなかったのでしょう。

経信も色々文官・事務系職も歴任しながら、その頼通がついに関白を弟の教通に譲り、藤原氏の全盛期が終わりを迎えようとしていた1067年(治暦3)に漸く51歳で公卿となり、75歳となった1091年(寛治5)には大納言と、父や兄・経信の官職を抜きました(官位も既に1077年に61歳で正二位)が、もう人生の晩年も良い所だった所に、一大(?)スキャンダルが起こります。やはりかって取り上げた藤原伊尹・義孝の末裔である大宰権帥・藤原伊房の汚職(私貿易)が発覚して、更迭となったのです。官位が正二位から従二位に降格も、数年で復する等、お役人は身内に対してとことん甘いのは今も昔も同じという事だったのでしょうが、彼の後任にこの経信が選ばれたのです。実際にかっての父同様、息子の俊頼と共に大宰府に向かったのは1095年(嘉保2)、79歳の時でした。

ここで昨今記憶に新しい所なのが、まあ誰かさん風に言うならば「想定の範囲内」でしたが、袂を分かつ事になった橋下徹氏と会談に名古屋に行っていた81歳の石原慎太郎氏と拉致被害者の集会参加の為に川崎から茨城県那珂市に行っていた81歳の横田滋さんと78歳の横田早紀江さん両夫妻です。特に石原氏はもう顔色良くないのがハッキリ分かるし、滋さんもこの季節外れなクソ暑さな中、移動途中階段の手すりにつかまりながら歩いていた姿が印象的でしたが、現代だって長距離での移動は老人には余計こたえます。しかし、経信が生きていた時代は勿論バスも電車も飛行機もありません。そんな中京都から太宰府まで向かったのです。とっくに平均寿命をオーバーしていた経信にとっては、彼らよりも余計キツく感じられたでしょう。残念ながら2年後に81歳で亡くなってしまったのです。藤原氏の全盛期から院政への移り変わりの時代に生きた経信の人生でしたが、まだこれでは終わりません。

伊尹を祖とする世尊寺流ですが、元々は晩節を汚してしまった伊房の叔母が扶義の室になり、さらにその間に生まれた経頼が母の妹、つまり伯母さんを後妻にする等雅信系との関係が深かったのです。ところが、後に経信の孫で、俊頼の姪(兄・元綱の女)がこの伊房の子、定信の室となるのです。残念ながら重信系で公卿が出たのは、元綱の代まででしたが、少なくとも戦国時代(16世紀前半)に世尊寺流が断絶するまでは経信の血も女系ながらも子孫が続く事となります。(ただし、血筋は途中で閑院流のそれとなっている)世尊寺流を介してさらに女系での子孫ももしかしたら現在もいるかもしれませんが、経信と世尊寺流、つくづく因縁の関係にあったとも言えます。

|

« 中越の確執も目の当たりにしている日本とその他周辺諸国 | トップページ | 新テニスの王子様第125話-「衝撃!?越前王子様もスタンド使いだった!!」 »

歴史」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1159637/56378800

この記事へのトラックバック一覧です: 百人一首の歌人達(9)-71番大納言経信:

« 中越の確執も目の当たりにしている日本とその他周辺諸国 | トップページ | 新テニスの王子様第125話-「衝撃!?越前王子様もスタンド使いだった!!」 »