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2014/05/05

太政官の官位と官職の関係について

消費増税される少し前の事ですが、701年(大宝1)~1221年(承久3)までの議政官(参議以上)に就いた人の一覧が記されている公卿補任年表を入手する機会がありました。これは非参議(従三位以上だが、議政官には就いてない人)が載ってないのが難点ですが、ちょっと興味を持ってでです。従一位叙位者はまあwikiにも載っているからともかくとして、正二位または正二位及び従二位不在者の時期はどれほどあったのか調べてみました。

 

正二位叙位者不在期間(大宝律令成立~藤原兼通政権期まで)
①701(大宝1)~708(和銅1) 左大臣・多治比嶋死去~左大臣・石上麻呂&右大臣・藤原不比等叙位
②720(養老4)~724(神亀1) 右大臣・藤原不比等死去~左大臣・長屋王叙位
③729(神亀6)~737(天平9) 長屋王の変~藤原武智麻呂死去直前正一位叙位
④737(天平9)~740(天平12) 武智麻呂等藤原四兄弟全滅~右大臣・橘諸兄叙位
(後743年に従一位、749年に正一位)
⑤757(天平宝字1)~760(天平宝字4) 右大臣・藤原豊成失脚~大師・藤原仲麻呂叙位
(従二位→正一位)
⑥765(天平神護1)~766(天平神護2) 還任右大臣・藤原豊成死去~左大臣・藤原永手叙位
(後769年に従一位、770年に正一位)
⑦771(宝亀2)~772(宝亀3) 左大臣・藤原永手死去及び右大臣・吉備真備引退~右大臣・大中臣
清麻呂叙位
⑧782(延暦1)~790(延暦9) 左大臣・藤原魚名失脚~右大臣・藤原継縄叙位
⑨796(延暦15)~823(弘仁14) 右大臣・藤原継縄死去~右大臣・藤原冬嗣叙位
⑩826(天長3)~833(天長10) 左大臣・藤原冬嗣死去~左大臣・藤原緒嗣叙位
⑪843(承和10)~850(嘉祥3) 左大臣・藤原緒嗣死去~左大臣・源常叙位
⑫872(貞観14)~877(元慶1) 摂政・太政大臣・准三后・藤原良房死去~左大臣・源融叙位
(後888年に従一位)
⑬895(寛平7)~907(延喜7) 左大臣・源融死去~左大臣・藤原時平叙位
⑭909(延喜9)~910(延喜10) 左大臣・藤原時平死去~右大臣・源光叙位
⑮913(延喜13)~924(延長2) 右大臣・源光死去~左大臣・藤原忠平叙位
⑯949(天暦3)~954(天暦8) 関白・太政大臣・准三后・藤原忠平死去~左大臣・藤原実頼叙位
(後964年に従一位)
⑰970(天禄1)~971(天禄2) 摂政・太政大臣・藤原実頼死去~摂政・太政大臣・藤原伊尹叙位
⑱972(天禄3)~975(天延3) 摂政・太政大臣・藤原伊尹死去~摂政・太政大臣・藤原兼通叙位

 

全部で18もの例が見られたようですが、奈良期はいずれも大きな政治的事件故の空位発生だった事がわかります。②~④以外では⑤は橘奈良麻呂の乱、⑥は藤原仲麻呂の乱、⑦は称徳天皇崩御による、天武皇統というより持統・草壁皇統の断絶及び道鏡の失脚、⑧はその持統・草壁皇統断末魔の叫びとも言えた氷上川継の乱の影響です。単純計算で都合奈良時代74年の内22年間正二位不在の期間がありました。⑧はまた、771年(宝亀2)の藤原永手の死去以降、藤原氏の大臣不在(ただし、大中臣清麻呂は藤原氏の親戚筋)がしばらく続いて、魚名が779年(宝亀10)に内大臣(しかし、以後藤原高藤の時まで約120年間不在となる)となり、781年(天応1)に漸く左大臣になった矢先の事でもありました。過去ログでも述べた通り、そもそも持統・草壁皇統は血統の面においても子孫の面においても脆弱だった事等が、多く見られた女帝誕生も含む政争の大きな背景の一つなので、これらの例も必然的だったとも言えたでしょう。

そして持統・草壁皇統が排除された、平安遷都後の⑨です。集英社刊「人物日本の歴史」で荘司としお先生が担当された桓武天皇のページでは、天皇は「左大臣・右大臣は置かないことにして、政治は皇族とで行う。そうすれば費用もかからず、スムーズも進められる。」と現代のどこかの国の政治家達にでも聞かせてやりたいような事を言っていて、実際桓武朝後期~嵯峨朝にかけて27年もの長い正二位不在時期が続きました。まあ自分を擁立してくれた藤原百川か暗殺された藤原種継がもし生きていれば、いずれかが継縄後任の右大臣になっていたかもしれません。百川の遺児だった緒嗣を早く昇進させて、戎夷征討及び平安京建設中止の意見を容れる他、藤原氏に限り二世王との結婚を認める等それなりの配慮も示していた一方、天皇崩御直前までいずれも従兄弟だった神王&壱志濃王のコンビによる政権運営を続けさせるなどやはり大帝と称するに相応しいリーダーシップがあったという事なのでしょう。(なお、荘司先生は後に「日本の伝記」でも空海の漫画を担当される事となったが、とうとう桓武天皇は登場しなかった。)またこの頃から大臣に昇進しても官位はしばらく正三位に留まる例がみられるようになります。

⑪の後は、初期摂関政治体制を築いた藤原氏だけでなく、臣籍降下した嵯峨天皇の皇子達も一大勢力を築く事となった事もあって、しばらく見られなくなりますが、ここでまた政変が大きく絡んできて、応天門の変直後、伴善男・源信・藤原良相・平高棟ら大納言級以上の公卿が相次いでいなくなり、後の藤原在衡同様棚からぼた餅式で大臣となった藤原氏宗も二位以上に昇る事がないまま短期の在任で死去、正式の摂政となった藤原良房その人も亡くなる等しばらくまた不在期間が発生しました。

次いで養子の基経も良房以上の権勢を誇る中、源融が臣籍降下した源氏の長老格として頑張っていたようですが、基経にとっては叔父にあたる良世が傍流(息子の恒佐もついに二位には昇れないまま終わっている)で源能有も短期の右大臣在任となった事もさる事ながら、基経やその跡を継ぐべき時平が思った程長命とはならなかった事もあって断続的ながらも結構このケースは発生しました。左遷させた菅原道真の後任で右大臣となっていた源光が正二位に昇って1年で解消と思われたのも束の間でした。時平は大臣昇進~従二位叙位まで2年、正二位までは8年かかりましたが、次兄の仲平を差し置いて藤氏長者となった忠平も右大臣昇進~従二位叙位まで2年、正二位までは10年かかっています。左大臣昇進直前の叙位で、左大臣自体wikiに書かれている通りこの醍醐朝末期からほぼ常置となりましたが、こういう所も、延喜の治が聖代・理想視された印象がある原因となったのでしょう。平安時代初期・前期が醍醐天皇が朱雀天皇に譲位した930年(延長8)までとすると、都合半分以上正二位叙位者がいなかった事となります。(二品以上の親王は除く)

忠平は養祖父の良房以上に長生きした事もあって、しばらくはこのケースは発生しませんでした。ただ、朱雀朝期には息子の実頼・師輔共に一気に何人もの先任者を抜く事はあっても、後の兼家・道隆等ほどの強引な身内昇進はさせておらず、949年(天暦3)の死去後はまたしばらく、⑯ですが、正二位不在時期が発生しています。終盤の⑰・⑱もやはり政争が絡んでいます。教科書的に言えば藤原氏最後の他氏排斥事件だった安和の変です。⑫の応天門の変同様この政争で勝ち組になった人も相次いで死んだため、短期間ですか発生しました。ではここで、今度は従二位もいなかったケース及び、大納言・または権大納言時に既に従二位以上になっていたケースを見てみます。

正二位・従二位叙位者不在期間(大宝律令成立~藤原兼通
政権期まで)
①720(養老4)~721(養老5) 右大臣・藤原不比等死去~右大臣・長屋王叙位
②730(天平2)~731(天平3) 大納言・多治比池守死去~大納言・大伴旅人叙位
③731(天平3)~734(天平6) 大納言・大伴旅人死去~右大臣・藤原武智麻呂叙位
④737(天平9)~739(天平11) 武智麻呂等藤原四兄弟全滅~右大臣・橘諸兄叙位
⑤796(延暦15)~798(延暦17) 右大臣・藤原継縄死去~右大臣・神王叙位
⑥805(延暦24)~809(大同4) 右大臣・神王死去~右大臣・藤原内麻呂叙位
⑦812(弘仁3)~814(弘仁5) 右大臣・藤原内麻呂死去~右大臣・藤原園人叙位
⑧818(弘仁9)~822(弘仁13) 右大臣・藤原園人死去~右大臣・藤原冬嗣叙位
⑨872(貞観14)~873(貞観15) 摂政・太政大臣・准三后・藤原良房死去~左大臣・源融
及び右大臣・藤原基経叙位
⑩896(寛平8)~901(昌泰4) 左大臣・藤原良世引退~左大臣・藤原時平&右大臣・菅原道真叙位
大納言または権大納言在職中に二位に叙せられた人
(大宝律令成立~藤原兼通政権期まで)
藤原不比等 704年(大宝4) 従二位
多治比池守 727年(神亀4) 従二位
大伴旅人 731年(天平3) 従二位
藤原豊成 748年(天平20) 従二位
巨勢奈弓麻呂 749年(天平21) 従二位 ※正確には弓の下にヨコ線
藤原仲麻呂 750年(天平勝宝2) 従二位 ※初の二位大納言2人体制(~753年まで)
藤原永手 764年(天平宝字8) 従二位
弓削浄人 768年(神護景雲2) 従二位 ※道鏡弟
文室大市 771年(宝亀2) 従二位 ※天武天皇孫
774年(宝亀5) 正二位
藤原魚名 777年(宝亀8) 従二位
藤原継縄 786年(延暦5) 従二位
藤原三守 833年(天長10) 従二位
源信 849年(嘉祥2) 従二位
源多 879年(元慶3) 従二位
藤原師輔 946年(天慶9) 従二位
源高明 961年(応和1) 従二位
藤原師尹 966年(康保3) 従二位
源兼明 967年(康保4) 従二位
源雅信 977年(貞元2) 従二位 ※まもなく右大臣に
藤原為光 正二位 ※従二位を経ないで1年で叙位
藤原朝光 従二位

正二位も従二位もいなかった時期のケースは、流石にそんな多くはないし、期間もながくありませんが、やはり何例か見られます。しかし、一方で奈良期は橘諸兄藤原永手みたいに生前に正一位になった人もいましたし、藤原氏以外の氏族で、大納言で二位に昇った人も何人かいました。里中満智子女史の「長屋王残照記」でも穏やかな人柄という設定で登場していた大伴旅人も、もし長屋王があのまま健在だったら平城京に帰れる事もなく、二位にも昇る事がないまま一生を終えていたかもしれませんが、蘇我氏(石川朝臣)中興の祖だった石川年足が、74歳まで生きていたのに正三位止まりだったのもちょっと意外です。大納言は不在だった時期もありますが、上記通り二位大納言が2人以上いる時期も発生しました。そして光仁朝には文室大市が大納言のまま正二位まで昇りました。称徳天皇崩御後の皇位継承者として吉備真備に擁立されたとも言われてますが、天武天皇の孫という血統以外にも皇位を諦めさせる代償もあったのでしょう。ただし、正二位は引退表明後の名誉的叙位な性格が強かったようです。

ところが、平安期に入ると、前述通り大臣ですら就任直後は三位のケースも珍しくなくなった影響もあって、二位以上の大納言のケースが少なくなり、それも藤原氏と源氏に限られるようになります。特に源多~藤原師輔の叙位なんて67年もブランクがあります。しかし、村上朝後期に入るといくらか例が続くようになり、977年(貞元2)には一気に三人も叙位者が出ました。雅信はすぐ右大臣、さらに左大臣に昇進したのですが、981年(天元4)には兄の左大臣昇進と同時期に大納言となっていた弟の源重信が従二位、それからまたすぐに正二位となったので、大納言または権大納言は初めて3人とも二位叙位者となりました。

ここで中央公論社出版「日本の歴史5王朝の貴族」でのある記述を引用してみます。

「位は正一位から少初位下まで、三十階に分かれていて、そのなかでも五位以上というのは格別に優遇された。(中略)四位と五位でもだいぶ格差はあるが、なんといってもまったく別格として考えられているのが、三位以上というグループである。これが位階であるが、官職のほうはというと、令には官位相当という原則があって、八省百官のそれぞれについて、この官職はどの位相当ということがきまっており、だいたいその相当の位に近いあたりの者を選んでそれぞれの官職につけて仕事をさせることになっている。この官位相当の原則は、はじめから全部きちんと守られたものではないが、このころになると、その乱れはもっと激しくなる。概していえば実際の位が相当位よりだいぶ高くなって来ていて、例えば令では左右大弁という官は大切な重職だから従四位上という、令制としては高いほうの位にあててあるが、このころでは大弁はそれよりもずっと位の高い三位の人間がこの官についてあるのが普通になる。」

ここで言う、「このころ」がハッキリいつ頃からかですが、どうやら兼通の後の、従兄弟の藤原頼忠政権期頃からのようです。それは、実際従兄弟の済時に頼忠共々非難される等やはり反感を買ったようですが、円融天皇生母で兼通や兼家らにとっては姉にあたる藤原安子の書付もあって摂関となった兼通の急速な昇進が影響していたと思われます。なんせ、単純に年数だけを見れば、公卿に列せられてから(従二位・関白・)太政大臣になるまで僅か5年と1ヶ月です。後の清盛以上のスピード出世です。さらに約10ヶ月後の975年(天延3)1月上旬には従一位となっています。

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2014/01/post-d4a0.html

(関連エントリー「平家の公卿人数推移について」)

仲の悪かった兼家を冷遇する等もしていた兼通の天下は長続きせず、頼忠政権を経て、兼家に嫡流が移ってしまいましたが、その兼家や彼の跡を継いだ道隆が忠平や兼通以上(伊尹は摂関となって数年で死去したためそれ自体・・・・・・・)の強引な身内昇進人事を行った事、さらに最終的な勝利者となった道長の直系子孫が代々摂関職を務める事が確立し、公卿の家格が院政期から100年以上かけて固定化されていった事等もあって、以降は二位以上の現役公卿は明治維新を迎えるまで常に存在したと思われます。そう言えば、内閣総理大臣も1年以上在職者は正二位貰えるんでしたっけ?安倍総理も正二位か・・・・・・・・・何だか重みが薄れてしまうような・・・・・・・・・・支持率見たって、あまり韓国のことを笑えないとも思うが・・・・・・・・・


【以下2014年6月21日追記】


そう言えばちょっと忘れていたけど、平安前期でももう亡くなる直前でしたが、藤原長良が権中納言ながらも従二位に叙せられた例があったんですね。まあこの頃既に実子の基経を養子とした弟・良房の権勢に与れた故だったのでしょう。基経の子孫が摂関家を中心に大きく栄えたのは言うまでもないですが、基経以外にも六男の清経(基経四男で甥の忠平から参議の官職を譲られる)の子孫も高倉家等堂上家を出しましたが、この高倉家からはさらに滋野井家、そこからまたさらに正親町三条家(嵯峨家)に養子として出ているので、ラストエンペラー・愛親覚羅溥儀の弟・溥傑の妻となったや現当主の実允氏等もこの長良のれっきとした男系子孫にあたるわけです。

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