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2014/03/10

太政官大臣及び摂関在職年数等についてその2

http://route-125.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-05e4.html(関連エントリー「太政官大臣及び摂関在職年数等についてその1」)

さて、室町期の二条・一条両家の摂関在職についての話に、過去ログでは深入りしてみましたが、今度は清華家出身者が左右両大臣を占めた時期について調べてみました。(※上が左大臣で下が右大臣在職者。日付は1872年以降の太陽暦によります。)

徳大寺実定 1189.8.23-90.8.19
三条実房
三条実房 1190.8.19-96.4.23
花山院兼雅
花山院兼雅 1198.12.13-99.7.16
大炊御門頼実
徳大寺公継 1225.2.4-27.2.8
大炊御門師経
西園寺公相 1259.12.28-61.3.29
洞院実雄
洞院実泰 1323.7.18~同8
今出川兼季
徳大寺実時 1388.6.30-93.2.7
久我具通
今出川公直 1395.4.26-6.23
花山院通定
洞院公定 1396.8.27-99.1
三条実冬
今出川教季 1482.1.17~同12
西園寺実遠
西園寺実遠 1483.2.8-87.9.10
大炊御門信量
徳大寺実淳 1487.9.16-90.3.25
花山院政長
今出川公興 1499.7.26-15004.28
久我豊通
三条公頼 1546.3.6-4.10
今出川公彦
西園寺公朝 1557.9.24-74.3.17
花山院家輔
西園寺実秀 1660.2.23-61.4.29
徳大寺公信
花山院定好 1661.6.20-22
徳大寺公信
(参考)上記以外の、非摂家が左右大臣を占めた例
足利義満 1393.2.7-10.22
久我具通
足利義政 1462.8.29-64.10.2
徳大寺公有
足利義政 1464.12.26-66.2.1
久我通尚
豊臣秀次 1592.3.12-95.8.13
今出川晴季

上記のとおりですが、この時期に在任していた延べ人数は左大臣は徳大寺・西園寺が各4人、今出川が各3人、三条・花山院・洞院が各2人です。右大臣は花山院4人、大炊御門が3人、徳大寺・三条・今出川・久我が各2人、西園寺・洞院が各1人です。安土桃山時代以前の清華家は、室町期に断絶してしまった洞院も含めると8家あったようですが、左大臣は大炊御門と久我以外、右大臣は全8家この時期に在任者が出ています。この内最終的に太政大臣にまでなったのは大炊御門頼実、西園寺公相、今出川兼季、徳大寺実時、久我具通、三条実冬、徳大寺実淳、花山院政長の8人です。

時代別に見ると、抜けがなければ全部で17の例がありましたが、その内6例は鎌倉期(頼朝が右近衛大将に任じられるなどした1190年をその始まりとみなす)です。鎌倉初期においては摂関家はまだ近衛と九条しかなく、本来この2家に並ぶべきだった松殿は平安末期の立ち回りの拙さで衰退してしまったからでしょう。松殿は過去ログでも述べた通り、父・基房と兄・師家の失脚後に生まれた忠房は、途中までは清華家以上の昇進スピードだったのですが、基房が1231年に87歳の長寿を持って亡くなった後は他の清華家出身者にどんどん官位を越され、結局大納言に22年もとどまった(1225-47年)まま、出家を余儀なくされました。(しかもその後も26年も生き、後深草・亀山両上皇の確執を尻目に80歳で亡くなっている。)もし彼がもっと頑張っていれば、松殿家も清華家の家格は維持出来たかもしれなかったですが、最後は・・・・・・・・

奇しくもその後皇統が後高倉院系が断絶して後鳥羽系に戻って、持明院統と大覚寺統の皇統分裂が表面化し始めた頃からしばらく途絶え、あの後醍醐朝前期に洞院実泰と今出川兼季が一時的に占めた程度でした。そしてその後ですが、室町期(既に南朝の、本州における抵抗力は失われていたが、義満が3代将軍に就任した1369年から明応の政変が起きた1493年までをその時代とみなす。)にも6例見られます。奇しくも、公家社会の大物だった二条良基が亡くなる直前から見られるようになりました。まず徳大寺実時と久我具通のコンビで、実時は義満から譲られたのですが、1393年2月7日に、今度は自らが義満に譲っています。義満って、実はもう臣下の身分じゃない、皇族に準ずる准三后宣下を受けていたので、今更大臣の位に拘る必要も無かったのですが、表向きは明徳の和約(南北朝合一)の功労に報いるつもりで、その実あくまで自分や後小松天皇の臣下である事を弁えさせようとした後円融上皇の意向もあったのでしょうか。実際上皇が崩御して4ヶ月で義満はかって連携を組んでいた良基の息子の一条経嗣に譲っています。しかし、その直後の明徳から洪徳への改元に経嗣は反対しました。義満としては「恩をあだで返しやがって・・・・」と思っていたかもしれません。そして実時は太政大臣になっていたのですが、それもまた義満に譲ります。そして改元に反対していた経嗣は実際義満の圧力もあったのか、その義満の太政大臣在任中に左大臣を辞め(関白も1398年に辞任)、今度は今出川公直と花山院通定の左右大臣コンビが誕生しますが、公直は、義満と繋がりが深かった四辻善成に短期で左大臣を譲ります。7月8日には通定も右大臣を辞任しますが、この間1ヶ月左右両大臣とも空位期間が出来てしまい、善成は8月6日に就任しましたが、右大臣後任の洞院公定の就任を待たないで2ヶ月少しで出家してしまいました。ちゃんとすぐどっちも就任していればやはり非摂家の左右大臣誕生が続いていたのですが、まあ義満の大叔父(生母の紀良子の母が善成の妹に当たる)だったからなれたようなものですから、この短期の在任もしょうがなかったのかもしれません。そして善成の辞任・出家後しばらく左大臣はまた空位期間が生じ、公定が就任し、本家筋(閑院流)である三条実冬とのコンビとなります。この間義満も、2度目の左大臣在任時に左右コンビを組んでいた久我具通に太政大臣を譲って出家しています。周知の通り完全に天皇の臣下の立場から脱し、より自由な立場として公武双方に君臨し続ける為です。状況証拠しかないようですが、確かに自分か寵愛していた義嗣への皇位簒奪構想の可能性もあったでしょう。長くなったので一旦またここで区切ります。

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