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2014/02/15

太政官大臣及び摂関在職年数等についてその1

今日はバレンタインデーの日ですが、粉雪の舞う日となりました。22日からは1週間比較的暖かい日が続くらしいですが・・・・・・・・さて最近ですが、「摂関家」とか「清華家」とかwikiで見てふと思った事。「随分そのような家格の家がポストの割に多かった気がするけど、そうした家格が固定化されていった以降大体多くてどれほどの在職年数だったんだろう?」という事です。そこでどーでもいい事だけど、鎌倉時代(私は個人的に頼朝が右近衛大将に任じられる等した1190年がその始まりだと思いますが、奥州藤原氏を滅ぼした1189年と見做しても良いかもしれません。)以降10年以上太政以外の大臣に在職した人達等をまず調べてみました。

左大臣
二条斉信 1788-1847 1824.2 1847.6 23年4ヶ月
九条尚実 1717-87 1760.1 1779.1 19年
西園寺公朝 1515-90 1557.9 1576.4 18年7ヶ月
二条治孝 1754-1826 1796.5 1814.5 18年
鷹司兼煕 1660-1725 1691.1 1704.2 13年1ヶ月
近衛基熙 1648-1722 1678.1 1691.1 13年
二条師忠 1254-1341 1276.1 1288.7 12年6ヶ月
九条経教 1331-1400 1349.10  1360.11  11年1ヶ月
二条吉忠 1689-1737 1726.10  1737.8 10年10ヶ月
近衛内前 1728-85 1749.3 1760.1 10年10ヶ月
(参考)※平安時代以前20年以上在職者

源融

822-95 872.10  895.9 22年11ヶ月
藤原実頼 900-70 947.5 968.1 20年8ヶ月
藤原道長 966-1028 996.8 1017.1 20年5ヶ月
藤原頼通 992-1074 1021.9 1061.8 39年11ヶ月
源俊房 1035-1121 1083.2 1121.3 38年1ヶ月
藤原経宗 1118-89 1166.12 1189.3 22年3ヶ月
右大臣
九条尚忠 1798-1871 1824.2 1847.7 23年5ヶ月
鷹司輔平 1739-1813 1760.1 1779.1 19年
一条忠良 1774-1837 1797.1 1814.5 17年4ヶ月
花山院家輔 1519-80 1557.9 1574.3 16年6ヶ月
九条忠教 1248-1332 1276.1 1288.8 12年7ヶ月
今出川晴季 1539-1617 1585.4 1595.8 11年4ヶ月?
1599.1 1603.1?
近衛道嗣 1332-87 1349.10  1360.11  11年1ヶ月
一条兼香 1693-1751 1726.10  1737.11  11年1ヶ月
近衛家熙 1667-1736 1693.9 1704.2 10年5ヶ月
(参考)※平安時代以前20年以上在職者
藤原顕光 948-1021 996.8 1017.4 20年8ヶ月
藤原実資 957-1046 1021.9 1046.2 24年5ヶ月
内大臣
近衛忠煕 1808-98 1824.7 1847.7 23年
近衛基前 1783-1820 1799.4 1814.11 15年7ヶ月
近衛家基 1261-96 1276.1 1288.8 12年7ヶ月
九条道前 1746-70 1760.1 1770.7 10年6ヶ月
九条輔実 1669-1730 1694.1 1704.3 10年2ヶ月

調べて改めて分かった事を簡単に言うと、 ①1人の摂関在職年数が長いと、大臣の在職年数もそれに連れて長期化した傾向が見られた②在職年数が長い人の多くは摂関家出身者(左・・・10人中9人、右・・・9人中7人、内・・・全員)である③時代別に見ると、江戸時代における在職者が多い(左・・・10人中7人、右・・・9人中5人、内・・・全員)。主にこの3点です。

まず参考として併記した平安時代以前の大臣長期在職者ですが、左大臣は河原左大臣こと源融がずっと1位でした。彼本人が長生きだった事、そして清和上皇の遺言「摂政なのに右大臣では官職が低い」で、藤原基経が頭ごなしに太政大臣となって、それから約100年摂関と太政大臣がセットとなった事が主な理由だったでしょう。それが150年近く経って、頼通が1043年秋に更新しました。頼通は摂関歴だけでなく左大臣歴も1位だったのですが、摂関政治が衰退して、院政の時代に移ると源俊房も頼通に迫る程長い期間在職する事となりました。11世紀においては半分以上この2人が左大臣として君臨していた事になります。失脚も経験しながらも、その頼通の曾孫世代では最後まで第1線で君臨していたと思われる経宗もなかなかです。なお、彼を祖とする大炊御門家は一旦断絶し、現在は経宗にとっては叔父にあたる家忠を祖とする花山院家庶流中山家の系統となっていますが、経宗の娘が三条家に嫁いだ事もあって、彼の子孫は絶えてはいません。右大臣は、後の清盛並みのスピード出世を遂げた親父・兼通のゴリ押し、995年(長徳1)の疫病流行等による先輩公卿の相次ぐ死、そして道長との摂関争いに敗れた伊周の失脚等道長に次ぐ幸運にも恵まれたが、無能(苦笑)だった顕光がおそらく初の20年在職者かと思いきや、彼を散々酷評した実資が1位のまま現在に至っています。九条兼実ももう少しで20年在職となる所でした。

次についでにではないですが、やはり鎌倉時代以降の摂関在職年数10年以上の人は何人いるのかを調べてみました。

鷹司政通 1789-1868 1823.4 1856.10  33年6ヶ月
二条良基 1320-88 1346.3 1351.11 22年10ヶ月
1352.9 1359.1
1363.8 1367.9
1382.5 1387.2
1388.5 1388.7
近衛家実 1179-1243 1206.4 1221.5 22年7ヶ月
1221.7 1229.1
近衛内前 1728-85 1757.5 1778.3 20年10ヶ月
鷹司兼平 1228-94 1252.11 1261.5 20年4ヶ月
1275.11 1287.9
一条経嗣 1358-1418 1394.11 1398.3 20年3ヶ月
1399.5 1408.5
1411.1 1418.12
鷹司政煕 1761-1841 1795.12 1814.10  18年10ヶ月
鷹司房輔 1637-1700 1664.11 1682.3 17年4ヶ月
二倏持基 1390-1445 1428.9 1432.9 17年1ヶ月
1432.11 1445.12
近衛前久 1536-1612 1554.4 1568.12 14年8ヶ月
二条晴良 1526-79 1549.1 1553.12 13年5ヶ月
1569.1 1578.5
近衛稙家 1502-66 1525.4 1533.2 13年1ヶ月
1536.12 1542.3
二条師嗣 1356-1400 1379.10  1382.5 11年1ヶ月
1388.7 1394.11
1398.3 1399.5
二条道平 1625-82 1653.11 1664.11 11年
近衛兼経 1210-59 1237.4 1242.4 10年9ヶ月
1247.2 1252.11
一条昭良 1605-72 1629.12 1635.11 10年5ヶ月
1647.5 1651.11
一条道香 1722-69 1747.1 1757.5 10年4ヶ月


家別に見ると近衛5人、二条5人、鷹司4人、一条3人です。内一条と二条の本来本家のはずの九条は1人もいなかったのが意外です。(祖の兼実のみ平安末期から含めると10年8ヶ月の在職年数だし、近衛基通もやはり12年3ヶ月の在職年数でした。)

鎌倉時代は近衛家実&兼経・鷹司兼平親子の3人のみです。対する九条の方は、兼実が失脚、良経も政敵・源通親死後盛り返したと思ったら急死、その次の道家も仲恭天皇の外叔父として摂政になったと思ったら承久の乱で失脚、その後盛り返しても短期で息子の教実に摂関を譲り、太閤として名よりも実を選んだのもあったのでしょう。

しかし、南北朝・室町時代は二条・一条両家が比較的長く摂関職を占める時代が続きます。荘司としお先生漫画だったけど、肖像画とは意匠が似てなかった、集英社刊「伝記日本の歴史 足利義満」にも登場していた二条良基です。

途中正平一統で摂関職を停職されただけでなく、左大臣→権大納言に4降等もされたようですが、案の定その摂関歴は、政通に抜かれるまでは頼通・忠通(37年6ヶ月)に次いで長い3位の在職年数を記録していました。特に4回目の1382年(永徳2)5月の時はまだ5歳だった後小松天皇即位に伴う摂政就任で、wikiにも書かれている通り准三后宣下者の初の就任例でもあったようですが、息子(二条師嗣)からのバトンタッチもおそらく初の例だったでしょう。室町幕府に次第に実権を奪われつつあった公家社会の大物として、義満と巧みに連携を取っていたようで、その後譲った近衛兼嗣が短期間の在職に終わった後また返り咲いたと思ったら流石に寄る年波には勝てなかったのか、68歳で南北朝合一を見る事なく亡くなりました。1388年(嘉慶2)7月の事です。

しかし、その後も1408年(応永15)5月(旧暦では4月20日)まで師嗣と、一条家を継いだ経嗣の兄弟で実に約20年も摂関職を交代で務めました。桂園時代ならぬ、「朝廷における『師経時代』または『両嗣時代』」と言った所だったのでしょうか。経嗣の方が、短期の在職となってしまった前述の兼嗣の子、近衛忠嗣に譲ったのですが、故・海音寺潮五郎氏や今谷明氏、井沢元彦氏等が主張されているように晩年の義満はあわや寵愛していた義嗣を天皇にし、足利王朝を創りそうな勢いだったと言われています。この時代において空前絶後の権勢を振るっていた義満、師嗣も彼の不興を買って出家を余儀なくされたようで、ガックリきたのかまもなく亡くなったようですが、経嗣も提案した元号を反対した「前科」があっただけに、いい加減煙たがられていた事等は想像に難くなかったでしょう。忠嗣はまだ25歳と若く、御し易い存在。もしかしたらこの摂関交代劇も「義満による『足利家による皇位簒奪』作戦の一環」だったのかもしれません。しかし、旧暦換算ではこの交代から1週間後の4月27日に義満は病に倒れ、5月6日にあっけなく亡くなります。そして忠嗣の在職も父同様短命に終わりました。70歳過ぎまで生きたようですが、出家等もあって、二度と摂関に返り咲く事はありませんでした。代わりに師嗣の子で、義満から偏諱を受けていたと思われる二条満基が就任しましたが、これもまた、義満に対する4代将軍・義持の反抗心の現れもあったのかもしれません。残念ながらこの満基も早世してしまいましたが、皇統が後光厳系が絶えて崇光系に戻り、治罰綸旨等で天皇の権威が復活したのと、幕府が義持・義教の安定政権から嘉吉の変で衰退していったのを尻目に、この後も大半は師嗣系(満基弟の二条持基・持通)と経嗣系(経嗣・一条兼良)が交互に摂関職を務める時期が約50年間続きました。と言っても、兼良の方も、どうも父の経嗣同様もう少し上手く幕府相手に立ち回りきれなかったようで、その内17年1ヶ月は持基が摂関職を務めていました。長生きだったのは兼良の方で、学者としての実績は今更ここで述べるまでもありませんが、その後も摂関となったと思いきや、応仁・文明の乱が勃発してしまいました。九条・二条は現在も持基の直系子孫が健在で、天皇家等(現当主の道弘氏は天皇陛下とは再従兄弟同士)他家にもいくつも血が入っている一方、兼良は子女は多かったのですが、尋尊等出家した人も多く、京都に残った本家は後陽成天皇の皇子を養子に迎えてその後の一条家は前述の大炊御門家同様中山家の系統に、土佐一条氏も戦国動乱を生き残りきれず、鷹司家に嫁いだ経子も、間に生まれた兼輔の子の忠冬の代で早くも断絶しました。(近衛系→九条系として再興)子沢山だった割には殆ど子孫が残らなかったのは、後の徳川家斉・家慶(家慶弟・斉民系のみ子孫が残っているらしいが)に似てなくもない気がしますが、持通と兼良、何だか明暗が分かれてしまった感があります。ここまででも結構長くなってしまって、義満等の影に全く隠れてしまっている印象がありますが、南北朝~室町期にかけて二条良基と師嗣系・経嗣系に分かれた彼の子孫が摂関職を大半の時期に務めたのはもっと注目されていいような気もしました。一旦ここで締めます。

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