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2014/01/13

平家の公卿人数推移について

実は・・・・・というほどのものでもないですが、昨年末701年(大宝1)~1221年(承久3)までの官位一覧が記してある公卿補任を入手する事が出来ました。もう放送終了してから1年が過ぎ、今は「軍師官兵衛」の放送が始まったばかり(もっとも、視聴率はあまり良くないようだが)ですが、平家一門は本当にwikiに書かれていた通り、最大で12人も公卿がいたのかどうか調べてみました。

①1166年(任安1)8月27日
1 平清盛 正二位 権大納言
2 平重盛 正三位 権中納言
3 平親範 正三位? 参議
4 平頼盛 従三位 非参議
②1167年(任安2)2月11日
1 平清盛 従一位 太政大臣
2 平重盛 従二位 権大納言
3 平親範 正三位? 参議
4 平時忠 正四位下 参議
5 平頼盛 従三位 非参議
③1176年(安元2)7月8日
1 平重盛 正二位 権大納言
2 平宗盛 従二位 権中納言
3 平時忠 従二位 権中納言
4 平頼盛 正三位 参議
5 平教盛 正三位 参議
6 平経盛 従三位 非参議
7 平信範 正三位 非参議
④1179年(治承3)11月17日
1 平宗盛 正二位 前権大納言
2 平時忠 正二位 権中納言
3 平頼盛 従二位 権中納言(※兼職の右衛門督は解官)
4 平教盛 正三位 参議
5 平経盛 正三位 非参議
6 平知盛 正三位 非参議
⑤1181年(治承5)閏2月4日
1 平宗盛 正二位 前権大納言
2 平時忠 正二位 権中納言
3 平頼盛 正二位 権中納言
4 平教盛 正三位 参議
5 平経盛 正三位 非参議
6 平知盛 正三位 非参議
7 平清宗 従三位 非参議(※宗盛長子)
⑥1183年(寿永2)7月3日
1 平宗盛 従一位 前内大臣(2月に辞任)
2 平時忠 正二位 権大納言
3 平頼盛 正二位 権大納言
4 平教盛 正二位 中納言
5 平知盛 従二位 権中納言
6 平経盛 正三位 参議
7 平親宗 正四位下 参議(※時忠異母弟)
8 平清宗 正三位 非参議
9 平重衡 正三位 非参議
10 平維盛 従三位 非参議(※重盛長男)
11 平通盛 従三位 非参議(※教盛嫡男)
12 平資盛 従三位 非参議(※重盛次男)
(平家以外の公卿面々)
1 近衛基通 従一位 摂政・前内大臣(北家嫡流近衛家)
2 大炊御門経宗 従一位 左大臣(師実男経実系大炊御門流)
(藤原経宗)
3 九条兼実 従一位 右大臣(北家嫡流九条家)
4 徳大寺実定 正二位 内大臣(公季系閑院流)
5 三条実房 正二位 大納言(公季系閑院流)
6 中御門宗家 正二位 権大納言(頼宗系中御門流)
(藤原宗家)
7 花山院兼雅 正二位? 権大納言(師実男家忠系花山院流)
(藤原兼雅)
8 九条良通 従二位 権大納言(北家嫡流九条家)
9 中山忠親 正二位 権大納言(師実男家忠系花山院流)
10 藤原成範 正二位 中納言(※南家出身。信西息子)
11 藤原朝方 正二位 中納言(高藤系勧修寺流)
12 藤原実家 従二位 中納言(公季系閑院流)
13 藤原家通 従二位 権中納言(師実男忠教系難波家)
14 西園寺実宗 正三位 権中納言(公季系閑院流)
(藤原実宗)
15 大炊御門頼実 正三位 権中納言(師実男経実系大炊御門流)
(藤原頼実)
16 持明院基家 従三位 参議(頼宗系中御門流)
17 藤原定能 従三位 参議(道綱系)
18 源通親 正三位 参議(村上源氏中院流)
19 吉田経房 従三位 参議(高藤系勧修寺流)
20 藤原泰通 ? 参議(頼宗系中御門流)
21 藤原脩範 正三位 参議(※南家出身。信西息子)
22 水無瀬親信 正三位 非参議(隆家系水無瀬流)
(藤原親信)
23 藤原兼房 従二位? 非参議(北家嫡流九条家)
24 藤原雅長 従三位? 非参議(師通男家政系)
25 藤原光隆 正二位? 前権中納言(利基系)
26 藤原頼季 従三位 非参議(利基系、光隆弟)
27 藤原隆輔 従三位 非参議(魚名系)
28 藤原季能 従三位 非参議(魚名系)

 

②~⑥はそれぞれ月日を見てピンとこられた方もいるかもしれませんが、②は清盛太政大臣昇進日③は建春門院・平滋子が亡くなった日④は治承3年のクーデターが起こり、反平家的な公卿等39人が解官された日⑤は清盛が熱病で急死した日⑥は平家一門最後の公卿である資盛が昇進した日です。⑥はまた、まあ殆ど藤原氏ですが、非平家出身の公卿リストも記しました。

公卿補任に載っているのは、あくまで参議以上の議定官で、三位以上でも非参議は載っていないのです。

①はまだ清盛が院近臣の最高官職と言われていた権大納言だった頃のリストですが、当然まだそんなにはいません。「平親範って、誰?」と思われるかもしれませんが、清盛義弟で「平氏にあらずば人にあらず」な暴言を吐いた(と言われている)時忠同様桓武天皇孫高棟王の子孫です。高棟王5代子孫だった平行義から範国と行親の系統に別れますが、時忠は前者、親範は後者の系統です。行親系は鎌倉時代末期の惟俊までは公卿輩出が確認できます。堂上家の西洞院家は範国系ですが、時忠とはまだ別の系統です。残念ながら途中で藤原北家(基経弟だった清経や師実等)の血筋となってしまってます。

②は頼盛は、清盛の兄弟では唯一公卿入りしていましたが、平治の乱以降昇進面では甥の重盛に押され気味となって、もうこの時点で大きな差がついてしまいました。wikiでは翌1168年(仁安3)に「平氏では3人目の参議となった。」と書いてありますが、平氏ではなく、伊勢平氏と書いた方が正確です。

③の時点となると、宗盛や教盛ら等清盛の他の弟や子も公卿になっていきましたが、信範は時忠の叔父にあたります。時忠が清盛義弟だったおこぼれもあったのでしょうが、非参議もまま、1年後の1177年(安元3)7月には出家しています。この時点で65歳だったから長生きの方ですが、没年は不明のようです。(もし平家滅亡時点まで生きていたら、その盛衰をどう思っていたのか。)

④は、宗盛は権大納言を辞任したとは言っても、政界引退したわけではないので、公卿の人数に数えましたが、意外にも、平氏政権がほぼ完成したこの時点ではまだそんな人数は増えていません。⑤は注目すべきはその宗盛の嫡男・清宗のゴリ押しっぷりです。

重盛が鹿ケ谷の陰謀(があったのかどうか疑問視されている説もあるようだけど)に加担した藤原成親と縁戚(彼の娘が嫡男・維盛と結婚)だった事、そして清盛に先んじて亡くなった事もあって、宗盛が嫡流として扱われていたようですが、2歳で早くも祖父の清盛(11歳)をも大きく凌ぐスピード記録な5位の位を貰って、現在の貨幣価値では年収1500万程度の役人に!!そしてついに安徳天皇を即位させた前年の1180年(治承4)には早くも非参議ながらも10歳で従三位で公卿となるなど、12歳も歳上だった維盛よりも昇進が速かったのです。本来甥の(近衛)基通に譲るはずなのが、息子で7歳の師家を権中納言にした松殿基房(直後前述のクーデターで親子共々解官)ほどではないにせよ、露骨です。

そして⑥です。清盛の孫世代では、清宗がトップの出世を果たしたとは言え、重盛の息子達も、教盛の息子や時忠の異母弟共々公卿に列せられています。平家の公卿の人数が10人となったのは清盛急死直後の1181年(養和1)12月、前述の維盛が従三位となった時の事です。総帥の宗盛は⑥の半年前の1月に、平家では清盛以来15年ぶり(出家で表向きは引退したとみなした場合)であるの従一位となっています。まあ子や孫世代がまだ比較的若かったというのもあったのでしょうが、公卿人数だけを見れば、実は平家の全盛期は清盛死後の都落ちのカウントダウンが始まった時であり、それはまた、動揺期と背中合わせでもあったという事だったのですね。平家一門のこの都落ちは、資盛が公卿に列せられてから僅か22日後、1183年(寿永2)7月25日の事でした。

藤原氏は、公卿(非参議は除く)が10人以上出るようになったのは、藤原忠平が右大臣となった914年(延喜14)頃の事で、大宝律令を制定してから200年以上かけて着々と勢力を築いていったわけです。その後道長・頼通の全盛期に15~20人の公卿を輩出するようになりました。村上源氏も、その全盛期が過ぎた後、堀河天皇の外戚(生母の賢子を、故摂政・関白・太政大臣藤原師実の養女として入台)となった事から、1102年(康和4)頃には、藤原氏の11人を凌ぐ13人の公卿を出しました。(非参議は除く)

上記リストを見ていただければ分かる通り、平家一門の都落ち以前は藤原氏の公卿は参議以上20人、非参議6人、その他(前権中納言)1人と計27人いました。(非参議はもしかしたらもっといたかもしれないが)村上源氏が全盛期だった頃とはまた勢力図とかは違いますが、まあ平家一門はやはり出世しすぎてしまっていたのが改めてわかります。

清盛は確かに天才でした。しかし、重盛が長生きしていればまた違っていたのかもしれず、月並みかもしれないけど、彼の個人の力量に負う所が大きすぎたのが平家政権最大の弱点でした。「アナタコナタ」と評された政治手腕でどんどん勢力を伸ばして、気づいたときには複雑な権力闘争を繰り広げていた院や貴族等の反発が大きくなって、それを抑えようとますます強引な手段を取ろうとしてますます反発が強くなる悪循環に陥ってしまっていたわけです。清盛存命時は重盛・時忠とあとはせいぜい宗盛、清盛死後は宗盛・時忠とあとはせいぜい、清盛の弟達の中でも頼盛か教盛にとどめておくべきだったのかもしれません。公卿に列するのは。

後の武家政権を見ると、頼朝はすぐ権大納言も右近衛大将も辞任(結局彼も、大姫入台工作等では蘇我氏や藤原氏や、その平家と同じ様な事しようとして失敗、⑥時点では唯一の源氏公卿だった源通親が、本来数段以上格上だった九条兼実を失脚に追いやる。)したし、実朝は急速な昇進で平家みたいに清華家並みの家格を得ようとして、北条氏以下御家人たちを抑えようとしたのでしょうが、右大臣昇進後すぐに志半ばで兄の頼家同様彼らの権力闘争(犯人は三浦氏が有力視されている)に巻き込まれる形で暗殺されてしまった。鎌倉幕府を乗っ取った北条氏を倒した尊氏・義詮も正二位権大納言にとどまった。義満は、彼ら祖父・父の失策もあって、一度正平一統で解体した後の北朝天皇の正当性がイマイチ弱った(事実過去ログでも指摘した様に、後光厳~後小松まで皆劣等感を払拭できず、南北朝合一が成った後も、後小松は義持を「室町殿様」とまで呼んでいたが、次の称光天皇や弟の小川宮も情緒不安定な性格で、結局皇統は祟光系に戻る。)事もあって、余計天皇をも超越した存在となりたいと思ったのか自身だけでなく、義持に対しても積極的に昇進を後押ししていたらしいけど、将軍後継以外の子は基本的に出家する事になっていて、弟の満詮も祖父や父の生前の最高官位だった権大納言に昇進して僅か4日で出家したけど、室町幕府の動揺及び戦国群雄割拠の起こりもそうしたルールが大きな原因の一つだった。その戦国期には、自分の領国支配の正当性の為にも武将達には官位が必要となって、大内義隆みたいに従二位まで登った人もいれば、信長みたいに上総介を自称する人もいて、彼は太政大臣・関白・征夷大将軍の何になりたいかを明らかにしないまま本能寺に消えたけど、その後をついだ秀吉は諸大名たちに官位を乱発した。それは他の戦国大名みたいに先祖代々の家臣がいなかった弱みもあったのだろうけど、逆に自分の一族、自身だけでなく弟の秀長も子供に恵まれず、姉・日秀の息子達も早死(エグザイルの某メンバーも演じた事のある秀勝のみ女系として子孫が現在も存在。)してしまったのに、その1人、秀次一族を粛清してしまったのはオウンゴールも良い所だった。そして家康が最後に天下を取って、公家とは別個の武家官位制度というシステムが出来て、納言は御三家だけ。外様は参議が前田家で、島津・伊達さえもせいぜい権中将レベルとこの点でも上手い具合に統制していたんだなあでしたが、平家一族の栄えからここまでもう400年以上も経っていたのですね。まあ長くなりすぎてしまって、現在中流層を増やしたと思ったら、今度は一転貧困層にバラマキする事となったタクシン派と、反発も抱いている南部のその中流層の支持を得ている反タクソン派の確執等泥沼状態なタイもそうなのでしょうが、政治って人間の欲望とか絡むからつくづく難しいという事なのでしょうね。

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