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2014/01/18

百人一首の歌人達(8)-76番法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)と2014年東京都都知事選挙

「わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波」(法性寺入道前関白太政大臣)

このシリーズ第8弾ですが、今回の歌人である法性寺入道前関白太政大臣とは藤原忠通の事です。平安以降の皇統の祖である天智、本来一傍流皇族として一生を終えるはずだった光孝、そして某アニメでは若手男性声優では実力者の一人な梶裕貴氏(今更ながら、年末年始休みの時に見た進撃の巨人とやらも確かに近年の他のアニメとは「違うな。」と思わせるものはあった。)演じた定家との確執も見られたけど、オールマイティだった才人・後鳥羽等天皇を除けば一番の大物でしょう。何故今回そのような大物を取り上げたかと言うと、最近話題のニュースありますよね?そう、自民党だけでなく、半ば日本をもぶっ壊してしまった「あの人」の支援も受けた、あの細川護煕元内閣総理大臣の東京都知事選挙出馬の事です。以前取り上げた徳大時実定もそうですが、細川氏にとってご先祖様でもあるこの忠通の人生も今あらためて振り返る必要も多少なりともあるのではとも思ったからです。

彼の人生は一言で言えば、「思い通りにいかなかった事の連続だったが、最後まで粘り強く悪戦苦闘して何とか勝ち組となった人生」。こうだったかもしれません。

そもそも曾祖父の師実からして実は当初出家する予定だったらしい。幼少時に兄だった通房の早世で他に男子がいなかったから高祖父・頼通の嫡男となったらしいですが、この「師」こそ九条流の祖である師輔を強く意識した命名であり、祖父の「師通」も師輔だけでなく、頼「通」その人をも意識した命名だったのでしょう。信長(勿論あの戦国三英傑の一角とは無関係である)という、師実よりも年上の息子がいた事もあって、内心は自分の子孫に摂関職を継がせたかったであろう教通や、若い頃から反抗的な態度を取っていた能信等弟達も油断ならない面々ばかりだったので、頼通系の正統性を示したかったのでしょう。(表立っては争わなかったらしい、系図通りなら現在非難轟々な喜多嶋舞氏の先祖でもある頼宗や、前述の定家直接の先祖だった長家だって他の平安貴族同様乱暴者な一面もあったと言うし。)

ikiにも書いてあるし、なるべく手短に話すけど、教通系である信長との権力闘争にも勝って、村上源氏と連携(女子を自らの養女として白河天皇に入台)して、堀河天皇の外戚になる事にも成功、上皇となった白河の院政は認めても、お互い協調・連携する体制を作った所で師実は師通にバトンタッチしたようですが、この師通も確かに有能だったのでしょう。

実の外戚で、親父よりも年配だった一上左大臣だった源俊房(頼通って、実は摂関だけでなく左大臣歴も1位ですが、左大臣歴2位はおそらくこの俊房です。)がいたから、普通はやりづらく感じるでしょうが、右大臣は空位で、自身は内大臣のまま(彼らよりも若かった事と、頼通が弟達を統制しきれていなかったのを見ていた故に為光みたいに連携できる相手を余計見出せなかったという事もあったのだろうが)かっての兼家や道隆とは違い、大臣も兼職しながら果敢な政治的判断をしばしば示していたらしい。頼長から苛烈さとホモっ気(苦笑)を幾分か以上スポイルしたのが彼の人となりと評すれば分かり易いかもしれません。

もしこの途中出家して法皇となっていた白河や俊房が比較的早く亡くなって、師通が頼通並みとまではいかなくとも、道長や師実並みに生きていたらです。武士の世の到来自体は遅かれ早かれ避けられなかったでしょうが、道長が頼通に対してそうした様に忠実を厳しく指導して、その上で大臣に据え、自身は外戚政策にも成功して堀河の次の新帝治世においても引き続き外戚として君臨、その新帝の元服加冠の前後短期間のみは太政大臣と兼務するも、基本的に摂関職専任出来るような体制も作る事に成功したでしょう。藤原氏中興の祖としてもっと歴史に名を残し、もう少し藤原氏の時代が続いていたかもしれません。

ところが運命の悪戯か、歴代北家嫡流では最も短命な、37歳の若さで亡くなってしまった。(その次に短命だったのが冬嗣の51歳と他はみんな50歳そこそこ以上まで生きていた。)祖父だけでなく、引退していた曾祖父の師実も後を追うように亡くなり、経験に乏しかった父の忠実はそもそも大臣にすらなっていなかったからしばらく正式な摂関になれないまま表舞台への登場を余儀なくされてしまい、案の定力量不足を露呈してしまった。忠通は生い立ちからしてこうでした。忠実よりも数段状況は悪くなっていたのです。

出世だけは順調でした。摂関だけでなく、太政大臣就任も史上最年少でした。しかし、それは既に高祖父の頼通から例にある事で、既に道長が自分の直系子孫だけに摂関職を継承させるような体制を作り上げた事と、それが崩れそうになった際の、本来摂関家に皇位すら左右されていた筈の天皇家の家父長たる白河による裁定(鳥羽天皇の摂政任命者の問題等)もあった公家の家格固定化によるものです。そしてやっと自身が経験を積んできたと思ったら、忠実は今度は勲子入台工作問題で大切な根回しを欠き、白河の怒りを買って強制隠居を余儀なくされた。まだこの時忠通は24歳でしたが、「親父何やってんだよ・・・・・」だったでしょう。

そして専制的だった白河がやっと崩御したかと思えば、鳥羽だって解放的な気分から自分も祖父に倣って院政を行いたいのは当然の事。崇徳が実は自分ではなく、白河の子な「叔父子」かもしれないとあっては尚更そうです。勿論摂関家にもあまり力を持たせたくない。忠実が復帰して、忠通という現職の関白がいるのに内覧となってしまった。初の関白・内覧の並立です。その上男の子がなかなか出来ないから、父の蟄居中に産まれ、余計可愛がっていた弟の頼長を養子にせざるを得なくなった。女の子は聖子という娘が既にいたので崇徳への入台が成功しました。冒頭でのこの歌はその前後の1135年(保延1)に、内裏歌合の際にその崇徳の前で詠んだ歌です。鳥羽に嫌われていた等の不安要素もありましたが、この頃の忠通は将来への希望もいくらか感じられた事だったでしょう。歌自体も、この院政期という複雑な時代を生き抜いた大物らしい、壮大な歌です。ところが、聖子との間には皇子は生まれず、兵衛左局との間に重仁親王が産まれてしまいました。5年後の1140年(保延6)の事です。これを忠通・聖子が面白く思わなかったのは当然の事。鳥羽の寵愛を受けていた美福門院(藤原得子)の猶子となり、その寵愛を受けていたのだから尚更です。

ところがまた、間もなく忠通の対抗勢力の一角の筈だった鳥羽法皇が、体仁親王を崇徳の養子たる皇太子として即位させると約束したはずが、いざ近衛天皇として即位したときには彼は崇徳の皇太弟となっていた。まだ赤ん坊だったとは言え、次期天皇の有力候補となった重仁が成長しない内に崇徳をペテンにかけてまで手を打ったのです。そうかと思えば、忠通には基実・基房とやっと続けて男子が生まれました。当然養子とは言え弟よりも息子に継がせたいと思います。養子縁組を解消しましたが、勿論忠実・頼長は面白くない。外戚の座の獲得の為(実は、聖子が近衛の准母となったので、忠通はすでに近衛の養祖父となっていたのだが)お互い養女を近衛に入台させますが、忠実はさらに源為義とグルになって関白を頼長に譲るのを拒否した忠通から強制的に藤氏長者を剥奪します。またかっての忠実同様、頼長は忠通という関白がいるのに内覧に別に任じられてしまいました。頼長は左大臣でもあったので、かっての道長みたいに、一上として太政官の会議を主催するだけでなく、天皇が目を通す文書等を先に見る事が出来る様になったわけです。院を除けばとうとう兄を超える、実質的な最高権力者となってしまった!!忠通ピンチ!!

もし近衛即位後に崇徳と聖子の間に子供が産まれていたら、この重仁の外祖父である信縁は既に死去していて、重仁誕生時にはまだ存命だった養外祖父の源行宗も源氏は源氏でも三条源氏(三条天皇曾孫)と、公家源氏の主流じゃなく、忠通らと比べると後ろ盾が弱かったから、彼も有力天皇候補になっていたかもしれませんが、まあどちらに転んでもいいように、近衛に対して同じ外戚政策を展開していたでしょう。近衛その人も健康で皇子が生まれていたら、その近衛皇子が次の天皇となっていて、どのみち後白河・二条両天皇の登板はなかったかもしれません。ところがその近衛が子を成さないまま17歳で崩御してしまった。またしても忠通の外戚政策は頓挫してしまいましたが、忠通よりも忠実・頼長の方が痛手でした。頼長は生前の近衛にも嫌われていたのですが、崇徳とグルになって近衛を呪ったとの風聞が立ったのです。勿論忠通もこのネガティブキャンペーンに関与していたでしょう。当然鳥羽の怒りを買い、頼長の内覧職は停止となりますが、鳥羽崩御直後、後白河と切れ者だった信西に味方した忠通と崇徳と組んだ頼長の、天皇VS上皇の保元の乱が勃発します。とは言っても、はやこうした院や貴族間の紛争も武士による実力行使なしでは解決できなくなっていました。前者には平清盛&重盛親子・源義朝ら、後者には平忠正(清盛の叔父)や前述の為義・為朝親子が味方する等源平両氏も敵味方に分かれたのですが、経過や勝敗については周知のとおりです。しかし、勝者側となった忠通もただではすまず、経済的にも軍事的にも弱体化しただけでなく、藤氏長者の任免権も朝廷に握られる事となってしまった。その上その後の後白河新体制下においても主導権は本来ずっと格下な筈の信西に握られ、その信西の対抗勢力である院近臣の有力株だった藤原信頼の車を、非礼にいじやけた忠通の従者が破壊したためにとうとう閉門・失脚・・・・・・・・「泣きっ面に蜂」とはまさにこの事です。後任は嫡男の基実が任命されましたが、まだ15歳の少年です。忠通の24歳をさらに大きく更新した摂関最年少記録となりました。その後も平治の乱も経て、本来中継ぎの天皇に過ぎなかったが、退位後も白河・鳥羽に倣って院政を行いたかった後白河と親政志向が強かった二条との対立等権力闘争は収まる事ありませんでした。

信西も不遇の時期が長かった反動もあってか、かっての同じ南家出身だった仲麻呂の失敗点も学ばないで、息子達もゴリ押ししてしまったのが余計この院政・天皇親政各派双方の反感を招き、平治の乱の混乱の中で彼も信頼共々死にました。彼もまた、長屋王や菅原道真、野中兼山等同様「出る杭は打たれる」の見本だったという事でしょう。

その平治の乱が終わった後、基実も関白として二条親政を支えましたが、忠通も育子を天皇に入台させました。彼女は忠通実女か、徳大寺実能実女・忠通養女の二説があるようですが、既に師実の頃から、前述した通り摂関家の家格が定着していった中でも清華家クラスの家とこうした外戚工作等で連携していた例が良く見られ、閑院流もその中でも元々頼長寄りだったとは言え、積極的だったので、後者の方がどちらかと言えば可能性が高かったでしょう。

彼女の入台で、院政派と親政派の確執が収まったわけではありませんでしたが、一段落付いたと思ったのか、1162年(応保2)6月8日に出家します。その10日後には忠実が84歳で亡くなりますが、結局彼って、白川崩御後の復帰~保元の乱まで忠通、いやもっと言えば摂関家そのものの足を引っ張る行為が目立っていた感じでしたね。残念ながら無能認定は避けられないと思います。そして最後は寵愛していた女房が密通していたのに衝撃を受けて・・・・・・・・

彼の死時点で、院政派と親政派の確執はなおも続き、基実はまだ21歳の若輩者。基房もまだ20歳になるかならないか。兼実や兼房に至ってはまだ10代の少年です。最後の最後に至って、女房がこのような不義を働いていたようでは、孫も基通(基実長子)や隆忠(基房長子)等の顔を見る事は出来ましたが、余計自分の子孫の行く末が心配だったであろう事は想像に難くなかったでしょう。(実際基房の松殿家は立ち回りが拙過ぎて、このシリーズ(4)の徳大寺実定で触れたけど、失脚後に生まれた忠房は途中までは清華家並みの出世スピードだったのが22年も大納言のままで、他の清華家出身者達にドンドン官職を追い越されたまま出家を余儀なくされ、清華家どころか羽林家クラスまで落ちてしまった。そして戦国時代には断絶してしまった。)

せめて最後の最後はもっと安らかに過ごさせてあげたかったとも思えたこの忠通の「思い通りにならない事ばかりだった人生」でしたが、この忠通の温厚ながらも粘り強さを見せた政治センス、加来耕三氏は「あまり目立たなかったが、その政治能力はかっての不比等にも引けを取らなかったのではないか。」と評価されていました。確かに結果論とは言え、信西や頼長・師長親子が死亡または失脚していった中で摂関家が分裂しながらも明治まで続いたのですからそれもあながち過大評価とは言えないかもしれません。

特に現在も忠通の直系男系子孫が健在な九条家です。実は忠通は基実ではなく、その祖であった兼実を自分の嫡男に考えていたらしい。そう言えば師実以降の北家嫡流はまた、「実」→「通」の一字を交互に貰っています。実は閑院流の通字(例えば、近代以降では三条「実」美や武者小路「実」篤等)でもありますが、兼実の諱もそうした願いの現れだったのでしょう。

兼実も兼実で、兼通ではかって兼家と犬猿の仲だったあの人と同じ名前となってしまうからか、自分の嫡男を良「通」と名付けたようです。彼は残念ながら早世してしまい、代わって彼の弟の良経が期待を受ける事となりましたが、兼実・良経・道家、彼らもまた最後は失脚または急死を余儀なくされてしまいましたが、新たな武家政権・鎌倉幕府との連携を取って、時代の変わり目に九条家の地位維持等に務めた等「忠通の粘り強い政治的センスを受け継いだという意味での正統な精神的後継者達」だったのではないかと改めて思うのです。

長々と書いてしまいましたが、いやー本当に複雑で大変な時代でしたよね。この院政~鎌倉初期という時代も。繰り返し強調する通り、忠通の子孫の一人でもある細川護煕氏は、猪瀬直樹前東京都都知事の倍のお金を貰って、その説明責任等を果たさないまま9ヶ月で総理大臣の座を投げ出してしまった。自民党の55年体制を終わらせた直後だっただけに、その時の失望感はなおさらの事で、アメリカが安倍総理の靖国参拝を見た程度の話じゃなかったよでした。失脚直前の忠通-信西の関係と、近衛文麿-軍部の関係、総理在職時の護煕氏-小沢一郎氏の関係は何だか「『名』と『実』」みたいな関係で重なり合うものも感じられないでもない(特に五輪返上発言も、まさに悪い意味で血は争えないだよ!!そこにしびれないッ!!あこがれないッ!!)ですが、護煕氏が忠通の立場だったら、9ヶ月どころか、下手すれば1ヶ月も持たなかったでしょう。そして子孫は五摂家として繁栄することも無く、頼長の系統が嫡流として栄えていたかもしれません。下手をすればで、軽く断言しますが。

http://livedoor.blogimg.jp/hikoshi727/imgs/9/0/90dd03e0.jpg

このHPも、「何が『殿、出番です!』だよ・・・・・・・・・・・」だけど(苦笑)、それなのに、東京都都知事選挙に、前述の「日本も半ばぶっ壊した、詐術系パフォーマーだったあの人」にも乗せられてか、出馬してしまい、しかも東京都都政には直接関係ない脱原発以外にはこれといったビジョンも示せてないままです。そしていつの間に、やはり護煕氏共々「噂の真相」内連載「筆頭両断」で佐高信氏に叩かれていた舛添要一氏との二大有力候補という事にされてしまい、候補の中では最もマトモな田母神俊雄氏は半ば無視!!繰り返し言う様に私は決して田母神氏全ての思想に賛同するわけではないですが、マスゴミにとっていかに都合の悪い人物であるかが改めて分かります。過去ログでも取り上げた本田報道でも的はずれな事は言ってない。「自分達の都合次第で不定見的に持ち上げたり、叩いたりするマスゴミ報道」に警鐘を鳴らしたに過ぎません。

そうかと思えば、今度はマック赤坂氏が立候補だもんなあ・・・・・・・・もう半ば冗談でもドクター中松氏でも良いんじゃないかと思える程の顔ぶれで、我らが東国原くん(苦笑)なんかもう出る幕ないよね!!でもありますが、父方が清和源氏、母方が藤原氏なサラブレッドな護煕氏には果たして政治家としての誇りがあるのだろうか?あの世の忠通もどう思っているのだろうか?ですが、どうせ出馬するのなら、この忠通の政治的センスも顧みて、非現実的な事を公約するのではなく、本当に都民の為になる政治・経済等現実的な公約を示していただきたいものです。まだ遅くはありません。

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