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2014/01/01

百人一首の歌人達(7)‐25番三条右大臣、26番貞信公&27番中納言兼輔

「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られて 来るよしもがな」(三条右大臣)

「をくらやま みねのもみちは こころあらは いまひとたひの みゆきまたなむ」(貞信公)

「みかのはら わきてなかるる いつみかは いつみきとてか こひしかるらむ」(中納言兼輔)

今年(2014年)初のエントリーですが、このシリーズ第7弾です。三条右大臣とは醍醐天皇外叔父だった藤原定方の事で、貞信公とは延喜・天暦の治の間に摂政・関白を務めた藤原忠平の事、中納言兼輔とは定方の従兄弟で娘婿でもあった藤原兼輔の事です。忠平の歌は907年(延喜7)9月に宇多法皇が大井川に御行した際、「天皇(醍醐天皇)にもこの紅葉を見せてあげたいものだ。」とこぼした程感激していたのを見て歌った歌です。

http://hmikann.blog110.fc2.com/blog-entry-1045.html

上記ブログでのイラストは唐風装束姿の忠平が描かれていて、過去ログでも「やっぱ醍醐朝後半~村上朝前半にかけて束帯や狩衣等の平安装束に移行していったのでは。」と言ったけど、やはり忠平にとっては義理の甥(妻が長兄・時平の娘)でもあった敦実親王(宇多法皇皇子・醍醐天皇弟)に926年(延長4)に狩衣袴が許されたとの記録が見えるようなので、遅くとももう醍醐朝末期には平安装束が広まってきたと見て間違いないでしょう。だからこの歌を歌った頃の忠平はまだ同イラスト通りだったでしょう。

忠平といえばまた、集英社出版学習漫画「日本の歴史」1982年版や「人物日本の歴史」平将門編では役人になる事を願った将門に対し、「お主のような田舎者は関東でたぬきとかと遊びながら畑でも耕していた方が似合っておるぞ~」と酷い事wwを言ってましたが、「日本の歴史」1998年版では、「そなたはまだ若い。役人になるのはもっと力をつけてからにしなさい。」とやんわりと諭していて、こちらの方が真実味があったでしょう。(「人物日本の歴史」では、藤原純友も貝塚ひろし先生が漫画を担当されていて、そちらにも忠平は登場している。)

忠平の歌に話を戻しますが、当時は過去ログで取り上げた菅原道真が大宰府に追放された昌泰の変からまだ6年しか経っていません。これは主導権を巡る、宇多法皇・醍醐天皇の確執も背景にあったようですが、この歌から察するに、そうした確執とかは既に解けていったのでしょう。道真失脚以前は、彼をゴリ押しさせてまでも自分の意志を貫き通す強引な手腕もしばしば見せながらも、失脚後は、反対していた妹の穏子の入台、道真の死、天皇と彼女との間に産まれた祟象親王(後、保明と改名)の生後まもない立太子、そして時平長男・保忠の叙爵等もあって「過ぎた事をいつまで悔やんでもしゃーないし。もう俺は俺自身の運命を受け入れて生きていこう。」と思うようになったのでしょう。この大井川御幸から僅か半月後の10月2日には、今度は紀伊と熊野に出かけています。913年(延喜13)には大掛かりだった亭子院歌合も行っています。ただ、在位時には寛平の治と評される等少なくとも名君となる素質はありましたから、特に927年(延長5)には初めての院宣が見られるように、延喜の治というけど、実際は大井川や紀伊や熊野への観光等で遊んでいたこの頃から次第に政治的影響力を取り戻していき、道真を失脚、彼の娘婿だった斉世親王も出家に追い込ませてしまった反省から、天皇や時平・忠平と上手く強調して政治を見ていたのでしょう。(前述の歌合とほぼ同時期斉世に灌頂を授けたのも、罪滅ぼし等の親心故だったのでしょう。)

昌泰の変直前に参議を辞退していた忠平が、この一連の法皇御幸から数ヵ月後の908年(延喜8)正月に、次兄の仲平より一足早く参議に還任されたのも、そうした法皇の政治的影響力の復活もあったのではでしたが、それから僅か1年少しで意欲的に政治改革に取り組んでいた時平が早世、やはり道真失脚劇の首謀者だった源光も変死する等もし本当にあったとすれば忠平は道真怨霊騒動で最も得をしたのですが、彼ほどではないにせよ、三条右大臣・定方もそうだったでしょう。

父の藤原高藤も、醍醐天皇外祖父になったにも関わらず、その即位の際蔑ろにされた事に怒って、賜姓旧皇族の長老格だった光や、基経と時平の間の藤氏長者だったが、引退していた良世(時平・忠平の大叔父)に変わって北家長老格だった国経とグルになってボイコットに及ぶ事になりましたが、兄の定国も反道真派で、既に906年(延喜6)に40歳で亡くなっていました。この時点で定国は従三位大納言で、時平政権下では時平・光・国経に次ぐ序列4番目の閣僚でした。対する定方は従四位下右近衛権中将で、30代半ばでしたが、まだ公卿にはなっていませんでした。同じ醍醐天皇外戚(外叔父)でもこれは大きい差です。それが兄貴が死んでしまい、時平も死んだ5日後の909年(延喜9)4月9日に参議として公卿に列せられました。なお、同じ日には忠平も上位者5人を一気に抜かして権中納言となっています。

定方は父や兄のように道真排斥に関与した形跡(少なくとも表立っては)は見られませんが、おそらく政治的野心とかはあまりなく、上記の歌からも察せられるように本来はどちらかと言うと、風流に生きようしたのでしょう。ところが、兄の日陰者として一生を終えるはずが、思ったより早く死んでしまった。時平も死んで、公卿となり、さらに4年後の913年(延喜13)1月には仲平等上位者5人を抜かして中納言となった。「俺ってラッキー?もしかしたら、もっと行けるのかも?」とでも思ったのかどうかは知りませんが、娘の能子が醍醐天皇の女御となったのはこの中納言昇進の直後だったでしょう。この能子との間に皇子が産まれれば、父同様天皇の外祖父になれる可能性だって有り得ます。そして920年(延喜20)にはついに大納言になりました。兄に並びましたが、父・高藤も内大臣(当時は、該当者の資格はあるが、大臣に欠員がいない時のみに臨時に充てられた性格が強かったのでしょう。中世以降は准大臣がそうした官職になった感じです。)となっていたのは死の数ヶ月前でしかももう危篤状態だったらしいから、実質的に父にも並んだと言ってよかったでしょう。

そして924年(延長2)にはついに左大臣となった忠平の後任の右大臣となりました。父の官職をもついに超えたわけです。前年に保明親王は亡くなりましたが、その子の康頼王が皇太孫となったので、定方は皇太孫の外叔父となった保忠(時平長男)共々忠平の政治的ライバルとしてますます重きを置いた存在となったわけです。兼輔も既に921年(延喜21)に公卿となっています。この年は空海が朝廷から弘法大師の称号を頂いています。

しかし、運命の女神は忠平に微笑みました。翌925年(延長3)に康頼王までも早世してしまったのです。なので、926年(延長4)に保明親王同母弟で、まだ3歳の寛明親王(朱雀天皇)が立太子されました。これでもし忠平より5歳歳下の醍醐天皇にもしもの事があれば、父・基経以来の摂関職復活だってありえます。しかし、この寛明親王は保明親王以来穏子が20年ぶりに産んだ皇子で、この時点で既に38歳の高齢出産でしたが、ホント運が良かった。(残念ながら忠平自身が保明親王と結婚させた貴子の方は皇子が産まれなかったようですが。)対する能子はついに精力絶倫だった筈の醍醐天皇との間の皇子は生まれませんでした。宇多法皇の、道真だけに相談した醍醐天皇譲位によって天皇外戚となる事が出来なかった時平、道真を追放(これも他サイトでも色々異説を主張されている方もいるようですが)して、法皇の反対を押し切って穏子入台を強行、故・石ノ森章太郎先生の「日本の歴史」でも喜んだ姿が描かれていましたが、皇太子保明親王の外戚となれたと思ったら自身は法皇女御だった温子(907年没)の後を追うように早世、そのような后宮政策の恩恵を受けたのは参議に返り咲いたばかりだった筈の弟・忠平だったのも何とも皮肉です。

保忠はこの寛明親王立太子時点で36歳の中納言。20近くまでは父が生きていたので出世は早い方でした。しかし、その後の大納言。どうもこの時代は定員は数名で、権官を含めても5人以上となったのは90年近い後の三条朝の頃です。大納言となったのは930年(延長8)の事でしたが、それも清涼殿落雷事件で藤原清貫が事故死したからです。直後に醍醐天皇も発病、譲位(9月29日に崩御)して本当に摂関職が復活。忠平は朱雀新帝の摂政となりました。天皇の外戚となる密かな(?)野望を果たせず、気力が萎えてしまったのか定方も兼輔もこの数年後に亡くなっています。そしてその直後の934年(承平4)に忠平は定方の後任で右大臣となった仲平と保忠に一上申文の処分を委ねたらしいですが、これは定方という政治的なライバルがいなくなった事も大いに関係しているのではと思われます。仲平は定方みたいに天皇または皇太子に娘を嫁がせているわけでもなく、特に政治的なライバルでもなかった(大鏡では忠平が仲平の大臣昇進を喜んだエピソードもあって、勿論兄弟愛もあったのでしょうが、危険な存在ではなかった故の余裕もあったのでしょう。)し、保忠も実子自体おらず、やはり然りでした。孫の頼忠が保忠の養子となったのもこの直前の事だったでしょう。そして定方に対する懐柔の意味合いもあったのか、夫醍醐上皇と死別した能子が忠平嫡男の実頼と結婚したのもこの頃でしょう。実頼はまた、この上皇崩御~定方・兼輔の死、一上申文委託の間に参議に昇進しています。ただこの能子、醍醐上皇や敦実・斉世両親王と兄弟だった敦慶親王とも恋をしていたようですが、残念ながら実頼との間にも子女は産まれず、夫より先になくなっています。そして自身が太政大臣となり、保忠もいなくなった後は平伊望に一上申文を委ねさせています。これは忠平妹の穏子の中宮大夫(本当はこの時点で皇太后となっていたのだが、彼女はあくまで中后と称した為この名称)となっていた故だったのでしょう。その後実頼が一上宣旨を賜ったらしいですが、伊望が亡くなった939年(天慶2)頃の事でしょう。どうやら「一上=通常は左大臣」なのは945年(天慶8)の仲平死後、空席となっていた左大臣にその実頼が就任したのが先例となって確立されたようです。そしてこれは後の道長が正式な関白とならず、大半は内覧左大臣として朝廷に君臨していた事とも大きく関係しているようです。

定方の方は新帝の外戚にはなれませんでしたが、子孫は兄の定国よりも大いに栄えました。兼輔とは曾孫同士も、紫式部(兼輔曾孫)と宣孝(定方曾孫)が結婚しましたが、彼女ら夫婦の結婚生活は残念ながら宣孝の死で数年で終わりましたが、間に産まれた大弐三位(賢子)も百人一首歌人の一人となる等祖先の才能を引き継ぎました。しかし、宣孝は他にも妻子がいて、良門流は中世以降多数の堂上家を出しただけでなく、武家でも上杉氏として後の歴史に大きく関わりを持つ事になったのはもう周知の通りです。祖父の良門がしょっぱなから早世してしまった不運に見舞われてしまった定方と兼輔でしたが、彼らも含む良門流は立派な勝ち組と言っていいでしょう。

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