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2013/12/23

百人一首の歌人達(6)-24番菅家&43番権中納言敦忠

「此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に」(菅家)

「あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり 」(権中納言敦忠)

このシリーズ第6弾です。菅家とは周知の通り、菅原道真の事で、この歌は898年(昌泰1)秋に宇多上皇と共に吉野滝を訪れた時に歌った歌らしいです。他にも友人で同じく側近だった紀長谷雄等も同行していたらしいですが、歌を歌った背景にもまた、道真の後半生を幾分か象徴していると言えるかもしれません。

今更説明不要なほどの超有名人で、その悲劇についても今更ここで詳しくいう事ではないとも思いますが、藤原氏に対する非現実的なルサンチマンと、元々臣下だった身故の、少なからずあったコンプレックス故に自分の直系子孫への皇位継承を焦って急いでしまい、この時代に必要な根回しを全く怠ってしまった宇多上皇の、状況理解力の欠如でした。藤原道長や治承三年のクーデター以前の平清盛とは真逆でした。特に阿衡の紛議で失脚した橘広相の外孫でもあった、斉世親王(上皇の第三皇子だったが、第二皇子は夭折していたので実質的な次男坊)に道真の娘を娶らせた一方、醍醐天皇には時平妹の穏子入台駄目なんて、過去には長屋王の変や承和の変、応天門の変等藤原氏が黙って「ああそうですか。」と容認するとでもマジで思っていたのだろうか・・・・・・・・厳しい言い方になってしまいますが、この人って名君になる素質は確かにあったけど、双方をどちらも傷つけないように顔を立てるといった事とかが出来ない人でした。出来ないなら出来ないで余計なゴリ押しとかをすべきではなかったのですが、結果は周知の通りで、陽成上皇をうざがった為に場当たり的に作ったルールのせいで自分も結果的に道真を見殺しにしてしまって、斉世親王まで巻き込まれて出家を余儀なくされてしまったのはまさに皮肉だったでしょう。

この道真ですが、実は(?)集英社出版「人物日本の歴史」でも主人公の一人として、桓武天皇・最澄・空海と共に取り上げられていました。その時代の代表的な人物を短編伝記で紹介する形式で、桓武天皇は荘司としお先生、最澄・空海は故東浦美津夫先生が執筆されていました。出版されたのは1984年ともう30年近く前のことでしたが、私の記憶では1994年頃までは書店で普通に見られました。(後に「伝記日本の歴史」では荘司氏は空海の漫画を担当されていたが、桓武天皇は登場しなかった。また東浦先生はこの2人以外にも鑑真・法然・日蓮と坊さんの執筆にやけに縁があった。

道真その人は「宇宙少年ソラン」等が代表作だった故宮腰義勝先生が担当されていましたが、印象的だったのが、基経死後の時平・仲平・忠平の所謂「三平」のお花畑的な(苦笑)会話です。

時平「亡くなった父基経のあとをついで太政大臣となるのは長男のこの時平。」

仲平「左大臣は次男のこの仲平。」

忠平「そしてこの三男の忠平が右大臣だ。」

時平「そうすれば天下は藤原三兄弟のものばんばんざいだ。」

仲平「三人で力を合わせてやりましょう。」

忠平、父が死んだ時点でまだ元服もしていない少年だったのが、ゴツイおっさんタッチ(苦笑)で描かれていましたが、こうした「厳密には史実と異なる演出」は他の人物のお話にも見られ、子供向けに分かりやすいようにあえてこのように描いたのでしょう。しかし、現実は「亡くなった父基経のあとをついで太政大臣」となったのが45年後(936年)の忠平で、56年後(947年)に「左大臣は父の長男のこの実頼。」、「そしてこの次男の師輔が右大臣」となっただけに何だか一層皮肉的にも感じられた「演出」でした。

それも時平が38歳の若さで急死してしまったからで、仲平が左大臣となったのも、忠平の太政大臣就任に伴う、46年後の937年(承平7)で既に62歳となっていましたが、時平・忠平の息子世代においては、途中まではまだそんな大きい昇進速度の差はありませんでした。今回もう一人の主人公、権中納言敦忠は、道真への反感から仕事をボイコットした、当時の藤原北家長老格だった叔父の国経から有原業平の孫娘を時平が奪ってその間に産まれた子だったらしいですが、ここで昇進速度を時平の子(保忠・顕忠・敦忠)と忠平の子(実頼・師輔)とで比較してみます。

藤原保忠 藤原敦忠 藤原顕忠 藤原実頼 藤原師輔
従五位下 16 15 15
従五位上 19 22 20 21 21
正五位下 26 30 26 24
正五位上
従四位下 19 28 32 28 26
従四位上 24 33 38 32 30
参議 24 33 40 31 27
正四位下 31
正四位上
従三位 31 36 44 34 30
権中納言 31 36 30
中納言 33 44 34
正三位 40 52 43 38
大納言 41 50 39 34

 

※官位にはそれに相当する官職がありますが、厳密ではなく、上から下の官位または官職に順番通りに昇進したとは限りません。

こうして見ると、顕忠は比較的遅い(最終的には右大臣)ですが、参議となるまでは彼以外の4人は寧ろ20近くまで父が生きていた保忠が頭一つ飛び抜けて昇進が速かった事が分かります。敦忠も従五位下になったのが921年(延喜21)の事で、保明親王康頼王も亡くなって天皇外戚(外祖父または外叔父)の可能性がなくなった後も出世は順調でした。942年(天慶5)には36歳で上位者4人を飛び越して従三位・権中納言となっています。この4人は伴保平は既に伴氏自体全く政治的に衰退していて、当時75歳の彼も長生きしたから出世できたようなものでしたが、源高明は醍醐天皇皇子で朱雀天皇の異母兄、源清平は光孝天皇孫、そして藤原忠文平将門討伐の手柄こそ、彼のいとこの貞盛藤原秀郷に取られてしまいましたが、藤原純友討伐時には新たに征西大将軍に任じられたと内容的にも悪くありません。恋愛や歌に生きた風流人との印象が強いですが、政治的にも案外有能だったのかもしれません。しかし、4年前の938年(天慶4)には師輔は陽成上皇皇子の源清蔭や時平次男の顕忠、嵯峨天皇曾孫で光孝天皇の養子にもなった源是茂等7人も抜かして、末席の参議からいきなり権中納言と出世しています。そして僅か1年後の943年(天慶6)に時平と大して変わらない37歳の若さで亡くなっています。約4ヶ月後には奇しくも同じ風流人だった元良親王も亡くなっています。保忠も本当に大臣目前まで行っていたようですが、敦忠も叔父さん達並みに長生きしていれば大臣になれたかもしれません。そして孫世代になると、他にも道長に仕えた人もいたらしいですが、顕忠の長男で、時平の男系孫の中では最年長と思われる元輔が55歳となった晩年の972年(天禄3)にやっと参議となったようですが、歳下の伊尹が摂政太政大臣、兼家が大納言、兼通が権中納言、済時も元輔より一足早く参議となる等もはや大きい差がついてしまいました。元輔が50近い歳まで、父は生きていましたが、親子共々特に優秀だったわけでもなかったのでしょう。時平の男系孫で他に公卿になった人はいないと思われます。敦忠の息子だった佐理(実頼の孫とは同姓同名の別人)も、安和の変前後に出世を諦めて出家してしまったらしいですが、女系では宇多源氏に、さらに曾孫の倫子(祖母が時平娘で、父が宇多天皇孫の源雅信)が道長と結婚して、北家嫡流にも血は受け継がれていったので、時平だけでなく、悪役イメージが強い反動で彼の名誉回復(?)もアピールしたいファンの方々にとっても救いかもしれません。

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