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2013/12/15

百人一首の歌人達(5)-13番陽成院&20番元良親王

「つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりける」(陽成院)

 

「わひぬれは いまはたおなし なにはなる みをつくしても あはむとそおもふ」(元良親王)

このシリーズ第5弾です。親子なのでセットとしましたが・・・・・・・

陽成院が本当に暴君だったのか、清和源氏は実は陽成源氏だったのか等については今更ここで深入りする事ではないと思います。しかし、退位後光孝天皇や宇多天皇を罵倒したあたり、藤原氏の都合で皇位を左右される事に対する鬱憤もあったのでしょう。平安貴族や皇族って、優雅そうに見えて実は、栄養がかなり偏っていた食事も影響していたのか、他貴族への暴行等乱暴者が結構いたのです。敦明親王や、後にこのシリーズで取り上げられるかは分からないけど、藤原道雅とかそれこそエグいエピソードを残しています。陽成院が特別異常だったわけではなかったのでしょうが、器量に欠けていたのは否めなかったかもしれません。

綏子内親王は光孝天皇の皇女、宇多天皇の姉妹で、冒頭の歌も彼女に対して送った歌です。おそらく退位直後に結婚し、夫婦仲は悪くなかったのでしょうが、残念ながら皇子女は生まれませんでした。陽成院はまた、光孝天皇の孫で宇多天皇の姪である姣子女王とも結婚して、彼女との間の第一子と思われる元長親王は901年(延喜1)年生まれです。いずれも光孝・宇多両天皇の陽成院に対する懐柔の意味合いだったのでしょうが、彼女とも遅くとも宇多天皇が醍醐天皇に譲位した897年(寛平9)頃までには結婚したのでしょう。同女王は、父親で宇多天皇の長兄だった是忠親王が857年(天安1)生まれですので、873~879年の間に生まれ、陽成院より5~10歳ほど歳下と思われます。

元良親王はこの陽成院での第2皇子で、wikiの「昌泰の変」の項目では、宇多天皇の譲位等について「元良親王への牽制云々」とか書かれてましたが、譲位時点で元良親王は、父譲位後の890年(寛平2)生まれですのでまだ7歳。醍醐天皇よりも歳下です。しかもこの元良親王の母親は藤原遠長という人の娘らしいですが、実は藤原連永との間違いらしい。この連永ですが、北家でも傍流だった魚名の流れで父親の直道も従五位上で終わっています。生年は兄の有穂が838年(承和5)生まれですので、元良親王の生年からも察するに839~845年の間でしょう。兄の有穂や同じ魚名流の山陰は当時としては長生きした事もあって公卿となりましたが、後ろ盾としては弱い存在なのは否めません。(醍醐天皇の即位時点で連永が生きていたとして)

しかし、それでも元良親王もまた父上皇同様無視できない存在でもあったのでしょう。法皇となった宇多法皇の妃、藤原褒子との恋愛は有名で、それもその理由だったのか誨子内親王・修子内親王と結婚しています。いずれも宇多法皇・醍醐天皇の皇女です。こうした風流人っぷりも祖母の藤原高子の血を引いていた故だったのでしょう。高子は元良親王がまだ6歳だった896年(寛平8)に善祐という東大寺のお坊さんとの密通疑惑で皇太后を廃されましたが、943年(天慶6)5月27日(太陽暦では7月2日)に復位されました。背景には、醍醐天皇の即位後の、昌泰の変(次期天皇となる可能性があった斉世親王に娘を嫁がせていた菅原道真を排斥)やその首謀者と言われている藤原時平の外戚、保明親王・康頼王の相次ぐ早世、その後皇太子となった寛明親王即位(朱雀天皇)に伴う摂関職の復活等光孝系による皇位継承の安定があったのでしょう。実際翌944年(天慶7)にはまた、天皇の弟、成明親王(村上天皇)が皇太弟となっています。しかし、それ故にまた、その祖母の名誉回復を見届けた直後の7月26日(太陽暦では9月3日)に薨去してしまったのには何とも皮肉めいたものを感じさせられます。しかも父上皇に先立ってです。

陽成院には他にも3人の宮人がいましたが、いずれも藤原氏に排斥された氏族の出身です。しかし、いくら生母の一族が振るわないとは言え、元天皇の長男として無視できない存在だったのでしょう。紀氏が生母だった源清蔭も斎院にいた、醍醐天皇皇女で三品・韶子内親王と結婚しています。結婚時期はハッキリわかりませんでしたが、朱雀朝後期以降の出世ぶりから察するに、内親王が父上皇(朱雀天皇に譲位)の崩御後斎院を退下した930年(延長8)~937年(承平7)の間に結婚したのでしょう。つまり、最終的には正三位大納言まで出世したが、それも天皇の義兄となった事も影響しているのではと思われるのです。しかし、清蔭が884年(元慶8)、内親王が918年(延喜18)生まれでしたので親子以上の年齢差です。それもあってか子供は出来なかったようで、夫が950年(天暦4)に薨去した時点でまだ32歳だった事もあってか橘惟風と再婚したらしい。この惟風はかって阿衡の紛議で排斥された橘広相の孫で、好古や昌泰の変に巻き込まれてしまった斉世親王(醍醐天皇弟、生母が広相の娘)とは従兄弟でした。しかし、893年(寛平5)生まれの好古の生年から察するに、彼も寛平末期~延喜前期生まれと推測され、再婚時点でもういい歳したオジさんだったでしょう。そしてまた、清蔭も惟風もいずれも父祖が藤原氏によって排斥され、藤原氏の風下に立つ事になった存在(清蔭は大納言まで昇進したとは言え)でした。惟風にも娘はいたらしいですが、いずれとの間にも子供は生まれなかったと思われ、果たして結婚生活は幸せだったと言えたのでしょうか。また佐伯氏との間に生まれた源清遠はwikiでは書かれていなかったけど、生年は912年(延喜12)だったらしいです。亡くなったのは996年(長徳2年)で、かって父を退位させた藤原氏が、内覧左大臣となったあの道長の下全盛期を築く一歩手前まで見届けて84歳まで生きた事になります。父以上の長生きだったんですね。ただ彼の子孫、子までは確認できましたが、孫までは確認できませんでした。清蔭の系統が一応陽成源氏の主流となったらしいですが、しかし、陽成天皇の人となりを見ると、清和源氏も本当に実は陽成源氏だったのかもしれません。

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