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2013/12/07

百人一首の歌人達(4)-81番後徳大寺左大臣と松殿家の衰退・没落

「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1382023761/l50

このシリーズ第4弾です。ホトトギスは朝にならないと鳴かない鳥らしいですが、徹夜してでもその鳴く声を聞こうとした、いかにも風流人らしいこだわりとか伝わった名歌です。

この歌を歌ったのは今回の主人公、徳大寺実定で、曽祖父の藤原公実は甥だった鳥羽天皇の摂政就任を望んで果たせなかった人でしたが、祖父の実能が徳大寺家の祖となりました。徳大寺家は閑院流の傍流で、摂政関白にはなれないが、太政大臣(江戸時代以降は左大臣)にはなれる清華家の家格を有していました。

百人一首の歌人ではないけど、もう一方の主人公が彼とも関わりのあった松殿家です。その末路等についてはwikiでも書かれている通りで、某巨大掲示板でもスレが立っていたようですが、確かに松殿基房の立ち回りは拙過ぎて尽く裏目に出てしまいました。

兄の近衛基実が祖父・忠実や父・忠通の後を追うように早世して、息子の基通はまだ6歳の少年でした。過去ログでも度々強調しているけど、普通なら親がどんなに高位高官でも早死してしまうと出世に不利になってしまいます。ところが平安後期~鎌倉前期にかけて貴族の家格は徐々に固定化していきました。前述の実定曽祖父、公実が摂政になれなかったのも先祖代々納言級止まりだったからですが、保元の乱の勝者となったとは言え、決してノーダメージではなかった近衛家は結婚関係等平家と結びついていて、基実死後平清盛の娘、盛子が彼の正室だった事を利用して摂関家領を事実上掌握していました。

しかしまた、清盛は元来「アナタコナタ」と評されるような絶妙なバランスな政治手腕を持っていた大政治家で、基房に対しても殿下乗合事件での対応等それなりの配慮は示していたようです。にも関わらず、彼の神経を逆撫でするような事ばかりやってました。それはwikiでも書かれていますが、1179年(治承3年)に事実上の嫡男だった師家をまだ7歳の子供だったにも関わらず、本来なら非参議の基通に譲るべきなのが、権中納言に抜擢したのも特に拙かったでしょう。結果治承3年のクーデターが起こりましたが、ここでその場しのぎの事しか考えないで出家してしまったのも拙かったです。と言うのも、このクーデターで解官された人達は短期で復帰し、クーデター以前より出世した人も何人もいたからです。

果たして平家へのルサンチマンや近衛家に対する対抗心からの焦りからか、「身内に対する甘さ」等この治承3年のクーデターからの反省点を学ばないで、もっと大失敗だった木曽義仲と組む選択肢を選んでしまいました。この時実定は喪中だったらしいですが、父の実能は既に亡くなって久しかったし、母の豪子の喪中だったのでしょうか。もしそうだとすれば、享年は60代か70代と思われますが、今度はこの内大臣になったばかりの実定を辞退させて、師家を内大臣・摂政(天皇は後鳥羽天皇)としたのですが、この時まだ11歳。大叔父の藤原頼長の14歳をさらに更新した最年少就任記録です。さらに娘を義仲の正室としたらしいですが、源義経に敗れて討ち死にしたので、基房・師家親子の天下は長続きせず、再び失脚しました。と言うか、木曽の田舎育ちだった義仲、牛車の乗り方すら知らず公家たちから馬鹿にされる程で京の都は全く畑違いだったのですが、基房は本当にこのような人が平家に変わって新たな時代の担い手になれるとでも思っていたのだろうか?義仲は義仲で、藤原光隆をさんざんコケにしていたのもそうしたハナから自分を見下していた貴族に対する鬱憤が溜まっていたからだったのでしょうが、下心があると分かっていても、それなり以上の優遇をしてくれた基房を「こいつは何か他の貴族とは違う良い奴なのかな。」とでも思っていたのかもしれません。しかし、この時実定だけでなく、義弟だった藤原忠雅(姉妹の忠子が師家生母)の官職も奪う結果となってしまった為か、清盛の反感を買ってまで婚姻関係を結んだ花山院家との連携も見られなくなってしまったようです。

その後実定は、内大臣に復し、1189年(文治5)には藤原経宗の薨去で後任の左大臣にまで登る等、姉妹の欣子・多子(近衛・二条両天皇の妃となった。)がいずれも皇子を産まなかった為天皇の外戚にはなれませんでしたが、結構要領よく世渡りを行っていたみたいです。摂政関白太政大臣となった九条兼実とも良く連携していたらしいですが、1196年(建久7)の政変も彼が生きていたらまた違った展開になっていたかもしれません。

一方松殿家ですが、可哀想だったのは師家です。今ならまだ小学生の子供です。権中納言にせよ、摂政内大臣にせよ彼自身が権力を欲して自ら強く望んだ地位ではなかったでしょうが、父の思惑も含む政争に散々翻弄され、60歳で出家するまで官職なしなままでした。結局嫡流となったのは師家でも、長子の隆忠でもなく、失脚後に生まれた忠房で既に後白河法皇は亡く、叔父の九条兼実政権となっていましたが、wikiによればまた、この忠房が兼実から見ればそれぞれ孫・曾孫にあたる「九条道家・頼経親子の失脚後、摂関に就任する可能性があった。」との事らしいです。そこでこの鎌倉前期の主な上級貴族の、官位官職昇進時年齢を調べてみました。

九条道家 三条実親 西園寺実氏 土御門定通 大炊御門家嗣 徳大寺実基 松殿忠房
従三位 12 16 17 15 17 18 14
参議 17
正三位 19 18 17 19 20 16
権中納言 12 24 24 21 22 23 18
従二位 13 24 26 23 23 24 16
正二位 14 27 28 26 25 27 20
中納言 14 29 27 30 19
権大納言 15 30 31 30 30 34 23
(1208年) (1225年) (1225年) (1218年) (1227年) (1235年) (1216年)
大納言 40 32
内大臣 19 37 48 41 45
右大臣 22 43 41
左大臣 25

※1・・・・官位にはそれ相当の官職がありますが、厳密なものではありません。従って必ずしも上から下の官位または官職に順に昇進したとは限りません。

※2・・・・権大納言は昇進年も明記しました。

※3・・・・徳大寺実基は実定の孫にあたります。

こうして見ると、確かに忠房の昇進は途中までは順調でした。摂関家の道家は、祖父兼実も既に玉葉を記し始めた15歳で内大臣となっていたのですが、彼は別格としても権大納言までの昇進は清華家出身である他の5人よりもいずれも速かったのです。彼が権大納言に昇進した1215~1247年の間、左大臣は9人中8人が摂関家・1人が清華家、右大臣は13人中8人が摂関家・4人が清華家・1人が源氏将軍(源実朝)、内大臣は17人中7人が摂関家・9人が清華家・1人が源氏将軍(源実朝)でした。権大納言から大納言までは昇進が9年かかりましたが、この時点でまだ32歳。松殿家4人目の大臣昇進の可能性はありました。基房が亡くなったのは太陽暦では1231年(寛喜3)2月の事でしたが、いくらか松殿家復活の希望も感じながらあの世に行けただけまだ幸せだったかもしれません。

しかし、官職はその大納言で止まってしまい、基房死後の1231~38年にかけて実親・実氏・定通・家嗣が大納言を経ずに忠房を追い越して次々と大臣に昇進してしまい、実基も1241年に大納言となって忠房に並ぶと、1246年にはついに内大臣に昇進して忠房を追い越してしまい、1254年には既に名誉職となっていましたが、祖父を超える、徳大寺家では初の太政大臣となったのです。

道家と彼ら清華家5人すべてまたはいずれか持っていた強みは、(1)皇室と婚姻関係(藤原道長の時ほどではないにせよ、やはりものを言ったのです。)を持っていた(2)鎌倉幕府や他有力公家とも連携を取っていた(3)例えば九条家なら皇嘉門院領等強い経済的基盤にも恵まれていた。主にこの3点だったのですが、松殿家はこうした強みはいずれもなかったと思われます。藤原道綱も亡くなるまで23年間大納言のままで、一時無能だった従兄弟の左大臣・藤原顕光の引退の噂が立った時、「一度就任したら直ぐに辞めるから大臣にしてほしい。」と願った所、藤原実資に「何も知らない奴が大臣を望む等おこがましいにも程がある。」と酷評されたエピソードがありますが、忠房も結局出家するまで22年間も大納言のままでした。と言うか、この時代になると、段々本来イレギュラーだった権官だけが置かれるようになり、正官は殆ど任じられないようになっていったようですが、忠房が在職していた間大納言は「欠員が出ない、または他にも適任者がいた為昇進させられない権大納言に取り敢えず吸えるポスト」になっていった感じだったのかも?

要するに、途中までは摂関家とまではいかなくとも、清華家クラスの家格となるかに思われた松殿家でしたが、師家も隆忠も、そして忠房も元摂政関白太政大臣の息子だから昇進できたようなもので、清華家どころか大臣家よりもさらに下な羽林家クラスに落ち着いてしまったのです。

忠房の後は、息子の良嗣は19歳で公卿(従三位)、父出家後の24歳で正三位、最終的には35歳で正二位にはなりましたが、39歳で早くも出家、孫の通輔は生年不明ですが、1260年頃の生まれとすれば、40歳となった1300年で漸く公卿(従三位)、wikiでは「曾孫の忠嗣の時には中興の兆しもあった。」というような事が書かれていましたが、彼の上司の二条良基って、忠嗣とは親子ほどの年齢差(良基の方が23歳若い)です。本来なら忠嗣の方が官位官職の上で良基の上位者となっていたはずなのですが、43歳でやっと公卿(従三位)、49歳で参議、50歳で正三位、51歳で権中納言、54歳で中納言、60歳で権大納言、そして61歳で正二位です。これでは長生きしたから出世できたようなものです。織田信長の舞う幸和舞通りの寿命なら参議か正三位止まりです。その後北朝で足利将軍と連携を取りながら朝廷での権力者として君臨していった良基とは袂を分かち、南朝側についてしまったようですが、最後の家豊は従五位上よりも上の官位に昇進した記録がない(と思われる)だけに、62歳まで生きた父の忠顕よりも先に早世した可能性があります。いずれにせよ、松殿家は戦国時代に断絶してしまったようで、その後も再興の動きが見られたかと思いきや、短期でまた断絶してしまったようですが、それなら摂関家と婚姻関係等を結ぶ事は出来なかったのでしょうかね。何だか実定よりも松殿家中心の話になってしまったけど、徳大寺家の方は現在は江戸時代に創設された閑院宮の血筋となっています。しかし、それより前の室町~戦国時代前期に登場した、実定の直系子孫で13代目当主の実淳の娘が近衛家に嫁いだので、少なくとも女系の子孫は現在もいます。細川護煕元総理大臣・近衛忠てる兄弟も実定の子孫の一人です。(母親が近衛文麿の娘)

【追記】(2014年5月11日付け)

世界帝王事典によれば、忠房は父・基房が亡くなった1231年(寛喜3)に大納言を辞めていたらしいですね。また隆忠(基房長男・忠房兄)の系統からは娘が園家に嫁いで、さらに西園寺家久我家等にも血は入っていたらしいですが、忠房の子孫が断絶した際、隆忠の血を引いていたこれらの家から当主を出して再興させる話は出なかったのですかね。結局2度も本来弟分の家だった九条家から当主を出す、再興の試みがなされたあたり、基房の孫世代で羽林家クラスまで落ちてもそれなりの特別視がなされていたという事だったのでしょう。wikiでは園家の系図は26代の基久までしか載ってないけど、もし現当主の基信氏が基久の直系子孫ならば、松殿家の血筋(隆忠本人は松殿とは名乗らなかったらしいが)は現在も女系ながらも受け継がれている事になりますが・・・・・・・

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