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2013/12/01

百人一首の歌人達(3)-19番伊勢、45番謙徳公と50番藤原義孝

「難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや 」(伊勢)

「あはれともいふべき人はおもほえで身のいたづらに成りぬべきかな」(謙徳公)

「君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな」(藤原義孝)

このシリーズ第3弾です。伊勢石ノ森章太郎氏の「萬画日本の歴史」でも、藤原時平・仲平兄弟の恋愛相手として触れられていて、お世辞にもイケメンとは言えなかった(苦笑)仲平がデレデレになっていたのですが、時平も以下の歌が残っているようです。

「ひたすらに厭ひはてぬるものならば吉野の山にゆくへ知られじ」(訳:「貴女が私をひたすら最後まで厭い続けるのなら、私は世を厭い、吉野の山に籠って行方をくらましてしまおう。」

この貴女とは伊勢の事を指しますが、時平ってセンチメンタルな一面もあったんですね。しかし、結局彼女はこの2人ととも結婚しませんでした。時平及び彼の子孫は周知の通り(女系では宇多源氏やさらに藤原北家御堂流に血は受け継がれたが)で、仲平も弟の忠平の後塵を排していた為か、確認できる唯一の息子も早めに出家させたと思われますが、最初は時平に勝るとも劣らない好色だった宇多法皇と結婚、その次は皇子の敦慶親王との間に中務を産んだらしいですが、この敦慶親王は伊勢よりも15歳も歳下。GMとして中日に戻ってきた落合博満・信子夫婦以上の年齢差でした。息子にあげちゃうなんて、飽きちゃったのですかね。そう言えば宇多法皇ってまた元良親王には・・・・・・・・

この中務が宇多法皇の兄弟だった源国紀の孫である信明と結婚し、その間に生まれた井殿が忠平の孫、藤原伊尹と結婚したので、謙徳公と諡された伊尹は伊勢の義理の孫にあたります。(と言うか、伊勢自身も忠平等の遠祖・藤原冬嗣の兄、真夏の子孫で、真夏は冬嗣には官位官職で水をあけられてしまいましたが、子孫は日野家等大いに栄えました。)

残念ながら父の師輔は摂政・関白になる事なく亡くなりました。もし冷泉天皇の即位時まで生きていたら、摂関と太政大臣の分離が実際(兼家政権期)よりももっと早く見られ、実頼は名誉職的性格の太政大臣就任のみにとどまったのではと思われますが、その后宮政策等の布石は十分活かされました。(天皇及び天皇の兄弟達と外戚関係に無かった実頼を無理に排斥したりはしなかったと思う。)

師輔が亡くなってから約3ヶ月経った960年(天徳4)8月22日の昇進人事で宇多法皇孫の源重信と共に参議昇進、公卿に列せられました。この時点で藤原純友退治に貢献した小野好古(76歳)や、大江維時(72歳)、橘好古(67歳)の非藤原系のおじいちゃんトリオがまだまだ頑張っていたという事もありましたが、そこからの出世が速かった。

安和の変前後で失脚した源高明だけでなく、実頼、師尹、師氏の叔父さん達や祖父忠平とは政治的ライバル(醍醐天皇の外叔父だった)だった定方の五男だった朝忠、そして棚からぼた餅的に左大臣となった、魚名流の在衡と目上の一族が次々と死んだ事もあって、摂関職だけでなく971年(天禄2)11月2日に遂に太政大臣にもなりました。公卿に列してからここまで11年(正確には11年と2ヶ月少し)、良房の23年、基経の17年、忠平の28年、実頼の36年いずれも大きく塗り替えたスピード記録でした。大臣に昇進してからは僅か1年と9ヶ月少しとこれもスピード記録です。

しかし、伊尹及びその子孫達はそうした栄光に上り詰めるのは確かに速かったですが、そこからの転落も速かった。太政大臣に昇進して1年で皇太子師貞親王(花山天皇)の即位を見る事なく48歳で伊尹は亡くなってしまったのです。

貴族の家格が定まっていったのは平安末期~鎌倉前期の事。この時代はまだ藤原氏による他氏排斥が完了したばかりでまだそこまではいってません。どんなに親が高位高官でも早死してしまうと出世に不利になってしまいます。

その例の一つが過去ログでも触れましたが、飛鳥時代後期~奈良時代前期の石川氏(蘇我氏倉麻呂流)です。乙巳の変はあくまで蝦夷流総本家だけが滅びたのであって、この時点で倉麻呂その人が生きていたかどうかは分かりませんが、彼には何人も子供がいました。しかし、壬申の乱まで30年足らずでに皆表舞台から姿を消しました。既に664年(天智天皇3)に亡くなっていた連子の息子だった安麻呂も大海人皇子(天武天皇)に味方しましたが、間も無く亡くなったようです。この時点で息子の石足はまだ5歳の子供でした。結果石川氏はもうなるべく詳細は避けますが、藤原氏やその親戚筋の中臣氏、多治比氏、石上(物部)氏、大伴氏等他氏族に遅れをとってしまいました。お姉さんが藤原不比等と結婚した縁で長屋王の変後の729年(神亀6)3月に漸く権参議従三位となりましたが、天平に改元した直後の8月9日に亡くなったので、息子の年足が列せられた749年(天平勝宝1)まで実質80年近くも公卿不在の時期が続いてしまったのです。(この時代はまだ公卿の人数自体比較的少なかったとは言え)結局さらに50年経った桓武朝期に公卿(従三位または参議以上)が途絶えてしまい、貴族(五位以上)もまたさらに50年以上たった文徳朝期に途絶えてしまったようです。主な例外は、たまたま娘婿の源定省(宇多法皇)が初の「臣下から即位した天皇」となった藤原高藤とその兄弟の利基の勧修寺流ぐらいです。(宣孝が高藤の、紫式部が利基の直系子孫です。勿論宣孝には式部・太宰三位以外にも妻子はいました。)式家の藤原緒嗣も、結局嵯峨天皇が北家(冬嗣)の方を気に入ってしまい、息子達も早世か引退したので、彼の死以降はもう政治の主導権は握れませんでした。

遠回りしてしまいましたが、ここでこのシリーズ第3弾3人目の主人公である伊尹次男の義孝の登場です。974年(天延2)4月時点で彼の官位は正五位下でした。従兄弟達は朝光(伊尹次弟の兼通の子)は早くも参議となっていて、7歳歳上だった兄の顕光も公卿目前でしたが、歳の近い道隆(三弟の兼家長男)が従五位上、道綱(同次男)が従五位下とそれほど大きく遅れを取っていたわけではありませんでした。まだ巻き返しのチャンスはありました。しかし、彼も直後兄の挙賢共々疱瘡で早世してしまいました。他にも何人か兄弟はいたようですが、やはり早世したか、早々と出家したのでしょう。この時点で息子の行成はまだ2歳です。

代わって権勢を振るったのは次弟の兼通で、伊尹薨去直前に47歳でやっと権中納言になったに過ぎなかったのが、その詳しい経緯もwikiにも書いてあるので割愛しますが、太政大臣への昇進は公卿となってから5年と1ヶ月、大臣となってからは僅か3ヶ月と兄のスピード記録を早くも更新しました。公卿から太政大臣への昇進は、平清盛が最速だったと思いきや、違っていたんですね。この兼通だったのです。(大臣からの昇進は兼通・清盛共にほぼ同じです。)ただ摂関経験者の太政大臣昇進は清和上皇の遺言(「摂政なのに右大臣では官職が低い。」)で昇進した基経の先例によるもので、この時点では摂関とセットの実権があった官職だったので清盛とは単純には比較できないでしょう。

しかし、兼通も死ぬ間際に犬猿の仲だった兼家の関白就任を妨害する事には成功しましたが、彼ら一族の運もそこでほぼ尽きてしまったようです。娘を天皇家に嫁がせても皇子が生まれなかったし、高明弟だった兼明を皇族復帰させてまで官職を上げた従兄弟の頼忠(実頼の子)を後任の関白に吸える事自体も、成功はしましたが、外戚関係はありませんでした。

そんな内に伊尹・義孝と外戚関係にあった師貞親王が花山天皇として即位して、義孝の兄弟では唯一平均寿命を保ったと思われた義懐が外叔父として出世しました。しかし986年(寛和2)4月時点でまだ20代だった彼、官位は従二位でも官職はまだ権中納言でした。序列上位の公卿はまだ9人もいました。伊尹が摂政に就任する直前では実頼、師尹、在衡、兼明の4人で、兼通の時はその伊尹等同じく9人でした。花山天皇は、父の冷泉上皇に似て奇行も目立ちましたが、政治的には義懐共々意欲的な政策を実行していたみたいです。しかし兼通の死に際の妨害は却って政治の停滞を招いてしまいました。兼家が懐仁・居貞・為尊・敦道各親王の4人も天皇家の外孫に恵まれるようになったので尚更です。(前の2人はぞれぞれ後の一条・三条天皇で、後の2人は和泉式部との恋愛で有名です。)

もしこのまま花山天皇が在位していれば、989年(永祚1)の頼忠死後に兼通みたいに内覧を経てから関白内大臣となっていて、父や叔父並みのスピード出世を遂げていたでしょう。しかし、人柄は良かったけど、マキャベリズムな素質には欠けていた頼忠と父の下で経験積む機会に恵まれなかった若い義懐は兼家の敵ではありませんでした。息子達も総動員した兼家の策略で出家させられ、義懐も間も無く出家しました。

残る伊尹一族の希望だった行成は20歳を過ぎてやっと昇進の機会に恵まれるようになりましたが、その時には既に道長の時代となっていました。顕光も儀式での失態等を重ね、道長や彼の再従兄弟の実資にも散々酷評される等無能で、公季(道長の叔父)共々后宮政策にも失敗したので、兼通流ももう盛り返す事はなかったのですが、正二位権大納言がやっとでした。1021年(治安1)~1035年(長元8)の間、道長出家後に太政大臣となった公季は1029年(長元2)になくなりましたが、左大臣頼通・右大臣実資(道長の再従兄弟)・内大臣教通、そして大納言斉信(道長の従兄弟)の4人がずっと不動だったのです。内実資と斉信は行成より歳上でしたが、もし彼らより長生きしていれば何とか内大臣まで出世できていたかもしれません。(頼通・教通の異母兄弟だった頼宗に越される可能性もあったが)実資死亡時点で74歳だったので有り得なくはなかったでしょう。しかし、現実には道長と同じ日に死んでしまいました。世間は良くも悪くも大物だった道長の死で大騒ぎとなってしまい、影が薄くなってしまいました。映画「源氏物語千年の謎」では、行成は金魚の糞みたいに東山(紀之氏演ずる)道長にくっついていましたが、もし伊尹・義孝親子がもっと長生きしていれば道長と行成の立場は逆になっていた可能性もあったのです。この行成の最期はそんな伊尹一族の栄光と転落を象徴していたようだったと言えます。そして彼の子孫が最後どうなったのかもまたwikiに書かれている通りです。彼ら個人よりも伊尹一族の話となってしまいましたが、「運も実力の内」とはやはり言い得て妙なのかもしれません。

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