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2013/11/02

天皇家の傍流からの皇位継承の歴史その1

http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/62394304.html

園遊会手紙事件もまだ記憶に新しいですが、上記ブログには初代から現在までの天皇家系図が記されています。内神武天皇~今上陛下までの男系つながりを赤線で表示して、これを見て改めて気づいたことは何回か断絶の危機もあり、その度に傍流から皇位継承者が出ていた事です。以下時代ごとに述べます。

(1)継体天皇と遅れた大和入り(古墳時代)

継体天皇については本当に応神天皇の子孫だったのか、それとも縁もゆかりもなかった一有力地方豪族にすぎなかったのか等現在もその議論には決着はついていませんが、その前の武烈天皇ですね。享年は18歳・57歳・61歳各説があるどころか、実在すら疑われていますが、実は武烈は漸く継体が大和入りした526年(継体天皇20年)まで生きていたのではないかと思います。これで享年数え年57歳なら、生まれたのが470年で、父・仁賢天皇の生年、449年と辻褄が合います。実際継体の次の安閑天皇は、初めての生前譲位を受けたとの記事が残っていますが、それは継体からではなく、武烈から譲位されたのだと主張している人もいるようです。しかし、実は武烈以前は特定の血筋に王位継承とかこだわっていなかったのではという説もあるのです。実際日本書紀によれば、継体登場の50~90年前に在位していた允恭天皇の異称に雄朝津間稚子宿禰尊とあります。宿禰は後の天武朝における八色の姓では真人、朝臣に次ぐ3番目の姓で天皇らしくない異称(もしかしたら生母の実家が宿禰身分の豪族だったのかもしれませんが。実際また、「日本書紀」では兄の履中天皇・反正天皇に軽んじられていた逸話がありますが、それも原因だったのかもしれません。)ですが、ハッキリは分かりません。ただ少なくとも継体天皇からは現在に至るまでずっと1500年間男系を維持してきたと見て差し支えないでしょう。

(2)天武皇統(持統・草壁皇統)から新・天智皇統へ(奈良時代)

これについては、「歴史」カテゴリーの過去ログ(「古代日本における『出る杭は打たれる』の事例-長屋王のこと」シリーズを参照してください。)でも深入りしたので、なるべく詳細は避けますが、天智天皇こと中大兄皇子が身分の高い后等との間に男子が生まれなかったまたは早世してしまったので、母親の身分が低かった大友皇子(弘文天皇)への王位継承を正当化する為に不改常典の法を定めました。これは壬申の乱及びそれに勝利した弟の天武天皇こと大海人皇子の即位の伏線となりました。

天武は兄天智から4人も娘を后としてもらいました。彼女らとの間の皇子も何人もいたはずだったのですが、その中でも皇后となっていた鵜野讃良(持統天皇)が681年(天武天皇10年)となったたった一人の息子、草壁皇子直系子孫の皇位継承にこだわりました。それは結局かっての蘇我氏同様天皇家の外戚となっていた藤原氏の思惑も絡んでいたのですが、草壁だけでなく、祖母の持統から譲られてやっと即位した文武天皇も早世し、子供も恵まれませんでした。いや、正確には文武には首皇子(聖武天皇)の他にも広成・広世皇子がいたのですが、彼らは生母が文武天皇崩御直後他の男と関係を持っていた事がバレて、皇族の身分を剥奪されてしまいました。その生母こそ蘇我氏(石川氏)出身だったのですが、草壁皇子の后で息子から皇位を継承する事となった元明天皇も持統同様生母が蘇我氏出身者だったので、同じ蘇我氏の血縁者から皇位継承の機会を奪ったわけです。元明は皇后を経ないで即位した初の女帝、元正天皇は未婚のまま母から皇位を譲られた初の女帝、そして孝謙(称徳)天皇は女性皇太子を経た初の女帝と皆即位事情が異例だったのですが、何としてでも草壁直系子孫皇位継承の為に無理を強いられたのです。結局は壬申の乱からわずか70年そこそこで草壁の男子直系子孫そのものがいなくなってしまったのですが、他の天武系皇族(舎人・新田部・長各親王の直系子孫達)に対する排除というリミッターは抑止されませんでした。そこで孝謙(称徳)の異母姉の井上内親王を妻としていた、天智三世王の白壁王(光仁天皇)登場となるわけで、実際間には他戸親王という次期天皇がいました。しかし、道鏡を重用する等扱いきれない存在となっていた孝謙(称徳)には藤原氏もほとほと手を焼いていたので、もう天武の血を引く天皇は懲り懲りと言わんばかりに謀略で異母兄の山部親王(桓武天皇)が代わりに立太子され、天武というよりも持統・草壁皇統は完全に断絶しました。

なお、天智と天武についてですが、実は天武が父親は舒明天皇ではなく、皇極(斉明)天皇が前に結婚していた相手との間に生まれた漢王と同一人物の異父兄だったのではという異説は有名です。その根拠の一つとして、前述通り4人も天智から娘を貰った事があげられますが、実はこれも前例がないわけではないんです。母親が皇族(武烈の姉妹)だった欽明天皇も、兄ながら母親が豪族だった宣化天皇から4人も娘を后としてもらっています。そしてその中でも石姫皇女との間に生まれた敏達天皇が王位を継承しています。という事は、実は天武ではなく、天智が父親が舒明ではない天武の異父兄という事?中大兄という、次期有力王位継承者の尊称も実は後世の顕彰に過ぎないという事?

また皇室ゆかりの泉涌寺での位牌、38代天智の次はいきなり49代光仁となっているのも、天智&天武が異父兄弟どころかいずれかが日本人ですらない(つまり天武皇統は全くの別王朝)等のトンデモ奇説の根拠にも勝手にされていますが、飛躍しすぎでしょう。母親の身分が低かった桓武が中国の易姓革命を意識して、自分の皇位継承を正当化していたのもありますが、その一方で聖武天皇の命日を国忌としているし、また実はこの泉涌寺って、山部親王(桓武天皇)を擁立した藤原百川の息子、緒嗣ゆかりの寺とされているのです。天武系の天皇の位牌を置くのは自分の出世のきっかけも作ってくれた父の偉業を否定するようなものですから、そうならなかったのは当然。それだけの事で。井沢元彦氏等の異説は話半分程度に聞くべきと言うか、「天智と天武は異父兄弟の可能性も有りうる。」と見るにとどめるのが妥当でしょう。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm

この議論については、そもそも天武の生年が本当に本朝皇胤紹運録等による622年(推古天皇30年)なら、里中満智子女史の「天上の虹」でも、自殺した異母姉妹の十市皇女を想うあまりなかなか結婚しなかった長男の高市皇子に対して「お前の立場でいい歳していつまでも1人でいるなんて不自然だ。」なんて言える立場じゃないです。(実は息子の長屋王は十市存命の時点で既に生まれていた説もあるが。)天武皇子女では年長である2人とも653年(白雉4年)前後の生まれとされていますが、その時既に天武は30代に入っているからです。実は兄である事を隠さなければいけないほどの有力皇族の割には子を儲けるのが遅いです。それなら上記HPURは「天武天皇の年齢研究」というサイトで、本サイトでは生年644年(皇極3年)説を採ってますが、こちらの説の方がまだ説得力あります。

(3)大叔父への皇位継承と皮肉なる長命(平安時代前期)

そうした持統・草壁皇統の末路も反面教師としたのか、桓武→早良親王、平城天皇→嵯峨天皇、嵯峨天皇→淳和天皇と兄弟への皇位継承が試みられるようになっただけでなく、多くの皇子女も儲けられました。前者は残念ながら藤原種継暗殺事件、薬子の変、承和の変等政争の火種になる等必ずしも成功しませんでしたが、後者は特に桓武は40代後半以降子宝に恵まれるようになったし、嵯峨は後の徳川家斉と比べても遜色ない52人もの皇子女を得ました。しかし、皇族として養える費用には限りがあるので、その内の何人かは臣籍降下する事となり、それぞれ子孫の桓武平氏と清和源氏が後にどうなっていったのかはもう周知の通り。

承和の変で嵯峨系に皇位継承が一本化されたかと思いきや、その嵯峨朝から次第に独走していった藤原北家の思惑もあって陽成天皇から大叔父の光孝天皇への皇位継承が起こりました。この陽成天皇、百人一首を題材とした某アニメではツンデレ系として描かれていて、一般には暴君と言われていますが、実は叔父の藤原基経と生母の高子の不和に巻き込まれたに過ぎない等真相は良くわかりません。ただ高子が他の男と密通していた所為で皇太后の位を剥奪されたり、光孝の皇女だった綏子内親王と結婚させられたり、「あれはかって私に仕えていたものではないか。」と言われていたという、次代の宇多天皇がまだ30歳の働き盛りだったのに12歳の敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したりとやっぱ警戒されていたんでしょうね。宇多天皇の譲位については、これは完全に裏目に出てしまったようで、同年897年(寛平9年)の源能有の死去等共々菅原道真の悲劇の伏線となってしまい、高子の皇太后剥奪については朱雀朝の943年(天慶6年)に復位されたようですが、この時点で陽成はまだ存命していました。光孝系の皇位継承共々どう思っていたのやらでしたが、実はこの年はまた同じく百人一首に選定されていて、しかも因縁の(?)宇多法皇の妃、藤原褒子にも手を出していた元良親王に先立たれてしまったのです。複雑な喜びと悲しみ2つのニュースがあった年だったと言えたのでしょうか。長くなりすぎたので、続きは次回という事で。

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