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2013年11月

2013/11/27

だからルパン実写化もやめとけよ

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131127-00000001-flix-movi

「ルパン三世」が小栗旬主演で実写映画化!玉山鉄二、綾野剛、黒木メイサ、浅野忠信が出演!

シネマトゥデイ 11月27日(水)5時0分配信   

実写版『ルパン三世』キャスト陣 - 左から、浅野忠信、綾野剛、小栗旬、玉山鉄二、黒木メイサ

 テレビアニメにもなったモンキー・パンチの漫画「ルパン三世」が実写映画化され、来年夏に公開されることが明らかになった。主人公・ルパン三世を小栗旬が演じ、次元大介には玉山鉄二、石川五ェ門には綾野剛、峰不二子には黒木メイサ、銭形警部には浅野忠信という豪華キャストが集結した。監督を務めるのは、ハリウッドでも活躍する『あずみ』などの北村龍平だ。

 漫画「ルパン三世」は1967年に「週刊漫画アクション」で連載スタート。1971年からはテレビアニメも開始するなど、45年以上にわたって広い世代に愛されている。実写映画化は1974年の『ルパン三世 念力珍作戦』以来、実に40年ぶりだ。撮影は今年10月3日に日本でクランクイン。現在はタイで2か月に及ぶ大規模ロケを行っており、年末までに日本・タイ・香港・シンガポール・フィリピンの5か国で撮影を行う。

 おなじみの赤ジャケット姿のルパン三世にふんする主演の小栗は「マジかよ~実写化! と僕も思いました。ルパン三世は、多くの皆さんの中にそれぞれのルパン三世がいると思いますが、若い世代にも、リアルルパン世代にも楽しんでいただけるルパン三世をお届けできるように、タイの暑さと闘いつつ頑張っています!」と意気込んでおり、演じるにあたっては10か月にわたってアクションのトレーニングを積んだとのこと。手足の長さを再現するために8キロ減量するなど、役づくりにも余念がない様子だ。

 小栗はもちろんのこと、玉山・綾野・黒木・浅野といった他キャストについても原作者のモンキー・パンチは「出演者の皆さんは、どなたも本当に魅力的で、まさに漫画・アニメのルパン三世のキャラクターたちが現実世界に飛び出してきたようだと感動しました」と太鼓判。とりわけ、キャスティングに最も時間がかかったという不二子役の黒木に対しては、現場で一目見るなり「これは不二子だね!」と深くうなづいていたという。

 企画立ち上げからクランクインまでに4年以上、中でも脚本には2年半の時を費やしたという本作。ストーリーはルパン三世最初の仕事を描いたオリジナルのものになり、脚本執筆段階ではモンキー・パンチも積極的にアイデアを出し、その意向をたっぷり反映させたという。山本又一朗プロデューサーは「アクションはもちろん、軽妙なコメディーである原作の世界観を、リアリティーをもって表現したい」と自信を見せる。

 また、ほかの出演者にも、台湾の人気グループ・F4のジェリー・イェン、タナヨン・ウォンタラクン(タイ)、ニック・テイト(オーストラリア)、キム・ジュン(韓国)、ニルット・シリジャンヤー(タイ)、ヤヤ・イン(タイ)と国際色豊かな才能が勢ぞろい。5か国語が飛び交う撮影現場では皆、和気あいあいとした雰囲気を楽しんでいるといい、山本プロデューサーは「オールアジアで世界市場に映画を出していきます」と手応えを明かしている。(編集部・福田麗)

映画『ルパン三世』は2014年夏、全国公開

前々から話は聞いていましたが、「ついにか・・・・・・」ですね。このルパン実写化は。

昭和49年公開版は未見で、先日金曜ロードショー枠で放送されたTVスペシャルは今録画していたのを3分の1強見終わった所です。だから、これについては詳細な感想は避けますが、残念ながらこの「princess of the breeze 」も2007年「霧のエリューシヴ」から6年連続で駄作認定となりそうですね。(2009年は名探偵コナンとのクロスオーバーものだったのでカウントしていない。これは2001年のネパール王族殺人事件をモデルにしたような題材で、まだそこそこ見れた出来でしたが。)

おっと実写版キャストですが、小栗旬くんは一時スキャンダルにも見舞われて天狗になっていたのが、我を取り戻したのでしょう。意気込みは伝わりはしますが、その他キャストが皆原作やアニメ版のイメージと合ってない面々ですよね。特にフーーーーージコちゃん役の黒木メイサちゃんですね。宇宙戦艦ヤマトでの森雪もミョーにツンツンしていてミスキャストでしたが、今回もタイプ違うでしょ。

メイサちゃんと言えば、夫が出演している47roninも、アメリカでは赤字見込みという事で劇場公開すらされないらしい(そもそも忠臣蔵という題材自体に何のカタルシスも、魅力も感じないが。)ですが、ガッチャマンみたいにコケそうですよね。監督の北村龍平氏も三池崇史氏や園子温氏みたいに作品の出来不出来の差が激しいから余計不安です。正直。そういえばまた、小林清志氏と沢城みゆき氏ってもうお祖父ちゃんと孫の年齢差でもあるけど、もうアニメも実写映画版も無理して作る事ないじゃない。納谷悟朗氏まで天国に旅立たれたのだから。一方では、あの神アニメ「MUSASHIGUN道」をも生み出された、アルチュール・ランボーやパブロ・ピカソ、太宰治に並ぶべき「異形の天才」でもあるモンキー・パンチ氏の経歴をこれ以上汚さないで欲しいです。

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2013/11/24

百人一首の歌人達(2)-79番左京大夫顕輔と84番藤原清輔朝臣

「秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ 」(左京大夫顕輔)

「 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 」(藤原清輔朝臣)

権中納言定家から続くこのシリーズですが、次は藤原顕輔&清輔親子です。

この親子って、仲が良くなかったらしいですが、どうやら父の顕輔が清輔を一方的に疎んじていたようです。と言うか、清輔は顕輔が14歳の時に産まれた子だったらしいですが、清輔・顕輔の年齢差よりも、異母兄弟だった清輔・重家&季経の方が年齢差が大きかったようです。

重家&季経が生まれたのは清輔が40代前後の時だったらしいですが、この時代の40代というのは、もう人生の晩年に差し掛かった時です。何せ400年以上後の人物であるあの(織田)信長だって「人生50年」と言っていたほどだったのですから。この時期はまた、そもそも顕輔は院近臣だったのですが、それ故に妬みを受けていたのか昇殿を止められていた時期だったらしいですが、そんな不遇の時期に遅く子供を設け、その子供を可愛がるようになり、早く生まれた子と関係が微妙になっていったのは藤原忠実&忠通・頼長親子と重なり合うものがあります。まあ忠実の場合は、自身の能力不足が招いた結果だったのですが。

清輔には同母兄に顕賢という人がいました。清輔自身も官位が停滞して、晩年は重家に官位を越されてしまったらしいですが、この顕賢も、清輔は1104年生まれらしいですが、それはこの顕賢の生年との混同で、実際は異説である1108年生まれだったのでしょう。ところがあの保元の乱が起こった1156年に信濃守としてやっと正五位下になったのです。もうこの時点で50過ぎてます。彼ら親子は元をたどれば北家でも傍流とは言え、奈良時代後期に出た藤原魚名の流れです。それなのに昇進が遅いと言うか、彼もまた清輔同様父から冷遇されていた事が伺えます。

清輔にはまた、実子が2人いたようですが、妻は不詳です。おそらく父から疎んじられていた故に身分相応の結婚もできなかったのでしょう。実際父から偏愛されていた重家は同じく魚名流で、父以上に羽振りが良かった藤原家成の娘を妻にもらっています。2人とも出家したようですが、おそらく自身の不遇等からまだ顕輔が存命中に早く出家をさせたのでしょう。ところが、(生年を1108年とすれば)40代後半になってやっとと言うか、顕輔が亡くなりました。重家が六条藤家を継ぐと思われましたが、清輔が継ぎました。養子の清季は六条藤家を継いだ後に迎えたのでしょう。ただこの清季父の家基も、平治の乱が終結して、後白河上皇&二条天皇の確執を経て平氏政権が成立した頃に従五位のまま出家したのですから、後ろ盾としては心もとなかったというか、顕輔が亡くなった時点で既に弟たちの後塵を排していた事も伺えます。結局六条藤家は重家及び彼の子孫が継承していく事となったようですが、兄の清輔存命時点で既に重家は出家していたらしいので、家を継いだのはその出家前だったのでしょう。

清輔はついに公卿(従三位以上)にはなれませんでしたが、重家から隆朝の7代までは30代後半~40代で公卿に列し、最終官位は従二位か正三位まで登っている事が確認できます。しかし、家業の歌の方では、藤原俊成・定家親子を祖とする御子左家に、既に後鳥羽上皇院政期の13世紀初頭に押され気味になっていたようで、政治的にも重家の子・顕家の時点で既に官職無しのまま出家を余儀なくされてしまったようです。1355年に亡くなった隆朝の次の行輔は北朝後光厳朝期の新拾遺和歌集の編纂にも関わっていたようですが、彼を最後に1375年頃に六条藤家は傍流の春日家、紙屋河家共々断絶してしまったようです。当時は南北朝動乱が続いており、管領細川頼之の補佐を受けた足利義満の執政の元、終息に向かってはいましたが、お膝元の畿内では北朝に投降していた楠木正儀が南朝側からの攻撃を受けて、彼を助けるか助けないかで揉めていました。魚名流本家筋の四条家も北朝派と南朝派に分裂していた事もあって、養子を迎える等が出来ず、断絶となってしまったのでしょう。

六条藤家は複雑な院政期を生き残る事は出来ましたが、必要以上に御子左流と張り合う等政治・家業双方で次第に時流に乗り遅れる事となってしまった感があります。歴史に「IF」と言い出すとキリがありませんが、もし清輔が父から疎んじられないでしっかり子孫を残していればどうなっていたのでしょうか。また違った歌風を確立して、明治まで堂上家を残せたかもしれません。しかし、現実には顕輔が亡くなってから200年そこそこしか持ちませんでした。清輔は父から疎んじられたのは自身のせいではないにしても、結局最後まで報われなかった人生だった感が否めませんでしたが、重家の子孫達も永久に栄える事はありませんでした。この六条藤家の衰退・断絶についてとうの顕輔はあの世でどう思っているのか。聞けるのなら聞いてみたい気もします。

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2013/11/23

猪瀬直樹ももう「コレデオシマイ」か?

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131123-00000080-san-soci

猪瀬氏 徳洲会から5000万円 「1億円」を要請 強制捜査後に返す

産経新聞 11月23日(土)7時55分配信   

猪瀬直樹知事と徳洲会事件をめぐる経過(写真:産経新聞)

 猪瀬直樹東京都知事(67)が知事選前の昨年11月、公職選挙法違反事件で東京地検特捜部の捜査を受けている医療法人「徳洲会」グループから現金5千万円を受け取っていたことが22日、明らかになった。関係者証言によると、猪瀬氏は知事選出馬にあたり、徳田毅衆院議員(42)を通じてグループ創設者の虎雄氏(75)に1億円の資金提供を要請。虎雄氏が毅議員に「とりあえず5千万円」と金額を決め、猪瀬氏に直接手渡すよう指示したという。

 猪瀬氏は記者会見し、「あくまで個人として借り入れたもので、選挙資金に使わず全額返済した」と説明した。しかし、選挙運動費用として資金提供を受けていた場合、公職選挙法に基づく選挙運動費用収支報告書の虚偽記載にあたる可能性がある。

 猪瀬氏の説明などによると、副知事だった昨年11月6日、都知事選出馬に向けたあいさつ回りで、湘南鎌倉総合病院(神奈川県鎌倉市)を訪ね、療養中の虎雄氏と面会。虎雄氏から資金援助を受けることになったという。

 関係者によると、虎雄氏の指示で毅議員が猪瀬氏との折衝窓口となり、同月19日、毅議員が虎雄氏に「猪瀬氏から1億円欲しいと求められた」などと報告。虎雄氏が「とりあえず5千万円」などと毅議員に指示していた。

 猪瀬氏は、徳洲会グループが今年9月17日に公職選挙法違反容疑で特捜部などの強制捜査を受けた後、秘書を通じてグループ側に全額返済したとしている。

 都知事選後に公表された猪瀬氏の選挙運動費用収支報告書には、収入として猪瀬氏自身からの3千万円と、猪瀬氏の関連団体からの50万円の計3050万円しか記載されておらず、借入金の記載もなかった。

 猪瀬氏は昨年11月21日に都知事選への立候補を正式に表明。12月16日投開票の都知事選では、選挙史上最多の433万8936票を獲得し、初当選を果たした。

オリンピックライバル開催国候補のトルコに対する舌禍事件で物議を醸したかと思ったら、何とか東京オリンピック招致に成功した。しかし、それはあくまでそれぞれ経済危機・反政府運動等不安定要素が目立ったスペインとそのトルコゆえの消去法に過ぎず、原発汚染水問題等の日本自身の不安定要素は未解決のまま。だから私は招致が決まっても全然嬉しくも何ともなかったし、また2020年までに知事を務められる完全な保証はなかったのですが、もうこれでは「私は知りません。」とかでは済まないでしょう。いくら石原氏との絡み等情状酌量の余地もあったとしても。

徳田虎雄氏も、近年の姿等NHKの夜7時のニュースで映されていましたが、wikiに書いてある経歴も見て「そこまで権力の座に固執したいのかなあ。」とも。彼は彼なりにいくらかは医療などにかける信念もあったようで、この徳洲会に限った事ではないのでしょうが、政治権力等とズブズブな関係になりすぎてしまった。某幹事長も山本太郎氏にはドヤ顔で批判していたのに、この猪瀬氏には何だかハギレの悪さを隠せないようですね。自民党でも何人も資金提供を受けていた人もいるでしょう。しかし、その自民党が結局一番マトモな政党ですものね・・・・・・・・秘密保護法案なんて反対している連中は皆反日的思考回路の持ち主ばっかだもの。もっともっと悪質な人権擁護法案の事は全く棚に上げて。話は少しそれるけど、これでは野党の連中にも安易に議席を増やさせる事なんて出来ない。

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百人一首の歌人達-97番権中納言定家

飛鳥時代~鎌倉時代前期までの主な歌人達の歌を集めた歌集に「小倉百人一首」がありますが、近年これを題材としたアニメまでついに制作・放送されました。自分なりに拙いながらも語っていければとふと思いましたが、トップバッターはやはり撰者である藤原定家を先に挙げねばならないでしょう。

http://www.anime-utakoi.jp/#chart

そのアニメ版では出家した時点ですでに70過ぎの老人だったはずが、梶裕貴氏ボイスの金髪のイケメン若者となっていましたが、実際残されている肖像画はこれです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Teika(3).jpg

その人となりはプライドが高く苛烈な性格で、若い頃は村上源氏の流れであった源雅行にからかわれたのにブチ切れて乱闘騒ぎを起こした事もあったらしいですが、いかにも歌聖らしい優雅な雰囲気が感じられる、この肖像画での風貌からはそんな人には見えません。ただ、平安貴族って結構血の気の多い乱暴者が多く、三条天皇皇子の敦明親王や藤原道雅等はもっとエグいエピソードを残しているだけに定家はまだこの程度なら「若気の至り」で済みそうと言うか、可愛いレベルだったかもしれません。まあ「若気の至り」と言っても、歳を重ねてもこうした苛烈な性格は変わらなかったようで、後鳥羽上皇との確執も抱えていたらしいですが・・・・・・・

優雅さと苛烈さと、苦労ゆえに息子の出世にもなりふり構わずになりそうだった飽くなき亡者さ。いくつもの異なった顔を持つのも定家の魅力だとも思いますが、現在彼の子孫はどうなっているのか。4つの家が残っていたようですが、上冷泉家は婿養子として跡を継いだ現当主の人はそれほどの家柄の人ではないらしいですが、娘さんしかいないらしいです。また入婿でも迎えるのでしょう。このままでは。下冷泉家は残念ながら9世紀末に醍醐天皇の外祖父となった藤原高藤の血筋となっています。具体的な系譜は以下の通りです。

中臣鎌足‐藤原不比等‐房前-(2代略)‐冬嗣‐良門‐高藤‐(3代略)‐宣孝(紫式部夫)‐(10代略)‐坊城定俊‐(8代略)‐勧修寺治豊‐坊城俊昌‐(5代略)‐勧修寺経逸‐為起‐為行‐為柔‐為勇‐為安‐為弘(1941年生)

藤谷家も阪神淡路大震災で最後の当主がお亡くなりになられたのに伴って断絶してしまったらしく、入江家は俊久氏までは彼自身が婿養子として入りながらも定家の血を受け継いでいる事を確認できましたが、その次で現当主と思われる彰氏が俊久氏の実子であるかどうかまでは確認できませんでした。しかし、女系だったら定家の子孫は現在ももっといるかもしれません。

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2013/11/17

経済が好転しないロシアのモルドバとの確執及び統一教科書

http://sankei.jp.msn.com/world/news/131117/erp13111712000001-n1.htm

露からの離脱 強まる圧力 モルドバ ガス供給新たなルート確保へ

2013.11.17 12:00 (1/5ページ)鼓動

 

モルドバ西部ウンゲニのワイン製造工場で、商品にラベルを貼る女性従業員。モルドバ産ワインはロシアの禁輸措置が続いている(佐々木正明 撮影)

 

 欧州か、ロシアか-。旧ソ連邦のモルドバが将来の国のあり方をめぐり、揺れている。現政権は今月末に開かれる東方パートナーシップ首脳会議で、欧州連合(EU)との結びつきを深化させる協定の締結を目指す。実現すればこの国を長らく影響下に置いたロシア(ソ連)の地域圏から離脱、欧州への統合に大きく前進するが、対するロシアはモルドバへの圧力を強めている。(キシニョフ 佐々木正明、写真も)

 ソ連時代からドナウ川の支流を境界にして国境検問所が置かれてきたモルドバ西部ウンゲニ。人口約4万人のこの街が今、ロシアとEUが勢力圏を争う場所として脚光を浴びている。

 モルドバの独立記念日にあたる8月27日、郊外で同国のリャンカ首相、ルーマニアのポンタ首相、EUの執行機関・欧州委員会のエッティンガー委員(ドイツ出身、エネルギー担当)が出席し、モルドバ・ルーマニア間に敷設される天然ガスのパイプラインの着工式典が開催された。

 総工費2800万ユーロ(約37億円)。EUはうち4分の1を拠出する。パイプラインは来年末までに完成予定で、将来的にはモルドバの総需要の3分の1のガス供給が可能になるという。

 さらにパイプラインはウンゲニ止まりで、苦しい財政事情から、国内にガス網を敷設する余裕はない。このため、カブルク氏は「少なくとも、モルドバのガス事情は今後10年は変わらないだろう」と予測する。

 

 露政府は、モルドバの主要輸出品のワインも「圧力カード」(外交筋)として用いた。パイプライン式典の数日後、「衛生面に問題がある」としてモルドバ産ワインの輸入を全面禁止する措置を発表したのだ。

 

 ウンゲニでワイン会社を経営するショーバ社長(59)は「大きな打撃だ」と語り、すでに他社が工場閉鎖や人員削減に追い込まれていると明かす。

 

 その上で、「ロシアのワイン市場に代わる有望な販売先を見つけることは容易ではない」と訴える。

 

 こうした結果、EUと旧ソ連諸国が関係緊密化について協議する東方パートナーシップ首脳会議が今月末、リトアニアで開かれるのを前に、「モルドバは引き続きロシア圏にとどまるべきだ」と主張する現状維持派が活発なロビー活動を展開するようになっている。

 では、モルドバ国民はどう考えているのか。世論調査によると、半分以上がEUへの加盟を望んでいるという。それには訳がある。

1980年代、チャウシェスク政権下のルーマニアは困窮を極め、ルーマニア国民が食料や生活用品を求めてモルドバにやってきた。しかし90年代に入るとルーマニアはめざましい発展をとげ、モルドバとの経済格差は開く一方となった。ウンゲニ市民も対岸にあるルーマニアの大都市ヤシに買い物へ出かける。人の流れは完全に逆転した。

 歴史的に、両国は統一国家だった時期があり、言語もほぼ同じ。2007年にEUに加盟した富める隣国、ルーマニアの影響は無視できないのだ。

 

 ウンゲニでは、パリのエッフェル塔を設計したギュスターブ・エッフェル氏が19世紀末に手掛けた橋梁(きょうりょう)が、ルーマニア側へと渡る鉄道橋として今でも使われている。「欧州への統合はモルドバが成長するための唯一の選択肢だ」と話す統合推進派のアンブロス・ウンゲニ市長は、この歴史的建造物を世界へ積極的にPRしようと考えている。

 

 「エッフェル橋は、EUとわが国を結ぶ架け橋になるはずだ」。市長の夢は、今後のモルドバの選択いかんに懸かっている

モルドバのユリエ・リャンカ首相(50)が首都キシニョフでインタビューに応じた。

 -欧州への統合をなぜ目指すのか

 

 「統合は、わが国に信頼できる政治制度や繁栄をもたらすだけでなく、地域の安定や安全にも貢献する」

 

-東方パートナーシップ首脳会議へどう臨むのか

 

 「(EU加盟の前段となる)連合協定や包括的自由貿易協定に仮署名し、1年以内に正式署名を行う。協定締結は、わが国の東側のパートナーにも恩恵をもたらす。反露政策ではない」

 

 -ルーマニアとのガスパイプライン敷設について

 

 「私たちの究極の目標は、欧州のガス供給システムに統合されることだ」

 

 -ロシアのワイン輸入禁止措置の行方は

 

 「ロシアへはモルドバのワインの約3割を輸出しており、この市場を失いたくない。再開に向けて全力で努力しているところだ」

 

モルドバ 旧ソ連邦から1991年に独立。面積は日本の九州とほぼ同じ約3万3800平方キロ。人口約360万人。1人当たり国民総所得は約1980ドル。モルドバ人が約8割を占めるが、90年に、ドニエストル地域のロシア系住民が分離独立を宣言し武力紛争に発展。停戦状態にある現在も同地域にモルドバ政府の実効支配は及んでいない。

モルドバもバルト三国同様ロシア人問題等複雑な歴史を抱えているようですが・・・・・・・・流石に2010年以降はプラス経済成長には再び転じても、石油や天然ガス等不安定なエネルギー依存は変わらず。成長率自体も今年は1%台見込みとプーチンが予定通り大統領に返り咲いても何か国内の諸問題等解決されているわけでもありません。それなのに、引用記事中の副首相の弁なんてまさにならず者の恫喝だけど、弱いものいじめもして、必死に虚勢張って強がっているみたいで滑稽ですよね。

本当にこういう事やっている国をロシア人って愛せるのかなあですが、こういう話題も目にしました。

http://www.iza.ne.jp/kiji/world/news/131030/wor13103012450024-n1.html

ロシア、暗部伏せ“愛国史観” 「統一歴史教科書」指導要領提出へ

     【モスクワ=遠藤良介】ロシアのプーチン政権が学校で使われる歴史教科書の統一に動いており、その基礎となる指導要領が近くまとまる見通しとなった。政権が教科書向けの統一史観を打ち出すのはソ連崩壊後初めてで、自国の歴史に対する「誇り」や「愛国心」を根付かせて国民の団結を促す狙いがある。ただ、ソ連時代の「負の側面」は矮小(わいしょう)化される方向で、第二次世界大戦をめぐる歴史認識は日露関係にも微妙な影響を与えそうだ。

     プーチン大統領は2月に統一教科書を策定する方針を示し、歴史専門家らが指導要領について議論してきた。29日付の露有力紙、独立新聞によると要領は調整を経て11月1日に大統領に提出される予定だ。

    一体感を創出

     ソ連崩壊後のロシアでは教育現場が混乱し、今年は65種類もの歴史教科書が使われている。プーチン氏はこの状況が多民族国家にふさわしくないとし、統一教科書は「さまざまな民族や文化が一つになってロシア史が形成されたこと」を示すべきだと述べてきた。

     ソ連崩壊後のロシアは共産主義に代わって国民を束ねる理念を打ち出せず、民族間の関係も悪化している。プーチン政権は、ソ連時代の工業化や大祖国戦争(第二次大戦の独ソ戦)での戦勝、宇宙開発といった歴史の側面を強調し、国民の一体感を創出したい考えとみられる。

    少数民族反発

     一方で、こうした姿勢は、ソ連の独裁者スターリンの統治下での膨大な人的犠牲など、歴史の暗部から目をそらせる結果になりかねないとの懸念も呼んでいる。

     9月27日公表の指導要領案(改訂版)はスターリン期の1930年代について、「近代化が生活のあらゆる面に及んだ」などと記述。だが、37~38年だけで約70万人が銃殺された大粛清の犠牲者数には触れていない。独立新聞によれば、30年代前半の農業集団化などに伴う300万~600万人の犠牲者数も最終的に削除される恐れがある。

    北方領土「クリール諸島解放」正当化

     同要領案は北方領土問題に直接言及してはいないが、45年8月9日の対日参戦については「同盟国に対する責務」と正当化。同月15日に日本軍が降伏した事実は取り上げず、「満州での作戦で関東軍を粉砕」「クリール諸島(千島列島と北方四島)を解放」などと記している。

     指導要領案には一部の少数民族から反発が出てもおり、統一教科書の編集までにはしばらく時間がかかる可能性もある。

    そもそも確かマルクス主義では共産主義への昇華は資本主義の高度な発達が前提だったと思いますが、帝政ロシアは最後まで後進性を克服できませんでした。高校の世界史の某資料集にも主要国一人あたり国民所得が載っていましたが、ロシアはイギリスの25%、ドイツの34%に過ぎませんでした。そしてロシア革命からソ連となったのですが、記事内の「歴史の側面」にしたって、工業化にあたって勿論例えばわが国では女工哀史等労働者の酷使は日常的に行われていましたが、超大国となっていったその裏での犠牲だって他の先進国には例にない天文学的なものだったのです。そして最終的には軍事や宇宙開発等国のメンツに関わる所には力を入れまくったけど、それよりもっともっと大切な国民の生活を大切にしなかったから冷戦の敗者になって、特に90年代は経済のハイパーインフレ等散々苦しんできたわけじゃない。だから大切なのは、そういうソ連、いやもっと正確にはそのソ連を被実験国家としたマルクス・レーニン主義の失敗点を教訓として、豊富な資源も活かせる技術も身につける等欧米とも肩を並べられる「真の富める強国」としていく事だと思います。しかし、要するに歴史というものはなるべく良い点悪い点両方から公正に見るべきであると改めて思いますが、この教科書が採用されるようでは、特亜三国と変わらないじゃんと言うか、やはりそれは馬の耳に念仏というものなのですかね。モルドバの国の人達から見れば、極東の国の取るに足らない凡人に過ぎませんが、微力ながらも未来の幸福を願います。

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    牛丼チェーン店の試行錯誤等

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131117-00000000-jct-bus_all

    儲からなくなった牛丼チェーン 低価格競争が首を絞め、多角化に活路

    J-CASTニュース 11月17日(日)10時0分配信   

    儲からなくなった牛丼チェーン 低価格競争が首を絞め、多角化に活路

    「牛丼」は儲からない?

     「牛丼」が儲からなくなっている。2013年4月に、「吉野家」が並盛280円に値下げして、チェーン店大手3社の価格は横並びになったが、客足が伸び悩んでいるうえ、コメや牛肉などの原材料費の高止まりで採算が悪化した。

     「すき家」を展開するゼンショーホールディングス(HD)と吉野家ホールディングス(HD)の中間決算は、本業のもうけを示す営業利益で大幅な減益となった。

    ■コメ、牛肉、電気代… 原材料費の高止まり響く

     低価格競争を繰り広げるなかで集客力を高め、増収を続けてきた牛丼チェーン店に、かつての勢いはもう残っていないようだ。

     「すき家」などを展開するゼンショーHDが11月12日に発表した2013年9月中間連結決算(4~9月期)は、営業利益が前年同期比51.3%減の43億円、最終利益が87.3%減の4億円となった。

     牛丼チェーン(すき家となか卯)の売上高は1.3%減の901億円。既存店ベースの売上高は、9月までに25か月連続で前年を下回っている。客数の減少は著しく、4~9月期は7.6%も減少した。客単価も落ち込んだ。

     吉野家HDの中間連結決算(2~8月期)は、営業利益が52.1%減の7億円、最終利益も28.7%減の2億円となり、ともに中間決算では2期連続のマイナスとなった。売上高は6.9%増の867億円だった。

     主力の「吉野家」は、4月に牛丼(並盛)を280円に値下げしたが、「期待ほど、客数も増えなかった」(河村泰貴社長)。20%程度を見込んでいた客足の伸びも既存店で13.5%にとどまった。売上高では6.7%増の467億円と増収を確保したものの、利益は27.5%減の4億円と不振だった。原材料高に加え、値下げに伴い広告宣伝費が約15億円と4割増えたことで、増収効果を打ち消してしまった。

     値下げによる集客効果も薄れてきた。

     松屋フーズの最終利益は54.9%増の1億7900万円。増収増益だったが、緑川源治社長は「出店抑制による収益改善」と分析している。4~9月期の既存店売上高は4.5%減。9月まで18か月連続で前年を下回っている。客単価は増えたが、客数は5.6%減った。

     厳しい決算の背景には、原材料費が高止まりするなかでも、低価格競争を維持しなければならないことがある。これまでのような新規出店による増収効果も期待できなくなっており、大手3社とも出店ペースを落としている。

     松屋フーズの緑川社長は、牛丼の価格について「並盛りなら340~350円が適正価格。もう余力はない」という。

    牛丼、再び値下げ競争に突入か?

     そうした中で、ゼンショーHDは2013年11月15日から5日間、「すき家」で「秋の新米250円セール」を開催する。国産新米コシヒカリを使った牛丼(並盛)を250円で提供。「ねぎ玉牛丼」などのトッピング牛丼も一律30円引きで販売する。

     期間限定の値引きは7か月ぶり。値引きセールは牛肉やコメなどの原材料価格の高止まりもあって、4月以降は見送っていた。牛丼(並盛)は大手3社が280円で横並びしているが、250円にすることで、再び「安さ」で集客力を高める。

     「牛丼」をテコ入れする一方で、ゼンショーHDはスーパーの買収に積極的。北海道の直営農場で牛の飼育や農産物の栽培にも乗り出し、原材料の調達から製造・物流・小売りまで一貫したサプライチェーン(供給網)つくりに力を入れ、総合的なフード企業への脱皮が目標とされる。スーパーも牛丼チェーン店も、消費者との接点の一つというわけだ。

     また、吉野家HDは2013年3~8月期に、うどんの利益が牛丼を初めて上回った。客足が好調なうどん店「はなまる」の利益は前年同期比で約2倍の6億円。小麦粉など材料コストは増えたものの、女性客を想定したサラダうどんなど単価の高い商品の売り上げが伸びたことが奏功した。20か店を新規出店し、売上高は92億円と15.8%も増えた。

     いずれも、多角化に活路を見出そうとしている。

    過去ログでも少し触れましたが、すき家の牛丼は昔(1990年代前半頃)の方が美味しかったです。近年も数回食べる機会がありましたが、普通の牛丼も、チーズ牛丼とか他の牛丼も思った程の味ではなかったです。同じゼンショーHDのなか卵は牛衣笠丼とか美味しそうで、石岡の6号沿いにありますが、食べた事はないです。距離にして20キロ以上あるし。

    吉野家も、もう10年近く食べに行ってないですね。そば処も茨城県内では茨城町だけとさらに遠いからこれからも行くことはまずないかなあと。松屋もビビン丼と牛めし唐揚げのコンボ、カルビ焼牛めしはまずまず以上だけど、それ以外はまあすき家同様です。定食も600円前後も払ってまで食べたいとは正直思えないです。あとは東京チカラめしもどうなんですかね。この牛丼屋も、一番近くても店舗は柏とこれまた遠いです。この記事で書かれている事以外にも、松屋は一時その定食一部メニューを肉の量を増やして値段はそのままなサービスもやってましたが、まあ大きい効果はないかもね。いずれにせよ、値段よりも質やサービスを充実させないと厳しいでしょうね。

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    2013/11/16

    明光商会(MSシュレッダー)CM

    http://www.youtube.com/watch?v=yrVVWHeY2kI

    「シャララララ、シャラララーン♪エムエッースシュレッダーーーー♪」の明光商会MSシュレッダーのCM、「あっ、聞いた事あるな。」と思われた方も多いのでは?上記you tube内にアップされているCMの動画は、ナレーションはおそらく柴田秀勝氏でしょうが、これは見た事なかったCMです。

    http://www.nicovideo.jp/watch/sm6743902?ref=search_key_video

    印象に残ったバージョンのCMと言えば、これです。これ何げに好きなCMでした。最近は見ないと思ったら、CM制作自体はしているらしいですが・・・・・・・

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    井上真央2015年大河主役に内定

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131116-00000009-nksports-ent

    井上真央が再来年のNHK大河に主演

    日刊スポーツ 11月16日(土)6時46分配信   

     女優井上真央(26)が、再来年15年に放送されるNHK大河ドラマの主演に内定したことが15日、分かった。

     演じるのは、江戸幕末の長州藩士、吉田松陰の妹。現在放送中の綾瀬はるか(28)と同じく、幕末・明治維新の女傑となった。

     井上は11年に放送されたNHK朝の連続テレビ小説「おひさま」でヒロインを演じ、同年大みそかのNHK紅白歌合戦では紅組司会を務めていた。

    集英社「世界の伝記」NEXTでも、ついに今年の大河主人公、新島八重が主人公の1人(近代日本の元祖スタンドプレーヤーな与謝野晶子も取り上げられたけど、選定ミスなのでは・・・・・・・・)として取り上げられましたが、来年の主人公が黒田官兵衛で、それなりのメジャー人物かと思いきや・・・・・・・・

    自民党のアイドルな次男への後押しもあって、わかりやすく必死な反原発パフォーマンスをしている、「どこかの誰かさん」も好きな吉田松陰で普通に良いじゃんですよね。1年以上放送するには新島八重以上にキツイんじゃないの?それとも何かね?またみたいに、「何が何でもドヤ顔主張する女=強く美しい女」とでも必死こいてアピールしたいのですかね?アレの脚本は実は担当者本人ではなく、そのお兄さんに書かせていた疑惑もあるけど、脚本がひどすぎましたもんね。

    いずれにせよ、主人公の選定からして筋が通らない2015年の大河ですね。段々主人公が小粒になってきているというか、もういい加減無理に続けることないのにです。だからと言って、代わりに反日偏向番組とか流されても困りますが。受信料払っているのだから余計。

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    2013/11/04

    今注目のあの人、今度はカレーも振舞う

    http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/oricon-20131104-oric2030434/1.htm

    壇蜜、大久保佳代子との確執報道に言及「程よい距離感」

     

     グラビアタレントの壇蜜が4日、東京・港区の増上寺で行われたイベントに出席し、番組共演しているオアシズの大久保佳代子との確執が一部メディアで報じられたことに言及した。壇蜜は「テレビに出始めて1年になるので、至らないことがあるかもしれない。大久保さんに限らず、確執がないとは言い切れない」と言いつつも「女子校のクラスメイトのような、程よい距離感を保ってます」と二人の関係性を語った。

     壇蜜と大久保は現在、テレビ朝日系バラエティー番組『だんくぼ・彩』で共演。なかなかスケジュールの予定を出さない壇蜜に対し、大久保が怒り心頭であると一部で報じられた。壇蜜は「大久保さんは優しい方で、常識を重んじる方なので、声を荒らげることはないと思う。それは違うなと思いました」と報道に疑問符を投げかけた。

     お互いに電話番号やメールアドレスを交換しておらず、大久保とは今回の報道について話していないというが「いい距離感」を強調。さらに「本番のネタとして、大切に使わせていただきます。報道に感謝しています」とうっすら笑みを浮かべ、番組存続については「それはテレ朝の“コレ”頼み」と親指と人差指で“円”マークを作って笑いを誘っていた。

     この日の壇蜜は、増上寺で行われた文化放送『吉田照美 飛べ!サルバドール』公開生放送にゲスト出演。出演後は隣接する特設テントでお手製カレーを100食限定で観客に振る舞った。
    何故か(?)ブレイクしちゃった壇蜜氏ですが、昨今の注目株ですよね。アサヒカメラという雑誌にもヌードグラビアが載ってましたが、何か独特の背徳な雰囲気を持っています。まあ彼女のヌード目当てにこれを買うぐらいなら、googleで画像検索して、エロ画像を探した方が良いと思いますが。(苦笑)と言うか、実際自分もそうして、その時アレがモザイク表示されていた画像まで見つけちゃったけど、経歴見ると、ジョジョ7部のスティール氏等ほどではないにせよ、やはり結構異色だったんですね。どうりでカレーも手軽に振る舞えたわけだ。さあ彼女のブーム、果たしていつまで続く?

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    天皇家の傍流からの皇位継承の歴史その3

    (6)権威の弱かった後光厳系の危機、そして崇光系の復活及び後南朝との決着中編(室町時代)

    このシリーズ最終回です。話は前後しますが、義満細川頼之の補佐も得て、南北朝動乱を終息に導いていく事となりますが、既に尊氏期末期に(他の2上皇と共に)京に帰還していた崇光上皇が栄仁親王への皇位継承を要求しましたが、そもそも彼ら3上皇の拉致は幕府の失策のせいで、幕府の権威低下にも繋がりかねず、寧ろ朝廷を取り込んで幕府も権威を高めていかなければいけないからそれは無理な要求というものでした。こうして後光厳→後円融→後小松と皇位継承がなされていって、その間に南北朝合一が実現、その時点ではまだ後小松皇子の躬仁親王は誕生していませんが、崇光上皇が後光厳系の皇位継承を見届ける事になったのは皮肉なもので、その1で登場した、450年前の陽成上皇と重なり合うものがあります。wikiでは上皇歴1位が陽成(65年)で、2位が冷泉(42年)と書かれているけど、3位はおそらく41年のこの崇光上皇でしょう。(1392年(明徳3年)出家して法皇となる。)

    ただ南北朝合一を果たして、神器が返還されても足利義満という怪物の手中にあり、後円融が抵抗しようとして却って全く裏目に出てしまった事もあって、後光厳系の天皇達はついに「権威の弱さ」というコンプレックスを克服する事が出来ませんでした。だから彼らは余計自分達の正当性を示すことに必死でした。

    それはにも表れています。後光厳は、南北朝分裂前の最後の持明院統の天皇(やはり歴代からは除外されてしまったが)だった光厳天皇の正当な皇位継承者である事をしめすだったし、後円融は、その2でものべた通り、禎子内親王という冷泉系女性皇族も介しましたが、結果的に自らの男性直系子孫のみへの皇位継承に成功し、花山天皇の退位や道隆・道長ら自分の息子達への露骨な昇進人事等強引だった時の権力者・藤原兼家にも抵抗していた円融天皇を明らかに意識していた故だった。(共に30代前半で早世した点も共通している。)そして後小松は、wikiでも書かれていますが、本来一傍流親王として平穏な一生を終えるはずだったのが、藤原基経の思惑もあって、自らが気に入っていた源定省(宇多天皇)及びその子孫への皇位継承に成功した、小松帝との異称もあった光孝天皇を意識していた故でした。

    しかし、それでも払拭しきれなかったようで、肖像画を見ると、後光厳は品の良さは感じられるけど、どこか弱々しさも感じられるし、後円融も、義満との確執で疲れ果ててしまっていたのか、どこか精気を吸い取られたかのような風貌、後小松は祖父や父と比べれると堂々とした風貌ですが、彼にしたって、義満がいなくなった後も本来彼同様臣下であるはずの義持に対しても「室町殿様」と呼ぶ有様。故・石ノ森章太郎氏のマンガ「日本の歴史」では義持死後の報復っぷりも描かれていましたが、三条厳子に重傷を負わせた後円融ほどではないにせよ、子供じみていた感も否めません。

    (7)権威の弱かった後光厳系の危機、そして崇光系の復活及び後南朝との決着後編(室町時代)

    そして後小松の皇子、称光天皇と小川宮です。一説には一休宗純も皇子と言われているようで、wikiでも彼らのエピソードは書かれていますが、いずれも祖父・後円融の神経質な性格を受け継いでしまったようで、祖父以上の問題行動が目立ちました。彼らはまた、いずれも男子が出来ず、40代に入ってやっと元服した、崇光上皇孫の伏見宮貞成親王が次期天皇候補になるや、称光は過剰に拒否反応を示して、後小松との確執が悪化、貞成親王はとばっちりを受けて出家を余儀なくされました。ここらへんも、自分が独身で後継もいないのに祖母が藤原氏だった父・聖武上皇よりも血筋が高貴だった舎人親王(母親が天智皇女)の息子だった淡路廃帝(淳仁天皇)を追放した称徳天皇と重なり合うものもあります。実際弟だった後光厳の皇統は称光で絶え、兄だった崇光の皇統に戻ったのも、天武(持統・草壁)皇統VS天智皇統の決着に重なり合うものがありましたが、称徳天皇と光仁天皇から1文字ずつ取った称光の諡もそうした皇統の移り変わりを強調して示したものです。いくら旧南朝勢力が「持明院統の嫡流が絶えたのだから、俺ら大覚寺統が皇位を継承すべき。」と主張しても、かっての南朝が後光厳系天皇を偽主と罵倒していたのとも矛盾していたというか、詭弁でこの崇光系こそが本来の持明院統の嫡流なのです。それでもまだ存命だった後小松上皇は、親王にならないまま践祚・即位した貞成親王第一皇子彦仁王(後花園天皇)を自分の養子とし、形式的には後光厳系の皇統は続くものとし、貞成親王が後高倉院の先例にならって大上天皇宣下を受ける事には否定的だったようですが、結局追尊されました。

    そして践祚時にはまだ9歳の少年だった後花園は、後光厳系天皇が克服できなかった天皇の権威の弱さを克服し、後南朝勢力との決着もこの天皇の時にほぼつきます。永享の乱等では朝敵退治を命ずる治罰綸旨を出しましたが、これは義満・義持の時には考えられませんでした。特に明徳の乱の時には義満は「足利将軍家の臣下を懲らしめるのにそんな朝廷のお伺いを一々立てる必要なんてない。」と言っていたほどでしたが、エライ違いでした。幕府6代将軍足利義教は確かに井沢元彦氏が評価するどおり、鎌倉府及び九州の統治では義満以上の強権(特に九州では南北朝合一後も南朝側の元中年号使用が見られたほどだった。)を発動して成功したし、後南朝勢力もすっかりなりを潜めた。実は義教期終末期は室町幕府の全国支配の完成度が最も高かった時期でした。

    しかし、方向性自体は間違ってなくても、そのやり方はいささか性急的だったし、将軍個人の権力は歴代最強でも、幕府の権威は朝廷・天皇の権威と反比例するかのように低下してしまった弱点がその中に内包されていました。だから油断してしまったのか、赤松満祐の屋敷に乗り込んで暗殺されてしまった(嘉吉の変)事で、再び幕府は動揺していく事となります。

    天皇・朝廷も、禁闕の変も起こり、神器の一部が奪われてしまいましたが、その一方で第一皇子には父と自分から1文字ずつ名をとって成仁(後土御門天皇)と名づけ、弟の貞常王への親王宣下、前述の父・貞成親王への太上天皇宣下が行われたし、後南朝への牽制として、本来の大覚寺統嫡流だった、後二条天皇直系子孫の木寺宮への親王宣下と、大覚寺統の祖だった亀山法皇が皇位継承をさせたがっていた恒明親王直系子孫の常磐井宮への親王宣下も行いました。その間残念ながら貞成親王は見る事なく薨去しましたが、神器も赤松氏の旧家臣により奪還されました。義勝・義成と、一時は将軍職そのものが空位となっていましたが、幼少の将軍が相次ぎ、義成が義政へと改名もして、再興されたはずの関東公方と上杉氏の対立等関東の動乱やその他守護大名の家督争いに積極的に介入・解決しようと試みるも、結局自分の思い通りにならないとみるややんなっちゃって風流の道にのめり込むようになってしまった幕府権力・権威の低下とは対照的でした。ついには長禄・寛正の大飢饉の最中でも遊んでばかりいた義政は、後花園に漢詩で諫められてしまったほどでしたが、後花園天皇はまことに中世の朝廷に輝いた英明な君主だったと改めて認識させられます。

    しかし、そんな英明な君主の諌めも義政には馬の耳に念仏でした。優柔不断ゆえにその南北朝動乱の元凶となってしまった後嵯峨上皇の要求による後深草天皇から亀山天皇への譲位からもう200年経って、やっと後南朝の復興運動は殆どなりを潜める事となりましたが、その矢先に今度は義政の無責任さゆえの将軍家跡取り問題に斯波氏や畠山氏等有力大名の家督争い等も絡んで、泥沼の応仁の乱を招く事になってしまったのです。天皇の権威も、ロクに即位式や葬式が出来なかったりと再び低下していくと思いきや、江戸時代の後水尾天皇までずっと直系への皇位継承が行われていく事となりました。(正確には、織田信長が本能寺の変で倒れた後に漸く正親町天皇が譲位しようとしたら、誠仁親王が父天皇よりも先に薨去してしまったのですが。)また大内義隆や毛利元就等戦国大名から献金を受ける見返りに官位を上げる等戦国大名達の領国化に正当性を与える等の役割もあったので、単純にそうだったとも言い切れなかったでしょう。特に後奈良天皇は一時献金を突き返す事もしていたと言うし、正親町も信長・秀吉とお互いうまく利用し合っていた等なかなかしたたかだったようです。これは父の元で長く皇太子を努め、41歳で漸く即位、その後も健康でこの時代としては比較的長寿を保ったこともあったのでしょう。

    (8)閑院宮からの皇位継承と最後の女帝のサポート(江戸時代)

    そして時代は天下泰平の江戸時代となり、前期には後水尾天皇と霊元天皇という、現在でも歴代トップ10に入る長生き天皇が出てきました。禁中並公家諸法度で幕府からがんらじめにされていた中でも院政をしいていたのですが、その後は短命の天皇(ただ、中御門天皇は即位したのが7歳の時だった事もあって、在位年数26年は比較的長い方)が続き、2013年現在で最後の女帝である後桜町天皇をはさんだ後、後桃園天皇の崩御でついに中御門系の皇統が断絶します。中御門の弟で、閑院宮を創設した直仁親王孫の光格天皇が即位し、後桃園の忘れ形見である欣子内親王と結婚しますが、残念ながら成人した皇子はおらず、平安時代後期の円融・冷泉両皇統のような融合はなりませんでした。

    光格即位時は父の典仁親王は存命で、後高倉院や後崇光院(貞成親王)の例にならい、大上天皇宣下を行おうとしましたが、その結果(尊号一件)は周知の通りです。この時の幕府将軍は徳川家斉で、その在職年数は50年という破格の長さ。wikiでも書かれていたどおり、本来右大臣相当だった現職の征夷大将軍としては史上初の太政大臣兼務となったのも、将軍就任40周年を記念した特例だったらしいですが、当時天皇も在位年数が信頼できる歴代では40年以上在位した例はなかったのです。とは言え、この光格天皇もそれにもう少しだった在位38年を記録し、江戸時代以前では歴代最長でした。この2人、生没年も似ていたのならば、嫡流が途絶え、傍流の身から登板し、それぞれ父に大御所・上皇待遇しようとして失敗した所まで似ています。そして止めた後もいずれも一定以上の影響力を残しましたが、家斉の場合は幕府という組織自体の硬直化が在職後半以降目立つようになり、子女たちを活用した大名統制も成功したと言えたかは微妙、光格天皇の場合は典仁親王の追尊には失敗したものの、朝廷の権威高揚に色々務めた等やや明暗が別れました。結果2人とも亡くなった時、黒船来航はもう間も無くの事だったのであり、幕末動乱から明治維新となりました。そして典仁親王も維新時に追尊されたのです。

    以上であり、現在の皇室は2006年(平成18年)9月の悠仁親王誕生で、父の秋篠宮文仁親王以来41年ぶりの跡継ぎが登場しましたが、もし万が一の事があったら、旧皇族復帰が一番現実的かもしれません。特に東久邇家は現当主の信彦氏は祖母が明治天皇皇女、母が昭和天皇皇女と皇室との血のつながりが最も濃いのです。その次が、明治天皇玄孫でもある恒泰氏が在特会を「(在日特権の暴露等)いい事もした。」とコメントした(これについては私も異論はないです。)のも話題になりましたが、竹田家です。しかし、共通の男性先祖である貞成親王はもう約600年も前の人物です。(真偽はともかくとして)応神天皇と継体天皇以上に世代が離れています。だから、もしそうなったら、もう事実上の王朝交代となってしまうかもしれません。

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    2013/11/03

    亀梨和也も裸になって何が悪い?

    http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/rl-20131102-17932/1.htm

    KAT-TUNの亀梨の細マッチョな裸が日テレを救う!

     

     

    2013年11月2日(土)20時59分配信 リアルライブ

     

     

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     KAT-TUNの亀梨和也が主演しているドラマ「東京バンドワゴン~下町大家族物語」が低視聴率にあえいでいるが、視聴率アップの必殺技を解禁するというのだ。

     初回から視聴率一ケタでスタートしたこのドラマ。下町の大家族を中心にしたホームドラマなのだが、数字は上がってこない。ある日テレ関係者は「共演の玉置浩二が8年ぶりにドラマ出演と話題だったんですが、いかんせん、そこまで玉置に引きがなかったと頭を抱えていますよ」。

     ただ、日テレにはもっと頭を悩ますものがある。「竹内結子の『ダンダリン』ですよ。今クールの日テレ一押しのドラマだったんですが、もはや浮上の目はない。巷ではエロ路線へ変更などといわれてますが、そんなエロ路線を竹内に切り出せる人もいませんよ。もはや手の打ちようがないんです」と同関係者。だったらというのが、数字こそ低いが下げ幅の少ない亀梨へ力をシフトさせようというのだ。

     「亀梨といえば『妖怪人間ベム』で高視聴率たたき出した実績がある。ストーリー展開もそうですが、なんと言ってもちらりと見えた亀梨の裸が高視聴率の要因といわれてましたからね。これを解禁していこうっていうんです」と同関係者。日々の野球で鍛え上げている細マッチョの亀梨ならば、改めて鍛えなおさなくても問題ない。後半にかけて亀梨の裸を挿入していこうということのようだ。

     「なんせ視聴率争いをしているテレビ朝日とは、このクールはドラマで大きく引き離されていますからね。日テレとしてはなんとしても負けられない相手なので、何とかするしかないんですよ」と同関係者。切羽詰った日テレ。亀梨の裸は救世主となるか。
    あーあ、やっと低視聴率男の名を返上できたかなあと思ったら・・・・・・・・・
    川口春奈ちゃんや椎名桔平氏もそうですが、これは本人の努力だけでどうにもなる問題でもない。しかし、安易というか、これで喜ぶのって、ジャニーズファンぐらいでしょ?一時的には視聴率は上がるかもしれないけど、結局余計そっぽを向かれるだけでしょう。亀梨くんご本人に対しても失礼だと言うか、そんな彼の裸で釣るぐらいなら、もっと脚本や演出とかで力を入れてほしいものだが・・・・・・・・妖怪人間ベム自体も面白かったのですがね・・・・・・2013年夏ドラは堺雅人氏主演、半沢直樹の一人勝ちで、他は満島ひかりちゃんのWOMANが良かった程度だったようですが、秋ドラは米倉涼子氏主演、ドクターXの一人勝ちか?

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    2013/11/02

    天皇家の傍流からの皇位継承の歴史その2

    (余談)その後の平安期の皇位継承

    平安時代はその後も藤原氏による他氏排斥からその後の一族間の権力闘争を勝ち抜いた道長による御堂流の摂関職継承を確立するまでの約50年間、冷泉天皇系(冷泉・花山・三条)と円融天皇系(円融・一条・後一条)の皇統が立ちました。これは何が何でも自分の外孫を早く天皇にしたい道長の圧力による三条天皇の退位と皇太子となっていた敦明親王の辞退で円融系に一本化、「この世をば~」の歌通り御堂流による摂関政治は円融系天皇との協調の下永遠に続くかに思われました。そしてその敦明親王の妹だった禎子内親王、彼女も道長の外孫だったのでもし彼女が男だったら、後一条天皇の皇太子となっていたかもしれず、もうしばらく冷泉・円融系の並立が続いていたでしょう。ところが後一条が皇子を設けないまま崩御したので、弟の敦良親王が即位します。後朱雀天皇です。道長から摂関職を譲られた頼通は50年もの長きに渡ってその職を務めたので健康面では幸運だったかもしれませんが、后宮政策の面では曽祖父・師輔、祖父・兼家、そして父・道長のような運に恵まれませんでした。天皇と娘との間に皇子が生まれなかったのです。そんな内に御堂流は主流派(頼通・教通)と反主流派(能信)に分かれてしまい、同母兄の頼宗と違って頼通と協調しなかった能信が後朱雀の皇子だが、藤原氏の外孫ではない尊仁親王(後三条天皇)を春宮大夫として支援してきたのに対し、主流派がそれぞれ自分の息子(師実・信長)への摂関職継承をめぐって確執を抱える(最終的には頼通派の勝利に終わる。)ようになりました。残念ながら能信は大臣就任及び尊仁親王即位目前で亡くなりましたが、冷泉・円融系が融合する形となった後三条天皇の即位は院政に繋がり、実際はその後の白河天皇は上皇になって直ぐ好き放題やれるようになったわけではなかったようですが、皇位継承は比較的安定していました。近衛天皇→後白河天皇の弟から兄、3歳弱で上皇となった六条天皇→高倉天皇の甥から叔父への不自然な皇位継承も見られ、それは平家や院近臣等天皇家を取り巻く周りの有力勢力の思惑がありましたが。

    (4)南北朝動乱の伏線(鎌倉・南北朝時代)

    ところが、「驕る者久しからず。」とはよく言ったもの。源平争乱等を経て、時代は武士の世となっていきます。平家と運命を共にした安徳天皇の代わりに擁立された後鳥羽天皇(上皇)でしたが、源頼朝が開いた鎌倉幕府との間に起こした承久の乱で同母兄だった守貞親王(後高倉院)が即位していない法体姿でありながら、大上天皇号を贈られて、まだ9歳だった皇子の後堀河天皇をサポートします。後高倉院といい、後堀河天皇といい、皇位継承の正当性を示すような諡です。(堀河天皇も、本当は白河の次は弟の実仁親王が皇位を継承するはずだった。)ところが彼ら親子は短命で、後高倉院は承久の乱から2年後に、後堀河も22歳の若さで崩御してしまいます。そして即位した二条天皇もわずか2歳。中国の後漢では生後何日かしか経っていなかった皇帝もいたらしいですが、五十歩百歩レベルです。そして不慮の事故で二条も9歳で崩御します。これで後高倉系の皇位継承者もいなくなりました。

    幸い承久の乱には非協力的だった土御門天皇の皇子に出家していなかった邦仁王がいましたので、彼が即位しました。後の後嵯峨天皇です。4年で後深草天皇に譲位、さらにその弟の亀山天皇に譲位させ、その皇子の世仁親王(後宇多天皇)を皇太子としたのは良かったのですが、亀山の方が気に入ったなら入ったで、亀山系による皇位継承を明言すべきだったのですが、優柔不断故に明言しないまま崩御したのが南北朝動乱として後々実に200年近くも尾を引くこととなってしまったのです。後嵯峨も治天の君として朝廷内では好き勝手やっていたかと思いきや、自分自身が幕府に擁立されて、しかも反対していた臣下までいたのでそれに負い目を感じていたのでしょう。

    なお中宮である西園寺きつ子の母親である四条貞子ですが、彼女って現代のきんさんぎんさん等とも遜色ないほどの長生きでした。1196年(建久7年)生まれ1302年(正安4年)没で、しかも生年について言えばまた、1285年(弘安8年)に盛大な90賀が開かれたとの記録が残っているのでもう確実でしょうが、記録に残る日本人としてはおそらく三世紀にまたがって生きた最初の人だったでしょう。後二条天皇・後醍醐天皇・後伏見天皇等玄孫の顔も見る事が出来たばかりか、娘と婿の後嵯峨が先に亡くなってしまい、持明院統と大覚寺統の対立が深刻になっていく中、それぞれの祖となった孫の後深草と亀山も後を追うように崩御しました。とりあえずは交代で10年程度即位する事となり、当面の問題は先送りにされたかに見えましたが、大覚寺統側の後二条が若くして崩御!!次は持明院統でも傍流の花園天皇が中継ぎとして即位したので、そのまた次は大覚寺統の傍流で、後二条の弟だった後醍醐天皇が即位しました。しかし、この後醍醐自身が強烈な個性の持ち主で、中継ぎである事を良しとしませんでした。表舞台に登場させちゃいけない人を登場させてしまったわけですが、その後も後宇多の院政停止から数回の失敗を経た倒幕、それに協力した武士たちの働きを考慮しなかった建武の新政に対する不満を背景にした室町幕府を開設したのは良かったが、後醍醐を吉野に逃してしまった足利尊氏の詰めの甘さも手伝った南北朝の分裂、そして幕府内の派閥抗争等の観応の擾乱と正平一統、九州での南朝側の強勢と悪い事も尊氏の次の義詮政権前期まで重なってしまった。だから家督や遺産の相続争いも背景にして、弱体だったはずの南朝が意外に長生きしてしまったのです。

    (5)権威の弱かった後光厳系の危機、そして崇光系の復活及び後南朝との決着前編(室町時代)

    この間、神器ばかりか光厳・光明・崇光三上皇まで南朝に拉致されてしまい、後鳥羽天皇を院宣で即位させた後白河法皇の先例も使えなくなりました。しょうがないから幕府が説得して何とか後伏見上皇の女御だった西園寺寧子を治天の君として、孫で崇光の弟だった弥仁親王(後光厳天皇)を即位させましたが、寧子は本来家父長たる男性でもなければ、皇族出身でもなかったので、やはり北朝天皇の権威が弱かったのは否めない。後の1911年(明治44年)に、明治天皇が自分も北朝系でありながら南朝を正統との裁定を下したのも無理なかったでしょう。

    それでも義詮は、南朝との和平工作に失敗、九州対策にもとうとう着手できなかったけど、勢力は温存させながらも大内氏と山名氏を帰属させる事ができたし、斯波氏に対しても細川氏との対立を利用して他守護大名との勢力均衡を図った等二代目としては頑張った方でした。そしてその次の義満は実は後光厳の後の後円融とは従兄弟同士でもあったけど、そんな権威の弱かった後光厳皇統の北朝そのものを自分の権力の手中に収める勢いでした。後円融の数々の反抗(後宮の三条厳子に重傷を負わせた事件等)も却ってその権威を失墜させただけでした。

    後光厳皇統に必要以上の権威を持たせない義満の朝廷対策は、1392年(明徳3年)における南北朝合一後も変わらず、今谷明氏等も主張していますが、自らが皇位簒奪するか、もしくは寵愛していた義嗣を天皇にし、自らは法皇になる計画の可能性はやはりあったかもしれません。残念ながらあと少しという所で義満の野望(?)は、義持の鹿苑院大上天皇尊号辞退等で水泡に帰してしまいましたが、義持も後円融から後小松天皇の在位を経て即位した称光天皇の御名を変えさせる等朝廷に対する態度は変わらなかったようです。それは南朝最後の天皇だった後亀山法皇の吉野出奔事件も背景にあったのでしょうが、義持は後小松から「室町殿様」と呼ばれていたとか。本来義持は臣下の立場の筈なのにそこまで言わせるなんて凄いと言うか、室町幕府は将軍個人の権力という点では義満期が全盛期なのでしょうが、幕府全体の安定度を見れば、義持期も全盛期にあたると見ていいでしょう。しかし・・・・・・・・・・また長くなったので続きは次回にて。

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    天皇家の傍流からの皇位継承の歴史その1

    http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/62394304.html

    園遊会手紙事件もまだ記憶に新しいですが、上記ブログには初代から現在までの天皇家系図が記されています。内神武天皇~今上陛下までの男系つながりを赤線で表示して、これを見て改めて気づいたことは何回か断絶の危機もあり、その度に傍流から皇位継承者が出ていた事です。以下時代ごとに述べます。

    (1)継体天皇と遅れた大和入り(古墳時代)

    継体天皇については本当に応神天皇の子孫だったのか、それとも縁もゆかりもなかった一有力地方豪族にすぎなかったのか等現在もその議論には決着はついていませんが、その前の武烈天皇ですね。享年は18歳・57歳・61歳各説があるどころか、実在すら疑われていますが、実は武烈は漸く継体が大和入りした526年(継体天皇20年)まで生きていたのではないかと思います。これで享年数え年57歳なら、生まれたのが470年で、父・仁賢天皇の生年、449年と辻褄が合います。実際継体の次の安閑天皇は、初めての生前譲位を受けたとの記事が残っていますが、それは継体からではなく、武烈から譲位されたのだと主張している人もいるようです。しかし、実は武烈以前は特定の血筋に王位継承とかこだわっていなかったのではという説もあるのです。実際日本書紀によれば、継体登場の50~90年前に在位していた允恭天皇の異称に雄朝津間稚子宿禰尊とあります。宿禰は後の天武朝における八色の姓では真人、朝臣に次ぐ3番目の姓で天皇らしくない異称(もしかしたら生母の実家が宿禰身分の豪族だったのかもしれませんが。実際また、「日本書紀」では兄の履中天皇・反正天皇に軽んじられていた逸話がありますが、それも原因だったのかもしれません。)ですが、ハッキリは分かりません。ただ少なくとも継体天皇からは現在に至るまでずっと1500年間男系を維持してきたと見て差し支えないでしょう。

    (2)天武皇統(持統・草壁皇統)から新・天智皇統へ(奈良時代)

    これについては、「歴史」カテゴリーの過去ログ(「古代日本における『出る杭は打たれる』の事例-長屋王のこと」シリーズを参照してください。)でも深入りしたので、なるべく詳細は避けますが、天智天皇こと中大兄皇子が身分の高い后等との間に男子が生まれなかったまたは早世してしまったので、母親の身分が低かった大友皇子(弘文天皇)への王位継承を正当化する為に不改常典の法を定めました。これは壬申の乱及びそれに勝利した弟の天武天皇こと大海人皇子の即位の伏線となりました。

    天武は兄天智から4人も娘を后としてもらいました。彼女らとの間の皇子も何人もいたはずだったのですが、その中でも皇后となっていた鵜野讃良(持統天皇)が681年(天武天皇10年)となったたった一人の息子、草壁皇子直系子孫の皇位継承にこだわりました。それは結局かっての蘇我氏同様天皇家の外戚となっていた藤原氏の思惑も絡んでいたのですが、草壁だけでなく、祖母の持統から譲られてやっと即位した文武天皇も早世し、子供も恵まれませんでした。いや、正確には文武には首皇子(聖武天皇)の他にも広成・広世皇子がいたのですが、彼らは生母が文武天皇崩御直後他の男と関係を持っていた事がバレて、皇族の身分を剥奪されてしまいました。その生母こそ蘇我氏(石川氏)出身だったのですが、草壁皇子の后で息子から皇位を継承する事となった元明天皇も持統同様生母が蘇我氏出身者だったので、同じ蘇我氏の血縁者から皇位継承の機会を奪ったわけです。元明は皇后を経ないで即位した初の女帝、元正天皇は未婚のまま母から皇位を譲られた初の女帝、そして孝謙(称徳)天皇は女性皇太子を経た初の女帝と皆即位事情が異例だったのですが、何としてでも草壁直系子孫皇位継承の為に無理を強いられたのです。結局は壬申の乱からわずか70年そこそこで草壁の男子直系子孫そのものがいなくなってしまったのですが、他の天武系皇族(舎人・新田部・長各親王の直系子孫達)に対する排除というリミッターは抑止されませんでした。そこで孝謙(称徳)の異母姉の井上内親王を妻としていた、天智三世王の白壁王(光仁天皇)登場となるわけで、実際間には他戸親王という次期天皇がいました。しかし、道鏡を重用する等扱いきれない存在となっていた孝謙(称徳)には藤原氏もほとほと手を焼いていたので、もう天武の血を引く天皇は懲り懲りと言わんばかりに謀略で異母兄の山部親王(桓武天皇)が代わりに立太子され、天武というよりも持統・草壁皇統は完全に断絶しました。

    なお、天智と天武についてですが、実は天武が父親は舒明天皇ではなく、皇極(斉明)天皇が前に結婚していた相手との間に生まれた漢王と同一人物の異父兄だったのではという異説は有名です。その根拠の一つとして、前述通り4人も天智から娘を貰った事があげられますが、実はこれも前例がないわけではないんです。母親が皇族(武烈の姉妹)だった欽明天皇も、兄ながら母親が豪族だった宣化天皇から4人も娘を后としてもらっています。そしてその中でも石姫皇女との間に生まれた敏達天皇が王位を継承しています。という事は、実は天武ではなく、天智が父親が舒明ではない天武の異父兄という事?中大兄という、次期有力王位継承者の尊称も実は後世の顕彰に過ぎないという事?

    また皇室ゆかりの泉涌寺での位牌、38代天智の次はいきなり49代光仁となっているのも、天智&天武が異父兄弟どころかいずれかが日本人ですらない(つまり天武皇統は全くの別王朝)等のトンデモ奇説の根拠にも勝手にされていますが、飛躍しすぎでしょう。母親の身分が低かった桓武が中国の易姓革命を意識して、自分の皇位継承を正当化していたのもありますが、その一方で聖武天皇の命日を国忌としているし、また実はこの泉涌寺って、山部親王(桓武天皇)を擁立した藤原百川の息子、緒嗣ゆかりの寺とされているのです。天武系の天皇の位牌を置くのは自分の出世のきっかけも作ってくれた父の偉業を否定するようなものですから、そうならなかったのは当然。それだけの事で。井沢元彦氏等の異説は話半分程度に聞くべきと言うか、「天智と天武は異父兄弟の可能性も有りうる。」と見るにとどめるのが妥当でしょう。

    http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage640.htm

    この議論については、そもそも天武の生年が本当に本朝皇胤紹運録等による622年(推古天皇30年)なら、里中満智子女史の「天上の虹」でも、自殺した異母姉妹の十市皇女を想うあまりなかなか結婚しなかった長男の高市皇子に対して「お前の立場でいい歳していつまでも1人でいるなんて不自然だ。」なんて言える立場じゃないです。(実は息子の長屋王は十市存命の時点で既に生まれていた説もあるが。)天武皇子女では年長である2人とも653年(白雉4年)前後の生まれとされていますが、その時既に天武は30代に入っているからです。実は兄である事を隠さなければいけないほどの有力皇族の割には子を儲けるのが遅いです。それなら上記HPURは「天武天皇の年齢研究」というサイトで、本サイトでは生年644年(皇極3年)説を採ってますが、こちらの説の方がまだ説得力あります。

    (3)大叔父への皇位継承と皮肉なる長命(平安時代前期)

    そうした持統・草壁皇統の末路も反面教師としたのか、桓武→早良親王、平城天皇→嵯峨天皇、嵯峨天皇→淳和天皇と兄弟への皇位継承が試みられるようになっただけでなく、多くの皇子女も儲けられました。前者は残念ながら藤原種継暗殺事件、薬子の変、承和の変等政争の火種になる等必ずしも成功しませんでしたが、後者は特に桓武は40代後半以降子宝に恵まれるようになったし、嵯峨は後の徳川家斉と比べても遜色ない52人もの皇子女を得ました。しかし、皇族として養える費用には限りがあるので、その内の何人かは臣籍降下する事となり、それぞれ子孫の桓武平氏と清和源氏が後にどうなっていったのかはもう周知の通り。

    承和の変で嵯峨系に皇位継承が一本化されたかと思いきや、その嵯峨朝から次第に独走していった藤原北家の思惑もあって陽成天皇から大叔父の光孝天皇への皇位継承が起こりました。この陽成天皇、百人一首を題材とした某アニメではツンデレ系として描かれていて、一般には暴君と言われていますが、実は叔父の藤原基経と生母の高子の不和に巻き込まれたに過ぎない等真相は良くわかりません。ただ高子が他の男と密通していた所為で皇太后の位を剥奪されたり、光孝の皇女だった綏子内親王と結婚させられたり、「あれはかって私に仕えていたものではないか。」と言われていたという、次代の宇多天皇がまだ30歳の働き盛りだったのに12歳の敦仁親王(醍醐天皇)に譲位したりとやっぱ警戒されていたんでしょうね。宇多天皇の譲位については、これは完全に裏目に出てしまったようで、同年897年(寛平9年)の源能有の死去等共々菅原道真の悲劇の伏線となってしまい、高子の皇太后剥奪については朱雀朝の943年(天慶6年)に復位されたようですが、この時点で陽成はまだ存命していました。光孝系の皇位継承共々どう思っていたのやらでしたが、実はこの年はまた同じく百人一首に選定されていて、しかも因縁の(?)宇多法皇の妃、藤原褒子にも手を出していた元良親王に先立たれてしまったのです。複雑な喜びと悲しみ2つのニュースがあった年だったと言えたのでしょうか。長くなりすぎたので、続きは次回という事で。

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    新テニスの王子様第109・110・111話-「絶望なるバトルの果て!!そして越前王子様の更なる進化!!」

    さあ2ヶ月ぶりの新テニプリwwwwの時間がやってきましたよ。皆さん。

    晴信皇帝陛下(真田)の「黒色のオーラ」をもまた無にしてしまった鉄砲(種子島)!!実は彼はあの(高校生面々ではマトモな数少ない人物な)鬼おじさんですら勝てなかった相手だったのです!!負けもしなかったようですが、いずれにせよ、相当の実力の持ち主。

    奏太くんの情報によれば、視覚からの情報を直ぐ手首に伝えられる才能があるとの事ですが、そもそもテニス星人たちは姿形は我々凡人と同じなだけの異星人なのでもうこんな設定も全然驚くべきことではありません。

    憎たらしいほど余裕な表情を浮かべていた鉄砲、いきなり晴信とあっちむいてホイゲームをする事となりましたが、これでも晴信全く勝てません。これには金太郎くんやケンヤくんも驚きの表情を隠せませんでしたが、晴信の動きに瞬時に反応していたのです。今度はDQN(亜久津)が相手となりましたが、やはり勝てない!!いつものようにブチ切れるかと思ったら、何とか我慢しましたが、ここで國母和宏wwwww(大曲)が「もうそのへんにしとけよ。」な感じでたしなめてバトル再開となりました。

    しかし、なかなか反撃の機会を見いだせず、DQNが届かず打ち返しに失敗しても、「当たり前やん☆取れない所に落としているんやから」ともう余裕満々。いい加減ウゼーwwwww。ボールは依然届かないパターンが続きましたが、何とここで晴信とDQNがどれぐらい届かなかったかで張り合っていた。データくん(乾)は嬉しそうに測ろうとしていたし、バルログ・アトーベ様wwwwwも不思議な表情を隠せない!!そして信繁(幸村)は何故晴信がDQNと組んだかの真意を見抜く事となります。さすが鋭いと言うか。

    そしてついに晴信、ダブルクラッチを起こした!!ボールが一度ならず二度も曲がったのです!!これには今までウゼーほど余裕ヅラだった鉄砲も驚きを隠せませんでした。そしてまた晴信の大ゴマwwwwww!!!そして「二度曲がらんかぁ!!!」って、本人なりに必死なのはわかるけど、掛け声かよwwww。残念ながらまだこのダブルクラッチは未完成で、勝負は鉄砲とサーセン國母和宏wwwwwに軍配が上がりましたが、鉄砲に期待も抱かせただけ、やはり晴信も大したものです。そして我らが主人公、越前王子様はついにリョーガとの特訓の果てに・・・・・・・・・・・

    商品関連情報では、DVDファンディスクが12月25日に発売されるらしいですが、まさにファン(私も全く別の意味wwwwwでその一人だが)にとってはこの上ないクリスマスプレゼント!!ですが、何とその少し前の21・22日の3連休期間中に幕張メッセで開催されるジャンプフェスタ2014でお渡し会が実施されるとの事らしいです!!つくづくファンの事を考えておられる!!まさにジョジョのアレッシー風に言えば、えらいねぇ~であります。

    2013年中の話も早いもので残りわずか1話で、CLAMPの「GATE7」が休載となってしまっているのは残念ですが、助野嘉昭先生が今度は戻ってきたし、ますます許斐剛大先生負けていられない!!次の話で爆笑して2014年を迎えよう!!そしてその2014年こそは、セカンドシングルを出して、インチキ商法を続けているAKBにも対抗!!ネスカフェCM出演を果たすだけでなく、森田一義さんや紅白歌合戦の司会者達とも夢のスペシャルトークを実現させよう!!YES!!WE CAN!!wwwww

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