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2013/11/24

百人一首の歌人達(2)-79番左京大夫顕輔と84番藤原清輔朝臣

「秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ 」(左京大夫顕輔)

「 ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき 」(藤原清輔朝臣)

権中納言定家から続くこのシリーズですが、次は藤原顕輔&清輔親子です。

この親子って、仲が良くなかったらしいですが、どうやら父の顕輔が清輔を一方的に疎んじていたようです。と言うか、清輔は顕輔が14歳の時に産まれた子だったらしいですが、清輔・顕輔の年齢差よりも、異母兄弟だった清輔・重家&季経の方が年齢差が大きかったようです。

重家&季経が生まれたのは清輔が40代前後の時だったらしいですが、この時代の40代というのは、もう人生の晩年に差し掛かった時です。何せ400年以上後の人物であるあの(織田)信長だって「人生50年」と言っていたほどだったのですから。この時期はまた、そもそも顕輔は院近臣だったのですが、それ故に妬みを受けていたのか昇殿を止められていた時期だったらしいですが、そんな不遇の時期に遅く子供を設け、その子供を可愛がるようになり、早く生まれた子と関係が微妙になっていったのは藤原忠実&忠通・頼長親子と重なり合うものがあります。まあ忠実の場合は、自身の能力不足が招いた結果だったのですが。

清輔には同母兄に顕賢という人がいました。清輔自身も官位が停滞して、晩年は重家に官位を越されてしまったらしいですが、この顕賢も、清輔は1104年生まれらしいですが、それはこの顕賢の生年との混同で、実際は異説である1108年生まれだったのでしょう。ところがあの保元の乱が起こった1156年に信濃守としてやっと正五位下になったのです。もうこの時点で50過ぎてます。彼ら親子は元をたどれば北家でも傍流とは言え、奈良時代後期に出た藤原魚名の流れです。それなのに昇進が遅いと言うか、彼もまた清輔同様父から冷遇されていた事が伺えます。

清輔にはまた、実子が2人いたようですが、妻は不詳です。おそらく父から疎んじられていた故に身分相応の結婚もできなかったのでしょう。実際父から偏愛されていた重家は同じく魚名流で、父以上に羽振りが良かった藤原家成の娘を妻にもらっています。2人とも出家したようですが、おそらく自身の不遇等からまだ顕輔が存命中に早く出家をさせたのでしょう。ところが、(生年を1108年とすれば)40代後半になってやっとと言うか、顕輔が亡くなりました。重家が六条藤家を継ぐと思われましたが、清輔が継ぎました。養子の清季は六条藤家を継いだ後に迎えたのでしょう。ただこの清季父の家基も、平治の乱が終結して、後白河上皇&二条天皇の確執を経て平氏政権が成立した頃に従五位のまま出家したのですから、後ろ盾としては心もとなかったというか、顕輔が亡くなった時点で既に弟たちの後塵を排していた事も伺えます。結局六条藤家は重家及び彼の子孫が継承していく事となったようですが、兄の清輔存命時点で既に重家は出家していたらしいので、家を継いだのはその出家前だったのでしょう。

清輔はついに公卿(従三位以上)にはなれませんでしたが、重家から隆朝の7代までは30代後半~40代で公卿に列し、最終官位は従二位か正三位まで登っている事が確認できます。しかし、家業の歌の方では、藤原俊成・定家親子を祖とする御子左家に、既に後鳥羽上皇院政期の13世紀初頭に押され気味になっていたようで、政治的にも重家の子・顕家の時点で既に官職無しのまま出家を余儀なくされてしまったようです。1355年に亡くなった隆朝の次の行輔は北朝後光厳朝期の新拾遺和歌集の編纂にも関わっていたようですが、彼を最後に1375年頃に六条藤家は傍流の春日家、紙屋河家共々断絶してしまったようです。当時は南北朝動乱が続いており、管領細川頼之の補佐を受けた足利義満の執政の元、終息に向かってはいましたが、お膝元の畿内では北朝に投降していた楠木正儀が南朝側からの攻撃を受けて、彼を助けるか助けないかで揉めていました。魚名流本家筋の四条家も北朝派と南朝派に分裂していた事もあって、養子を迎える等が出来ず、断絶となってしまったのでしょう。

六条藤家は複雑な院政期を生き残る事は出来ましたが、必要以上に御子左流と張り合う等政治・家業双方で次第に時流に乗り遅れる事となってしまった感があります。歴史に「IF」と言い出すとキリがありませんが、もし清輔が父から疎んじられないでしっかり子孫を残していればどうなっていたのでしょうか。また違った歌風を確立して、明治まで堂上家を残せたかもしれません。しかし、現実には顕輔が亡くなってから200年そこそこしか持ちませんでした。清輔は父から疎んじられたのは自身のせいではないにしても、結局最後まで報われなかった人生だった感が否めませんでしたが、重家の子孫達も永久に栄える事はありませんでした。この六条藤家の衰退・断絶についてとうの顕輔はあの世でどう思っているのか。聞けるのなら聞いてみたい気もします。

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