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2013/11/04

天皇家の傍流からの皇位継承の歴史その3

(6)権威の弱かった後光厳系の危機、そして崇光系の復活及び後南朝との決着中編(室町時代)

このシリーズ最終回です。話は前後しますが、義満細川頼之の補佐も得て、南北朝動乱を終息に導いていく事となりますが、既に尊氏期末期に(他の2上皇と共に)京に帰還していた崇光上皇が栄仁親王への皇位継承を要求しましたが、そもそも彼ら3上皇の拉致は幕府の失策のせいで、幕府の権威低下にも繋がりかねず、寧ろ朝廷を取り込んで幕府も権威を高めていかなければいけないからそれは無理な要求というものでした。こうして後光厳→後円融→後小松と皇位継承がなされていって、その間に南北朝合一が実現、その時点ではまだ後小松皇子の躬仁親王は誕生していませんが、崇光上皇が後光厳系の皇位継承を見届ける事になったのは皮肉なもので、その1で登場した、450年前の陽成上皇と重なり合うものがあります。wikiでは上皇歴1位が陽成(65年)で、2位が冷泉(42年)と書かれているけど、3位はおそらく41年のこの崇光上皇でしょう。(1392年(明徳3年)出家して法皇となる。)

ただ南北朝合一を果たして、神器が返還されても足利義満という怪物の手中にあり、後円融が抵抗しようとして却って全く裏目に出てしまった事もあって、後光厳系の天皇達はついに「権威の弱さ」というコンプレックスを克服する事が出来ませんでした。だから彼らは余計自分達の正当性を示すことに必死でした。

それはにも表れています。後光厳は、南北朝分裂前の最後の持明院統の天皇(やはり歴代からは除外されてしまったが)だった光厳天皇の正当な皇位継承者である事をしめすだったし、後円融は、その2でものべた通り、禎子内親王という冷泉系女性皇族も介しましたが、結果的に自らの男性直系子孫のみへの皇位継承に成功し、花山天皇の退位や道隆・道長ら自分の息子達への露骨な昇進人事等強引だった時の権力者・藤原兼家にも抵抗していた円融天皇を明らかに意識していた故だった。(共に30代前半で早世した点も共通している。)そして後小松は、wikiでも書かれていますが、本来一傍流親王として平穏な一生を終えるはずだったのが、藤原基経の思惑もあって、自らが気に入っていた源定省(宇多天皇)及びその子孫への皇位継承に成功した、小松帝との異称もあった光孝天皇を意識していた故でした。

しかし、それでも払拭しきれなかったようで、肖像画を見ると、後光厳は品の良さは感じられるけど、どこか弱々しさも感じられるし、後円融も、義満との確執で疲れ果ててしまっていたのか、どこか精気を吸い取られたかのような風貌、後小松は祖父や父と比べれると堂々とした風貌ですが、彼にしたって、義満がいなくなった後も本来彼同様臣下であるはずの義持に対しても「室町殿様」と呼ぶ有様。故・石ノ森章太郎氏のマンガ「日本の歴史」では義持死後の報復っぷりも描かれていましたが、三条厳子に重傷を負わせた後円融ほどではないにせよ、子供じみていた感も否めません。

(7)権威の弱かった後光厳系の危機、そして崇光系の復活及び後南朝との決着後編(室町時代)

そして後小松の皇子、称光天皇と小川宮です。一説には一休宗純も皇子と言われているようで、wikiでも彼らのエピソードは書かれていますが、いずれも祖父・後円融の神経質な性格を受け継いでしまったようで、祖父以上の問題行動が目立ちました。彼らはまた、いずれも男子が出来ず、40代に入ってやっと元服した、崇光上皇孫の伏見宮貞成親王が次期天皇候補になるや、称光は過剰に拒否反応を示して、後小松との確執が悪化、貞成親王はとばっちりを受けて出家を余儀なくされました。ここらへんも、自分が独身で後継もいないのに祖母が藤原氏だった父・聖武上皇よりも血筋が高貴だった舎人親王(母親が天智皇女)の息子だった淡路廃帝(淳仁天皇)を追放した称徳天皇と重なり合うものもあります。実際弟だった後光厳の皇統は称光で絶え、兄だった崇光の皇統に戻ったのも、天武(持統・草壁)皇統VS天智皇統の決着に重なり合うものがありましたが、称徳天皇と光仁天皇から1文字ずつ取った称光の諡もそうした皇統の移り変わりを強調して示したものです。いくら旧南朝勢力が「持明院統の嫡流が絶えたのだから、俺ら大覚寺統が皇位を継承すべき。」と主張しても、かっての南朝が後光厳系天皇を偽主と罵倒していたのとも矛盾していたというか、詭弁でこの崇光系こそが本来の持明院統の嫡流なのです。それでもまだ存命だった後小松上皇は、親王にならないまま践祚・即位した貞成親王第一皇子彦仁王(後花園天皇)を自分の養子とし、形式的には後光厳系の皇統は続くものとし、貞成親王が後高倉院の先例にならって大上天皇宣下を受ける事には否定的だったようですが、結局追尊されました。

そして践祚時にはまだ9歳の少年だった後花園は、後光厳系天皇が克服できなかった天皇の権威の弱さを克服し、後南朝勢力との決着もこの天皇の時にほぼつきます。永享の乱等では朝敵退治を命ずる治罰綸旨を出しましたが、これは義満・義持の時には考えられませんでした。特に明徳の乱の時には義満は「足利将軍家の臣下を懲らしめるのにそんな朝廷のお伺いを一々立てる必要なんてない。」と言っていたほどでしたが、エライ違いでした。幕府6代将軍足利義教は確かに井沢元彦氏が評価するどおり、鎌倉府及び九州の統治では義満以上の強権(特に九州では南北朝合一後も南朝側の元中年号使用が見られたほどだった。)を発動して成功したし、後南朝勢力もすっかりなりを潜めた。実は義教期終末期は室町幕府の全国支配の完成度が最も高かった時期でした。

しかし、方向性自体は間違ってなくても、そのやり方はいささか性急的だったし、将軍個人の権力は歴代最強でも、幕府の権威は朝廷・天皇の権威と反比例するかのように低下してしまった弱点がその中に内包されていました。だから油断してしまったのか、赤松満祐の屋敷に乗り込んで暗殺されてしまった(嘉吉の変)事で、再び幕府は動揺していく事となります。

天皇・朝廷も、禁闕の変も起こり、神器の一部が奪われてしまいましたが、その一方で第一皇子には父と自分から1文字ずつ名をとって成仁(後土御門天皇)と名づけ、弟の貞常王への親王宣下、前述の父・貞成親王への太上天皇宣下が行われたし、後南朝への牽制として、本来の大覚寺統嫡流だった、後二条天皇直系子孫の木寺宮への親王宣下と、大覚寺統の祖だった亀山法皇が皇位継承をさせたがっていた恒明親王直系子孫の常磐井宮への親王宣下も行いました。その間残念ながら貞成親王は見る事なく薨去しましたが、神器も赤松氏の旧家臣により奪還されました。義勝・義成と、一時は将軍職そのものが空位となっていましたが、幼少の将軍が相次ぎ、義成が義政へと改名もして、再興されたはずの関東公方と上杉氏の対立等関東の動乱やその他守護大名の家督争いに積極的に介入・解決しようと試みるも、結局自分の思い通りにならないとみるややんなっちゃって風流の道にのめり込むようになってしまった幕府権力・権威の低下とは対照的でした。ついには長禄・寛正の大飢饉の最中でも遊んでばかりいた義政は、後花園に漢詩で諫められてしまったほどでしたが、後花園天皇はまことに中世の朝廷に輝いた英明な君主だったと改めて認識させられます。

しかし、そんな英明な君主の諌めも義政には馬の耳に念仏でした。優柔不断ゆえにその南北朝動乱の元凶となってしまった後嵯峨上皇の要求による後深草天皇から亀山天皇への譲位からもう200年経って、やっと後南朝の復興運動は殆どなりを潜める事となりましたが、その矢先に今度は義政の無責任さゆえの将軍家跡取り問題に斯波氏や畠山氏等有力大名の家督争い等も絡んで、泥沼の応仁の乱を招く事になってしまったのです。天皇の権威も、ロクに即位式や葬式が出来なかったりと再び低下していくと思いきや、江戸時代の後水尾天皇までずっと直系への皇位継承が行われていく事となりました。(正確には、織田信長が本能寺の変で倒れた後に漸く正親町天皇が譲位しようとしたら、誠仁親王が父天皇よりも先に薨去してしまったのですが。)また大内義隆や毛利元就等戦国大名から献金を受ける見返りに官位を上げる等戦国大名達の領国化に正当性を与える等の役割もあったので、単純にそうだったとも言い切れなかったでしょう。特に後奈良天皇は一時献金を突き返す事もしていたと言うし、正親町も信長・秀吉とお互いうまく利用し合っていた等なかなかしたたかだったようです。これは父の元で長く皇太子を努め、41歳で漸く即位、その後も健康でこの時代としては比較的長寿を保ったこともあったのでしょう。

(8)閑院宮からの皇位継承と最後の女帝のサポート(江戸時代)

そして時代は天下泰平の江戸時代となり、前期には後水尾天皇と霊元天皇という、現在でも歴代トップ10に入る長生き天皇が出てきました。禁中並公家諸法度で幕府からがんらじめにされていた中でも院政をしいていたのですが、その後は短命の天皇(ただ、中御門天皇は即位したのが7歳の時だった事もあって、在位年数26年は比較的長い方)が続き、2013年現在で最後の女帝である後桜町天皇をはさんだ後、後桃園天皇の崩御でついに中御門系の皇統が断絶します。中御門の弟で、閑院宮を創設した直仁親王孫の光格天皇が即位し、後桃園の忘れ形見である欣子内親王と結婚しますが、残念ながら成人した皇子はおらず、平安時代後期の円融・冷泉両皇統のような融合はなりませんでした。

光格即位時は父の典仁親王は存命で、後高倉院や後崇光院(貞成親王)の例にならい、大上天皇宣下を行おうとしましたが、その結果(尊号一件)は周知の通りです。この時の幕府将軍は徳川家斉で、その在職年数は50年という破格の長さ。wikiでも書かれていたどおり、本来右大臣相当だった現職の征夷大将軍としては史上初の太政大臣兼務となったのも、将軍就任40周年を記念した特例だったらしいですが、当時天皇も在位年数が信頼できる歴代では40年以上在位した例はなかったのです。とは言え、この光格天皇もそれにもう少しだった在位38年を記録し、江戸時代以前では歴代最長でした。この2人、生没年も似ていたのならば、嫡流が途絶え、傍流の身から登板し、それぞれ父に大御所・上皇待遇しようとして失敗した所まで似ています。そして止めた後もいずれも一定以上の影響力を残しましたが、家斉の場合は幕府という組織自体の硬直化が在職後半以降目立つようになり、子女たちを活用した大名統制も成功したと言えたかは微妙、光格天皇の場合は典仁親王の追尊には失敗したものの、朝廷の権威高揚に色々務めた等やや明暗が別れました。結果2人とも亡くなった時、黒船来航はもう間も無くの事だったのであり、幕末動乱から明治維新となりました。そして典仁親王も維新時に追尊されたのです。

以上であり、現在の皇室は2006年(平成18年)9月の悠仁親王誕生で、父の秋篠宮文仁親王以来41年ぶりの跡継ぎが登場しましたが、もし万が一の事があったら、旧皇族復帰が一番現実的かもしれません。特に東久邇家は現当主の信彦氏は祖母が明治天皇皇女、母が昭和天皇皇女と皇室との血のつながりが最も濃いのです。その次が、明治天皇玄孫でもある恒泰氏が在特会を「(在日特権の暴露等)いい事もした。」とコメントした(これについては私も異論はないです。)のも話題になりましたが、竹田家です。しかし、共通の男性先祖である貞成親王はもう約600年も前の人物です。(真偽はともかくとして)応神天皇と継体天皇以上に世代が離れています。だから、もしそうなったら、もう事実上の王朝交代となってしまうかもしれません。

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