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2013/11/02

天皇家の傍流からの皇位継承の歴史その2

(余談)その後の平安期の皇位継承

平安時代はその後も藤原氏による他氏排斥からその後の一族間の権力闘争を勝ち抜いた道長による御堂流の摂関職継承を確立するまでの約50年間、冷泉天皇系(冷泉・花山・三条)と円融天皇系(円融・一条・後一条)の皇統が立ちました。これは何が何でも自分の外孫を早く天皇にしたい道長の圧力による三条天皇の退位と皇太子となっていた敦明親王の辞退で円融系に一本化、「この世をば~」の歌通り御堂流による摂関政治は円融系天皇との協調の下永遠に続くかに思われました。そしてその敦明親王の妹だった禎子内親王、彼女も道長の外孫だったのでもし彼女が男だったら、後一条天皇の皇太子となっていたかもしれず、もうしばらく冷泉・円融系の並立が続いていたでしょう。ところが後一条が皇子を設けないまま崩御したので、弟の敦良親王が即位します。後朱雀天皇です。道長から摂関職を譲られた頼通は50年もの長きに渡ってその職を務めたので健康面では幸運だったかもしれませんが、后宮政策の面では曽祖父・師輔、祖父・兼家、そして父・道長のような運に恵まれませんでした。天皇と娘との間に皇子が生まれなかったのです。そんな内に御堂流は主流派(頼通・教通)と反主流派(能信)に分かれてしまい、同母兄の頼宗と違って頼通と協調しなかった能信が後朱雀の皇子だが、藤原氏の外孫ではない尊仁親王(後三条天皇)を春宮大夫として支援してきたのに対し、主流派がそれぞれ自分の息子(師実・信長)への摂関職継承をめぐって確執を抱える(最終的には頼通派の勝利に終わる。)ようになりました。残念ながら能信は大臣就任及び尊仁親王即位目前で亡くなりましたが、冷泉・円融系が融合する形となった後三条天皇の即位は院政に繋がり、実際はその後の白河天皇は上皇になって直ぐ好き放題やれるようになったわけではなかったようですが、皇位継承は比較的安定していました。近衛天皇→後白河天皇の弟から兄、3歳弱で上皇となった六条天皇→高倉天皇の甥から叔父への不自然な皇位継承も見られ、それは平家や院近臣等天皇家を取り巻く周りの有力勢力の思惑がありましたが。

(4)南北朝動乱の伏線(鎌倉・南北朝時代)

ところが、「驕る者久しからず。」とはよく言ったもの。源平争乱等を経て、時代は武士の世となっていきます。平家と運命を共にした安徳天皇の代わりに擁立された後鳥羽天皇(上皇)でしたが、源頼朝が開いた鎌倉幕府との間に起こした承久の乱で同母兄だった守貞親王(後高倉院)が即位していない法体姿でありながら、大上天皇号を贈られて、まだ9歳だった皇子の後堀河天皇をサポートします。後高倉院といい、後堀河天皇といい、皇位継承の正当性を示すような諡です。(堀河天皇も、本当は白河の次は弟の実仁親王が皇位を継承するはずだった。)ところが彼ら親子は短命で、後高倉院は承久の乱から2年後に、後堀河も22歳の若さで崩御してしまいます。そして即位した二条天皇もわずか2歳。中国の後漢では生後何日かしか経っていなかった皇帝もいたらしいですが、五十歩百歩レベルです。そして不慮の事故で二条も9歳で崩御します。これで後高倉系の皇位継承者もいなくなりました。

幸い承久の乱には非協力的だった土御門天皇の皇子に出家していなかった邦仁王がいましたので、彼が即位しました。後の後嵯峨天皇です。4年で後深草天皇に譲位、さらにその弟の亀山天皇に譲位させ、その皇子の世仁親王(後宇多天皇)を皇太子としたのは良かったのですが、亀山の方が気に入ったなら入ったで、亀山系による皇位継承を明言すべきだったのですが、優柔不断故に明言しないまま崩御したのが南北朝動乱として後々実に200年近くも尾を引くこととなってしまったのです。後嵯峨も治天の君として朝廷内では好き勝手やっていたかと思いきや、自分自身が幕府に擁立されて、しかも反対していた臣下までいたのでそれに負い目を感じていたのでしょう。

なお中宮である西園寺きつ子の母親である四条貞子ですが、彼女って現代のきんさんぎんさん等とも遜色ないほどの長生きでした。1196年(建久7年)生まれ1302年(正安4年)没で、しかも生年について言えばまた、1285年(弘安8年)に盛大な90賀が開かれたとの記録が残っているのでもう確実でしょうが、記録に残る日本人としてはおそらく三世紀にまたがって生きた最初の人だったでしょう。後二条天皇・後醍醐天皇・後伏見天皇等玄孫の顔も見る事が出来たばかりか、娘と婿の後嵯峨が先に亡くなってしまい、持明院統と大覚寺統の対立が深刻になっていく中、それぞれの祖となった孫の後深草と亀山も後を追うように崩御しました。とりあえずは交代で10年程度即位する事となり、当面の問題は先送りにされたかに見えましたが、大覚寺統側の後二条が若くして崩御!!次は持明院統でも傍流の花園天皇が中継ぎとして即位したので、そのまた次は大覚寺統の傍流で、後二条の弟だった後醍醐天皇が即位しました。しかし、この後醍醐自身が強烈な個性の持ち主で、中継ぎである事を良しとしませんでした。表舞台に登場させちゃいけない人を登場させてしまったわけですが、その後も後宇多の院政停止から数回の失敗を経た倒幕、それに協力した武士たちの働きを考慮しなかった建武の新政に対する不満を背景にした室町幕府を開設したのは良かったが、後醍醐を吉野に逃してしまった足利尊氏の詰めの甘さも手伝った南北朝の分裂、そして幕府内の派閥抗争等の観応の擾乱と正平一統、九州での南朝側の強勢と悪い事も尊氏の次の義詮政権前期まで重なってしまった。だから家督や遺産の相続争いも背景にして、弱体だったはずの南朝が意外に長生きしてしまったのです。

(5)権威の弱かった後光厳系の危機、そして崇光系の復活及び後南朝との決着前編(室町時代)

この間、神器ばかりか光厳・光明・崇光三上皇まで南朝に拉致されてしまい、後鳥羽天皇を院宣で即位させた後白河法皇の先例も使えなくなりました。しょうがないから幕府が説得して何とか後伏見上皇の女御だった西園寺寧子を治天の君として、孫で崇光の弟だった弥仁親王(後光厳天皇)を即位させましたが、寧子は本来家父長たる男性でもなければ、皇族出身でもなかったので、やはり北朝天皇の権威が弱かったのは否めない。後の1911年(明治44年)に、明治天皇が自分も北朝系でありながら南朝を正統との裁定を下したのも無理なかったでしょう。

それでも義詮は、南朝との和平工作に失敗、九州対策にもとうとう着手できなかったけど、勢力は温存させながらも大内氏と山名氏を帰属させる事ができたし、斯波氏に対しても細川氏との対立を利用して他守護大名との勢力均衡を図った等二代目としては頑張った方でした。そしてその次の義満は実は後光厳の後の後円融とは従兄弟同士でもあったけど、そんな権威の弱かった後光厳皇統の北朝そのものを自分の権力の手中に収める勢いでした。後円融の数々の反抗(後宮の三条厳子に重傷を負わせた事件等)も却ってその権威を失墜させただけでした。

後光厳皇統に必要以上の権威を持たせない義満の朝廷対策は、1392年(明徳3年)における南北朝合一後も変わらず、今谷明氏等も主張していますが、自らが皇位簒奪するか、もしくは寵愛していた義嗣を天皇にし、自らは法皇になる計画の可能性はやはりあったかもしれません。残念ながらあと少しという所で義満の野望(?)は、義持の鹿苑院大上天皇尊号辞退等で水泡に帰してしまいましたが、義持も後円融から後小松天皇の在位を経て即位した称光天皇の御名を変えさせる等朝廷に対する態度は変わらなかったようです。それは南朝最後の天皇だった後亀山法皇の吉野出奔事件も背景にあったのでしょうが、義持は後小松から「室町殿様」と呼ばれていたとか。本来義持は臣下の立場の筈なのにそこまで言わせるなんて凄いと言うか、室町幕府は将軍個人の権力という点では義満期が全盛期なのでしょうが、幕府全体の安定度を見れば、義持期も全盛期にあたると見ていいでしょう。しかし・・・・・・・・・・また長くなったので続きは次回にて。

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